二十一 闇市の似顔絵描き

 昭和20年(1945年)10月15日の晴れた日の朝、48歳になって愛知県警を罷免された中村佐吉は、名古屋市栄の闇市の片隅で、青空のもと、画板のひもに首を通して、手に鉛筆を握り、椅子に座っていた。佐吉の足元には、油性ペンや水彩絵の具が一式置かれてある。薄青色の長袖のシャツに青色のジャンパーを羽織り、茶色いズボンと白いズック靴を履いて椅子に座っている佐吉の前には小さい木の机が置いてあり、その机の上に佐吉が描いた似顔絵が2枚ほど、風に飛ばされないようにピンで四方を留められて置かれてあった。似顔絵の横には、「似顔絵描きます。1枚三百円」という張り紙がピンで四方を留められて置かれてあった。

 中村佐吉は、昭和2年(1927年)、30歳になったときに、愛知県警特別高等課に配属となったが、それまでは、普通の警察官の仕事をしていた。中村は、小さい頃から絵を描くことが好きだった。警察官になったばかりの20代の頃、中村が描いた犯人の似顔絵は、犯人の特徴をよく捉えていると警察内でも評判になった。中村の描く似顔絵によって、逮捕に至った犯人も少なからずいた。中村が警察のエリート組織と言われていた特別高等課に突然配属になったのも、中村の描く似顔絵の特技を買われたからだったのかもしれなかった。

 中村が闇市でつけた1枚300円という似顔絵の値段は、ちょうど、闇市で売られていたワイシャツと同じ位の値段だった。

 「空襲で焼け出され、みんな、日常使う食料や衣料や食器などを買いに闇市に行くのに、似顔絵を描いてくれ、と言ってくる人なんているの?」

 家族の者には、そのようにつつかれて、闇市に出て来た中村だった。中村の描く1枚300円の似顔絵にメッセージを付けたい人は、+100円で、額縁に入れたい人は、更に、+100円という値段を付けて、中村は似顔絵を売った。似顔絵自体は、1枚15分位あれば、仕上げることができた。そして、ほとんどの客は、似顔絵にメッセージを付け、額に入れてくれと希望してきたのだった。中村の似顔絵の店には行列ができた。戦争で焼け出された人々は、皆が皆、食料や日用品を求めている訳ではなかったことを中村は実感した。

 そして、1週間ほど、中村は、闇市の青空のもとで似顔絵描きの仕事をしていたが、中村の店には屋根がなかったため、雨が降ると、店を出せない状態になっていた。闇市の中に屋根の付いたバラックのような粗末な小屋を作るお金もない中村は、似顔絵の店を完全予約制にすることにした。闇市でお客さんから似顔絵を描く人の写真をもらって、お客さんに似顔絵を渡す日にちを決め、写真を家に持ち帰り、家で似顔絵を描いて、闇市に持って行って、お客さんに渡すということにした。中村の家は、名古屋市昭和区のはずれにあったが、幸運にも空襲の被害を免れることができた。中村の家は似顔絵工房となった。

 中村が似顔絵工房を開いたばかりの昭和20年10月頃に多かったお客さんの似顔絵注文は、戦争で死んだ肉親の似顔絵を描いてくれ、というものだった。ある中年の女性は、戦争に出征して亡くなった息子の写真を持ってきて、こう言うのだった。

 「この写真は、ガダルカナル島で戦死した息子が出征した時の写真です。この写真は、息子の遺影としましたが、その後、息子は、戦死したことにより、軍隊の中での階級が上がって、息子の軍帽に星の数が2つ増えたのです。ですから、この写真をもとにして、似顔絵を描くときには、息子の軍帽の星の数を写真にある1つではなく、3つにして、描いてください。そして、似顔絵は、必ず、額縁に入れてください。」

