二十二太閤検地

 「それにしても、徳川家康はしぶとい。」

 天正12年(1584年)、豊臣秀吉と徳川家康の間で、小牧・長久手の戦いが起こり、犬山城周辺にいた豊臣秀吉は、そこから、南に歩いて3時間ちょっとの小牧山城にいる徳川家康と向かい合っていた。この戦いは、豊臣秀吉と徳川家康が互いに砦を築いてにらみ合う持久戦であった。徳川家康は、小牧山城から動くことなく、豊臣秀吉をにらんでいた。

 豊臣秀吉は、だんだん、いらいらしてきた。このような状況の中、自分たちが戦闘に巻き込まれるかもしれないのに、比叡山の僧侶たちは、秀吉のもとを訪れて、比叡山復興の陳情をしている。秀吉は、うるさい者たちを遠ざけたいという気持ちと、やはり、信長公の比叡山焼き討ちは、やりすぎであったと思う気持ちが交錯して、比叡山の僧侶たちに、比叡山延暦寺の造営費用を寄進してしまったのであった。そして、秀吉のいらいらは、最高潮に募った。

 「なぜ、徳川家康は、小牧山城から一歩も動こうとしないのだ?このままでは、こちらの精神状態がまいってしまう。それに、小牧山城は、とても重要な要塞だ。今後のためにも、何とか家康に小牧山城から動いてもらって、そのすきに、小牧山城を奪還する必要がある。 やはり、池田や森が主張する「中入り」作戦を実行した方がいいのだろうか。池田や森が主張するように、今、家康の本拠地である岡崎城を攻めれば、家康は、小牧山城から動くだろう。

 よし、「中入り」作戦実行のため、これから、岡崎城を攻める一団を組織して、秘密裏に岡崎城を奇襲しよう。そうすれば、徳川家康もあわてて、小牧山城から岡崎城に動くだろう。その間に、この豊臣秀吉が小牧山城を奪還するぞ。」

 そして、豊臣秀吉は、3万7千余の大軍を4つの隊に分け、それぞれの隊に4人の信頼する武将をつけて、密かに、犬山から岡崎に向かわせた。

 9千人超の秀吉の隊が、何回も、犬山から一山超え、池ノ内、大草を通って東に進んでいく。大久佐八幡宮の宮司である波多野九郎は、この光景を見て、首をかしげた。

 「秀吉の軍隊は、なぜ、小牧山城に向かわず、ここにいるのだろう?しかも、何隊にも分かれて、明らかに、秘密裏に動いているように見える。」

 波多野九郎がこのように不思議に思っているところへ、大草から更に南にある古代の官道の近くの篠木という所に住む氏子がやってきて、こう言った。

 「これは、きっと、豊臣秀吉の何かの策略だと思う。小牧山城にいる徳川家康公にこの動きを知らせる必要があるのではないか?」

 大久佐八幡宮の宮司波多野九郎も篠木の氏子の言うことは正しいと思った。それで、波多野九郎は、篠木の氏子に小牧山城へ行かせ、この情報を徳川家康に伝えたのであった。

 実は、徳川家康は、小牧・長久手の戦いのために小牧山城に来た直後、密かに、部下とともに、大久佐八幡宮を訪れていた。

 「この神社は、平治の乱で都から落ち延びた源家の末裔である波多野氏が帰依して、源頼朝様が、平家を滅ぼした直後に大きくした神社だと聞いているが、本当か?」

 徳川家康のこの問いに、大久佐八幡宮の宮司波多野九郎は、「その通りだ。」と答えた。すると、徳川家康は、こう言った。

 「私も、先祖をたどれば、源家となるのだ。同じ源家に先祖を持つ者同士、お互いに、仲良くしよう。私は、将来、天下を取るのは、豊臣秀吉ではなくて、この徳川家康であることに自信を持っている。まあ、見ていてください。私が天下を取って、世の中を太平にした暁には、この神社のことはよくさせてもらいますよ。」

 その後も、徳川家康は、何度か、大久佐八幡宮を訪れた。徳川家康は、本当に気さくな人柄の持ち主だった。大久佐八幡宮の宮司波多野九郎は、神社にある直刀のことや比叡山焼き討ち前夜に天台座主覚恕法親王一行や大山寺の成安一行を多治見に逃がしたことを、危うく、徳川家康にしゃべってしまいそうになるほどだった。

 そんなわけで、大久佐八幡宮の宮司波多野九郎は、「将来、天下を取った暁には、この神社の面倒をみると言っていた徳川家康公に協力しないわけにはいかない。」ということで、豊臣秀吉の軍隊が、いくつにも分かれて、秘密裏に東の方面へ向かっていったという情報を、小牧山城にいる徳川家康に知らせたのであった。

 小牧山城にいる徳川家康公は、この情報を耳に入れた後、豊臣秀吉が自分の本拠地である岡崎城に奇襲をかけようとしていることに気付いた。そして、岡崎城に行く途中の長久手の地で、徳川家康の軍隊は、豊臣秀吉の隊を迎え撃った。この長久手の戦いで、秀吉は、池田や森など「中入り」作戦を主張した自分の優秀な部下たちを失い、岡崎城に向かっていた秀吉の隊は、退却を余儀なくされた。

