二十 闇市のコーヒー豆

 昭和20年(1945年)10月15日の晴れた日の朝、愛知県警を罷免された渡辺周五郎は、20歳になる息子と18歳になる娘を連れて、名古屋駅笹島から、名古屋の広小路通りを栄まで歩きながら、闇市を見ていた。渡辺は、クリーム色の長袖のワイシャツにノーネクタイで、茶色のジャケットを羽織り、茶色いズボンに白いズック靴と言う姿で、丸いメガネをかけて、ぶらぶらと歩いていた。渡辺の後ろには、国民服姿の20歳になる息子と、紺色のモンペに水色のシャツを着て、紺色のジャンパーと白いズック靴を履いた18歳になる娘が並んで歩いていた。空襲によって焼け野原となっていた広小路通り沿いには、いつの間にか、廃材などで造った簡単な小屋ができ、人々は、小屋の中で、様々なものを売っていた。そして、そのような粗末な小屋の中で商売をする人々は、老若男女問わず、売っている品物も、日用品や食料品から海外の珍しいものまで、ざっくばらんにあった。このような様子のことを、まさに、「混沌とした」状況と言うのだろう。

 渡辺周五郎の息子と娘は、戦争中は、軍需工場に徴用されて、そこで働いていた。しかし、戦争が終わり、父親が公職を追放され、家族全員が失業状態となって、家にいる母親も共に、なんとか、生きていかないといけない。片足や片手がない兵隊さんが、乞食をしている姿を見ながら、強引とも思える客引きをかわしながら、3人とも、何も考えられずに、闇市をさまよっていた。

 そして、ぶらぶらと闇市の中をさまよい歩いていた渡辺周五郎は、青空のもとで、蓆を敷いて、前に麻の袋を3袋並べて、蓆の上に片膝を立てて座っている復員兵を見て、ふと、立ち止った。渡辺は、その復員兵の前にしゃがみこみ、

 「袋の中身を見せてくれ。」

 と言った。復員兵は、麻袋の中に手を突っ込み、手のひらに袋の中身を握って、渡辺の前に差し出した。麻袋の中身は、白い生のコーヒー豆だった。復員兵は、2か月前に、インドネシアのジャワ島から命からがら帰還してきた復員兵であった。その復員兵は、日本に帰還するときに、ジャワ島の地元住民から、二束三文の値段で生のコーヒー豆が入った麻袋を買い上げて、自分と一緒に舟に積み、日本に帰還してきたのだと言った。

 渡辺周五郎は、愛知県警特別高等課に配属される前、自分が普通の警察官になったばかりの20代の頃、初めて入った喫茶店で、コーヒーのとりことなり、以後、コーヒーを淹れることを自分の趣味としていた。その後、大正時代が終わって、昭和の時代となり、渡辺は、愛知県警特別高等課に配属された。そして、世の中が戦争の方向に向かうようになって、コーヒーは、ぜいたく品として、庶民の手に入らなくなっていくと同時に、渡辺もコーヒーのことをしばらく忘れることを余儀なくされていたのだった。

 復員兵が自分に差し出して見せた白い生のコーヒー豆をながめていた渡辺の頭の中では、昔の記憶が、走馬灯のように駆け巡っていた。

 そして、渡辺は、その復員兵に

 「このコーヒー豆を1袋30円で譲ってくれ。」

 と言った。そして、渡辺は、自分の持っていたお金のうちから90円をその復員兵に渡した。すると、復員兵は、喜んで、お金を渡辺からひったくり、コーヒー豆の入った麻袋3袋を渡辺に渡した。その後、その復員兵は、蓆をたたんで、店じまいをし、どこかに行ってしまった。

 渡辺周五郎と息子と娘は、生のコーヒー豆の入った麻袋を一人一袋ずつ持ち、家路を急いだ。渡辺周五郎の自宅は、千種区の山の方にあり、運よく、空襲の被害を受けることがなかった。戦争中、子供たちは、自宅から、東区にある軍需工場に通っていた。そして、子供たちは、軍需工場が空襲の被害にあったときも、何とか、命からがら、空襲から逃げることができた。渡辺周五郎と子供たちは、コーヒー豆の入った麻袋を持って、広小路通りを東へ向かい、まっすぐに歩き続けた。

