二十 大寺院の落日

 嘉吉元年(1441年)11月、灰色の石でできた餅つきのボウルのような物を担いで、必死に、大山寺に続いている女坂を登る者がいた。足を1歩踏み出してつま先上がりの石畳の坂を登るのに1分位かかる。その者は、ボウルのような、石製の手洗い鉢を児神社に寄付するため、京都から来た、大西之ヱ門という名の武士であった。

 児神社の宮司は、大西之ヱ門の苦労をねぎらい、こう言った。

 「このような重い物を担いで、女坂を登ってくるのは、かなり、きつい。しかも、隣の立派な大山寺の本堂ではなく、私たちの小さな神社に持ってくるなど、よほど訳がおありでしょう。

 ところで、この石製の手洗い鉢に刻まれた日付がとても気になります。

 「永享十三年三月二十七日」

 はて、永享十三年は、二月十七日に嘉吉元年と改元されたはずですが。

 私どもに話していただけますか?この重い石製の手洗い鉢をこんな山の中まで、しかも、隣の立派な大山寺にではなく、小さな児神社に寄付された理由を。そして、この手洗い鉢に刻まれた「永享十三年三月二十七日」という奇妙な日付の理由も。」

 大西之ヱ門は、児神社宮司のこのような問いに答えるため、まず、自分の自己紹介から入った。

 「私は、兵庫頭(「兵庫」というのは、7世紀に日本に律令国家ができて以来の軍事官職で、朝廷において儀仗・武器の管理や出納、製造などの仕事をする職業のことである。「頭」とは、その仕事上でのリーダーの役職)である上杉清方様にお仕えしている武士の大西之ヱ門と言う者です。」

 大西之ヱ門が意外に礼儀正しい武士だったので、児神社の宮司は、少し驚いた。大西之ヱ門は、児神社宮司に、続けてこう言った。

 「この手洗い鉢は、上杉清方様からの願いで、私が児神社に持ってきた物です。 上杉清方様がお仕えしている兵庫頭という役職の中では、昔から語り継がれていることがたくさんありますが、その中の一つに、この児神社が建てられた由来の話があります。児神社は、大山寺が比叡山僧兵によって焼き討ちされたときに亡くなった二人の稚児を祀っている神社なのですよね?」

 大西之ヱ門が児神社宮司にこのように質問すると、宮司は、「そうです。」と答えた。大西之ヱ門は、続けた。

 「ところで、鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇が建武の新政を始めても、結局、武士の力は抑えきれませんでしたね。南北朝は対立して、60年間、日本は内乱状態でした。

 結局、源氏一族の末裔である足利氏が室町幕府を始めて、南北朝の動乱は終わりました。しかし、農民は年貢の取り立てに怒って、土一揆を起こすし、守護大名と室町幕府の戦乱も続いています。今のこの世の中の雰囲気は、本当に殺伐としています。」

 ここで、児神社の宮司は、「本当に今も昔も何も変わっていませんね。」と言った。大西之ヱ門は、出されたお茶を飲み干して、続けた。

 「守護大名と室町幕府の戦乱で記憶に新しいのは、3年前(1438年、永享10年)に起こった永享の乱ですね。永享の乱は、上杉清方様の兄であり、関東管領であった憲実様と鎌倉公方であった足利持氏様との間の対立が発端のように言われていますが、違います。」

 「足利持氏様と言えば、上杉憲実様と対立し、2年前に、憲実様に攻められて、鎌倉にて自害したという噂を聞いていますが。」

 と、児神社の宮司が口をはさむと、大西之ヱ門は、児神社の宮司に向かって、こう言った。

 「鎌倉公方であった足利持氏様は、第6代室町幕府将軍候補のうちの一人でした。しかし、くじ引きによって、第6代室町幕府将軍は、足利義教様に決定しました。足利義教様が比叡山天台宗の天台座主をやめて、室町幕府の将軍になったことなどから、足利持氏様は、この決定に不満をあらわにし、義教様の将軍職就任祝いに使者を送らなかったり、元号が正長から永享に改元されても、正長の年号を使い続けたりしました。

 足利持氏様の室町幕府に対する不服従の態度を見て、関東管領の上杉憲実様は、足利持氏様に対して、室町幕府将軍足利義教様との融和を図ろうとしましたが、持氏様との溝は深まるばかりでした。最終的に、持氏様は、上杉憲実様を攻める決意を固め、上杉憲実様は、室町幕府に助けを求めました。室町幕府第6代将軍足利義教様は、持氏様を攻めて、鎌倉の寺に幽閉しました。