 長久手の戦いで敗れた一報を聞いた秀吉は、犬山から動けず、徳川家康も小牧山城から動かず、両者は、にらみ合いを続けた。結局、豊臣秀吉は、犬山から撤退して大阪に帰り、それを見た徳川家康も小牧山城から身を引いた。豊臣秀吉と徳川家康は、この後、和睦し、8ヶ月に渡る小牧・長久手の戦いは終了した。

 豊臣秀吉は、悔しかった。小牧・長久手の戦いで秀吉が家康に勝てなかったのは、どう考えても、長久手の戦いで優秀な部下を失い、岡崎城に向かっていた隊が退却しなければならなかったことがあったからだ。なぜ、秘密裏に岡崎城に向かっていた隊の情報が、家康に漏れたのか。大阪城で秀吉がこのことについて、部下と協議していた時、秀吉の部下が、一つの情報を持ってきた。

 「この地図を見てください。我々が岡崎に向かって東に向かっていく途中にこの大きな神社があるでしょう?この神社、まわりに何もない人気のない所に建っている割には、大きな神社だと思いませんか?我々の軍隊は、この神社の敷地の中を通って、岡崎に向かっていたのです。

 この大久佐八幡宮という神社、とても不思議な気がしたので、現地に行って、調べてみました。この神社の近所に住む数少ない農民の一人に聞いてみたら、この神社、結構、昔からある由緒正しい神社のようです。なんでも、源頼朝が大きくした神社だとか。そして、身分の高い恰好をしたお坊さんや武士が、この神社に出入りする所を見たという農民が多いのです。最近では、小牧・長久手の戦いの最中に、何度も、身分の高い恰好をした武士の一団がこの神社に入っていくのが目撃されています。」

 「ほう。」

 と、豊臣秀吉は、部下からの情報に耳を傾けた。

 「小牧・長久手の戦いの最中にこの神社を訪れていた身分の高い恰好をした武士たちというのが、徳川家康公一行だとしたら?豊臣秀吉の軍隊が、秘密裏に、何隊にも分けて、小牧山城ではなく、東の方面に向かっていくところを、この神社の宮司が目撃したとしたら?私だったら、家康公に知らせますよ。」

 この部下の言う通りだと豊臣秀吉は思った。それで、秀吉は、この部下に次のように命じた。

 「よし、いい機会だから、この大久佐八幡宮という神社に検地に入ろう。」

 こうして、豊臣秀吉による太閤検地が、大久佐八幡宮に入った。慶長年中のことであった。(具体的には、1596年から1598年頃のことであると考えられる。)大久佐八幡宮の宮司波多野九郎は、なぜ、今、急に検地をするのかと秀吉の部下を問い詰めたが、秀吉の部下は、何も言わず、強制的に神社の検地を進めるのだった。

 そして、大久佐八幡宮の検地の結果を見た豊臣秀吉は、部下にこう命じた。

 「大久佐八幡宮の社領は、神社の参道と本殿のみとし、あとは、没収せよ。もし、神社側が抵抗したら、切り捨てても構わん。」

 こうして、大久佐八幡宮の社領は、ほとんどが秀吉に没収され、残ったのは、神社の参道と本殿のみとなった。こんなに神社が狭くなっては、この神社で流鏑馬をすることも、御輿で遊幸することもできない。大久佐八幡宮の宮司波多野九郎は、徳川家康公に助けを求めたが、徳川家康は、こう言った。

 「今は、耐えてください。私が天下を取った暁には、必ず、よくしますから。」

 小牧・長久手の戦いが終了して、10年余がたち、元号が慶長に変わり、大久佐八幡宮が太閤検地によって、領地のほとんどを没収された。徳川家康が、太閤検地による大久佐八幡宮の領地没収に本格的に対抗することができなかったのは、大久佐八幡宮の宮司波多野九郎が、常に、奥歯に物が挟まったような言い方しかできなかったことが一因ではある。「こちらが、このように親しく話しかけているのに、何か、この者は、心の奥にしまいこんだものがある。」ことを、徳川家康は、見抜いていた。

 しかし、徳川家康が、太閤検地による大久佐八幡宮の領地没収に本格的に対抗することができなかった最大の理由がある。徳川家康は、知っていた。秀吉の死が近いことを。慶長3年(1598年)、豊臣秀吉は、徳川家康に遺言書を出し、自分の死後は息子である秀頼の後見人になるように頼んで、息を引き取ったのだった。

  大久佐八幡宮の領地が、豊臣秀吉の太閤検地によって、ほとんど秀吉に没収された話は、比叡山にも届いた。もう一度大山寺を再興したいと願う僧侶たちにとって、この話は、衝撃的だった。大山寺の再興という目的のためには、大久佐八幡宮の持っていた役割は大きかった。しかし、比叡山延暦寺の僧侶たちにとって、豊臣秀吉は、信長による焼き討ちから比叡山延暦寺を建て直した恩人だった。

 「将を射んとすれば、まず、馬を射よ。」の言葉のように、豊臣秀吉に大久佐八幡宮を射られた大山寺は、再興する機会を待たなければならなかった。結局、大山寺の法灯を継いだのは、江岩寺ただ一つであった。

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