二十 織田信長

 「2年前に入鹿池が切れたことで、入鹿池に流れ込んでいた五条川の沿岸の村々は、地形が一変してしまって、村の田畑の土が流失したり、土砂が堆積したことによって埋没したりしたことは、知っているだろう?」

 明治3年(1870年)12月最初の日曜日、入鹿池の底にある、一条院孝三の家の中で、一条院孝三の話を聞いていた青木平蔵と石川喜兵衛は、一条院孝三に向かって、うなずいた。そして、青木は、こう言った。

 「今でもまだ、入鹿切れの被害にあった入鹿池の杁の堤防から尾張平野にある愛知県江南市布袋までの直線距離にして約11.4キロメートルの間を流れる五条川は、水の流れが変わった箇所があり、大雨が降ると流れがよどんだり、堤防を崩して越流したりしています。尾張藩から仕事を引き継いだ愛知県にとって、入鹿池の壊れた堤の改修と同様に、五条川は改修の対象になっています。」

 「あっ、そうか。」

 青木の話を聞いていた石川は、突然、こう言った。そして、石川は、一条院孝三と青木に向かって、こう言った。

 「五条川は、愛知県江南市あたりから南に向かって流れていて、その流れは、愛知県江南市の南にある岩倉市あたりから西に流れを変え、愛知県一宮市あたりから南に流れを変えて、信長のいた清須城の前を流れています。だから、清須城は、交通の要衝でもあったのです。その後、五条川は清須城のほとりから、南側に流れ、新川と合流して、伊勢湾にそそいでいます。」

 「その通り。」

 一条院孝三は、石川に向かって、大きくうなずくと、入鹿池で釣って、一串に五尾くらいさして焼いたワカサギが焼けたのを見計らってから、串ごと石川の皿に乗せ、次いで、青木の皿にも焼けたワカサギを乗せた。そして、一条院孝三は、話を続けた。

 「まだ入鹿池ができる前の戦国時代を生きていた織田信長という男は、そういう男なのだ。

 織田信長は、自分が住む清須城のほとりを流れる五条川をさかのぼったら、どこにたどり着くのか、馬に乗って確かめてみようと思った。五条川は、岐阜県多治見市の高社山を源流として、旧入鹿村の東にそびえる八曾山の南を流れ、旧入鹿村を通って、西へ南へと流れていき、信長のいる清須城のほとりを流れて清須城の南で新川と合流するまでの間28.2キロメートルを流れる川だ。信長は、五条川に沿って、馬に乗って、さかのぼってきて、旧入鹿村に到達した。」

 永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで、隣国の戦国大名今川義元を破った織田信長は、その時26歳であった。そして、信長は、永禄4年(1561年)の春、一人で馬に乗り、清須城を出て、桜が散る中を五条川の流れに逆らって、五条川に沿って、馬を走らせて行った。舟で川をさかのぼるよりは、馬に乗って、川岸をさかのぼって行った方が楽だろう。信長は、そう考えて、一人、馬を走らせたのだった。清須城の中の者を誘っても、誰ひとり、信長についてくる者などいないことを信長はわかっていた。

 その話を聞いたのは、信長がまだ10歳位の子供の頃だった。父信秀に連れられて清須城に行った時のことだ。その頃の清須城の城主は、室町幕府尾張守護の斯波義統だった。斯波氏は、父信秀のよき理解者で、信長にも優しく接した。そして、斯波氏は、信秀が連れてきた子供の信長に向かって、こんな内緒話をした。

 「この清須城の前を五条川という川が流れているだろう?あの五条川をさかのぼっていくと、山を登った所に入鹿村という村がある。入鹿村の地下には、仏像や武器を大量に隠してある大きな地下施設がある。そして、その地下施設から入鹿村の南側にある大山の山の中にトンネルが何本も延びている。入鹿村の南側にある大山の山の中には大山寺という巨大な山岳寺院がある。つまり、入鹿村の地下施設と大山寺はトンネルで結ばれているんだ。

 大山寺は、昔、比叡山延暦寺の僧兵が攻めてきて、一山まるごと焼き払われたという悲しい歴史を持っている。その時に焼け死んだ2人の稚児を祀っている児神社という神社が大山寺の隣にある。しかし、昔、大山寺に攻めてきた比叡山延暦寺の僧兵たちは、どうやら入鹿村の地下施設のことは知らなかったらしい。そして、今の京都にある室町幕府の足利将軍もこの話はご存じない。この話をしたところで、足利将軍がこの話を信じるかどうかもわからんからな。ふぉ、ふぉ、ふぉ。」

 そして、斯波氏は、扇子で口元を隠して笑いながら、信長の元を離れていった。

 そのことがあってから、15年以上の月日が流れた。この15年の間、信長の父信秀は亡くなり、信長にあの話をした斯波義統も織田大和守家の織田信友に殺害された。信長は、斯波義統のかたきを討つべく、主君を殺した謀反人として織田信友を殺害して、織田家の頭領となり、清須城に居を構えた。今から7年前の話だ。そして、織田家の頭領となった織田信長は、尾張を統一し、桶狭間の戦いで隣国の今川義元を破った。まさに、信長は今、破竹の勢いだった。

 しかし、信長は、この15年以上の間、斯波氏が信長にしたあの話のことを片時も忘れたことはなかった。斯波氏が話したあの話が真実なのかどうか、いつか確かめたいと思っていた。そして、最近忙しかった信長に突然訪れた、何も予定のない今日一日の間に、信長は、馬を走らせ、五条川をさかのぼっていたのであった。

 清須城を出てから40分程は、信長の馬は、五条川堤の所々に生えている桜並木の平坦な道を走っていた。やがて、馬に乗った信長の目に、五条川の両岸にぽつぽつと点在している古墳らしき小山の塊が映り始めると、五条川沿いの道は、2つの山の間に吸い込まれていくのが見えた。信長は、馬を下り、近くの畑で農作業をしている農民に声をかけた。

 「五条川が吸い込まれているあの2つの山は、何と言う名前の山なのか?」

 すると、農民はこう答えた。

 「向かって右側の山が標高292mの本宮山と言い、向かって左側の同じ位の高さの山が尾張富士と言います。」

 それを聞いて、信長は、更にその農民にこう聞いた。

 「入鹿村という村は、あの山の向こうにあるのか?」

 「五条川に沿って、左右2つの山の間にある山道を登って行くと、入鹿村です。入鹿村は、山に囲まれた盆地にある村ですよ。馬でしたら、ここから15分もあれば入鹿村に着きます。道は上り道ですが、山を登る訳ではありません。」

