二十一 本能寺の変

 「ところで、信長による比叡山焼き討ちから逃げることができた延暦寺の僧兵たちが、比叡山延暦寺をあきらめることができたと思うか?」

 明治3年(1870年)12月最初の日曜日、入鹿池の底にある、一条院孝三の家の中の囲炉裏で、わかさぎや魚の干物や野菜を焼いている一条院孝三は、話を聞きながら、お猪口で酒をすすったり、つまみを食べている青木平蔵と石川喜兵衛に向かって、こう問いかけた。

 そして、一条院孝三に向かって、青木は、こう答えた。

 「いえ、平安時代末期の仁平2年(1152年)に大山寺に攻めてきて一山まるごと焼き払ったという言い伝えのある比叡山延暦寺の僧兵たちが、延暦寺をあきらめたとは思えません。」

 「そうですよ。それに、比叡山延暦寺は、信長による比叡山焼き討ちから300年近くたった今でも、立派に元あった場所に建っていますし、天台宗もなくなっていません。」

 石川が青木に続いてこう言うと、一条院孝三は、「その通り!」と言った後で、こう話を続けた。

 「しかし、比叡山延暦寺僧兵たちによる大山寺焼き討ちから400年以上の年月を経て、比叡山延暦寺の僧兵たちも学習してきた。比叡山延暦寺の僧兵たちが信長に太刀打ちできる武力を持ち合わせていなかったということと同時に、仁平2年(1152年)に大山寺が比叡山延暦寺の僧兵たちの手によって、一山まるごと焼き払われたという歴史的事実を延々と言い伝えている大山寺の地元の人々に対して、比叡山延暦寺の僧兵たちの間にも少なからず、罪の意識があったのだ。

 比叡山延暦寺の僧兵たちが倒すべき相手は、織田信長だ。織田信長を倒せば、比叡山延暦寺もまた元通りになることができる。しかし、織田信長が比叡山焼き討ちをしたのと同じ方法で信長を倒せば、比叡山延暦寺僧兵たちは、織田信長に報復をした張本人として、歴史にその名を刻みこまれるだろう。ちょうど、大山寺の地元の人々が、仁平2年(1152年)に大山寺が比叡山延暦寺の僧兵たちの手によって、一山まるごと焼き払われたという言い伝えを連綿と言い伝えているように。

 比叡山延暦寺僧兵たちが織田信長を倒す方法は、ただ一つ、比叡山延暦寺僧兵たちの手によって、織田信長が倒れたという証拠を残さないで、織田信長を倒すことだ。」

 天正10年(1582年)6月2日、南蛮寺で、カリオン、ロレンソ、ベルトラメウの3人の宣教師は、使者が情報として持ってくる本能寺の様子に耳を傾けていた。南蛮寺は、本能寺近くに建設された3階建ての教会堂で、イエズス会の日本における活動拠点となっている。使者が持ってくる情報によれば、どうやら、本能寺で謀反がおき、本能寺は火の海になっている、とのことであった。イエズス会の宣教師たちは、織田信長の身に何かが起こったようであると、瞬時に判断した。

 「ところで、信長と共に本能寺にいる弥介は、大丈夫なのか?」

 使者によってもたらされる情報によると、今日の夜明け頃、明智光秀が率いる1万人余りの軍隊が本能寺を包囲し、寺の中では、戦闘が行われている模様で、既に、火の手も上がっている、とのことである。カリオンたちイエズス会宣教師たちの間では、本能寺で信長と光秀はどうなったのか、ということの対しての興味はあった。しかし、そんなことより、カリオンたちは、弥介のことが何よりも心配だった。

 弥介は、ロレンソらイエズス会宣教師たちが日本に連れてきた若い黒人奴隷だ。信長が弥介に初めて会ったのは、天正9年(1581年)2月のことだった。イエズス会宣教師らが本能寺にいる信長のもとに連れてきて、信長に挨拶をさせたのである。その若い黒人奴隷は、年齢は26〜27歳位に見え、全身が牛のように黒く、立派な体格をした健康な若者で、力がとても強かった。人々は、初めて黒人という人間を見て、皆、物珍しさに大騒ぎした。