 昭和21年(1946年)1月、戦争中は人間の姿をした神様だと思われていた天皇が、「天皇と国民との間にあるのは、相互の信頼と敬愛による結びつきであり、決して、神話と伝説による結びつきではない。」という、いわゆる、天皇の人間宣言を国民に向けて宣言した。そして、昭和21年(1946年)5月、新しい日本国憲法が公布された。その憲法は、主権は国民にあって、政治は、普通選挙によって選ばれた国会議員による議院内閣制によって行われ、天皇は国民の象徴であって政治権力は存在せず、それまでは、政府が決めてきた地方政治を国民の選挙によって決めることとし、日本は戦争を放棄し、国民は皆平等に基本的な人権を有するということを規定していた。そして、新しい日本国憲法の公布と同時に、戦争犯罪人を裁く極東国際軍事裁判が開始された。多くの国民は、戦争中に日本の権力者であった東条英機元首相や板垣征四郎元陸軍大将らが犯罪者として裁判を受け、あるときには、かつて部下であった者に頭を殴られる東条元首相の姿を映画ニュースで見た。

 そして、このような世の中の流れの中で、人々の食糧危機は深刻で、人々は、闇市で物資を調達していた。にもかかわらず、明治時代に創刊され、大正デモクラシーを支え、昭和19年(1944年)に日本政府軍部の勧告により廃刊となっていた「中央公論」という雑誌が復活し、第1回日本美術展(日展)が開催されたのは、昭和21年(1946年)のことだ。昭和18年(1943年)に第1回発掘調査が行われていた弥生時代の大規模集落遺跡である静岡県登呂遺跡は、昭和21年(1946年)に再発掘のための「静岡県郷土文化研究会」という組織が立ちあげられ、昭和22年(1947年)以降4年間に渡って、発掘調査が行われた。

 世の中の権力者がどれだけ変わっても、人々が飢えていても、なぜか、文化だけは、それとは関係なく、自らの歩みを止めない。そのような戦後の文化の流れの中で、49歳になる中村佐吉の頭の中には、15年前の昭和6年(1931年)に小栗鉄次郎に連れて行かれた大山廃寺跡の塔跡の光景や塔跡の背後にある山の向こうにあった光景がよみがえってくるのであった。名古屋城とは違い、篠岡村の山の中にあった大山廃寺跡は、空襲の被害を受けていないはずである。昭和20年(1945年)3月に小栗鉄次郎を辞職に導いてから7ヶ月後、中村佐吉は、今度は、自分が愛知県警を罷免され、今は、似顔絵を描いて生計を立てている。中村は、大山廃寺遺跡において、国の史跡に指定されたのは、小栗鉄次郎が発見した17個の塔礎石群の周囲1320平方メートルのみであるという事実は、この先、何らかの発展があるのではないかという気がしてならなかった。

 そして、中村佐吉の似顔絵工房を利用する客の要望は、昭和21年(1946年)以降、変化していくのであった。それまでは、戦争で死んだ肉親の似顔絵を描いてくれと言う要望が多かったのだが、昭和21年(1946年)以降は、自分の結婚式のために似顔絵を描いてくれとか、店の看板に出す店主の似顔絵を描いてくれとか、祖父の還暦祝いに祖父の似顔絵を描いてくれとか、現在生きている人間が自分の生活の中で似顔絵を要望する事例が多くなってきた。そして、中村佐吉は、増え続ける客の要望に答えて、似顔絵工房に似顔絵を描く職人を雇うことにした。中村佐吉は、雇用主となり、職人に払う給料を稼いで、職人に似顔絵を描く指導も行った。

 昭和22年(1947年)5月3日に新しい日本国憲法が施行されることに伴って、労働基準法・独占禁止法・地方自治法・教育基本法・学校教育法が施行された。似顔絵工房の雇用主となった中村佐吉にとって、労働基準法には大いに関心があった。しかし、一方で、中村の興味は、地方自治法に注がれていた。