 「そうか。ありがとう。」

 そして、信長は、再び馬に乗り、五条川に沿って、進んで行った。

 今まで尾張平野を突き進んでいた五条川沿いの道は、左右に高い山を見ながら進む山道となっていた。五条川は、左右にそびえる山の間を流れる川となり、信長の目には、山の新緑があざやかに映った。普段、尾張平野のど真ん中で過ごしている信長にとって、この山の景色は新鮮であった。ストレスフルな生活を送っている信長の心は、山の緑や鳥のさえずりや川のせせらぎに癒されていることを信長は感じていた。

 そして、五条川は山に囲まれた1つの村に到着した。信長が清須城を出てから、約1時間が経過していた。しかし、五条川は、この村にとどまることなく、この村の向こうに見える山に吸い込まれていくのが見える。信長は、馬を下り、馬の手綱を手で引きながら、入鹿村の中を散策した。そして、信長の横を通り過ぎた一人の村人に声をかけた。

 「入鹿村に観光に来たのですが、この村の名所と言えば、どこですか?」

 すると、その村人は、しばらく考えて、こう答えた。

 「あそこにある高台の上に白雲寺というお寺があります。奈良時代に行基という有名なお坊さんが建てたことで有名な寺ですが、毎年、何回かあるお祭りのときは、近隣の村の人々も参詣しに来て、結構すごいにぎわいになる寺です。今は静かな寺ですが。」

 信長がその村人の指さす方向を見ると、少しだけ周りより高い所にその寺が見える。信長は、村人と別れてから、白雲寺に行ってみることにした。

 信長は白雲寺の入り口にあった木に、馬の手綱を結んで、さっき五条川で汲んだ水を飲ませ、持ってきた干し草を馬に食べさせると、一人で寺の境内に向かって歩いて行った。白雲寺は、緑に囲まれた山の中の静かな寺という雰囲気だった。寺の境内に行く道は、ゆるやかな上り道だ。信長は、好奇心旺盛にきょろきょろ廻りを見渡しながら道を歩いていた。

 すると、突然、信長は、何かにつまずいて、転びそうになった。何とか両手を道についたので、顔を怪我することはなかったが、突然のことだったので、信長は、かっとなった。足元を見ると、何か竹の子の芽のような小さなものが道に頭を出している。

 「こいつかっ!」

 かっとなった信長は、力任せに、道に頭を出している竹の子の芽のようなものを引っこ抜こうとした。しかし、その芽のようなものはびくともしない。ますますかっとなった信長は、何度もその竹の子の芽のようなものを抜こうと試みたが、それは、信長の力ではびくともしないものであった。

 そのうちに、信長は気が付いた。

 「これは、竹の子の芽ではない。あえて言えば、何か大きな木の先端が道に飛び出しているという感じだ。この道の下に大きな木が生えているということか?」

 信長は、亡くなった斯波氏が小さい頃に自分に話してくれた話を思い出していた。

 「そうだ、入鹿村にある地下施設をこの目で確認するために自分はここに来たのではないか。ここらへんに地下施設への入口があるということなのかな?」

 信長は、つまずいた木の先端の横に座り込んで、あたりを見回していた。すると、その時、法衣を着て、左手に風呂敷で包んだ荷物を携えた一人の僧侶が信長の横を通り過ぎた。信長は、立ち上がりながら、その僧侶に声をかけた。

 「あ、ちょっとすいません。」

 「はい?」

 少し甲高い声が信長の耳に届いてきた。

 「ああ、尼さんであったか。」

 信長は心の中でそうつぶやきながら、40代くらいのその尼僧に尋ねた。

 「私は、清須城という城に住んでいる武士の者ですが、昔、私の主人であった室町幕府尾張守護の斯波義統という者より、この入鹿村に仏像や武器を大量に隠してある大きな地下施設があり、その地下施設は、遠い昔に比叡山延暦寺の僧兵が攻めてきて、一山まるごと焼き払われたという悲しい歴史を持つ大山寺という山岳寺院とトンネルで結ばれているという話を聞きました。私は、その地下施設の入り口を探しているのですが、どこにあるのでしょうか。」

 信長ができるだけ丁寧な言葉使いでこう聞くと、その尼僧は、ちらっと信長の顔を見て、こう言った。

 「私が見る限り、あなたは、かなり身分の高い方ですね。この話を知っている人は皆、地元に長い間住んでいる者か、かなりの上流階級の方ですから。今から私についてきてくだされば、シャンバラの入口にあなたをご案内いたしましょう。

 ああ、ここらへんは、所々に、木の先端が付き出ていますから、下を見ながら、転ばないように注意して歩いてくださいね。私は、どこに木が生えているのかわかっていますけれども。」

 こう言って、その尼僧は、照れて下を向いた信長を一瞥して、歩き始めた。信長は、足元に注意しながら、尼僧の後をついて行った。 尼僧は、参道を歩きながら、こう言った。

 「そう言えば、清須城に住んでいる織田信長という戦国武将が、桶狭間の戦いで、隣国の今川義元を破ったとか。しかも、敗れた今川軍勢の2分の1以下の軍勢しか持たない織田軍が勝利したことで、最近のこのあたりの人たちの話題は、そのことで持ちきりです。あなたも桶狭間の戦いには参加したのですか?」

 信長は、参道の左側の脇に置かれた石臼でできた手水鉢で、転んで汚れた手を清め、黙ったまま、尼僧の後をついて行った。そして、尼僧は、白雲寺の中に入って行った。

 白雲寺の中には、建物いっぱいに、3mくらいの大きな仏像が座っていた。大きな仏像の両脇には、2mくらいの大きさの2体の仏像が立っている。信長がそれらの仏像に圧倒されていると、尼僧は、大きな仏像の右横に立っている仏像の横にある、人一人通ることができる細い小さな通路に入って行った。