 信長は、

 「どうせ、体に墨でも塗っているのであろう。私と一緒に風呂に入らぬか?」

 と言い、その黒人奴隷と風呂に入った。

 信長は、黒人奴隷の背中を流し、体を丁寧に洗った。しかし、黒人奴隷の体は、墨が洗い流されるどころか、ますます黒々と光輝くのであった。

 「そうか、お前の体は、本当に黒いのだな。皆、珍しがって、奇異な目で見るのであろう。この信長も、子供の頃は、「うつけ者」と言われ、皆から、周囲とは違う変わり者だと言われて、奇異な目で見られた。お前と私は、どこか共通点があるな。」

 そして、信長は、その黒人奴隷を弥介と名付け、いつも自分の傍に置いて、雑用係として使った。弥介は、信長の側近となったのである。そして、信長は弥介と様々な話をした。弥介のアフリカでの話に信長は驚いて、興味を示したが、弥介が信長から聞いて、興味を持った話は、尾張の国の入鹿村の地下にあるシャンバラと巨大山岳寺院大山寺のことであった。弥介は、いつか、自分に暇がもらえたら、シャンバラと大山寺に行ってみたいといつも考えるようになった。

 ところで、元亀2年(1571年)9月12日に行われた信長による比叡山延暦寺の焼き討ちの後、比叡山のある志賀郡(滋賀県)を与えられ、志賀郡の坂本(現在の滋賀県大津市)に坂本城を建てて、居城としていた明智光秀のもとには、たびたび、近所に住む一部の土豪たちから、「比叡山延暦寺を再興してほしい。」という要望が出されるようになった。そして、どうやら、その土豪たちをバックで操っているのは、正親町天皇であるらしい。光秀は、そのような要望が出たときには、信長のもとを訪れて、判断を仰いでいたのだが、信長は、正親町天皇の要望を無視し続けるように光秀に指示をするだけであった。

 しかし、「比叡山延暦寺を再興してほしい。」という要望は、光秀の下にだけ来ていた訳ではない。信長の有力な部下である豊臣秀吉や徳川家康のもとにも、延暦寺再興の要望は届いていたのだった。そして、信長による比叡山延暦寺焼き討ちから10年後の天正9年(1581年)初夏の日のある一日、光秀と秀吉と家康は、光秀の居城である坂本城に集まって、比叡山延暦寺再興について、議論し合った。

 「しかし、信長公は、私の下に来ている延暦寺再興の件については、無視するようにとの一点張りで、全く話に耳を傾けようとはしないのだ。」

 光秀がこのように言うと、家康はこう言った。

 「じゃあ、できないではないか。光秀殿が言ってだめなことを私たちが信長公に言ったところで、信長公の怒りを買うだけだ。」

 「しかし、私のもとには、光秀殿の比ではないほど、毎日といっていいくらい、延暦寺再興の要望が来ている。最近では、そんな要望書に刺激されて、私も、比叡山焼き討ちは少しやりすぎだったのではないかと思い始めた位なんだ。」

 秀吉がこう言うと、家康は秀吉に向かってこう言った。

 「正親町天皇は、秀吉殿を狙い撃ちしているんじゃないか。この男は落ちるんじゃないかと。」

 「この3人のうち誰か一人が、もう一度信長公に比叡山再興をお願いしてみたらどうだろう。あ、私は、信長公に余り信用されていない上に、今は、鳥取城攻めにかかりっきりだから、だめだよ。」