 コーヒー豆の入った麻袋を持った渡辺周五郎と子供たちが、家に着いたときは、昼頃になっていた。子供たちは、渡辺の指示通りに、庭に面した自宅の縁側にコーヒー豆の入った麻袋を並べて置いた。そして、渡辺周五郎は、自宅の台所からへっついを庭に持ってきて置き、薪を入れて、火を起こした。そして、火を起こしている間に、台所から、取っ手とふたのついた網と軍手とうちわを庭に持ってきた。次に、渡辺は、自分の書斎に置いてあった箱の中から、皿のようなものを持ってきて、麻袋の中から白い生のコーヒー豆を皿にいっぱい取り出すと、台所から持ってきた網に入れ、網でできた蓋をして、蓋と網を留め金でしっかりと留め、へっついから15cmくらい上の所で、水平に網を振り続けた。

 渡辺が、へっついの上で、網を振り続けてから10分位経つと、網の中で、白いコーヒー豆は、ぱちぱちと音をたてはじめ、豆の色が白色から薄茶色になっていった。渡辺がさらに5分ほど網を振り続けると、薄茶色いコーヒー豆は、今度は、ちりちりという音をたてはじめて、豆の色が薄茶色からこげ茶色に変化していき、コーヒー豆から煙が出始めて、周囲には、コーヒーの香ばしい香りが漂うようになった。渡辺は、ここで、コーヒー豆の入った網をへっついからおろして、蓋をあけ、うちわでコーヒー豆をあおいで、豆の粗熱を取った。そして、渡辺は、書斎の箱の中から、大きな缶を持ってきて、粗熱を取ったコーヒー豆を缶の中に納めた。渡辺は、このような動作を何度も繰り返し、腕が疲れてくると、今度は、子供たちを呼び、子供たちにコーヒー豆の炒り方を教えて、それぞれ、交替で、何度か、コーヒー豆を炒らせた。こうして、麻袋1袋分の生のコーヒー豆がこげ茶色の香ばしいコーヒー豆に変わったところで、夕方になったので、渡辺は、コーヒー豆の焙煎を終了し、あとの2袋の分は、明日焙煎することにして、庭からへっついを台所にしまい、焙煎したコーヒー豆の缶を3缶、自分の書斎にしまいこんだ。

 翌日、朝早く起きた渡辺は、天気が晴れていることを確認して、子供たちを起こした。あと2袋分の生のコーヒー豆を焙煎するためだ。そして、その日一日は、日が暮れるまで、渡辺の家族皆で、交替で、闇市で買ってきた生のコーヒー豆を焙煎し続けた。闇市で買ってきた生のコーヒー豆を全て焙煎し終わると、渡辺は、家の中にある全ての空いた缶を集めて、きれいに洗い、太陽のもとで缶を完全に乾かして、焙煎したコーヒー豆を缶の中に詰め込んだ。

 その翌日は、朝起きると天気は雨だった。渡辺は、書斎の箱の中から、焙煎したコーヒー豆を粉の状態にすりつぶすための手動のミルとコーヒーの粉を抽出する布フィルターと布フィルターがちょうど収まるサイズの布ドリップ専用サーバーと口の細いドリップポットとコーヒーカップ4つを出して、台所に行き、寝ている子供たちを起こして、台所に呼んだ。

 家族みんなが、浴衣姿で台所に集まると、渡辺は、まず、布ドリップを軽く洗い、それをお湯につけ、硬く絞って、コーヒーサーバーにセットした。それから、ミルの粒度を中の位置にセットして、最初の日に焙煎したコーヒー豆の入った缶を選んで、豆をコーヒースプーン1杯程(約10g)入れ、2〜3分ハンドルをゴリゴリ回して、コーヒー豆を粉の状態にした。台所には、挽いたコーヒーの香ばしい香りが広がっていく。そして、渡辺は、コーヒー豆をミルで挽き、挽いたコーヒーの粉を布ドリップの中に入れるという行為を4回繰り返した。そして、ドリップポットに熱湯をわかし、布フィルターの中に入っているコーヒーの粉の真ん中をコーヒースプーンで掘ってくぼませると、ドリップポットの熱湯を少しだけ布フィルターの中に入れた。

 「こうやって、最初は、少し、コーヒーの粉を全体に湿らせて蒸らすという行為が重要なんだ。」

 渡辺は、そう言うと、一呼吸おいて、ドリップポットを傾け、のの字を書くように熱湯を布フィルターの中に流し込んだ。そして、サーバーのメモリが4人分になるところまで、コーヒーを抽出すると、台所の片隅にいた妻に声をかけた。