 信長も急いで尼僧について、小さな通路に入って行った。その小さな通路は、しばらく歩くと左に直角に折れ曲がっていた。そして、恐らく、3mの大きな仏像の裏側にあたると思われる所で、尼僧は、立ち止った。そして、尼僧は、仏像の裏側を通る通路の壁にあった鉄でできた扉を開けた。鉄の扉は尼僧の姿を隠し、扉の向こうには、人が一人入れるような穴が開いていた。そして、鉄扉の向こうから、信長に話しかける尼僧の声が聞こえた。

 「ここが、シャンバラの入口です。シャンバラに入る入口は、この村の中にはいくつもあるのですが、私ども寺の者は皆、この通路を使っています。

 この穴を下りていくと、10分ほどで、たくさんの仏像が曼荼羅のように置いてある部屋の中にたどりつきます。そして、たくさんの仏像の背中をながめながら前に進んで行くと、石でできたカウンターがあり、そこに、誰かシャンバラを守っている者が一人はいるはずです。その者に聞けば、大山寺に通じるトンネルを教えてくれますよ。」

 「私は、忙しいので、明日までに城に帰らなければいけない。1日で大山寺まで行って帰ってくることはできますか?」

 信長が鉄扉の向こうにいる尼僧にこう聞くと、扉の向こうから、尼僧の声が響いてきた。

 「大丈夫です。」

 「ありがとう。では、行ってきます。」

 信長は、こう答えて、大きな仏像の裏側にある洞窟の入り口から暗闇に延びた階段を下りて行った。階段を下りはじめると、鉄扉が「ギーッ」と閉まる音が聞こえたが、2m間隔毎に足元に明かりがついているため、明かりを頼りに、信長はゆるやかに下って行く階段を慎重に下りて行った。

 そして、シャンバラにたどり着いた信長は、カウンターに立っていたシャンバラの守人の後ろから声をかけた。シャンバラの守人は、驚いた様子もなく、大山寺に向かうきのこのトンネルを信長に教えた。信長は、平安時代にまだ修業僧だった最澄が使った同じルートで、大山寺の山の中にたどり着いた。

 信長がきのこのトンネルの終点にあったジグザグの急な上り階段を登って行くと、そこは、大山寺の中にある一つの坊の裏側だった。信長が坊の表側に回り込むと、そこでは、一人の修業僧が薪割りをしていた。信長が薪割りをしている修業僧の横を通り過ぎようとすると、その修業僧は、薪を割る手を休めて、信長に話しかけてきた。

 「見るからに身分の高いお侍さんがここに何の用事です?立派な格好をした人間があそこから出てくるなんて、滅多にありませんよ。」

 「ここが、遠い昔に比叡山延暦寺の僧兵が攻めてきて、一山まるごと焼き払われたという大山寺か?」

 信長がこう聞くと、修業僧は、「そうだ。」と答えた。

 「その時に死んだ2人の稚児を祀っていると聞いている児神社に行きたいのだが、どちらへ行けばいい?」

 「この前にある下り坂を下りていき、一つ目の角を左に曲がってしばらく行くと、広い平地に出る。平地に着くと正面に屋根が付いた手水鉢が見えて、手水鉢の左側の石垣の上に立っている神社が児神社だ。」

 「ありがとう。」

 そして、児神社にたどり着くことができた信長は、児神社の拝殿で目をつぶって手を合わせながら、考えていた。

 「こんな山の中なのに、結構、たくさんの人が行きかっているな。大山寺は、山岳寺院といいながらも、意外に、職人や商人とおぼしき人間も多数見受けられる。1つの坊ごとにいろんな役割があって、修業僧は皆、いろんな役割を持ったたくさんの坊を利用して生活しているようだ。ここは、山岳寺院というよりは、寺院都市といった感じだ。

 それに、ここにいる人たちは、皆、楽しそうだ。山の空気がいいからかな。大山寺には、清須城とは全く違う雰囲気があるな。」

 こんなふうに考えながら児神社拝殿で祈っていた信長の鼻に炊き立てのご飯の良い匂いが漂ってきた。その匂いのもとは、どうやら、児神社横の1つの坊から漂っているようだ。その坊の前庭には、木でできた長椅子がいくつも並べられていて、長椅子の上には、赤い布がかけられている。そして、商人やら修業僧やらが、椅子の上で、竹の子の入った炊き込みごはんをほおばっていた。その時、自分のお腹がすいていることに気付いた信長は、持ってきた小銭を支払って、炊き込みごはんを注文した。

 「晴れた日の山の中で食べるご飯は、最高においしいな。」

 そして、信長は、隣に座って食べていた商人に本堂がある場所を聞き、炊き込みごはんを食べて、お茶を飲み終えると、本堂に向かった。

 大山寺の本堂は、児神社から見ると北西方向にある大山不動の横を流れる児川の上流にある、とのことだったので、信長は、その通りに山を登って、本堂にたどり着いた。

 「本堂は、少しわかりづらい場所にあるな。奥の院といった感じかな。何も知らない人は、児神社や大山不動を本堂と勘違いするのではないだろうか。だから、昔、ここに攻めてきた比叡山延暦寺僧兵たちは、一山まるごと焼き払ったのだろうな。ところで、大山寺の住職は、今、ここにいるだろうか。会って話がしてみたいな。」

 そして、信長は、本堂に入っていき、中にいた僧侶に声をかけ、大山寺の住職が今本堂にいるかどうか聞いた。大山寺の住職は、成安上人と言い、たまたま、今日は、本堂にいるということで、信長は、さっそく、成安上人に取り次いでもらうことにした。

 「私は、清須城にいる織田信長と申す者です。ぜひ、成安上人に会わせていただきたい。聞きたいことがいっぱいある。」

 「えっ、今話題の織田信長様?」という雰囲気を醸し出したその僧侶は、信長を一瞥すると、本堂の奥に消えていった。そして、信長は、本堂の奥に通され、成安上人と対面した。

 「亡くなられた尾張守護の斯波様は、休暇ができると、よく、シャンバラに来て、刀を作っては、シャンバラにある倉庫に納めていきました。そして、シャンバラで刀を作るときは、いつも、大山寺の山の中にある鉱山で鉄鉱石を採集していきました。

 斯波様は、どうやら、清須城にいる誰にも相談せず、おひとりで、シャンバラと大山寺に来ていたようです。清須城にいる家臣の者は、誰も、このような山岳寺院には興味を持っていないと言ってね。だから、私は、清須城にいる人たちは、誰もシャンバラや大山寺のことは知らないと思っていました。