 連合国軍総司令部(GHQ)が新しく日本にもたらした政策はたくさんあるが、その中の1つが地方自治の権限強化であることを中村は見抜いていた。戦前の日本の中央政府と都道府県や市町村の関係は、主従関係であったと言っていい。連合国軍総司令部(GHQ)は、そのような地方と中央の関係を対等にした。このことは、新しい日本国憲法が国民主権をうたっていることに基づいている。連合国軍総司令部(GHQ)は、地方自治法という法律を制定して、今まで中央が決めていた都道府県知事や市町村長を地域住民が選挙で決めることとし、地方議会の権限を強化し、知事や市長に議会の解散権を与え、地域住民が直接地方政治に関与できるように、住民に直接請求権を与えた。

 「これが、アメリカ式の地方自治というやつか。」

 中村は、何となく、感心してしまった。

 昭和23年(1948年)、極東国際軍事裁判が終わり、戦前の日本の権力者たち7名が絞首刑となった。そして、この頃から、世界では、アメリカをはじめとする自由主義陣営とソ連をはじめとする社会主義陣営の間の冷たい戦争が激化していった。ドイツの首都ベルリンは封鎖されて、社会主義陣営の東ベルリンと自由主義陣営の西ベルリンの間に壁ができた。そして、アメリカとソ連は、核兵器の開発競争を始め、原爆実験を繰り返し行うようになる。

 昭和25年(1950年)になると、地方政治が連合国軍総司令部(GHQ)の軍政から離れた。そして、連合国軍総司令部(GHQ)は、共産党員を公職から追放し、5年前に公職から追放された軍国主義者などを公職に復活させた。これが、「レッド・パージ」と言われるもので、レッドパージによって、「日本共産党員とその支持者」とみなされた1万人以上の人々が職を失った。そして、昭和25年(1950年)2月頃、田口と名乗る人物が、中村の似顔絵工房を訪ねてきた。

 自分と同じ50代の田口は、紺色のスーツに白いワイシャツを着て、青いネクタイを締め、濃いグレーのコートを羽織り、黒い革靴を履いて、立派な姿で警察手帳を中村に見せていた。茶色いセーターにこげ茶色のズボンというカジュアルな服装で工房にいた中村は、思わず、田口の姿に見とれていた。田口は、警察手帳を見せながら、中村にこう言った。

 「この手帳を見てもわかるように、今、俺は、愛知県警の公安課に勤務している。昨年の春に元の職場の先輩から誘われて、勤務するようになったんだ。5年前に俺たちを職場から追い出した連合国軍総司令部(GHQ)は、今、昔の特別高等課の知識を必要としている。 ここに、連合国軍総司令部(GHQ)があげた共産党員のブラックリストがある。中村は、こいつらのうちの何人かと面識があるだろう?」

 田口が差し出した1枚の紙を受け取った中村は、その紙に書かれていた10人の名前を一読して、こう言った。

 「ここに書かれてある全員の名前を俺は知っている。顔も覚えてるよ。」

 その言葉を聞いて、田口は、こう答えた。

 「なあ、中村も、もう一度俺たちと一緒に警察で働かないか?給料も働く場所も昔と何も変わらないぞ。」

 しかし、中村は、顔色を変えずにこう答えた。

 「いや、俺は、今は、似顔絵工房を任されていて、職人の指導もしている立場だ。職人さんも、もう少し腕を上げてもらわないと、この工房を任せることができない。悪いんだけど、別の奴をあたってくれ。

 あ、そうだ。このリストに書かれてある奴の全員の似顔絵を描いてやろうか。似顔絵は、1人1枚500円だ。お金を用意してくれたら、今すぐにでもこのリストの人間の似顔絵を描いてやるよ。」