 秀吉がこう言うと、家康はこう言った。

 「じゃあ、このまま、延暦寺再興の話は無視し続けるしか、ないんじゃないかな。また、次の機会を待つということで。」

 家康は、こう言うと、光秀は、こう言った。

 「しかし、東国に住んでいる家康殿には感じないかもしれないが、大阪や近江など近畿に住む私や秀吉殿には、日に日に延暦寺再興の声が増していることを肌で感じることができるんだ。

 まあ、いい。今度、信長公に会いに安土城に行ったときに、もう一度、信長公に延暦寺再興の相談をしてみるか。信長公にはもう少し、地元住民にも目を向けてください、と言う感じで。結果は大体わかっているから、怖いけど。」

 「さすが、光秀殿、逃げない所が光秀殿の偉い所だ。」

 秀吉は、このように言う光秀をほめたたえた。そして、信長に延暦寺再興の地元住民の声を届ける役は明智光秀がするということで、その場は決着した。

 明智光秀が重い腰を上げたのは、そのことがあってから半年後の天正9年(1581年)12月のことである。信長のいる安土城では、歳末になると、近畿地方の大小様々な大名が、贈り物を持って、信長の元を訪れることがしきたりとなっていた。光秀や秀吉もお歳暮を持って、信長の元を訪れた。今年のお歳暮のうち、特に豪華なお歳暮を信長に贈ったのは、秀吉だった。秀吉は着物200枚を信長に送り、その他にも信長の女房衆全員に着物を贈呈した。

 「これで、信長公の機嫌も少しはよくなるであろう。あとは、頼むぞ。光秀殿。」

 秀吉は、光秀の耳元でこのように言って、安土城を去って行った。そして、光秀もお歳暮を持って、安土城内の信長のいる部屋に入って行った。

 「これは、光秀殿、いつもお世話になっておる。」

 信長は、安土城天主閣の最上階7階にある部屋にいた。その部屋は、約6m四方ほどの広さの部屋で、座敷の内側も外側も全て金色に塗られていた。そして、柱には、登り竜や下り竜の彫刻が施され、天井には天人が舞い降りる絵が描かれ、壁には、古代中国の伝説上の皇帝や賢人の絵が描かれていた。部屋の中にある金具も有名な金工が手掛けたものであることを光秀は知っていた。そして、信長の横に、信長が「弥介」と名付けた黒人が座っているのを見た光秀は、信長の次に弥介にも目であいさつをした。

 季節のあいさつを終えて、持ってきた鴨肉を信長に献上した光秀は、いよいよ本題に入った。

 「ところで、地元の領主である私の所のみならず、秀吉殿や家康殿の所にも正親町天皇を始めとする人々からの多くの要望が届いていると聞いています。それらの要望の中身について、信長公はご存知ですか?」

 明智光秀が信長にこう聞くと、信長は、横を向いて、不機嫌そうにこう答えた。

 「どうせ、比叡山延暦寺再興の話であろう?」

 「そうです。やっぱり信長公もわかっていらっしゃる。あれから10年もたちましたね。月日の流れるのは早いものだ。」

 「おい、光秀。」

 「はっ。」

   信長は、すっくと立ち上がり、土下座をしている光秀の下につかつかと歩み寄った。

 「いいか、比叡山延暦寺は、尾張の大山寺を焼き討ちして以来、400年以上もの間、人々の脅威であり続けているのに、全く何の反省もせず、同じようなことばかり繰り返している。そして、内戦状態のこの国の治安をさらに悪化させることに加担をしていた。

 私は、この国を平和で、争いごとのない、誰もが安心して商売ができるような豊かな国にするためにがんばってきた。そして、そのためには、悪いことをした者には罰を与えるという秩序が必要なのだ。

 今はまだ、延暦寺を許す時ではない。延暦寺にはもう少し罰を与え続けるべきなのだ。そうでなければ、延暦寺は、また、400年前の延暦寺に戻ってしまう。延暦寺を再興して、再び400年前の延暦寺に戻してしまったら、比叡山を焼き討ちした意味がない。