 「おーい、コーヒーが入ったぞ。例のものを持ってきてくれ。」

 そして、渡辺の妻がグラニュー糖をまぶしたようなお菓子を渡辺の前に持ってくると、渡辺は、4つのコーヒーカップに平等にコーヒーを注いで、2人の子供たちに、コーヒーを勧めた。

 「砂糖やミルクを入れて飲む人もいるが、まずは、みんな、ブラックのままで飲んでみてくれ。」

 2人の子供たちは、ブラックのままのコーヒーを一口飲んでみた。子供たちは、不思議と、「苦いから砂糖やミルクを入れたい。」と言わなかった。そして、渡辺は、続けて、こう言った。

 「このグラニュー糖をまぶしたお菓子は、お母さんがパンの耳を揚げて、グラニュー糖をまぶして作ったものだ。闇市のパン屋に行くと、パンの耳は、捨てるものなので、どこの店に行っても、ただで譲ってくれる。

 お父さんは、闇市でコーヒー屋を開業しようと思っている。お父さんが闇市で買った生のコーヒー豆は、麻袋1袋でコーヒーカップ百杯分のコーヒーを淹れることができる。しかし、お父さんは、お金を儲けたいから、コーヒー1杯をコーヒー豆の1袋の3分の1の値段で売ることにする。だから、コーヒーを飲みに来るお客様には、パンの耳を揚げてグラニュー糖をまぶしたこのお菓子をサービスとして付けることにする。」

 こう言うと、渡辺は、コーヒーを1杯すすり、続けてこう言った。

 「それで、家族の中で、コーヒー屋の仕事を進めていく上での役割分担をこのように考えてみた。まず、コーヒー豆の仕入れと焙煎とミルで豆を挽く仕事は、お父さんがする。お母さんには、お菓子を作る仕事と、会計をやってもらう。お兄ちゃんには、コーヒーを布フィルターで淹れる仕事と皿洗いをやってもらう。信子ちゃんは、お客さんにコーヒーを運んだり、飲み終わったコーヒーカップを片づけたり、お客さんに注文を聞いたり、時には、お金を受け取るレジの仕事もしてもらう。店で働くときの服は、とりあえずは、お父さんとお兄ちゃんは、ノーネクタイの長袖の白いシャツと黒いズボンと今家にあるエプロンで、信子ちゃんとお母さんは、長袖の白いシャツと今家にあるスカートとエプロンにしておこう。

 明日から、お父さんは、闇市に行って、コーヒー屋を営業する場所を確保してくるから、場所が取れ次第、店を開く準備をしよう。みんな、協力してくれるね。」

 渡辺周五郎の家族は、全員、失業状態で、雇ってくれる会社もないような状態だったので、とにかく、働く場所を確保しなければならなかった。

 渡辺周五郎が闇市にコーヒーの店を開業して6ヶ月後、1杯10円のコーヒーは、原材料費に比較して、値段が結構高額であるにもかかわらず、店は、日に日に、繁盛していくのが、渡辺の家族全員、実感できていた。たとえ、値段が高くても、みな、こういう飲み物に飢えていた。人間は、パンのみで生きるのではないことを、渡辺は感じていた。

 その頃、闇市のある広小路通りでは、まだ、見るからに栄養状態のよくない、やせこけた老若男女が数多く歩いていた。渡辺は、コーヒーの店が開く朝8時から10時の間に限定して、コーヒー1杯につき、パンの耳のお菓子にプラスして、ゆで卵を付けることにした。渡辺の店はますます繁盛するのであった。

 昭和21年(1946年)1月、戦争中は人間の姿をした神様だと思われていた天皇が、「天皇と国民との間にあるのは、相互の信頼と敬愛による結びつきであり、決して、神話と伝説による結びつきではない。」という、いわゆる、天皇の人間宣言を国民に向けて宣言した。

 そして、昭和21年(1946年)5月、新しい日本国憲法が公布された。その憲法は、主権は国民にあって、政治は、普通選挙によって選ばれた国会議員による議院内閣制によって行われ、天皇は国民の象徴であって政治権力は存在せず、それまでは、政府が決めてきた地方政治を国民の選挙によって決めることとし、日本は戦争を放棄し、国民は皆平等に基本的な人権を有するということを規定していた。

 そして、新しい日本国憲法の公布と同時に、戦争犯罪人を裁く極東国際軍事裁判が開始された。多くの国民は、戦争中に日本の権力者であった東条英機元首相や板垣征四郎元陸軍大将らが犯罪者として裁判を受け、あるときには、かつて部下であった者に頭を殴られる東条元首相の姿を映画ニュースで見た。