 しかし、斯波様は、子供の頃のあなたには、話していたのですね。そして、斯波様が、唯一、自分の話をされた織田信長様は、大人になって、立派な戦国武将になられましたね。」

 成安上人は、織田信長に会って、信長がここへ来た経緯を聞くとすぐ、このような話を切り出した。信長も成安上人にこう答えた。

 「今、清須城にいる城の者たちも、山には何の興味も示さない者たちばかりです。平野にある平城の方が、通勤も便利だし、近くの街にも楽に遊びに行けるから、と言うのです。しかし、私は、ここへきて、ますます山に魅せられました。城を造るのなら、大山寺のような山城がいい。軍事的に防御が平城より優れているだけではない。平野より空気はおいしいし、山の緑や山の生き物には心が癒されます。私にとっては、大山寺こそ、心の故郷です。

 それにしても、昔、この大山寺を一山まるごと焼き払ったという比叡山延暦寺の僧兵たちは、とんでもない者たちだ。そんなとんでもない者たちが、なんのお咎めも受けずに、400年以上も日本を代表する寺として、時の政府と関わってきた。今でも、比叡山延暦寺にいる僧侶たちの中には、仏教の戒律を破って、肉を食べたり、美女を比叡山延暦寺の中に住まわせたりしている者がいると聞く。

 400年前に、時の政府が、大山寺を一山まるごと焼き払った比叡山延暦寺僧兵たちを罰していたなら、今の比叡山に、堕落した僧侶たちが、今ほどのさばっていなかったかもしれない。そんな奴らに比べて、この大山寺にいる修業僧たちは、平凡だけど、何て立派なんだ。」

 信長がこう言うと、成安上人はこう答えた。

 「しかし、今の大山寺は、修業のための寺とはいえ、天台宗に属しているし、比叡山延暦寺からの援助も受けています。一山まるごと焼き払われた昔のように、延暦寺と敵対している寺ではありません。」

 どうやら、大山寺の成安上人と織田信長との間には、比叡山延暦寺をめぐっては、意見の相違があるようだと、2人はお互いそう思った。しかし、信長は、成安上人にこう切り出した。

 「どうやら、比叡山延暦寺に対しては、お互い、意見の食い違いがあるようだ。でも、私にとって、大山寺は、政務を行う城を造っていく上で、大いに参考になる場所だ。これからも、ここには、ちょくちょく、お邪魔させてもらいますよ。たぶん、斯波様と同じように、一人でね。

 ところで、明日からは、清須城で仕事がありますから、私は、今日中に清須城に帰らなければならない。先ほども話したように、私は、入鹿村にある白雲寺の境内に馬をつないでいますので、これから、シャンバラに向かわなければなりません。この本堂からシャンバラに向かうには、どこに行けばいいのでしょう?」

 信長が成安上人にこう尋ねると、成安上人は、こう答えた。

 「こちらからですと、本堂の北側にある山にトンネルの入り口があります。あそこが一番シャンバラに近い入口ですよ。それに、あなたが大山寺に来たときのトンネルを使うよりも、こちらのトンネルの方が緩やかな下り坂で、明るい感じがしますが。」

 信長は、本堂の北側の山にあいたトンネルを使って、シャンバラに戻り、シャンバラから白雲寺に戻った。

 白雲寺に戻ると、馬は、新しい干し草を食べ、木でできた器から水を飲んでいた。どうやら、白雲寺の尼僧が、馬の世話をしてくれていたようだった。信長が空を仰ぐと、太陽はすでに傾きかけていた。信長は、入鹿村を出ると、夕日に向かって、五条川のほとりを馬で駆け抜けていった。そして、信長が清須城に着いた頃には、夕日は沈んでいた。

 それから、信長は、休暇が取れると、一人で、大山寺に向かうようになっていた。何度も大山寺に向かっているうちに、信長は、五条川に頼らなくても、大山寺に直接行ける道がわかるようになった。信長は、清須城から北東方面に向かって、まっすぐに進んで小牧山の山麓を通過し、小牧山山麓から東北東に進路を取って、大山村にたどり着くことができるようになった。

 そして、信長は、馬で大山村に着くと、大山村から5分ほど山を登った所にある「洞雲坊」という名の一つの坊に馬をつながせてもらって、そこから大山寺の本堂まで歩いて登って行った。室町幕府尾張守護の斯波義統が刀を作ることを目的としてシャンバラを訪れたことに対して、織田信長は、巨大な山岳寺院がある山の中を散策することを目的として、大山寺を訪れていた。大山寺のある山の中は、自然の美しさに心を癒されるだけでなく、信長が仕事をする場所である城造りのアイデアも提供してくれる場所であった。

 大山寺は、「大山三千坊」と言われるほど、山の中にいくつもの坊を持っている寺だ。そして、麓にある大山村から一番近い坊である洞雲坊から、大山の中にある三千坊をつなぐ主要な坂道は3つある。1つは、洞雲坊と児神社を結ぶ女坂、もう1つは、洞雲坊と鐘堂を結ぶ男坂、そして、洞雲坊と大山不動を結ぶ児川に沿った不動坂である。大山寺の本堂は、大山不動から児川に沿って、山を登って行った、児川の源泉のあたりに建っていた。

 そして、信長は、様々なルートで、大山寺の中の散策を楽しんだが、中でもお気に入りのルートは、洞雲坊に馬をつないで、3つの滝や四季折々の山の景色を楽しみながら不動坂を登り、不動坂の終点にある大山不動でお祈りをしてから、児川の源泉のあたりにある本堂まで登って行くというルートだった。

 信長が大山寺に来るたびに馬をつながせてもらっていた洞雲坊に住む修業僧は、秋岩恵江という名前で、信長と同じ20代後半の男性の修業僧だった。シャンバラの守人の話によれば、秋岩恵江がシャンバラから借りている仏像は、400年ほど前に、大山寺が比叡山延暦寺僧兵の焼き討ちにあった時に本堂にあって、焼け残っていた仏像であるらしい。そして、毎日、それらの仏像に向かって、お経を唱え、仏像の掃除などの世話をしているうちに、秋岩恵江の心の中には、大山寺を焼き払った比叡山延暦寺の僧兵たちが許せないと思う気持ちや、この仏像を置いていた焼き払われる前の大山峰正福寺を見たいと思う気持ちが交錯するようになった。