 私は、自分の命をかけて、比叡山延暦寺を焼き討ちにした。もし、その延暦寺の再興ができるとしたら、それは、私が死んだ後のことだ。光秀、わかったか?次、私に延暦寺再興を訴えるときは、私を殺してからにしろ。」

 そう言って、信長は、すごい剣幕で怒り、土下座をしている明智光秀を二度三度足蹴にした。光秀は、ただ、黙って、土下座をしながら、信長に蹴られ続けていた。

 そして、その光景を間近で見ていた弥介は、驚いた。弥介は、「なぜか、信長は、ものすごく怒っている。」と思いながら、何もできずに、その光景を眺めていた。

 そのことがあってから1ヶ月後、新年のあいさつのために、再び、安土城に集まった光秀・秀吉・家康の3人は、安土城内の1つの部屋で、3人だけで、こそこそと話合いをしていた。そして、明智光秀が昨年の年末に、比叡山再興を信長に持ちかけたときに、信長から返ってきた言葉や態度を報告すると、家康はこう言った。

 「やっぱり、今はまだ、比叡山延暦寺を再興する時ではない。しかし、今の光秀殿の話では、全く、比叡山再興ができないという訳ではない。ただ、今は、その時ではない、ということだ。」

 すると、秀吉はこう言った。

 「信長公が自分の死を口にするなんて、今までではありえない話だった。信長公もそろそろ、どこか具合の悪い所でも出てきたのかな?」

 すると、光秀はこう言った。

 「これは、私の思いすごしかもしれないが、信長公は、自分が死ななければ時代が先に進まないと思っているのかな?延暦寺は、今、再興したら、400年前の姿に戻ってしまうのだろうか?」

 すると、秀吉がこう言った。

 「そうだな。比叡山延暦寺には、もし、今後、400年前と同じようなことを起こしたら、再び、信長公がしたような焼き討ちに遭うという意識を持ってもらわなければならないだろうな。そのためには、信長公が生きているうちには、延暦寺再興はできないかもな。

 そして、信長公の死後、再興した延暦寺が400年前と同じようなことを起こしたら、再び、信長公がしたような焼き討ちをしなければならないのは、私たちだな。」

 「その通りだな。」

 そして、3人とも、秀吉のこの意見には、深くうなずいてしまうのだった。

 「わかった。しかし、信長公は今47歳、私は今54歳だ。私は、比叡山再興には立ち会えないかもしれないな。だから、比叡山再興の件は、秀吉殿にお願いできるか?」

 明智光秀がこう言うと、38歳になる家康も44歳になる秀吉も

 「その時はよろしく頼む。」

 と言った。そして、3人は、安土城を出て、それぞれの仕事の場に帰って行った。

 そして、明智光秀がいる坂本城に比叡山延暦寺再興を願い出る者は、日に日に数を増していった。その現象は、光秀のもとにだけではなく、信長の有力な部下である秀吉や家康のもとにも現れていた。正親町天皇とゆかりの深い延暦寺は、「将を射んとすれば、まず、馬を射よ。」というやり方で、比叡山延暦寺再興を目指したのだった。光秀の部下たちの間では、「そろそろ、延暦寺の再興を許してやってはどうか。」という意見が日に日に多数派を占めていった。

 そして、部下たちが光秀に比叡山延暦寺再興の話を持ち出してくるたびに、光秀は、部下たちに、信長公が生きているうちには延暦寺再興はない、と説明した。すると、部下たちの間では、このような噂が広まって行った。

 「信長公が死んだ後には、比叡山延暦寺再興がありうる。」

 天正10年(1582年)5月、岡山県西部に出陣した羽柴秀吉は、毛利輝元ら広島県西部を仕切っている武将たちが率いる軍勢と対峙していた。信長は、秀吉からもたらされる情勢を聞いて、信長自らが出陣して、中国地方の武将を倒し、一気に九州まで平定するという計画を立て、明智光秀らに出陣を命じた。信長が中国地方に出陣するとなれば、東国が手薄になるのだが、東国は、徳川家康が何とか丸く治めているのを見た信長は、中国地方出陣を決断したのだった。そして、その頃、徳川家康と東国の土地の領主となった穴山梅雪は、お互いの親交を深めるために、京都への接待旅行に出発していた。

