二十二 小牧長久手の戦い

 「犬山城には、比叡山延暦寺の僧侶と思われる者たちが頻繁に出入りしています。どうやら、秀吉は、比叡山延暦寺再興にOKサインを出した模様です。比叡山延暦寺の僧侶たちが青銅1万貫を携えて犬山城から出てくる所を確認しましたので。」

 犬山城に偵察に行った伊賀の忍びの者は、徳川家康にこう報告した。

 「まあ、そうだろうな。比叡山延暦寺の僧侶たちが私の所に来ても、恐らく私は、秀吉と同じことをするだろうな。御苦労であった。まだ、しばらく、犬山城の監視を続けてくれ。ああ、このことは、今から信雄殿にも報告しておいてくれ。」

 家康がこう言うと、伊賀の忍びの者は、信雄にもこのことを報告した後、再び、犬山城に偵察に出かけた。そして、家康は、小牧山城の中にある自分の部屋を出て、織田信雄の部屋に向かった。部屋に入ると、織田信雄は、ちょうど食事中であった。家康は、信雄の前に座って、信雄にこう尋ねた。

 「これから、ちょっと、出かけたい所がある。周囲にはわからないように城を出るから、私の外出を許可してもらえないだろうか?」

 信雄は、食事をする手を休めることなく、こう返した。

 「どこに出かけるのか、聞いておこうか。今はまだ、動きはないが、いつ、秀吉の軍が動き出すかわからないからな。遠くに行くのか?」

 家康は、「吾妻鏡」という名前のついた巻物を信雄の前に示し、信雄をまっすぐ見て、信雄の問いに答えた。

 「私は、この「吾妻鏡」という本が好きでな。今まで、何度も何度もこの本を繰り返し読んできた。「吾妻鏡」は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての歴史書だ。私は、この本に出てくる「源頼朝」という武士のファンでな。「源頼朝」については、ちょっと他の人よりも知識があるのだ。

 この城から東の方向に20分ほど馬を走らせたところに、大山寺という大きな山岳寺院がある。亡くなった信長公から大山寺の話を聞いたのは、今から22年前、私がまだ19歳の時だった。織田家と徳川家の間で軍事同盟を結ぶことになって、清須城を訪れた私に、信長公は、大山寺のような山城を建てるのが自分の夢だと言った。信長公がその夢を実現させたのが、安土城だ。

 大山寺は大山の中に建つ巨大な山岳寺院だが、大山寺から北側に山を越えた所にある入鹿村の地下に「シャンバラ」と呼ばれる、大量の仏像や武器を有する大きな地下施設が存在しているらしい。そして、シャンバラと大山寺は、トンネルで結ばれているという話だ。大山寺は、ちょうど、この「吾妻鏡」が書かれた時代に、比叡山延暦寺の僧兵たちによって、一山まるごと焼き払われたという悲しい歴史を持つ寺だ。しかし、その後、地元の人々の熱意により、再び、山岳寺院としてよみがえり、以前よりも巨大な山岳寺院となったと聞いている。

 信雄殿が、秀吉殿との間のいさかいで、私に助けを求めに来た時、私は、この話を思い出してな。今までも、ずっと、大山寺やシャンバラのことは気に留めていたのだが、この機会に、ぜひ、大山寺とシャンバラをこの目で見たいと考えている。

 大山寺から馬で5分ほど手前の所に、源氏の支援によって大きくなった「大久佐八幡宮」という神社がある。この神社を毎年、流鏑馬や御輿など大きなお祭りができるほど巨大な神社にしたのは、源氏の末裔たちなのだ。まず、私は、「大久佐八幡宮」を起点にして、大山寺とシャンバラを見て、「大久佐八幡宮」に戻り、小牧山城に帰ってくるという計画で行こうと思っている。もし、緊急に私に知らせがあった場合は、「大久佐八幡宮」に来てもらったらいい。」

 家康がこのように言うと、信雄は、こう答えた。

 「ふーん。大山寺とシャンバラの話なら、私も小さい頃、父から聞いたことがある。しかし、今、大山寺は廃寺となり、大山寺の法灯は、大山の麓にある臨済宗妙心寺派の江岩寺という寺が継いでいるらしいぞ。江岩寺が持っている以外の仏像は、全てシャンバラに保管されていると聞いた。

 ちょっと待てよ。もし、秀吉殿が比叡山延暦寺を再興するとなると、あのような歴史を持つ大山寺は、少し、立場が微妙になるな。父が大山寺の影響を受けて、比叡山延暦寺焼き討ちを行ったとしたら、延暦寺と大山寺の間でまた、何か争いごとが起こるんじゃないか?

