二十一 法灯を継ぐ者

 「ついこの間、尾張の国主になった織田信長という男が、清須から小牧山に城を引っ越したそうだ。小牧山と言えば、ここから西に歩いて2時間ちょっとだぞ。おい、織田信長がどんな奴かお前、知っているか?」

 永禄6年(1563年)に織田信長が小牧山に城を築いた時、大山寺の僧侶たちの間では、織田信長の動向について意見交換をする毎日が続いていた。

 「鎌倉幕府の援助によって再興された大山寺であるが、室町幕府第6代将軍足利義教が比叡山延暦寺と敵対し、上杉清方が「永享十三年三月二十七日」と記銘した石の手洗い鉢を児神社に寄付して以来、室町幕府からの大山寺に対する援助は日に日に減らされた。大山寺の土地は、この120年余の間に、随分少なくなってしまった。

 しかし、私たちの寺は、平安時代末期に比叡山延暦寺の僧兵の焼き討ちに遭って炎上して以来、「武器を持たない寺」ということで鎌倉時代に再興し、今に至っている。私は、大山寺が、同じ天台宗の寺であっても、比叡山延暦寺とは違う「武器を持たない寺」であることに誇りを持っているし、大山寺が「武器を持たない寺」であったから、つぶされずに、残ったのだと確信している。皆もそう思うだろう?」

 大山寺の高僧である成安がこのように言うと、他の大山寺の僧侶たちも「その通りだ。」と相槌を打つのであった。

 「ところで、尾張国主となって、今度、小牧山に城を移してきた織田信長についてなんだが、織田信長は、敵対する相手を、次々と、武力で倒して、尾張国主になった人間だと聞いている。室町幕府は、比叡山延暦寺を脅威とみなし、大山寺のことも、同じ天台宗の寺だということで、冷遇していたが、織田信長はどうなのだろう?この大山寺は、寺の歴史を地元の人が言い伝えるほど、この近辺では、少しは名の知れた寺なのだが、織田信長は、我々のことに興味があるのだろうか?」

 成安がこう聞くと、成安の弟子の僧侶であり、大山寺の中では、情報通の如庵がこう答えた。

 「普段、親しくしている大久佐八幡宮の宮司からの情報によれば、織田信長は、意外にも、室町幕府の方針は踏襲しているようです。一例をあげますと、織田信長は、比叡山延暦寺のことは、決してよく思っていない。しかし、天皇などの朝廷勢力に対しては、近づいて、協力しようと思っているようです。

 ですから、この大山寺も、比叡山延暦寺とは、あまり、表だって付き合わない方がいいと思います。このままでは、この大山寺の山の中にある建物は、児神社だけになってしまう。児神社は朝廷が建てた神社ですので、織田信長に敵対視されることはないかと思いますが。」

 成安は、如庵のこの話を聞いて、困ってしまった。

 「そうはいっても、大山寺が天台宗の寺である限り、比叡山延暦寺と付き合わないわけにはいかないし。比叡山延暦寺にいる天台宗の高僧が、最近京都でも話題となっている、尾張国主となった織田信長の動向を探るために、お忍びで、この大山寺を訪れている。どうしたらいいのか。今は、大山寺は「武器を持たない寺」という方針を前面に打ち出していくしかない。」

 大山寺の中に庵を建てて住んでいる秋岩恵江という名の僧侶は、大山寺の高僧たちのこの話し合いを黙って聞いているしかなかった。

 秋岩恵江は、最近、大山寺に来た僧侶だ。秋岩恵江は、できるだけ大山寺本堂に近い所に庵を建てたかったのだが、本堂の近くの場所は、すでに、他の僧侶たちが庵を建てていて、スペースがなかった。従って、秋岩恵江は、仕方なく、大山寺本堂から山を下ったふもとに庵を構えた。秋岩恵江は、この庵を「洞雲坊」と呼んだ。大山寺の中で僧侶たちの話し合いがあった時は、いつも、洞雲坊から山を登って、本堂まで行かなければならなかったので、秋岩恵江にとっては、そのことが悩みであったが、体力はついた。

