二十三 文化財保護法

 昭和21年(1946年)、65歳になった小栗鉄次郎は、猿投村の灰宝神社国宝収蔵庫に疎開させていた文化財が全て所有者の手元に戻った後もなお、愛知県より臨時古美術調査委員の仕事を委託され、嘱託職員として、愛知県庁にとどまっていた。戦争が終わり、空襲によって文化財が失われる危険はなくなったが、日本の文化財にとって、新たなる脅威がそこには待ち構えていたのであった。

 昭和20年(1945年)8月15日の終戦と同時に日本にやってきた連合国軍総司令部(GHQ)は、昭和26年(1951年)に日本がサンフランシスコ平和条約を締結して、独立国家となるまでの6年間、日本を統治した。この間、戦争中は愛知県警特別高等課にいた渡辺周五郎や中村佐吉、海軍主計大尉の斉藤啓輔が公職から追放され、それぞれ別の道を歩み出すことになったことを鉄次郎は知らない。鉄次郎は、戦争中も戦後も、相変わらず、文化財を調査研究し、保護する仕事に携わっていた。

 昭和21年(1946年)1月、戦争中は人間の姿をした神様だと思われていた天皇が、「天皇と国民との間にあるのは、相互の信頼と敬愛による結びつきであり、決して、神話と伝説による結びつきではない。」という、いわゆる、天皇の人間宣言を国民に向けて宣言した。そして、昭和21年(1946年)5月、新しい日本国憲法が公布された。その憲法は、主権は国民にあって、政治は、普通選挙によって選ばれた国会議員による議院内閣制によって行われ、天皇は国民の象徴であって政治権力は存在せず、それまでは、政府が決めてきた地方政治を国民の選挙によって決めることとし、日本は戦争を放棄し、国民は皆平等に基本的な人権を有するということを規定していた。そして、新しい日本国憲法の公布と同時に、戦争犯罪人を裁く極東国際軍事裁判が開始された。多くの国民は、戦争中に日本の権力者であった東条英機元首相や板垣征四郎元陸軍大将らが犯罪者として裁判を受け、あるときには、かつて部下であった者に頭を殴られる東条元首相の姿を映画ニュースで見た。

 昭和20年(1945年)8月15日の終戦と同時に日本にやってきた連合国軍総司令部(GHQ)は、とりあえず、日本に天皇制を残した。その方が日本を統治しやすいと連合国軍総司令部(GHQ)が判断したからだ。しかし、連合国軍総司令部(GHQ)によって日本に残された天皇制は、日本人の中における位置付けが戦前とは全く異なるものであった。このことは、文化財を調査し、研究し、保護をする仕事に携わる者にとっては、両刃の剣のようなもので、一方では、日本の考古学の研究の壁となっていたものが一気に取っ払われたという見方もできるが、使い方を間違えると、文化財を失ってしまう危険性をもはらんでいた。古来より、日本の文化を作り、守って来た役割を担っていたのが天皇制だったからである。日本が有する文化財の多くは、神社仏閣が有しており、神社仏閣が有する文化財は、天皇と一般人を神話と伝説に寄って結びつける役割を果たしてきたのであった。

 昭和21年(1946年)5月、連合国軍総司令部(GHQ)により、「皇族の財産上その他の特権廃止に関する指令」が出されてから、経済的に皇室活動ができなくなった皇族の中には、皇室の籍から離脱を考える宮家も多く出て、昭和22年(1947年)には、11宮家51名が皇室を離れていった。そして、昭和22年(1947年)、法の下の平等をうたう新しい日本国憲法の施行に伴って、連合国軍総司令部(GHQ)は、華族制度を廃止した。

 小栗鉄次郎は、65歳になった昭和21年(1946年)3月に愛知県から臨時古美術調査委員を委託された。そして、昭和21年(1946年)12月、大正8年(1919年)に施行された史跡名勝天然記念物保存法の生みの親の一人である東京帝国大学教授の黒板勝美が病気で亡くなった。73歳であった。

 小栗鉄次郎は、史跡名勝天然記念物保存法のもとで発足した愛知県史跡名勝天然記念物調査会で調査主事をすることになったことで、文化財の調査研究と保護の仕事に就くことになったのだ。それから、20年近くの月日がたち、愛知県史跡名勝天然記念物調査主事の仕事に就いた頃は46歳であった小栗鉄次郎は、黒板勝美が死去した時65歳となっていた。そして、天皇主権をうたう大日本帝国憲法が廃止となって、国民主権をうたう新憲法が公布され、天皇が象徴天皇となり、黒板勝美が死去した昭和21年(1946年)12月の時点でもなお、旧憲法のもとで作られた「史跡名勝天然記念物保存法」は法律として有効であった。

 天皇が人間宣言をし、皇室の規模が縮小し、華族制度が廃止となる中で、史跡名勝天然記念物保存法に基づいて発足した史跡名勝天然記念物調査会は、まだ、この時点では、その機能は生きていた。この時点で、小栗鉄次郎は、愛知県の嘱託職員として、史跡名勝天然記念物調査委員の職に就いていた。そして、名古屋市民の間では、空襲によって名古屋城や熱田神宮などの名古屋市内の文化財的な建物は焼失したけれども、小栗鉄次郎を始めとする愛知県史跡名勝天然記念物調査会が名古屋城本丸御殿障壁画や熱田神宮にある宝物を疎開させていたおかげで、国宝は残ったという事実が広く知れ渡っていた。