 ま、いいか。しかし、なにぶん、今は戦闘中だ。とにかく、気をつけて、秀吉軍に家康殿の動きを察知されないように、行動してくれ。何かあったら、すぐに、「大久佐八幡宮」に使いをよこすからな。」

 そして、羽柴秀吉軍との戦いの最中、天正12年(1584年)4月7日の朝早く、家康は、手ぬぐいで頭の上から顔を覆うようにしてかぶり、家康・信雄連合軍に野菜などの食料を提供する農民のような格好をして、小牧山城の裏口から、こっそり、出ていった。家康が馬で東へ移動している間中ずっと、家康の頭の中には、信雄が言った言葉が巡っていた。

 「ちょっと待てよ。もし、秀吉殿が比叡山延暦寺を再興するとなると、あのような歴史を持つ大山寺は、少し、立場が微妙になるな。父が大山寺の影響を受けて、比叡山延暦寺焼き討ちを行ったとしたら、延暦寺と大山寺の間でまた、何か争いごとが起こるんじゃないか?」

 そうだ、だから、私は、こうして、馬に乗って、大山寺を見に行くのだ、と徳川家康は考えていた。家康の頭の中にあるのは、秀吉に勝つことではない。自分は、天下統一を果たした後、平和で豊かな国を造らなければならない。それが、今の家康の目標なのだ。そして、小牧山城から東へ馬で20分ほど移動して、家康一行は、大久佐八幡宮に到着した。

 徳川家康は、大久佐八幡宮に到着すると、神社の中で動きやすい武士の恰好に着替えた。そして、神社の者に大山寺の近況を聞くと、大山寺は、今は廃寺となり、大山寺の法灯は、大山の麓にある臨済宗妙心寺派の江岩寺という寺が継いでいると言った。家康は、とりあえず、江岩寺という名前の寺に行ってみることにした。

 大久佐八幡宮から北に向かって5分ほど馬を走らせたところに大山村があり、大山村から少し山を登った所に江岩寺はあった。家康は、江岩寺で馬をつなぎ、寺の玄関に入って行った。

 家康が玄関で「ごめんください。」と叫ぶと、秋岩恵江住職が玄関に出てきた。秋岩恵江住職は、信長と同い年で、徳川家康より10歳ほど上の、今年51歳になる僧侶だった。秋岩恵江住職は、初めて徳川家康に会い、警戒していることが家康にはよくわかった。家康は、まず、自分の自己紹介をし、自分は本能寺の変で亡くなった織田信長の部下で、今から22年前に、信長から大山寺やシャンバラの話を聞いていて、今日初めてここに来たのだという話をすると、秋岩恵江住職は、興味深そうな目で家康を見詰め始めた。

 「22年前、信長さんがさんざん悪口を言っていた徳川家康と言う武将は、この男か。信長さんの話によると、インドアタイプの読書好きらしいが。」

 秋岩恵江住職がこのように心の中で思いながら、家康を寺の中に入れようとした時、一人の男が、寺の玄関に入ってきた。その男は、修業僧と言った感じで、年齢は30歳位に見え、立派な体格をした男であった。その男は、作務衣を着て、そこに立っていたが、作務衣から出ている体の皮膚の色は、頭の先から手の先から足の先から、真っ黒であった。