 高僧の成安たちやふもとに洞雲坊を建てた秋岩恵江が大山寺の中で修業をしている間、小牧山に城を構えた織田信長は、永禄7年(1564年)、小牧山城から北に歩いて3時間ちょっとの所にある犬山城を攻め落とした。犬山城主の織田信清が織田信長に反抗したため、信長に攻め落とされた犬山城は、大山寺本堂から西北方面に歩いて2時間ちょっとの所にあった。そして、大山寺本堂から西に歩いて2時間ちょっとの小牧山城で、織田信長は、部下からの情報に耳を傾けていた。

 「ほう、やはり、大山寺の本堂の敷地内に「永享十三年三月二十七日」と記銘した石の手洗い鉢があったか。亡くなられた尾張守護の斯波様が言っていた通りだな。ところで、その手洗い鉢について、何か情報はあるか?」

 信長が聞くと、信長の部下はこう答えた。

 「永享十三年三月二十七日と記銘された石の手洗い鉢は、大山寺本堂の隣にある児神社に寄付された手洗い鉢であることを児神社の宮司から聞きました。児神社の宮司によれば、120年位前に、大西之ヱ門と名乗る者が、児神社に寄付していったものだそうです。」

 「それで、児神社の宮司は、石の手洗い鉢に記銘された永享十三年三月二十七日という日付に関しては、何か言っていたか?」

 信長の質問に部下は答えた。

 「そのことについては、よくわからないそうです。」

 「そうか。ところで、大山寺の今の様子はどうであったか?」

 すると、部下は信長にこう答えた。

 「大山寺は、本堂とその周りにある坊に住んでいる僧侶たちによって運営されていますが、僧侶たちの数は、年々減っているようです。大山寺のトップは、成安という名前の僧侶ですが、大山寺は、「武器を持たない寺」ということで、比叡山延暦寺とは一線を画している天台宗の寺だということです。」

 部下の報告を聞いて、信長は答えた。

 「そうか。しかし、亡くなられた尾張守護の斯波様は、比叡山延暦寺と同様、大山寺を脅威とみなしていたぞ。しばらくは、大山寺に時々、隠密を紛れ込ませるぞ。御苦労であった。」

 永禄10年(1567年)、織田信長は、小牧山城から引っ越し、占拠した稲葉山城を岐阜城に改名して、居城とした。そして、織田信長は、岐阜城にて、「天下布武」の朱印を用いて、本格的に、全国統一を目指すようになる。稲葉山城のある場所の地名を「岐阜」と改め、「天下布武」の朱印を使い、全国を統一するよう信長に進言したのは、臨済宗妙心寺派の僧侶である沢彦宗恩であった。そして、稲葉山城を占拠した「稲葉山城の戦い」で功績をあげた信長の部下に豊臣秀吉がいた。

 戦国時代、朝廷の財政は逼迫し、天皇は、即位の礼もあげられないほど、困窮していた。永禄11年(1568年)、織田信長は、室町幕府最後の将軍である足利義昭を奉じて京都を制圧した。織田信長は、困窮していた朝廷を立て直し、援助したので、信長の上洛は、正親町天皇にとっては、救いであった。

 織田信長が小牧山城から岐阜城に移った頃から、大山寺の高僧成安は、織田信長が比叡山延暦寺に近づいていった印象を受けていた。そして、織田信長が京都に上洛し、正親町天皇を味方につけたとき、大山寺の高僧成安は、比叡山延暦寺がいずれ織田信長と戦う日が来ることを直感した。大山寺の高僧成安は、天台宗の法灯を守るのか、大山寺の法灯を守るのかの岐路に立たされていた。

 大山寺は、比叡山延暦寺とは一線を画し、武器を持たない寺であることを強調して、今まで生き延びてきた。しかし、比叡山延暦寺からは、覚恕を始めとする天台宗の高僧が、ひっきりなしに大山寺を訪れてきた。大山寺が天台宗の寺である以上、天台宗の高僧の訪問は、大山寺にとっては避けられないことであった。信長の隠密の目を避けながら、大山寺と比叡山延暦寺の僧侶の間で、織田信長対策が何度も話し合われた。