 天正10年(1582年)5月26日、明智光秀は、中国地方に出陣するため、1万の軍勢を率いて、滋賀県大津市にある坂本城を出発し、京都府亀岡市にある亀山城に到着した。そして、亀山城に待機していた3日間の間に、明智光秀は、恐ろしいことに気が付いた。というより、今まで、なぜ、このことに気が付かなかったのだろうと、明智光秀は、自分の武将としての無能さに愕然としてしまった。

 亀山城に集まった1万の軍勢は、見かけ上、全員、桔梗の家紋の旗を掲げた明智軍の兵士たちだ。しかし、その兵士たちが休んでいるときに話している話の内容が耳に入ってくると、兵士の半分以上は、10年前に信長の下で光秀が武功を上げた焼き討ちを行った比叡山延暦寺の僧兵たちであった。一体、いつの間に、こんなに、比叡山延暦寺僧兵たちが明智軍に集まっていたのだろうか。そして、光秀の部下である武将たちの何人かは、天台宗の信者となっていた。そして、明智軍の中には、独特な雰囲気が存在していた。

 「信長が死ねば、比叡山延暦寺は再興することができる。」

 一方、天正10年(1582年)5月29日、安土城に中国地方出陣のための軍隊を待機させた織田信長は、弥介ら30人位の側近だけを連れて、京都の本能寺に向かった。中国地方・九州地方平定前夜、自分の気を落ち着かせ、冷静な判断が行えるように自分の体調を持っていくためである。そのため、本能寺は、いつもより静かに信長一行を迎えていた。

 天正10年(1582年)6月1日夜、亀山城で、明智光秀の部下である武将たちが、明智光秀に詰め寄り、こう話した。

 「使者からの情報によれば、今、信長公は、側近30人だけを連れて、本能寺にいるそうです。今がチャンスです。信長公を本能寺で討ち、比叡山延暦寺を再興させるのです。私は、この計画に命をかけている。もし、光秀殿が反対するのなら、私はこの場であなたを討ち、明智軍を連れて、本能寺に向かいます。」

 もはや、明智光秀は、明智軍を率いる武将ではなかった。明智軍を率いているのは、比叡山延暦寺再興を望む延暦寺僧兵たちであった。そして、明智光秀は、部下たちの言うことを聞かなければ、自分が抹殺されてしまうという状況にあった。

 明智光秀が明智軍を率いているのではなくて、明智軍が明智光秀を率いている。もともと、明智光秀と明智軍はそういう関係だったのだ。そして、明智軍の方は、明智光秀の知らない間に、いつの間にか、こういう状態になってしまっていたのだった。

 そして、比叡山延暦寺僧兵たちは、明智軍を示す桔梗の家紋の旗を持ち、明智光秀を先頭にして、後ろから進むべき道を指示した。明智軍は、亀山城を出て、京都府亀岡市と京都市西京区の間にある老いの山に登り、京都市方面に向かって山を下って行った。そして、桂川を越え、明智軍が本能寺に到着したのは、天正10年(1582年)6月2日の朝であった。

 1万の明智軍は、本能寺を取り囲み、四方から本能寺へ乱入した。

 最初は、「本能寺の外で何か喧嘩でも始まったか?」と気に留めていなかった信長とその側近たちは、鬨の声を上げ、鉄砲を本能寺に打ち込んでくる明智軍の音を耳にして、

 「これは何だ、謀反でも始まったか?誰の仕業か?」

 と周囲の者たちに問いただした。その時、信長の側近の一人である森蘭丸が、

 「本能寺の周囲は、明智光秀殿の桔梗の家紋を掲げた多数の軍隊に包囲されているようです。」

 と信長に報告してきた。

 その時、信長は、察知した。天正9年(1581年)12月に行われた歳末の挨拶の時、安土城天主閣最上階で、信長は、延暦寺再興の要望が出ていると報告してきた光秀に対して、