 「秋岩住職、頼まれていた薪は全て割って、裏に置いておきました。他には、何か仕事ありませんか?」

 流暢な日本語でこう話す黒人の修業僧を見て、家康は、思わず、その黒人の修行僧に声をかけた。

 「弥介、弥介ではないか。お前、生きていたのか。どうして、ここにいるのだ?」

 家康に話しかけられて、振り向いた黒人の修行僧は、家康を見て、驚いてこう言った。

 「家康殿ではありませんか。どうして、家康殿がここに?」

 江岩寺の本堂に安置されている仏様の前で、秋岩恵江住職と徳川家康と弥介は、円座になって座った。最初に口を開いたのは、徳川家康だった。

 「弥介、どうして、お前はここにいるのだ?本能寺の変があったあの日、お前に何があったのだ?私に話を聞かせてくれないか?」

 秋岩恵江住職のはからいで、円座に座った3人の前には、それぞれ、桜餅と抹茶が配られた。弥介は、桜餅をほおばりながら、家康の問いに答えた。

 「アフリカに住んでいた私は、イエズス会の者たちによって、日本に連れて来られて、信長様に会い、信長様の側で信長様にお仕えしてから、1年の間に、大山寺とシャンバラの話を信長様から聞かされてきました。そして、巨大な山岳寺院大山寺のような山城を造ることが私の夢だった、という話もされていました。信長様にとって、大山寺とシャンバラは、心のふるさとなのです。

 信長様は、安土城から入鹿村の地下にあるシャンバラまでの地図を私に渡して、シャンバラから大山寺までは、トンネルでつながっているという話をし、この地図は、いつか役に立つときがくるかもしれないから、いつも、持っているようにと言われました。そして、大山寺が平安時代の末期に、比叡山延暦寺僧兵の手によって、一山まるごと焼き払われたという言い伝えの話も私にしてくれました。そして、信長様は、比叡山延暦寺は信長様の言うことを聞かず、信長様の天下統一政策を妨げているので、罰を与えるために、10年前、延暦寺焼き討ちを実行したのだと言っていました。

 今から3年くらい前の12月、信長様の元に歳末のあいさつに訪れた明智光秀様が比叡山延暦寺再興の話を信長様に持ちかけたとき、信長様は、それはもう、とても怒って、二度三度、光秀様を足蹴にしたのを近くで見ていた私は、光秀様が部屋を出た後で、「なぜ、そんなに怒っているのですか?」と信長様に恐る恐る尋ねてみました。すると、信長様はこう言うのです。

 「今、比叡山延暦寺再興を許してしまえば、比叡山延暦寺は再び、天下統一施策を掲げる権力者に刃向ってくるだろう。少なくとも、私が生きているうちは、比叡山延暦寺再興は、させてはならない。そのことが、私の施策を継いでいく者たちのために私ができる最善の行動である。」

 そして、年が明けた天正10年(1582年)6月、本能寺の変が起こりました。明智光秀様が率いる軍隊が多数、本能寺の周囲を取り巻いて、攻撃を仕掛けてきているという情報が信長様の元に入った時、信長様は、一言、「光秀は持ちこたえられなかったのか。仕方がない。」と言って、私を呼びました。そして、私の耳元でこう言いました。

 「今から、弥介が持っているその地図を頼りにシャンバラに向かってくれ。そして、シャンバラに着いたら、大山寺の成安上人に会い、信長からの使いでここに来たと言って、比叡山延暦寺は再興されると伝えてほしい。そして、大山寺の成安上人に会った後で、トンネルを抜けて、廃寺となった大山寺の坂を下り、大山の麓にある江岩寺と言う寺の秋岩恵江住職に会い、比叡山延暦寺は再興されると伝えてほしい。そして、そのことを伝えたら、弥介の仕事は終わりなので、あとは、京都に戻ってくるなり、自分の好きにしていいぞ。弥介と私が会うことはもうないからな。さあ、早く行け!」

 そして、私は、部屋を飛び出しました。」

 ここまで話すと、弥介は抹茶をぐっと飲み、話を続けた。

 「信長様の指令を受けて、部屋を飛び出した私は、本能寺の出口の所で、ばったり、明智光秀様に出くわしました。信長様から教えてもらって、ある程度剣の達人になっている私を知っている光秀様は、私が刀を光秀様に渡せば、何もしない、と言いました。そして、私が刀を渡すと、光秀様は私をその場から逃がしてくれました。今から思うと、光秀様は、何もかもお見通しだったような気がします。私は、信長様と光秀様の両方の思いを乗せて、シャンバラに向かって、走り出しました。」