 比叡山延暦寺は、織田信長の京都上洛の一報を聞いて、戦々恐々としていた。大山寺の高僧成安は、今までの話し合いの結果として、天台宗の高僧覚恕にこう進言した。

 「比叡山延暦寺は、織田信長と戦っても勝ち目はありません。織田信長が比叡山延暦寺に宣戦布告してきたときには、天台宗の座主は、天台宗の法灯を守るために、逃げてください。

 児神社の宮司の話によると、永享十三年三月二十七日と記銘された石の手洗い鉢を寄付した大西之ヱ門は、主人である上杉清方の指示で、手洗い鉢を児神社に寄付した武士です。そして、上杉氏の隣の甲斐の国に武田信玄という戦国武将がいます。とても信心深い武将ですので、きっと、織田信長に追われている天台宗の僧侶を匿ってくれると思います。」

 そして、大山寺の高僧成安は、織田信長に攻められたときの比叡山延暦寺の天台座主や高僧たちの逃げるルートを確保し、甲斐の国の武田信玄と連絡を取り合った。一方で、成安は、大山寺本堂のある山から下りたふもとにある秋岩恵江の庵「洞雲坊」に行き、秋岩恵江にこう話した。

 「今後、織田信長が比叡山延暦寺を攻めたとき、京都から逃げてきた天台座主や天台宗の高僧たちは、一旦、大草にある大久佐八幡宮に身を寄せてもらう。そして、大久佐八幡宮で、私と大山寺の僧侶たちと合流して、甲斐の国(現在の山梨県)の武田信玄という名の武将の所に行く。

 大山寺の僧侶は、皆、甲斐の国(現在の山梨県)に行ってしまうが、私は、大山寺の法灯を消すつもりはない。大山寺の法灯は、秋岩恵江、君が守ってくれ。

 織田信長の隠密は、大山寺の僧侶たちは、皆、大山寺本堂の周りの坊に住んでいると思っている。だから、まさか、山のふもとのこの庵「洞雲坊」が大山寺の法灯を守っているとは思うまい。

 それから、大山寺の法灯を守るために、秋岩恵江の洞雲坊は、臨済宗妙心寺派の寺となるよう、私が手はずを整えておいた。近々、京都にある臨済宗妙心寺派から、僧侶たちが洞雲坊を訪れるから、彼らの言うとおりにしてくれ。織田信長の参謀の一人には、臨済宗妙心寺派の僧侶がいるという話だ。洞雲坊が臨済宗妙心寺派の寺であれば、織田信長も何も言ってはこないだろう。

 秋岩恵江、君一人で大山寺の法灯を守るのは、さみしいだろうが、この方法以外に、織田信長から大山寺の法灯を守る方法は見当たらないのだ。どうか、よろしく頼む。」

 大山寺の高僧成安が秋岩恵江に頭を下げると、秋岩恵江はこう言った。

 「わかりました。私は、天台宗ではなくて、この大山寺に感謝しています。なぜなら、体を動かす事が嫌いな私に体力をつけてくれたのは、大山寺だからです。私は、この洞雲坊にしか住めなかったために、僧侶の会合に出席するために、毎日、山登りをしなければなりませんでした。そして、毎日山登りをしているうちに、いつのまにか、丈夫な体ができあがっていたのです。

 明日から、大山寺本堂にある大事なものを少しずつ、山から洞雲坊に運ぶことにします。洞雲坊が、大山寺の法灯を守り、寺として末永く続いて行くことができるように、がんばります。」

 そして、秋岩恵江が大山寺本堂の宝物を洞雲坊に運び終えた頃、京都の臨済宗妙心寺派から、僧侶たちが洞雲坊にやってきた。臨済宗妙心寺派の僧侶たちは、秋岩恵江にこう言った。

 「大山寺本堂の宝物の運びこみ、ご苦労様でした。

 さて、この庵「洞雲坊」の隣には、まもなく、私どもが新しい寺を建設することになります。新しい寺が建設されたら、洞雲坊にある大山寺本堂の宝物は、新しい寺に移してください。この洞雲坊は、そのまま、秋岩恵江住職が生活する部屋としたらいいでしょう。