 「私は、自分の命をかけて、比叡山延暦寺を焼き討ちにした。もし、その延暦寺の再興ができるとしたら、それは、私が死んだ後のことだ。光秀、わかったか?次、私に延暦寺再興を訴えるときは、私を殺してからにしろ。」

 と言って、二度三度、光秀を足蹴にしたことを思い出した。

 信長のナンバー2とも言える有力武将である明智光秀は、持ちこたえられなかったのだ、という思いが、信長の心の中に渦巻いた。そして、今、本能寺を攻めてきている明智軍は、見かけ上は、明智光秀が率いているように見えても、明智軍の本質は、明智光秀が率いている、延暦寺再興を求める比叡山延暦寺僧兵たちであるのだ。そして、信長がそのようなことを考えている間に、明智軍は、本能寺に火を放ち、信長のもとにじりじりと近付いてくるのがわかった。

 「やむをえぬ。」

 信長は、一言そう言うと、弓矢を手に取った。そして、弥介を呼び、弥介の耳元で、弥介に何か指示を出した。

 そして、弥介は、信長のもとから走り出した。弥介が部屋から出ていくのを確かめた信長は、攻めてくる明智軍に対して、弓矢を構え、応戦した。しかし、1万の明智軍は、次々と攻め込んできて、信長の弓矢だけでは、歯が立たず、火の手の勢いも迫ってくる。弓矢の弦が切れ、槍に持ちかえて応戦していた信長は、とうとう負傷してしまった。そして、信長は、傍らにいた女房衆にこの場を脱出するように指示し、自分は、更に奥の部屋に入って、襖を締めた。

 信長は、自害して果てた。そして、明智軍が放った火の手は、信長の遺体を包み込んだ。

 一方、その頃、弥介は、本能寺の裏口あたりで、一人の武将とばったり会っていた。明智光秀であった。明智光秀は、弥介を見ると、

 「お前が持っているその刀を私に渡してくれれば、何もしない。」

 と言った。弥介が光秀に刀を差し出すと、光秀は、周囲にいた明智軍にこう言った。

 「この者は、信長とは何の関係もないイエズス会の者だ。逃がしてやれ。」

 武器を取り上げられた弥介は、本能寺を出て、東の方面に向かって、走り出した。

 本能寺を攻略した明智光秀の軍隊は、信長の遺体を見つけることができなかった。信長の残党狩りをすることに決めた明智軍は、二条城を取り囲み、信長の残党探しに邁進した。二条城にいた信長の息子の信忠は、本能寺が明智軍の手に落ちたことを知ると、自害して果てた。

 それ以後の明智光秀は、近畿地方一帯に住む有力大名や朝廷の支持を得ようと動くが、本能寺の変を起こした明智軍に対する周囲の評価は冷たいものだった。明智軍に潜む比叡山延暦寺僧兵たちは、本能寺の変を起こした明智光秀が周囲からよく思われていないことを悟ると、明智光秀の元を離れる機会を待った。

 その頃、接待旅行で京都に来ていた徳川家康と東国の土地の領主となった穴山梅雪は、本能寺の変勃発の情報を聞き、東国へ引き返していた。家康一行は、急いで京都府の東部まで逃げてきた。すると、農夫の恰好をした10人位の男たちが突然出てきて、家康一行を取り囲んだ。

 農夫の恰好をした男たちの一人は、穴山梅雪を刀で切り倒すと、徳川家康を後ろから羽交い絞めにし、のど元に刀を当てた。その時、徳川家康は、刀をのど元に向けて家康を羽交い絞めにしている男の耳元で囁いた。