 渡辺周五郎が闇市にコーヒーの店を開業してから1年位たつと、コーヒーの店を切り盛りする渡辺の耳に、客の間から、こんなうわさが聞こえてきた。

 「名古屋城の天守閣や本丸御殿は、空襲によって、全て焼け落ちてしまったが、小栗鉄次郎と言う人が、名古屋城本丸御殿にあった多くの国宝の障壁画を疎開させていたおかげで、国宝の障壁画は、今も、名古屋城にあるらしい。我々は、名古屋の誇りである名古屋城を全て失ったわけではなかった。本当にありがたいことだ。」

 そして、渡辺は、コーヒーの店を守るためには、自分がかつて、愛知県警特別高等課に勤務していたことを絶対に知られてはならないことを子供たちにも言い含めた。渡辺とその家族の者たちは、闇市にあるコーヒーの店の中では、極力、話をしないように心がけた。

 昭和22年(1947年)になると、闇市では、たびたび、警察による店の閉鎖や撤去の指導が行われるようになった。渡辺周五郎は、闇市に開いていたコーヒーの店を撤去し、闇市で儲けたお金で、自宅を改装して、喫茶店にする決意を固めた。そして、闇市でかつて、自分が出していたコーヒー店の跡地に看板を立てて、千種区に店を転居したことを客に知らせ、転居した場所を知らせる詳しい地図も載せておいた。

 千種区にある渡辺の自宅は、戦争中に空襲の被害を免れるほどの山の中にあり、闇市のあった広小路通りとは、まるで違って、周囲は静かな住宅街だった。渡辺は、そんな住宅街に雰囲気を合わせ、店の中では、ジャズを流すなど、静かな空間を醸し出す店を演出した。少し広い駐車場も店の前に作った。

 それから、渡辺周五郎は、毎日休まずに喫茶店を開けた。そして、喫茶店では、コーヒーだけでなく、スパゲッティやサンドイッチなどの軽い食事も出すようになった。食事を作るのは、主に、妻の仕事だったが、周五郎も手伝った。もちろん、コーヒーに付けるパンの耳のお菓子のサービスと、朝8時から10時の間には、それにゆで卵を付けるサービスも継続した。

 昭和22年(1947年)4月、衆議院議員選挙、参議院議員選挙、統一地方選挙が行われた。この選挙によって召集された国会において、特別高等警察の元締めであった内務省が解体され、新しく地方自治体が運営する警察制度が創設され、今までの封建的な家族制度を廃止することを目的とした民法や刑法の改正が行われ、失業保険が創設されて、労働省が設置された。

 一方、昭和22年(1947年)頃から、世界では、アメリカに代表される自由主義陣営とソ連に代表される社会主義陣営の間で冷たい戦争が激化していた。昭和23年(1948年)、極東国際軍事裁判が終了し、戦争中に権力の側にいた東条英機元首相や板垣征四郎元陸軍大将ら7名の絞首刑が決定され、執行された。この頃、ドイツの首都ベルリンに壁ができて西ドイツと東ドイツが分裂し、アメリカをはじめとする自由主義陣営とソ連をはじめとする社会主義陣営の間の冷たい戦争は、更に激化していた。アメリカとソ連は、それぞれ、日本の広島や長崎に落としたような核兵器の開発競争にしのぎを削っていった。

 そして、渡辺の喫茶店の近くには、ライバルの喫茶店ができ、千種区の山の中にあった渡辺の自宅の周りには、どんどん建物が建っていく。そして、渡辺の自宅の周りの人口が増えれば増えるほど、コーヒーに付けるサービス合戦が激化していった。

 渡辺とその家族の者たちは、喫茶店の中で仕事をするときには、いつも上品で静かな服装でいるように心がけた。渡辺は、黒い蝶ネクタイに白い長袖のワイシャツと黒い釣りズボンで、いつも、喫茶店に立った。妻は、白いエプロンと白い長袖のシャツに黒い蝶ネクタイをしめて、黒いスカートといったいでたちで、店に立った。子供たちも黒い蝶ネクタイがトレードマークになるような黒と白の服で喫茶店に立った。

 昭和25年(1950年)春、千種区にある渡辺の喫茶店に、田口と名乗る人物が渡辺を訪ねてきた。田口は、渡辺と同じ50代で、紺色のスーツに青いネクタイを締め、黒い革靴を履いて渡辺の店に現れ、警察手帳を見せながらこう言った。