 ところで、新しくここにできる寺が大山寺の法灯を守っていくために建てる寺であることは、私たちも承知しています。ですから、ここにできる新しい寺は、昔、山の上にあった大山峰正福寺を再興するために、京都の花園にある臨済宗妙心寺を開いた恵玄禅師法孫十洲宗哲大禅師を第一世とし、秋岩恵江和尚を第二世とする寺としましょう。寺の山号は、洞雲坊から取って、洞雲山とし、寺の名前は、秋岩恵江和尚から二字を取って、江岩寺としたらどうでしょう。これから、妙心寺に頼んで、「洞雲山江岩寺」の石標を彫ってもらいますが、それで、よろしいですか?」

 秋岩恵江は、黙って、うなずいた。京都から来た臨済宗妙心寺派の僧侶たちは、胸をなでおろし、続けてこう言った。

 「ところで、洞雲山江岩寺は、臨済宗妙心寺派の寺ですので、これから、この寺には、檀家さんを持ってもらいます。今まで、大山峰正福寺は、権力者からもらう荘園を維持することによって、寺の経営を賄っていました。しかし、洞雲山江岩寺は、地元の人々などの一般民衆の葬祭関係を請け負うことによって、一般民衆からお布施を戴くことで、寺の経営を維持していくことになります。つまり、大山峰正福寺は国家や時の権力者が祈りの対象でしたが、洞雲山江岩寺は、地元の人々などの一般民衆が祈りの対象となるのです。明日から、この寺の近くに住む地元の人々の家を訪ねて、檀家さんの数を獲得してください。権力者がころころ変わる下剋上の世の中で、変わらないのは、民衆の心ですよ。」

 こうして、洞雲山江岩寺の秋岩恵江住職は、大山峰正福寺の宝物を守り、大山峰正福寺の法灯を継ぐことを目的として、地元の人々のために祈る寺として、活動を再開したのであった。そして、洞雲山江岩寺が建設を始めた頃、元号は永禄から元亀に変わり、元亀元年(1570年)、いつも尾張の大山峰正福寺を訪れていた天台宗の高僧覚恕は、天台座主になった。

 元亀2年(1571年)のある夏の夜、密かに、比叡山延暦寺を抜け出し、古代の官道を尾張の国までひた走る一団があった。天台座主覚恕法親王とその弟子の高僧たちである。昔、比叡山延暦寺の僧兵が大山寺を焼き討ちにするために走り、源義朝・頼朝父子が平家に敗れて逃げるために通り、鎌倉幕府執権北条氏の武士たちが京都にいる後鳥羽上皇を討つために通った道を、今、天台座主覚恕法親王一行が、尾張の国に向かい、大山寺の高僧成安たちと落ち合うために走っている。天台座主覚恕法親王の兄である正親町天皇は、弟にこう進言したのだった。

 「京都に来た織田信長に、私は、何度も、比叡山延暦寺を攻めることは思いとどまるよう、説得したよ。しかし、織田信長は、私の言葉を頑として受け付けないのだ。今までの比叡山延暦寺僧兵たちの数々の暴挙を許す事はできないと言ってきかないのだ。きっと、近いうちに、織田信長は、比叡山延暦寺を攻めるつもりだ。」

 天台座主覚恕法親王一行が、織田信長傘下の武士たちの目を避けつつ、古代の官道からほど近い場所にある大久佐八幡宮に着いたのは、元亀2年(1571年)の秋の気配を感じる頃だった。天台座主覚恕法親王一行が大久佐八幡宮で休んでいると、大山寺の高僧成安たち一行がやってきた。大山寺の高僧成安は、天台座主覚恕法親王にこう言った。