 上杉憲実様は、室町幕府第6代将軍足利義教様に対して、持氏様の助命を嘆願しましたが、足利義教様は許しませんでした。それどころか、足利義教様は、上杉憲実様に対して、持氏様を追討せよと命令を下しました。上杉憲実様は、やむなく、鎌倉の寺に幽閉されている持氏様を攻め、持氏様は、自害しました。」

 ここまで話すと、大西之ヱ門は、担いで持ってきた石の手洗い鉢の方に向かい、手洗い鉢を手で撫でた。児神社の宮司は何も言わず、その仕草を見ていたが、大西之ヱ門は、児神社の宮司の方へ向き直り、話を続けた。

 「ところで、自害して果てた持氏様には、春王丸、安王丸という名前の、12歳と13歳になる子供がいました。持氏様が亡くなられた翌年の永享12年(1440年)、今度は、持氏様の残党や下総国(千葉県北部)の結城氏朝・持朝父子などが、持氏様の遺児である春王丸、安王丸を担いで、室町幕府に対して、反乱を起こしました。

 室町幕府第6代将軍足利義教様は、私のお仕えしている上杉清方様を幕府方の総大将として、幕府に反乱を起こしている結城父子や関東の諸豪族らを討伐するため、結城城を包囲しました。上杉清方様が結城城を包囲している間、永享13年2月17日、天皇は、暦上の理由から、永享を嘉吉と改元しました。

 そして、嘉吉元年4月16日、上杉清方様を総大将としている幕府方は、結城城に攻め入り、結城氏朝らを討ち、持氏様の遺児である春王丸、安王丸様を捕えました。持氏様の遺児である春王丸、安王丸様は、長尾因幡守様によって京都に護送されました。そして、嘉吉元年5月16日、持氏様の遺児である春王丸、安王丸様は、美濃のお寺で、討たれました。」

 ここで、大西之ヱ門は一息ついた。そして、児神社宮司は再びお茶を出し、大西之ヱ門にこう言った。

 「大西様、持氏様の遺児である春王丸、安王丸様が討たれてから後の、嘉吉元年(1441年)6月24日、室町幕府第6代将軍足利義教様は、結城城の合戦の祝勝会の名目で開かれた席で、将軍様の家臣の赤松満祐様に暗殺されてしまいましたね。その話を聞いた時は、私も驚きました。そして、これから世の中はどうなってしまうのだろうと、少し、不安にもなりました。」

 大西之ヱ門は、宮司に再び出されたお茶を飲み干すと、次のように話し始めた。

 「上杉清方様を幕府方の総大将とし、結城城を攻め、持氏様の遺児である春王丸、安王丸を討つことを指示したのは室町幕府第6代将軍足利義教です。上杉清方様は、亡くなられた足利持氏様とは、親しい間柄でした。ですから、室町幕府第6代将軍足利義教から、結城城を攻め落とし、持氏様の遺児である春王丸、安王丸を捕えて、討つように指示があった時、上杉清方様は、足利義教に反対したのです。結局、足利義教は、持氏様の遺児である春王丸、安王丸様を捕えて討つ役目を、長尾因幡守様に代わりにやらせたようです。

 持氏様の遺児である春王丸、安王丸様が討たれてから、上杉清方様は、すっかり落ち込んでしまって、気を病んでしまわれました。私が仕えた上杉清方様の面影は、今はもうありません。どのような理由があれ、子供を討つことなど、絶対にしてはなりません。第6代室町幕府将軍足利義教が暗殺されたのも、持氏様の遺児である春王丸、安王丸様のたたりである気がしてなりません。

 上杉清方様は、討たれた持氏様の遺児である春王丸、安王丸様の魂を弔うために、「永享十三年三月二十七日」と記銘されたこの石製の手洗い鉢を、尾張の国にある児神社という所に寄付してくるようにと私に命じました。嘉吉元年3月27日は、足利義教が、結城城に攻め入り、持氏様の遺児である春王丸、安王丸様を捕えて討つという指示を、上杉清方様に直接下した日です。上杉清方様が、石の手洗い鉢の記銘を、嘉吉元年ではなく、永享十三年とした理由は、室町幕府に対する不服従の気持ちの現れです。「永享十三年三月二十七日」と記銘されたこの石の手洗い鉢を児神社に寄付することによって、私の主人である上杉清方様の気の病がよくなったら、それが私の本望です。」