 「私は、比叡山延暦寺再興には賛成でも反対でもないが、今から賛成の立場に回ってもよいぞ。私が死ねば、比叡山延暦寺が再興されるかどうかわからんぞ。」

 農夫の恰好をした男たちは、徳川家康ののど元に向けた刀を鞘に納めると、その場を離れていった。徳川家康は、その場を逃げ出し、伊賀の忍者の助けを借りて、三重県から愛知県に舟で向かい、岡崎城にたどり着いた。

 「比叡山延暦寺僧兵たちは、とんでもない者たちだ。私は、今後一切、あの者たちには関与しない。」

 そして、徳川家康にとって、比叡山延暦寺僧兵たちは、脅威となった。

 本能寺の変が起こってから10日後、本能寺の変が勃発したことを知った羽柴秀吉は、戦っていた毛利輝元ら広島県西部を仕切っている武将たちと和議を結び、2万の兵を率いて、戦地であった岡山県西部から京都に引き返してきた。そして、秀吉率いる2万の軍隊は、京都府西部にて、明智軍と激突した。

 この時、明智軍に潜む比叡山延暦寺僧兵たちは、明智軍から次々と逃げ出していった。本能寺の変勃発直後には1万人ほどいた明智軍は、秀吉軍と対峙した時、明智光秀の周囲700名ほどの軍隊しか残らなかった。明智光秀は、秀吉軍を目の前にして、戦線を離脱していった。

 その様子を目撃していた秀吉は、本能寺の変が勃発したという知らせが入ったときに、「もしかしたら。」と思ったことが現実になったなと思った。秀吉は、明智光秀が哀れに思えてならなかった。秀吉は、戦線を離脱していく明智光秀の後ろ姿を眺めながら、思った。

 「比叡山延暦寺僧兵たちのターゲットは、私ではなく、光秀殿だった。光秀殿は、比叡山延暦寺焼き討ちの時、中心的な役割を果たしていたからな。

 比叡山延暦寺は再興される。もしかしたら、比叡山延暦寺を再興させる役割は私が担ったのかもしれない。光秀殿とはもう2度と会うこともないだろう。せめて、元気に生き延びてほしいのだが。」

 明智光秀は、京都府西部に陣取っていた勝竜寺城から逃げ出し、滋賀県大津市にある自分の居城である坂本城を目指していた。明智光秀は、滋賀県境に近い京都府東部にある藪の中にひっそりと隠れて、逃亡の疲れを癒していた。すると、農夫の恰好をした男たち2〜3人が突然、光秀の前に現れた。その男たちは、突然光秀を刀で刺し、首を討ち落した。

 光秀は、逃亡する自分たちの後ろを農夫の恰好をした比叡山延暦寺僧兵たちがつけていることを知らなかった。彼らは、皆、元亀2年(1571年)の信長による比叡山延暦寺焼き討ちの際、自分たちの家族を光秀に捕えられ、信長の前に差し出されて、首を切り落とされた経験のある者たちであった。そして、自分の妻子のかたきを取った男たちは、安土城に向かい、安土城に火を放った。安土城にあった豪華絢爛な襖絵も、残された宝物も全て灰と化した。

 しかし、織田信長が目指した天下統一は、人々に広く支持されていた。皆、戦国時代のような内戦状態から早く脱して、殺し合いのない平和な世の中で、安心して家族と生活し、商売をしてお金を儲けたかったのだ。従って、織田信長が本能寺の変で自害して果て、信長のナンバー2であった明智光秀が殺害されても、天下統一の志は、誰かが引き継いで、完成させていくということが、民意だった。

 本能寺の変後の天正10年(1582年)6月27日、清須城にて、織田家の相続問題の協議が行われた。これを世間では、「清須会議」と呼んだ。この清須会議は、信長と光秀亡き後の日本の天下統一政策が誰の手に委ねられるのかを世間の人々に知らしめることとなった。