 「そうか、光秀殿は、自分が時代の流れに逆らえないことをしっかり認識していたのだな。信長公も光秀殿も何もかも納得して死んでいったのか。」

 家康がこのように口をはさむと、弥介は、続けてこう言った。

 「私は、肌の色が黒いので、昼間は、藪の中に隠れ、夜、行動するという方法で、本能寺から東にある岐阜城方面に向かって逃げ、岐阜城の麓から東南の方面にある木曽川を目指し、木曽川を渡って、入鹿村にたどり着きました。そして、入鹿村にある白雲寺というお寺から地下に潜って、シャンバラにたどりつきました。このルートが、私が信長様から教えられたルートでした。私の体は、夜は、ほとんど、周囲と見分けがつきませんので、誰にも怪しまれることなく、シャンバラに着きました。そして、シャンバラからトンネルを抜けて、江岩寺にたどり着いた私は、秋岩恵江住職に会って、信長様からの使いであることを話し、比叡山延暦寺が再興されることを伝えました。」

 「その後のことは、私の方からこの人に伝えようか。」

 江岩寺の秋岩恵江住職は、こう口をはさんで、家康に向かって話し始めた。

 「比叡山延暦寺が再興される話を聞いた後、私は弥介にこれから、お前はどうするつもりなのかと聞きました。弥介は、この後、自分がどうするのかは、これから考えるから、2〜3日、ここに泊めてほしいと言いました。京都に帰るのは危ないからやめた方がいいと弥介に進言したのは私です。しばらくは、情勢が見極められないから、ここに隠れて、寺の手伝いをしてほしいと弥介に行ったのです。シャンバラの方も、当分は、仏像や武器を保管したまま、動かないようにしようと考えているようです。

 今の所、比叡山延暦寺の方から何か仕掛けてくるといったことはありません。延暦寺は、寺の再興でいっぱいいっぱいなのでしょう。比叡山延暦寺が再興されたら、どうなるかはわかりませんが。」

 「弥介は、イエズス会に帰りたくはないのか?イエズス会は、弥介のことを血眼になって探しているぞ。」

 家康は、こう弥介に尋ねた。すると、弥介はこう答えた。

 「信長様に出会えたのは、イエズス会のおかげだ。そのことに関しては、私はイエズス会に感謝している。しかし、イエズス会は、私を色が黒い肉体労働者位にしか見ていない。イエズス会は、信長様のように私にいろいろなことを教えることはしなかった。私に刀の使い方や日本語を教えたのは、信長様やその周りにいた武将たちだ。

 信長様や周りの武将たちは、最初に私を見たときには皆驚くが、その後は、分け隔てなく付き合ってくれる。イエズス会は、宣教師たちと黒人とは分けて考えているようだ。私は、日本に来る前に、イエズス会の宣教師たちといろいろな国を回ったが、イエズス会宣教師たちのエリート意識には、へどが出たよ。イエズス会宣教師たちよりは、日本人の方がよほど、私たちに親切だよ。私は、もう、イエズス会に戻るつもりはない。」

 「そうか。」

 家康は、弥介の答えに対して、一言、ぽつりと言ったが、心の中では、弥介がそのように考えていたとは、意外だということが家康の感想だった。家康は弥介にこう質問してみた。

 「イエズス会が日本に来た目的は何だ?」

 すると、弥介は、抹茶をもう一口飲んで、こう言った。

 「イエズス会が日本に来た表向きの目的は、キリスト教の布教です。そのために、私のような肌の色の黒い者を連れてきて、日本人の注目を浴びるように仕向けたのです。しかし、イエズス会の布教活動は、ヨーロッパ諸国の植民地政策と表裏一体です。イエズス会が訪れた所は、アジアでもアフリカでも、後にスペイン人やポルトガル人が支配する植民地になっている。

 しかし、本能寺の変は、イエズス会にとって、意外な出来事だったと思います。日本は平和な国などではなく、内戦状態の国なのかもしれない。そのような国を植民地にしても、スペインやポルトガルにとっては、負担が大きくなるだけです。スペイン人やポルトガル人は、食料や資源が豊富な安全な国がほしいのです。」