 だから、信長と秋岩恵江は、馬が合ったのだ。大山寺本堂の成安上人が、比叡山延暦寺の肩を持つことを快く思わないという点で、秋岩恵江と信長は、成安上人の悪口を言っては盛り上がる同志のような存在だった。2人の間には、有名人と一般人という垣根を越えた友情のようなものが芽生えていた。

 永禄5年(1562年)、岡崎城にいる徳川家康という者が、織田信長のいる清須城を訪ねてきた。徳川家康と織田信長が軍事同盟を結ぶためである。徳川家康は、28歳になる信長より一回りほど年下で、まだ19歳の若者であった。

 2人は、気が合うから軍事同盟を結ぶのではない。むしろ、2人は、全く真逆の性格だった。山が好きで、アウトドアなタイプの織田信長と違って、徳川家康は、読書が好きなインドアなタイプの人間だった。織田信長がシャンバラや山岳寺院である大山寺の話をし、信長の山に対する熱い思いを語っても、家康の耳には右から左に駆け抜けて行っているということを信長は感じ取っていた。そして、信長が「山の中に自分の城を建てることが自分の夢である。」という話をしても、読書好きの徳川家康には、どうやら通じていないようであった。それどころか、家康は、「自分の建てる城は、家臣たちの通勤にも便利な平野に建てることが望ましい。」と考えているようであった。

 つまり、織田信長と徳川家康の間には、なんら心の共通点は見られない。しかし、2人とも、そんなことを言っていたら、この乱世を生き残っていけないことだけはわかっていた。2人の隣国の戦国武将は、いつ2人の治める国を支配してやろうかと戦々恐々としているというのが2人の現実であった。軍事同盟を結ばなければ、2人とも共倒れをしてしまうかもしれないのだ。

 家康は、「話はわからないが、この人について行けば何とかなるかもしれない。」という目で信長を見、信長は、そんな家康のことを「こいつとの話は、のれんに腕押しだな。まあ、こういうやつを味方につけておいた方が、山に自分の城を建てるという自分の夢を思いっきり実現させることができるかもしれない。」と思っていた。

 生きていくテリトリーが全く違う2人が結んだ軍事同盟を、2人の周囲は「清須同盟」と呼んだ。そして、この2人が全く人生のテリトリーを共有しなかったということが、後の入鹿村にとって、大きな歴史的転換となることを2人とも知らなかった。

 織田信長は、大山寺に来て、洞雲坊の秋岩恵江に会うと、思いっきり、徳川家康の悪口を言った。そして、徳川家康の悪口を散々言った後で、信長は、決心したようにこう言うのだった。

 「でも、これで、私の心に火が付いたぞ。私は、いよいよ、山の中に自分の城を建てようと思う。大山の隣に大山より少しだけ標高が高い本宮山という名の山があるだろう?シャンバラとはつながっていないが、あの山の中に家臣の屋敷や出入りの商人や職人の店を建てて、山の中を大山寺に負けないような城郭都市にしてみせる。」

 秋岩恵江は、信長の話を「はい、はい。」と聞いていた。

 清須同盟から1年後、29歳になった信長は、家臣を10人ほど連れて、清須城から北東方向に向かって馬を進めた。そして、信長と10人ほどの家臣たちは、小牧山にたどり着くと、そこから、さらに、北東方向にまっすぐ進んで、本宮山の麓にたどり着き、大県神社という神社の境内に集まった。

 そして、大県神社の境内に馬をつないで、信長を先頭にして、家臣10人は、信長の後をぞろぞろとついて本宮山を登って行く。本宮山の登山道は、荒れ果てた道なき道の上り道であった。やがて、標高300メートル足らずの本宮山の頂上にたどりついた信長は、後ろに集まって、息も絶え絶えに登ってきた10人の家臣に向かって、こう言った。

 「私は、これから、この山の中に自分の城を建てたいと思う。この山の頂上には、私の屋敷を建て、あの尾根には、安清殿の屋敷、あの谷間には、幸助殿の屋敷、こっちの谷間には、絹問屋の屋敷を建てたらどうだろう。」

 そして、10秒ほどの沈黙の後、信長は、家臣たちの猛反対の怒号を聞くことになるのだった。

 「家臣たちは、全員、徳川家康と同じなのか。」
 家臣たちの抗議の声を聞きながら、こう思った信長は、家臣たちの抗議の声が治まった後、こう切り出した。

 「私の家臣の中には、山の中に自分の城を建てるという私の夢に賛同してくれる者はおらんのか。」

 すると、家臣の一人の者がこう言った。

 「せめて、もう少し低くて、清須城のある尾張平野に近い所にある山にしてください!毎日、こんな高い山を上り下りするなんて、体力のない私には応えます!それに、この山の中は、全く何にもない辺鄙な場所じゃないですか。」

 家臣の一人が言ったこの言葉について、少し考えた信長は、こんなこともあろうかと前もって考えておいた第二の案を家臣たちに切り出した。

 「では、ここに来る途中にあった小牧山はどうだろう。あそこなら、清須城の前を流れる五条川の支流が麓を流れているから、清須城からの引っ越しも楽なのではないか?小牧山は、この山の3分の1以下の高さしかない低い山という所が気に入らないが、小牧山なら、私の許容範囲だ。私の住む屋敷は小牧山の頂上に造るとして、商人や職人や家臣の屋敷は、平野に造れば、ま、いいか。」

 すると、さっきまで、口々に文句を言っていた家臣たちは、

 「ま、まあ、あそこなら、まあ、いいか。少なくともここよりは。」

 と口ごもるようになった。

 家臣たちには、段々分って来た。山に城を造るという信長の意向に反対するとき、自分が信長の家臣をやめなければならなくなるということを。信長にとっては、山に城を建てることと、領地を広げて、領地に住む人々や自分の家臣たちに良い暮らしをさせることは、イコールなのである。

 山岳寺院である大山寺が山の中に造った寺院都市を見て、織田信長は、山の中に都市を造るということに非常にあこがれを感じていた。だから、織田信長は、標高300メートル足らずの本宮山の中に家臣の屋敷や信長のお抱え商人や職人の街を造ろうとしたが、家臣の者たちの了承を得ることができなかった。それで、信長が自分の手で建てる初めての山城は、標高86mほどの小牧山に建てることになった。