 「久しぶりだな、渡辺。少し、話したいことがあるんだが、今いいか?」

 田口は、渡辺が戦争中に愛知県警特別高等課に勤務していた時の同僚である。渡辺は、田口を店の2階にある自宅の応接室に案内した。2人が応接室のいすに座ると、田口は、渡辺にこう聞いた。

 「この手帳を見てもわかるように、今、俺は、愛知県警の公安課に勤務している。昨年の春に元の職場の先輩から誘われて、勤務するようになったんだ。5年前に俺たちを職場から追い出した連合国軍総司令部(GHQ)は、今、昔の特別高等課の知識を必要としている。

 俺たちが10年前、逮捕するために追っていた、天皇制に反対していた共産主義者の日下部勉を覚えているか?俺たちは、とうとう、日下部を逮捕できなくて、日本は、終戦になり、俺たちは職場を追われた訳だが、あの日下部勉なあ、今度は、ソ連のスパイの容疑で、連合国軍総司令部(GHQ)がマークし始めたんだ。5年前の公職追放で、政敵がいなくなって、3年前に国会議員に当選した、社会党の宮崎浩一という代議士がいるだろう?日下部勉は、国会議員の宮崎と親しくなり、宮崎から得た情報をソ連に売って、生計を立てているという噂がある。ところが、日下部勉は、神出鬼没な奴で、連合国軍総司令部(GHQ)も、日下部が、今、どこで、誰と、どのように生活しているのか、掴んでいないんだ。それで、昔、日下部を逮捕するために日下部を追っていた渡辺に協力を仰ごうと思って、今日、俺は、お前に会いに来たんだ。

 なあ、渡辺、もう一度、俺たちと一緒に仕事をする気はないか?待遇も職場の位置も、戦前と全く変わっていないぞ。だから、俺も、今、こうして、仕事をして、家族の者も昔と同様の生活をすることができているんだ。」

 渡辺周五郎は、田口の話を全くの無表情で聞いていた。そして、渡辺は、田口にこう聞いた。

 「なあ、田口は、何のために、昔の職場に復帰したんだ?」

 田口はこう答えた。

 「家族のためさ。昔の生活を取り戻すためさ。」

 田口のこの答えを聞いて、渡辺は、田口にこう言った。

 「そうか、家族のためか。俺は、家族に飯を食わせるために、今、喫茶店を経営している。店の売り上げはそれほどよくはなく、毎日、節約を重ねて何とか生活している日々だ。

 5年前まで、俺が愛知県警特別高等課で勤務していたのは、確かに、生活のためという一面はある。しかし、それと同時に、天皇に仕え、日本という国に仕えながら、日本の国を支えることを誇りとしていた面もあるんだ。今日から突然、ソ連と戦争をしているアメリカのために働けと言われても無理だ。しかも、俺は、アメリカによって公職から追放されたために、この5年間、家族の者には、散々苦労をかけさせた。」

 ここまで言うと、渡辺は、10秒ほど沈黙して、再び口を開いた。

 「俺は、もう、警察に戻るつもりはない。だから、今、ここで、俺が持っている日下部勉についての情報を田口に教えよう。

 日下部勉は、若く見えるが、実際の年齢は、俺と同じ53歳だ。錦3丁目のキャバレーで生まれ、母一人子一人で育った。戦前、日下部は、錦3丁目の丸ビルの地下1階にあるキャバレー月光を根城として、天皇制に反対する同志を集めていた。戦争中は、大曽根にある軍需工場に動員されていた。空襲の中を逃げながら、戦争反対を訴え、仲間を増やしていたようだ。戦争が終わって、2ヶ月後、俺は、公職追放になって、広小路通りの闇市でコーヒー屋を始めていたのだが、何度か、日下部を闇市で見た。日下部は、どうやら、闇市でキャバレーのような店を出していたらしい。錦3丁目の丸ビルの地下1階にあるキャバレー月光は、今も戦前と同じ名前で同じ場所にある。あそこに行ってみたら、日下部が今どこで何をしているか、わかるかもしれない。」

 そして、渡辺は、田口を店の外に送り出すと、喫茶店に戻り、お客さんの注文を聞いて、コーヒー豆をミルで挽き始めるのだった。

 昭和25年(1950年)6月、朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発し、連合国軍総司令部(GHQ)は韓国を支援するために出動した。日本は、連合国軍総司令部(GHQ)が出動した朝鮮戦争の前線基地となった。朝鮮戦争は、表向きは大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間に勃発した戦争であったが、実は、自由主義陣営と社会主義陣営の間の冷戦が招いた戦争であることを、日本人は、皆、わかっていた。

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