 弥介のこの言葉を聞いて、家康は、しばらく、考え込んでしまった。そして、抹茶を飲みほした家康は、弥介に向かってこう言った。

 「よし、弥介がここにいることは、イエズス会の者には黙っておいてやる。

 しかし、弥介は、刀の使い方も日本語の使い方もうまく、丈夫な体を持っているから、シャンバラや江岩寺周辺では、重宝がられることだろう。何しろ、信長公のお気に入りの家臣だったからな。恐らく、弥介は、シャンバラの中でもかなり高い地位に登りつめることができるだろう。

 だから、ここで、この家康に約束してほしい。何か重大な事項が起こった場合には、この家康に報告するということを。決して、自分ひとりだけの決断で動かないでほしい。もし、この約束を守ってくれるなら、弥介がここにいるということをイエズス会の奴らには秘密にしておこう。」

 「わかりました。」

 弥介は、神妙な面持ちで、家康にこう答えた。家康は話を続けた。

 「それから、私は今、信長公の二男織田信雄殿と一緒に羽柴秀吉殿との戦いの真っ最中で、小牧山城に滞在している。秀吉殿は、織田家とは折り合いが悪くてな。私は、織田家とは軍事同盟を結んでいるので、織田家に助けを求められて、秀吉殿と戦っているのだ。今は小牧山城にいるが、この戦いが済んだら、岡崎城に戻る。

 私が戦っている羽柴秀吉殿は、今、犬山城に砦を築いている。秀吉殿の偵察のため、犬山城に偵察に行った者が、比叡山延暦寺の僧侶と思われる人物がたびたび犬山城を訪れているのを目撃している。そして、昨日、犬山城から出てきた比叡山延暦寺の僧侶たちは、手に青銅1万貫を携えて、比叡山方面に向かって犬山城を出ていったそうだ。秀吉殿は、比叡山延暦寺再興を許可したのだ。

 私がここを訪れた目的は、比叡山が再興されるにあたって、信長殿が昔私に話していた大山寺とシャンバラが今どのような状況にあるのか探るためだ。私は、比叡山延暦寺の味方でも、大山寺とシャンバラの味方でもない。私は、ただ、比叡山延暦寺と大山寺やシャンバラの間で、また、昔のように争いごとが起こることはどうしても避けたいだけだ。私が天下統一を果たした時には、日本は、平和な一つの国になっていなくてはいけないからな。そのためには、治安の安全というのは、最重要施策なのだ。

 シャンバラにいる弥介の元には、これから、たびたび、私の使いの者をよこすから、使いの者が来たら、弥介は、その使いの者にシャンバラの現状を報告するのだ。わかったか。」

 家康は弥介の方を見ると、弥介は、「わかりました。」と言った。そして、家康は、江岩寺の秋岩恵江住職の方に向いて、こう言った。

 「今は、大きな戦いの中にいるが、将来、天下統一を成し遂げるのはこの家康だと信じている。今日、弥介や秋岩住職と話したことは、将来の私の天下統一施策に影響を与えることになると思う。そして、それほど大きな役割を弥介や秋岩住職やシャンバラは担っているということを頭に入れて、これから生活をしていってほしいというのが、私の切なる希望だ。

 ここは、さすがに、信長公の心の故郷だと弥介が言うだけのことはあるな。いや、私の城造りの参考にするという訳ではないんだよ。私はどちらかというと山は嫌いなタイプだからな。城を造るのなら、断然、平野だろう。

 今日は、ここらへんで、ここを失礼するが、これから、たびたび訪れることになる私の使いの者たちには、よくしてやってくれよ。」

 そして、弥介と秋岩恵江住職に見送られて、江岩寺を出た徳川家康一行が、廃寺となった大山寺の中を見て回り、トンネルに入って、シャンバラにいる成安上人に会い、江岩寺で話したことと同じ話をして、大久佐八幡宮に帰って来た時には、夕日が沈む所であった。家康一行は、その日は、大久佐八幡宮に泊めてもらう予定であった。そして、家康が、神社の一室に入り、出された夕食を食べていた時、神社の者に付き添われて、伊賀の忍びの者が、家康が食事をしている部屋に入って来た。家康は、食べるのをやめて、神社の者と伊賀の忍びの者と向き合った。まず、犬山城に偵察に行っていた伊賀の忍びの者が家康にこう報告した。