 「とうとう、織田信長は、比叡山延暦寺を攻めましたよ。根本中堂は織田信長によって、焼き払われたとのことです。本当に危ない所でしたね。

 さて、これからのことですが、我々大山寺の一行も天台座主一行と一緒に、甲斐の国(現在の山梨県)の武田信玄様の所に逃げるつもりです。ただし、ここから官道を通って逃げることはしません。甲斐の国へ行く官道の途中にある駿河の国(現在の静岡県)には、織田信長の有能な部下である徳川家康がいます。ですから、このルートは危険です。

 私たちは、ここから一山超えて、多治見を通って、信濃の国(現在の長野県)に抜け、信濃の国から甲斐の国に入ることにします。多治見には、大山寺に仏器や食器を提供している陶磁職人が何人かいます。多治見から信濃の国に入る山道は、彼らの案内で、織田信長の眼をかいくぐっていくつもりです。

 信濃の国は、ほぼ、武田氏によって平定されています。こちらのルートを使って甲斐の国に入る方が安全です。それでは、まず、多治見に向かいましょうか。」

 こうして、大山寺の高僧成安たち一行と天台座主覚恕法親王たち一行は、大久佐八幡宮を出発し、多治見から信濃の国に入り、信濃の国で武田氏の武士たちに守られながら、甲斐の国に入って、武田信玄に保護された。比叡山では、織田信長による比叡山焼き討ちの際、天台座主覚恕法親王一行がいないことに気付き、大騒ぎになったが、後の祭りだった。そして、天台座主覚恕法親王は、天正2年(1574年)に亡くなるまで、京都や比叡山に戻ることはなかった。

 大山寺の高僧成安たち一行と天台座主覚恕法親王たち一行が甲斐の国に入った頃、洞雲山江岩寺に織田信長の隠密がやってきた。

 「山の上にあった大山寺が、もぬけの殻になっているようだが、何か知らないか?」

 江岩寺住職秋岩恵江は、信長の隠密たちにこう言った。

 「少し前から、山の上の大山寺には、誰もいませんでしたよ。恐らく、寺が貧窮して、僧侶たちは皆逃げ出したのでしょう。この下剋上の世の中で、権力者が次々に変わっていくときに、権力者からの荘園収入に頼る寺は潰れていきますよ。信長様もいつまで今のままでいられるか分かったものじゃありませんしね。

 ああ、もう、こんなに日が傾いてきた。今日は、これから、近くの家で法事があるので、私は、この辺で、失礼したいのですが。もったいないから、山の上にあった大山寺の仏様をこの寺の本堂に持ってきましたよ。ご覧になっていきますか?」

 比叡山焼き討ちから11年後の天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康は、甲斐の国の武田勝頼を滅ぼしたが、その3ヶ月後、本能寺の変で、織田信長は、49歳の生涯を閉じた。本能寺の変で織田信長を自殺に追いやった明智光秀は、山崎の戦いで、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れた後、残党狩りの農民たちの手によって、首を討ち落された。豊臣秀吉は、本能寺の変と山崎の戦いの後、尾張の国の清洲城で開かれた清洲会議において、織田信長の後継者としての地位を確立していった。また、秀吉が、信長の跡をついで、正親町天皇とは親しくし、貧窮した朝廷を助けたことも、豊臣秀吉の地位の確立に大いに貢献した。

 そして、豊臣秀吉が天下統一を始めると、信長による比叡山焼き討ちから生き残った僧侶たちは、次々と比叡山に帰って行った。天台座主覚恕法親王たち一行と一緒に甲斐の国に逃げた大山寺の高僧成安たち一行は、甲斐の国の武田勝頼が織田信長・徳川家康によって滅ぼされてから、甲斐の国を追われ、さまよったが、豊臣秀吉が地位を確立すると、比叡山に入っていった。

 そして、比叡山焼き討ちから生き残った僧侶たちは、豊臣秀吉に比叡山延暦寺の復興を願い出るのである。最初のうちは、比叡山延暦寺の復興を拒絶していた豊臣秀吉だが、度重なる僧侶たちの要請に屈服し、秀吉は、とうとう、比叡山延暦寺の復興のために、僧侶たちに造営費用を寄進した。天正12年(1584年)、豊臣秀吉が小牧・長久手の戦いに出陣しているときのことだった。

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