 しかし、尾張平野の真ん中にお椀を伏せたような小牧山くらいの大きさの山の中に城郭都市を建設することはできない。自然、小牧山の山頂には、信長の居城を建て、山の麓に武家屋敷や城下町を造ることになるのだった。しかし、家臣や商人や職人は、むしろ、そのことを喜んだ。大半の人間にとっては、山の中より平野の方が住みやすいのだ。山に修業に訪れる修行僧のような人間は、ほんの一握りの者たちだ。修業僧になりたくてもなれなかった織田信長は、その気持ちを山城造りに託したのだった。

 永禄6年(1563年)に小牧山に城を建てた織田信長は、29歳であった。そして、信長は、清須城にいたときより近くなった大山村に足しげく通った。

 小牧山城の麓から東の方向に向かって20分も馬に乗っていれば、大山村に到着した。小牧山から大山村までの行きは、なだらかな丘陵地を登っていくので、帰りは、行きよりも早く小牧山城に着くことができた。大山村に着くと、信長は必ず、洞雲坊に馬をつないで、山を登り、途中様々なルートを散策して、寺院都市の中をさまよい歩いたあげく、本堂に成安上人がいるときには、成安上人と話をした。

 清須城から小牧山に引っ越した信長は、その4年後の永禄10年(1567年)、美濃の斉藤龍興から城を奪い取る。その城は、稲葉山城といい、標高329mの稲葉山の上に建つ城だった。稲葉山は、信長が最初に山城を造りたいと願っていた本宮山よりも高い山だ。

 そして、信長は、美濃の斉藤氏との戦いに勝ったという勢いに任せて、稲葉山に自分の城を建てることにした。斉藤氏との戦いに勝って奪い取った城だけに、家臣たちもその勢いに飲まれて、本宮山の時のようにNoとは言えなかった。

 「小牧山では、低すぎたのだな。」

 と家臣たちは全員そう思った。

 そして、信長は、斉藤氏から稲葉山城を奪い取り、小牧山から美濃の稲葉山に引っ越した。信長は、稲葉山城を岐阜城と改名し、岐阜城を居城として、山の中に城郭都市を造ろうとする。しかし、それは、なかなか信長の思い通りにはいかないことだった。

 結局、家臣の屋敷や商人や職人の屋敷は、山のふもとの平野に建てることとなった。小牧山の3倍以上の高さがあっても、稲葉山は、急峻な山であった。なだらかな山の中腹あたりにゲストハウスなどいくつかの屋敷を建てることはできたが、城下町をそのまま、山の中に造るということまではできなかった。基本、岐阜城も小牧山城と同じように、山の麓の平野の中に城下町ができあがっていった。

 「これでは、小牧山城と同じではないか。」

 そして、信長は、更に、自分の理想に近い山を探す事になるのである。そして、この頃から、自分の理想に近い山を探すことと同時進行的に、信長の心の中には、ある思いが芽生えていた。

 桶狭間の戦いで、今川氏を破り、三河国の徳川家康と軍事同盟を結んだ頃の織田信長は、実質的に尾張を制覇した武将だった。しかし、その頃の信長は、まだ尾張地域だけを牛耳る武将なので、信長が、「昔、大山寺を一山まるごと焼き討ちにし、今でも戒律を守らず、肉を食べたり美女を比叡山の中に住まわせたりしている比叡山延暦寺の僧兵たちは、罰せられるべきだ。」と言っても、成安上人は、無視し続けることができた。

 しかし、その4年後、織田信長は、美濃の斉藤氏を攻めて、稲葉山城を奪い取り、稲葉山城を岐阜城と改称して、岐阜城を居城とした。つまり、信長は、尾張と美濃を攻略した武将となったのだ。そして、周囲の噂や比叡山延暦寺関係からの話では、美濃と尾張を攻略した信長は、京都では、ちょっとした有名人で、正親町天皇も信長の名前を知っているようだ、とのことだった。

 永禄11年(1568年)の春、34歳になった織田信長は、一人で大山寺本堂にいる成安上人に会いに来た。織田信長は、岐阜城の麓から、山を常に左側に見ながら東に進み、木曽川を越えたあたりから南東方面に向かって進み、尾張富士を右手に見ながら、岐阜城から1時間弱かけて入鹿村に来たのだと言った。岐阜城に住む信長は、シャンバラのトンネルを通って、大山寺に来たのだった。

 信長は、大山寺の成安上人に向かって、自分は、天下統一を成し遂げたいのだと言った。そして、こう言うのだった。

 「今は、いくつもの国や大きな寺が、それぞれ、自分の利益だけを考えて、争っているが、私は、それらの国や寺を一つにまとめて、争いごとのない世の中を造りたい。そして、人々が安心して暮らす事が出来て、それぞれの商売でお金をたくさん儲けることができるようにしたい。そのためには、国の治安をよくすることが第一で、悪いことをした人々は、どれだけ偉い人々であっても、罰せられなければならないというのが原則だ。

 私の天下統一の夢を阻もうとする国や寺は多いが、比叡山延暦寺も私の敵の一つだ。そして、比叡山延暦寺は、過去にも現在にも、寺として罰せられなければならないことを数多くしている。私は、将来、必ず、比叡山延暦寺を罰するつもりでいる。

 しかし、比叡山延暦寺の援助によって運営されているこの大山寺に私が足しげく通っていることを比叡山延暦寺はすでに知っているのだろう。私の心配は、私が比叡山延暦寺を攻めたとき、比叡山延暦寺があなたがたに牙をむくことがあるのではないかということだ。

 私は、比叡山延暦寺を攻めるとき、成安上人にも一言お知らせしてから攻めるつもりだ。しかし、そうなる前に、今のうちから、大山寺はどこかに引っ越す準備を始めてください。まずは、シャンバラに仏像を全て集めるのです。」

 そして、信長がこの言葉を話す力に妙に強いものを感じた成安上人は、一言、

 「では、これからの信長様の働きを見ていきましょうか。」

 と言った。

 信長が天下人になる確率は5分5分だ、と成安上人は思った。しかし、信長が比叡山延暦寺を攻めることを決めてからでは遅い。大山寺の規模は、最盛期の室町時代中期頃よりは、3分の2位に縮小した。しかし、シャンバラに仏像を集め、大山寺を一旦廃寺にする準備には、2年は猶予が必要であるくらい、大山寺は巨大な山岳寺院都市であった。