 「犬山城を出た秀吉軍と思われる1万人ほどの軍隊が、犬山城を出て南にある楽田から東に向かい、池ノ内を通って、大久佐八幡宮の敷地の中を移動しています。気を付けてください。」

 すると、続けて、神社の者がこう言った。

 「私が目撃した所では、1万の秀吉軍は、真夜中に大久佐八幡宮の敷地の中を横切った後、南方向にある関田方面に向かって、進んで行きました。どうやら、小牧山城の方向とは違う方向に進んでいるようです。」

 この話を聞いた家康は、

 「これから、小牧山城に帰る。」

 と言って、食事もそこそこに、馬に乗り、大久佐八幡宮の西にある小牧山城を目指して、走って行った。

 家康が小牧山城に帰ったのは、夜7時前であった。織田信雄が家康の元に来て、

 「大丈夫か。秀吉軍と遭遇しなかったか?」

 と心配そうに声をかけてきた。家康は、「いや、私が秀吉軍を見ることはなかった。」と言って、尾張の国の地図を広げ、織田信雄にこう言った。

 「犬山城に偵察に行かせている伊賀の忍びの者や大久佐八幡宮の神社の者の話を総合すると、4月6日の夜に犬山城を出た秀吉軍は、南下して楽田に砦を築いてから、東の方面にある物狂峠を越えて池ノ内に入り、真夜中に池ノ内から東南方向に進んで大久佐八幡宮の敷地内を横切り、今度は南下して、関田を越え、4月7日現在は、関田から南下して、庄内川の川辺にある上条村にいるらしい。秀吉軍はこの後、庄内川を越えるつもりなんじゃないか?」

 家康の話を聞いていた織田信雄は、首をかしげて、こう質問した。

 「1万もの秀吉軍は、一体、どこに向かって、何をしようとしているのだろう。私の居城である清須城に向かっていることもないし、私たちが陣を張る小牧山城に向かっているのでもない。秀吉軍が向かっているのは、もしかして・・・。」

 「私の居城である岡崎城だ。」

 家康は、確信を持って、こう答えた。

 天正12年(1584年)3月に始まった羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍との戦いは、それぞれが相手を挑発する小競り合いをちょこちょこと繰り広げていただけで、大きな戦いをすることもなく、お互いにらみ合いながら、1カ月という時間が過ぎ去っていた。この1カ月の間、犬山城にいる羽柴秀吉のもとには、比叡山延暦寺の僧侶たちが頻繁に訪れてくる。そして、秀吉は、比叡山延暦寺再興のためのお金を延暦寺の僧侶たちに渡したが、そのこと以外は、秀吉はこれといって、何も決断せず、何の動きも見せていない。秀吉軍の中にいた池田恒興と森長可の2人の武将は、だんだん、いらいらしてきた。池田恒興は、織田信雄を裏切って秀吉側についた武将であり、森長可は、池田恒興の娘婿で、本能寺の変で信長と共に亡くなった信長の家臣森蘭丸の兄であった。しびれを切らした池田恒興と森長可の2人の武将は、秀吉に向かって、次のような提案をした。

 「家康の居城である岡崎城を攻めれば、家康は慌てて、織田・徳川連合軍は、総崩れになるのではないか。」

 池田恒興と森長可の2人の武将は、この作戦を「中入り」作戦と呼んで、秀吉に強く実行を促した。

 秀吉は、最初はこの「中入り」作戦を拒絶した。この戦いは、持久戦であり、最初に動いた方が負ける心理戦なのだ。

 「しかし・・・」

 何度も何度もこの提案の実行を強く要求してくる池田恒興と森長可の2人の武将を見て、秀吉は、こう思った。

 「小牧山城という城は、ぜひ、手に入れておきたい城だ。犬山城と小牧山城の2つの城を手に入れることができれば、この尾張地方は、私が牛耳ったのも同然だ。もし、岡崎城が攻められたことを知った徳川家康が小牧山城から岡崎城に移動すれば、その隙に秀吉軍が小牧山城を奪還することができるかもしれない。」