 大西之ヱ門が京都に帰って行った後、児神社の宮司は、その手洗い鉢を神社の正面に置いた。そして、児神社の正面からほど近い所に、大山寺の本堂があった。

 室町幕府第6代将軍足利義教は、自分の反対勢力は、容赦なく討つという方針の将軍だった。しかし、室町幕府の将軍が家臣に暗殺されるという事態は、世間の目から見れば、将軍の権威の失墜であった。足利義教以後の室町幕府において、将軍が権威を失墜する代わりに台頭してきたのは、守護大名たちである。

 以後、室町幕府は、守護大名の連合政権の様相を呈した。守護大名たちは、荘園を獲得して、土地の在地領主や人民の支配を強化していった。しかし、守護大名たちの間には紛争が絶えなかった。守護大名たちの紛争を見て、在地領主や人民の中には、一揆をおこして、守護大名から独立しようとする者たちが現れた。このような状況の中で、一揆を起こそうとする在地領主や人民とうまくやっていけた守護大名は戦国大名へと成長し、うまくやっていけなかった守護大名は、在地領主や人民にその地位を奪われて、没落していった。

 「尾張にある天台宗の巨刹大山寺本堂の敷地内に、「永享十三年三月二十七日」と記銘された石製の鉢が置いてある。大山寺は、比叡山延暦寺と同様、室町幕府に対して不服従な寺なのではないか。」

 大西之ヱ門が石の手洗い鉢を児神社に寄付してからまもなく、上杉清方が亡くなった。その頃から、室町幕府の中に、このような噂がささやかれ始めた。室町幕府第6代将軍足利義教は、自分が比叡山天台宗の天台座主であった経歴がありながら、比叡山延暦寺と敵対していたが、足利義教以後においても、比叡山延暦寺は、守護大名たちにとって脅威であった。

 鎌倉時代に、源頼朝の命令で再興した尾張の大山寺が「武器を持たない寺」であることを主張していたことが、室町幕府の守護大名たちにとっては、好都合だった。そして、「武器を持たない寺」を主張している大山寺の僧侶たちの中には、比叡山延暦寺の僧兵たちと同じような行動を取る者が存在していることも、室町幕府の守護大名たちには、お見通しであった。尾張の大山寺を比叡山延暦寺のような幕府の脅威としないためには、大山寺が持っている荘園を奪い取る以外の方法は、守護大名たちには考えられなかった。

 室町幕府の守護大名たちは、大山寺が持っていた荘園を徐々に奪っていった。大山寺が荘園を奪い取られるたびに、大山寺の中に住んでいた商工業者たちは、徐々にいなくなっていった。

 残された大山寺の僧侶たちの中には、室町幕府の守護大名たちに対して、武器を持って戦うべきだと主張する者たちもいた。しかし、寺は武器を持ってはならないという源頼朝の指示で再興した大山寺に誇りを持っていた僧侶たちも多かった。結局、同じ天台宗の寺でありながら、自分たちの寺は、比叡山延暦寺とは違うのだという誇りが、大山寺の僧侶たちを突き動かしていたことだけは確かだった。それに、平安時代末期の大山寺のように、寺を炎上させてはならないということを、大山寺の僧侶たちは学習していた。そして、大山寺の僧侶たちは、室町幕府に対抗することはしない方針を決めた。

 室町幕府の守護大名たちは、多くの者が没落していったことを、大山寺の僧侶たちは、荘園を奪い取られるスピードで感じていた。大山寺の荘園が減っていくスピードは、およそ100年間だった。大山寺の荘園が、室町幕府の守護大名たちによって、徐々に奪い取られる100年の間に、室町幕府の守護大名たちの顔触れは大きく変わり、やがて、戦国大名たちが台頭してきた。

 尾張地方を領した守護大名の斯波氏は、室町幕府の中核的存在であった三管領(室町幕府において将軍に次ぐ最高の役職を担う、斯波氏・細川氏・畠山氏の三家のこと)であった。斯波氏は、京都にて室町幕府の仕事をしなければならなかったので、実際の尾張国の在地領主は、斯波氏の代理として、織田氏が守護代の職を担っていた。

 天文23年(1554年)、守護の斯波義統が守護代であった織田信友に殺害された。すると、織田信友に仕える三奉行の一人織田信秀の子供である織田信長が出てきて、主君を殺した謀反人として、織田信友を殺害してしまう。こうして、織田信長は、尾張国を手中に収めた。この下剋上こそ、織田信長の天下統一の始まりであった。

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