 もし、本能寺の変が勃発していなかったら、織田家の相続問題について、織田信長と明智光秀の次に発言力を持つ武将は、柴田勝家だっただろう。しかし、清須会議で、織田家の相続問題について、発言力を持った人物は、明智光秀率いる明智軍を壊滅状態に追い込んだ羽柴秀吉だった。清須会議において、織田家の相続問題は、羽柴秀吉の指示通りに解決していった。

 清須会議において、最ももめた事柄は、信長の後継者を誰にするかということだった。柴田勝家は、信長の後継者として、信長の三男である織田信孝を推し、羽柴秀吉は、信長の息子で、二条城で自害して果てた信忠の子供の三法師を信長の後継者に推した。結局、信長の後継者は、秀吉が推した三法師に決まった。

 しかし、この決定に不満を持ったのが、柴田勝家であった。天正11年(1583年)4月、羽柴秀吉と柴田勝家の両軍は、滋賀県長浜市の賤ヶ岳付近で激突した。この賤ヶ岳の戦いは、織田勢力を二分する戦いであったが、結局は、羽柴秀吉が勝利し、柴田勝家と信長の三男織田信孝は、自害した。

 信長の二男織田信雄は、賤ヶ岳の戦いで、秀吉方についた。しかし、信雄は、三男織田信孝の自害を見るに及んで、秀吉に嫌気がさした。秀吉は、そんな信雄の心を察知し、何とか、信雄と和睦を計ろうとしたが、信雄の心は、ますます、秀吉から離れていく。秀吉は、信雄のもとで働く3人の家老を味方につけ、信雄を自分の傘下に組み込むという策略に出た。

 しかし、信雄は、秀吉が懐柔した3人の家老たちを処刑してしまう。一度離れた信雄の心は、二度と、秀吉の元には戻らないのだった。そして、秀吉は、信雄に対して出兵することを決意する。そのような状況の中で、信雄が助けを求めたのが、徳川家康だった。

 天正12年(1584年)3月、徳川家康は、1万5千余りの軍隊を率いて、清須城に到着した。すると、織田信雄方だと思われていた武将池田恒興が、裏切って秀吉方につき、秀吉の求めに応じて犬山城を攻めて占拠した。それを見た家康は、犬山城の南方9kmほどの場所にあり、織田信長が岐阜城に移り住んで以降廃城となっていた小牧山城に入った。その後、家康は、秀吉との戦いに備え、小牧山城を整備していく。そして、羽柴秀吉が3万余りの軍隊を率いて、犬山城に入った。

 こうして、犬山城にいる秀吉と小牧山城にいる家康は、お互い向かいあい、小牧・長久手の戦いの火ぶたが切って落とされた。秀吉にとっても、家康にとっても、お互い戦うのは、人生初めてのことで、これが人生最後の戦いだった。なぜなら、秀吉と家康の実力は同じであり、戦うこと自体がお互い無意味なことだったからだ。つまり、この戦いは、動いた方が負けるという持久戦になることは明白であった。ただ、家康は、秀吉が余り織田家の者に信頼されていないことが気にかかっていた。

 家康は、今から22年前、自分がまだ19歳の時、織田信長のいる清須城に出向き、信長との間で、周囲の者たちが「清須同盟」と呼ぶ軍事同盟を結んだ。それ以来、織田家が危機状態にあるときは、徳川家が織田家を助けに行き、徳川家に危機状態が到来したときには、織田家が徳川家を助けるという軍事同盟がずっと有効なまま機能していた。徳川家康は、本能寺の変で織田信長を助けられなかったことを悔いていて、せめて、織田信雄の件に対しては、清須同盟の趣旨にのっとって、織田家を助けようと思っていたから、小牧・長久手の戦いに出向いたのだ。

 小牧山城にきた徳川家康は、まず、部下に、犬山城にいる羽柴秀吉の動向を探り、その行動を常に家康に報告するように命じた。小牧・長久手の戦いは、情報戦であることを家康も秀吉もわかっていた。

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