 そして、何度も何度もこの提案の実行を強く要求してくる池田恒興と森長可の2人の武将に対して、秀吉は、「中入り」作戦の実行を許可するのだった。

 「ただし、織田・徳川連合軍には、秀吉軍の動きを決して知られてはならない。だから、「中入り」作戦の実行は、主に夜に実行すること。そして、家康が岡崎城に向けて動いたらすぐに、小牧山城を奪還する。」

 こうして、秀吉は1万の軍隊を4回に分けて、犬山城から東南方向にある岡崎城に向かわせた。犬山城から岡崎城までは、直線距離にして約64kmの距離がある。主に夜移動していた秀吉軍の1万の先遣隊は、池田恒興と森長可の2人の武将を先頭にして、1日かけて、庄内川のほとりまでたどりついた。犬山城から庄内川のほとりまでは、直線距離にして約20kmの距離である。岡崎城はまだまだ先であった。

 「秀吉の1万の軍隊は、岡崎城に向かって進軍している。」

 そう確信した家康は、織田信雄と共に、天正12年(1584年)4月7日夜8時過ぎ、小牧村にいる江崎善左衛門という男を道案内に頼み、密かに小牧山城を出て、庄内川を渡り、小幡城に入った。徳川・織田連合軍が密かに進んだ小幡城は、秀吉軍が滞在している庄内川のほとりの上条村より、直線距離にして2.4kmほど南に位置している。つまり、天正12年(1584年)4月7日夜8時過ぎの時点で、徳川・織田連合軍は、秀吉軍先遣隊よりも2km以上、岡崎城に近づいていた。

 天正12年(1584年)4月9日早朝、小幡城から5km以上東にある長久手市の色金山で軍議を開いた徳川・織田連合軍は、秀吉軍先遣隊と合流しないうちに仏ヶ根山に入り、秀吉軍先遣隊を迎え撃つことを決めた。徳川・織田連合軍は、まず、4つに分かれて犬山城を出発していた秀吉軍の最後尾の軍隊を襲い、挑発した。秀吉軍最後尾の軍隊は、徳川・織田連合軍と戦いながら、秀吉軍先遣隊に助けを求めた。そして、秀吉軍先遣隊が最後尾の軍隊に助けに入り、何とか、徳川・織田連合軍を敗退に追い込んだ。秀吉軍先遣隊は、最後尾の軍隊に、何かあったら、また、助けを呼ぶように促し、再び元の位置に戻って、仏ヶ根山に到着した。

 そして、仏ヶ根山で秀吉軍先遣隊を迎え撃った徳川・織田連合軍は、秀吉軍に対して大勝利を果たした。このときの死者の数は、秀吉軍が2500名、徳川・織田連合軍が510名、秀吉軍先遣隊にいた池田恒興と森長可の2人の武将は戦死した。そして、勝利をおさめた徳川・織田連合軍は、小幡城に戻って行った。

 天正12年(1584年)4月9日、仏ヶ根山の戦いで秀吉軍が徳川・織田連合軍に敗れたという知らせを受けた秀吉が、楽田砦から2万の軍隊を率いて、小幡城と目と鼻の先にある竜泉寺砦に入ったのは、その日の午後5時頃だった。しかし、徳川家康と織田信雄は、その日の午後8時、密かに小幡城を出発して、小牧山城に戻っていった。小幡城を攻めようとしていた秀吉は、翌日の4月10日明け方に徳川家康と織田信雄が小牧山城に戻ったことを知り、なすすべもなく、楽田砦に戻って行った。

 その後、羽柴秀吉軍と徳川家康・織田信雄連合軍は、にらみ合いが続いたが、長久手市で戦ったような大きな合戦はなく、動きのないまま1カ月が経った。そして、天正12年(1584年)5月1日、羽柴秀吉の主力部隊は、大阪城に引き上げ、7月には、家康の主力部隊も岡崎城に帰って行った。

 天正12年(1584年)11月、羽柴秀吉は、桑名にて、織田信雄と和睦をし、これを知った徳川家康は、完全に手を引いて、岡崎城に戻って行った。そして、当時の人々は、この戦いを「小牧・長久手の戦い」と呼び、後世まで語り継いでいったのだった。

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