 「もう、今から、大山寺を廃寺にする準備を始めなければ。」

 まだ、信長の天下統一が成し遂げられるのかわからないこの時期に、成安上人は、心の中でそうつぶやいたのだった。そして、信長は、本堂から大山不動に向かい、不動坂を下りて、秋岩恵江のいる洞雲坊に向かった。

 信長が洞雲坊に入ると、秋岩恵江は、仏像に祈りをささげている最中だった。信長は、秋岩恵江の隣に座ると、仏像に手を合わせ、秋岩恵江に向かって、こう言った。

 「日本を1つの国にするために、私がやらなければならないことは、いくつもある。争いごとのない世の中にして、皆が安心して暮らせ、お金を儲けることができるようにする、という私の政治方針に刃向う者たちをなくしていく、ということもその一つだ。そして、私の政治方針に刃向う者たちのリストの中に比叡山延暦寺がある。

 仏教徒でありながら、昔も今も、比叡山延暦寺の僧兵たちは、人を殺したり、肉を食べたり、美女を比叡山の中に住まわせたりしている。そのような仏教徒は、罰せられなければならない。私は、今後の自分の方針として、比叡山延暦寺を攻める。いつ、比叡山延暦寺を攻めるのかは、まだ、自分の中で煮詰まっていない。

 しかし、私が気がかりなことは、比叡山延暦寺が、私が大山寺に足しげく通っていることを知っていることなのだ。比叡山延暦寺は、私に攻められた後に、昔のように、また、大山寺を攻めてくることがあるかもしれない。だから、私は、大山寺の成安上人には、仏像を全てシャンバラに集め、大山寺をどこかに引っ越すように進言した。つまり、今、ここにある大山寺は、いつか、廃寺になってしまうということなのだ。

 しかし、私は、洞雲坊の秋岩恵江には、ここに残ってほしい。つまり、秋岩恵江に大山寺の法灯を継いでほしいのだ。大山寺が全てなくなったら、私もさびしいではないか。」

 「しかし、比叡山延暦寺の僧兵たちに攻められて、一山まるごと焼き払われるのはいやだ。私は、生き残るためには、どうしたらいいだろうか。」

 秋岩恵江が少し泣きそうになって、織田信長に話すと、信長はこう言った。

 「洞雲坊が大山寺の法灯を継いだことがわからないようにすればいいんだろう?

 実は、私のブレーンの一人に、沢彦宗恩という僧侶がいる。彼は、京都花園にある臨済宗妙心寺派の僧侶だ。

 ところで、秋岩恵江のいるこの洞雲坊は、大山の麓の村近くにあって、大山寺の本堂からは遠い場所にあるので、もし、この坊が臨済宗妙心寺派の寺になってしまえば、天台宗比叡山延暦寺の僧兵たちが突然この場所を訪れたとしても、誰も、この寺が、かつては大山寺の中の1つの坊で、大山寺の法灯を継いでいるとは思わないだろう。沢彦宗恩に頼めば、この坊が臨済宗妙心寺派の寺であることを示す石標柱を作って、妙心寺の庇護を受けることができるようにしてくれるだろう。そして、この坊を1つの独立した寺に見えるように改築すれば、完璧だ。改築費用は私が出そう。」

 「じゃあ、この坊を1つの独立した寺に見えるように、寺の名前を考えなくてはいけないな。うーん、どういう名前の寺にしようか。」

 そして、信長と秋岩恵江は、話合いを続けた。まず、「洞雲坊」という坊の名前は、「洞雲山」という山号に改めた。そして、寺の名前は、秋岩恵江という名前から二文字取って「江岩寺」と名付けることにした。

 「寺の入口に設置する石標柱には、「臨済宗妙心寺派 洞雲山江岩寺」と彫ってもらおう。」

 そして、信長は、続けて、秋岩恵江にこう言った。

 「私は、もう、ここに来ることができなくなるほど忙しくなるだろう。だから、これから、江岩寺建立に向けての私の計画を今、秋岩恵江に伝えておこう。比叡山延暦寺を攻めることと江岩寺建立は、一つのパッケージになった計画なのだ。

 今はまだ、比叡山延暦寺を攻める日取りは全く決まっていない。それは、私のブレーンである沢彦宗恩という僧侶と相談して、決めていく。そして、比叡山延暦寺を攻める日取りが決まったら、その日取りを建立の日取りにした「臨済宗妙心寺派 洞雲山江岩寺」と彫られた石標柱を大工と共にここへ送る。そして、石標柱と一緒に送った大工たちに、洞雲坊よりも少し大きな寺をこの平地に建立してもらうから、秋岩恵江もそのつもりでいてくれ。

 このことは、まだ、いつのことになるかわからないけれども、秋岩恵江は、この信長を信じて、辛抱強く、その日が来ることを待っていてほしい。」

 そして、秋岩恵江は、信長を信じて、その日が来ることを待ち続けた。

 2年後の元亀元年(1570年)9月、「臨済宗妙心寺派 洞雲山江岩寺」と彫られ、その裏面に「元亀2年9月12日建立」と彫られた石標柱と共に、10人ほどの大工と一人の僧侶が、洞雲坊にいる秋岩恵江のもとを訪れた。大山の中にある本堂や本堂近くにある坊の中の仏像は、次々とシャンバラに運び出され、秋の訪れと共に、大山の山の中はさびしくなりつつある頃だった。石標柱や大工と共に訪れた僧侶は、秋岩恵江にこう言った。

 「信長様の指示通り、これから、洞雲坊は、「臨済宗妙心寺派 洞雲山江岩寺」として、この大山地域の人々のための寺となります。今まで、洞雲坊では、僧侶は、国のために祈り、修業をして参りましたが、これから、「臨済宗妙心寺派 洞雲山江岩寺」の僧侶は、地域の人々のために祈り、修業することになります。秋岩恵江さんは、「臨済宗妙心寺派 洞雲山江岩寺」の住職として、地域の人々のために働いて、地域に根を張って生きてください。