 この言葉に田口は飛びついた。

 「そうか、じゃあ、1週間待ってくれ。1週間後、お金をここに持ってくるから、そしたら、このリストにある全員の似顔絵を描いてくれ。よろしく頼む。」

 田口が出て行った工房の中で、中村は、椅子に座って、考え込んでいた。中村は、本当に連合国軍総司令部(GHQ)がいやになりかけていた。戦前の日本の権力者たちを絞首刑にしておいて、連合国軍総司令部(GHQ)のやっていることは、戦前の日本の権力者たちがやっていたことと、全く何も変わっていない。天皇のために、日本という国家のために特別高等課で働いていた中村は、ソ連と戦争をしているアメリカの肩棒を担ぐ気にはとてもなれなかった。

 しかし、たとえ、象徴と言う立場であっても、天皇制度を残してくれた連合国軍総司令部(GHQ)のことを中村は、全く嫌いであるという訳でもない。もし、連合国軍総司令部(GHQ)が天皇制度を全く潰していたのであれば、中村は、似顔絵を描くという形で、警察に協力はしていなかっただろう。

 「仕事を受ける客としては、申し分がないと言ったところか。」

 そして、1週間後、お金を持ってきた田口に、

 「1週間後、似顔絵を受け取りにきてくれ。」

 と、中村は言った。そして、田口が持ってきた10人のブラックリストの似顔絵を描く仕事は、他の職人に任せることなく、全部中村が1人で描き上げたのだった。

 昭和26年(1951年)秋、54歳になった中村佐吉は、完成した似顔絵を持って、中日新聞本社を訪れていた。中村の営業活動が実って、中村の似顔絵工房は、中日新聞社から、有名人の似顔絵を描く定期的な仕事をもらえるようになっていた。濃いグレーのスーツに薄青色のワイシャツを着て、青いネクタイを締め、黒い革靴を履いた姿で中日新聞本社に入った中村は、完成した似顔絵を担当者に届け、中日新聞本社の玄関を出た。

 そして、中日新聞本社の玄関を出た中村の目に、空襲で焼けた名古屋城の跡地が映った。終戦直後の昭和20年(1945年)秋には、戦争で焼け出された名古屋市民が、空襲で焼けおちた名古屋城の跡地にバラック小屋を建てて住み、空き地でさつまいもやかぼちゃといった野菜を作っていたが、終戦から6年もたつと、さすがに、名古屋城跡地に住居を構え、農業をする人々もいなくなっていた。代わりに、名古屋城の跡地には、名古屋大学のキャンパスが建ち、多くの大学生や大学職員が名古屋城跡地を行き交っていた。

 中村は、土台だけ残っている名古屋城天守閣をただ見つめていた。この地に立派な天守閣や御殿が建っていたのは、ほんの6年ほど前の話だ。そして、土台だけ残った名古屋城天守閣跡地を見つめる中村の隣に、一人の知らない男がやってきて、中村の耳元で囁いた。

 「名古屋城の天守閣や本丸御殿の中にあった国宝の、いや、今は、重要文化財と名前を変えたのだっけな、狩野派の障壁画116面は、小栗鉄次郎という人が疎開させていたおかげで、戦火を免れて、今も、焼け残った名古屋城の倉庫の中にあるらしいよ。名古屋城天守閣や本丸御殿は空襲によって焼けてしまったが、障壁画だけ焼けずに残ったことは、名古屋市民の自慢だな。」

 中村は、6年ぶりに小栗鉄次郎の名前を聞いた。そして、小栗鉄次郎の名前を聞いた中村は、6年前に自分は愛知県警特別高等課の警察官だったことを思い出すのだった。そして、自分たちが辞職に追い込んだ小栗鉄次郎は、名古屋市民の間で名古屋城障壁画を守った英雄の様になっていた。

 「名古屋城を空襲で失ったことが名古屋市民にとっては、それほど悲しいことだったのか。」

 中村が心の中でこうつぶやいていると、その男は中村にこう言った。

 「僕たちと一緒に、名古屋城天守閣の再建運動を起こさないか?みんなから寄付を集めて、もう一度、名古屋城天守閣をここに建てるんだ。」

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