 まずは、地域の人々の家を回って、檀家さんという寺の支持者を確保してください。そして、檀家さんからお布施という寄付金をもらって、檀家さんの家に不幸があれば、行って、慰めて差し上げてください。そして、洞雲坊にある仏像や絵画は、引き続き、「臨済宗妙心寺派 洞雲山江岩寺」に置き、檀家さんにも見せて差し上げてください。これからは、今まで以上に忙しい毎日になりますよ。

 それと、江岩寺の第一世は、京都花園妙心寺開山恵玄禅師法孫十洲宗哲大禅師となり、秋岩恵江さんは、江岩寺の第二世となります。そして、秋岩恵江住職は、臨済宗妙心寺派という組織の中に組み込まれることとなります。つまり、秋岩恵江さんがいなくなっても、別の住職が江岩寺の住職となるし、秋岩恵江さんが他の寺の住職に異動になることもあります。こうやって、未来永劫に江岩寺をこの地域に残していくのです。
 もし、迷うことがあったら、何なりと私ども京都花園にある妙心寺に相談してください。」

 元亀元年(1570年)9月までの間に、信長は、比叡山延暦寺の僧侶を呼び寄せて、あるいは、朱印状を手渡して、

 「信長に味方をすれば、信長の領国中にある延暦寺領を返還するから、我々の作戦行動を妨害しないでいただきたい。」

 と、何回も警告した。しかし、比叡山延暦寺の僧侶たちは、信長の言うことを聞かず、信長の敵である越前国の朝倉義景や北近江の浅井長政を味方につけて、信長に抵抗した。

 元亀2年(1571年)9月12日、信長は、比叡山延暦寺を焼き討ちした。僧侶たちは逃げまどい、逃げられなかった僧侶は、信長軍に切られた。そして、信長軍は、僧侶だけでなく、比叡山延暦寺の中にいた子供や女性も捕え、信長の前に引きだした。信長は、助けを請う者たちであっても、ことごとく、首を討ち落した。そして、比叡山には、数千の死体がごろごろと転がって行った。この時、信長は37歳であった。

 そして、信長による比叡山焼き討ちの時に、信長の下で目覚ましい活躍を遂げた武将が43歳になる明智光秀だった。信長は、比叡山焼き討ちの功労として、比叡山のある志賀郡(滋賀県)を明智光秀に与え、明智光秀は、志賀郡の坂本(現在の滋賀県大津市)に坂本城を建てて、居城とした。信長のもとで、明智光秀は、やがて、近畿地方一帯を取り仕切る武将に成長していった。

 そして、信長は、岐阜城と比叡山延暦寺を往復する間に、また、岐阜城から将軍足利義昭や正親町天皇の住む京都に行く途中に、何度も目にした一つの山にいつも注目していた。その山は、琵琶湖のほとりにあり、信長も一目置く武将明智光秀の住む、比叡山の麓の坂本城(現在の滋賀県大津市)よりもっと岐阜側にあった。地元の人々は、その山を「安土山」と呼んでいた。

 安土山は、標高200メートル足らずの山で、信長が最初に山城を建てたいと願い、家臣たちからの猛烈な反対にあった標高300メートル足らずの本宮山よりは低い山だ。しかし、安土山は、信長が最初に山城を建てるという夢のかなった標高86mほどの小牧山よりは、高い山で、尾張平野にお椀を伏せたような形の小牧山よりは、広くなだらかな稜線を持つ山であった。そして、安土山は、岐阜城のある標高329mの稲葉山ほど急峻な山には見えなかった。

 信長は、息子である織田信忠に岐阜城と尾張・美濃の二つの国を譲り、自分は、大好きな茶の湯道具だけを持って、部下である佐久間信盛の邸に移り住んだ。そして、比叡山延暦寺の焼き討ちから5年後の天正4年(1576年)、信長は、安土山に城を築城するように、部下の戦国武将である丹羽長秀に命じる。今までの人生の教訓から考えて、安土山は、家臣たちの反対もある程度抑えられ、かつ、信長の理想である山岳寺院大山寺にある程度近い形の山城を築くことができる山なのではないかという信長の判断であった。信長は、安土山の中に、自分の居城だけでなく、家臣の邸や寺や職人や商人の邸も建てるという夢も見ていた。

 天正4年(1576年)、とりあえず、自分が住むことができる安土城が出来上がると、信長は、部下である佐久間信盛の邸から安土城に移り住んだ。そして、まず、信長は、安土城の敷地の中に石垣を築き、石垣の中に天主閣を造るように命じた。安土城天主閣の工事は、尾張・美濃・伊勢・三河・越前・若狭・京都・奈良・堺から武士や大工や諸職人を召集し、人足1万人を集めて、安土に詰めさせて行われた。朝も晩もにぎやかに工事は進行していった。

 そして、3年後の天正7年(1579年)、安土城天主閣は完成した。天主閣は、7階建ての唐(中国)様式の建物であり、高さは32mほどあり、非常に目立つ建物だった。そして、天主閣の中にあるそれぞれの部屋は、狩野派の襖絵などで華美に装飾されていた。安土城は、広く奥深い山中にあり、安土城天主閣の周囲には、徳川家康など織田信長の部下の戦国武将や家臣たちの邸があった。そして、安土城の西から北にかけて琵琶湖が広がり、琵琶湖の向こうには、比叡山などの高い山が連なっているのが見えた。琵琶湖と安土城の間は、舟の出入りが多く、賑わっていた。

 安土城天主閣の南西には、総見寺という寺があった。総見寺は、遠景山総見寺と言う名前の臨済宗妙心寺派の寺で、寺の境内には、二王門や三重塔があった。安土城のある山の麓には、その他の信長の家臣たちの住居が甍を連ね、山の麓の南側には、東から西へ、つまり、岐阜から京都につながる街道が通り、人々の往来がにぎやかであった。

 大山の隣の本宮山に城や家臣たちの邸を建てることを夢見て、家臣たちの猛反対にあってから15年以上の月日が流れ、信長は、ようやく、安土城という場所を手に入れて、自分の思い描いた通りの山城を建てることができた。つまり、信長は、自分の思い描いた夢は絶対にあきらめない男なのだ。

 そして、家臣たちの気持ちはともかく、信長が自分の夢を実現した時、信長は45歳となっており、信長の家督は息子である織田信忠に譲った後であった。

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