 しかし、鉄次郎自身、連合国軍総司令部(GHQ)占領下で、自分の働いているこの組織が続いて行くことができるのか、という一抹の不安は持っていた。そして、もし、連合国軍総司令部(GHQ)の占領下において、史跡名勝天然記念物調査会という組織が無くなってしまった場合、一体、どのような組織が、我々に変わって、文化財保護の役割を担っていくのだろう、と鉄次郎は考えていた。65歳という年齢は、普通なら、職場を引退する年齢だろう。だから、鉄次郎は、自分が職場を引退することは、それほど、苦痛なことではないと考えていた。しかし、自分の後に続く若い者が、一体、どのような文化財行政を展開していくのだろう、という興味は、鉄次郎の心の中にふつふつと沸いていた。

 昭和20年(1945年)12月に連合国軍総司令部(GHQ)が出した神道指令により、神社と国家は分離させられ、神社は、それまで支払われていた国家からの補助金をもらえなくなった。そして、小さな神社は潰れていき、神社が潰れると同時に、神社が保管していた文化財は流出していく。それでも、戦争によって失われる文化財の量を考えると、随分、ましな話であった。だから、日本人は、連合国軍総司令部(GHQ)には従順に従っていったのだとも言える。多くの日本人にとって、戦争は、二度と体験したくない出来事であった。

 ところで、昭和23年(1946年)7月、日本学術会議法という法律が公布される。この時、連合国軍総司令部(GHQ)占領下の日本に「日本学術会議」という組織ができあがった。

 では、「日本学術会議」とは何か。それは、数多くいる日本の科学者の代表機関として、科学の向上発達をはかり、行政、産業、国民生活に科学を反映浸透させることを目的として、内閣総理大臣所轄の下で、独立して職務を行う機関のことである。「日本学術会議」の職務とは、科学に関する重要事項を審議し、その実現を図り、科学に関する研究の連絡を図り、研究の能率を向上させることである。「日本学術会議」設立当初、会長以下「日本学術会議」に参加する会員は、登録された科学者の選挙によって決められていた。任期は3年であった。

 「日本学術会議」は、設立当初は7部制をとっており、1部が文学・哲学・教育学・心理学・社会学・史学、2部が法律学・政治学、3部が経済学・商学・経営学、4部が理学、5部が工学、6部が農学、7部が医学・歯学・薬学と決められていた。そして、「日本学術会議」とは、その設立当初は、それまで天皇主権のもとで働いてきた科学者の間に、国民主権の意識を植え付け、会員を科学者の間の選挙によって決めるという民主主義方式を科学者の間に浸透させることを目的の1つとして、組織された機関だと言える。

 昭和23年(1948年)、67歳になった鉄次郎は、日本学術会議の有権者名簿に登録された。鉄次郎が所属したのは第4部の中の人類学であった。それは、鉄次郎がまだ愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事の仕事をしていた昭和5年(1930年)の西志賀貝塚や昭和14年(1939年)の大曲輪貝塚発掘調査の時に、縄文時代や弥生時代の土器片や銅の鏃とともに発見された人骨の研究成果が認められたことによるものであろう。しかし、鉄次郎が所属した部がなぜ、1部ではなく、4部だったのか。当時、考古学が理学の1部とみなされていたということなのだろうか。

 平成27年(2015年)現在、その設立から67年経過した「日本学術会議」は、内閣総理大臣所轄の下、全国約84万人の科学者の代表として選出された210名の会員と2000名の連携会員により組織されている。現在の会員の選考は、選挙ではなく、会員および連携会員が候補者を推薦し、候補者の中から選考委員会が選考するという推薦方式によって決められており、設立当初は7部制であったものが、現在では3部制(第1部人文・社会科学、第2部生命科学、第3部理学・工学)となっている。現在、「日本学術会議」の会員の任期は6年で、70歳で定年となる。

 ところで、昭和24年(1949年)1月、法隆寺金堂壁画が火災によって焼失する、というショッキングな事件が起こった。出火原因は、法隆寺金堂壁画を模写していた画家たちが寒さをしのぐために使っていた電気座布団のサーモスタットの不良とスイッチの消し忘れによる失火と認定された。その後、法隆寺金堂壁画に関しては、模写作品を参考にしながら、20年後の昭和44年(1969年)に再現壁画が完成する。

 法隆寺金堂壁画の火災によって、死者やけが人が出た訳ではない。ただ、法隆寺金堂壁画という文化遺産を焼失しただけである。しかし、法隆寺金堂壁画が火災によって焼失したという事件が起こった当初は、マスコミは一斉に号外を出し、どうして、法隆寺金堂壁画が焼失したのか、その責任の所在はどこにあるのか、と文化財の専門家たちは紙面で主張しあった。「国宝」「国家」「民族」「文化」「世界史上類まれな壁画が焼失」という文字が新聞の紙面をにぎわせた。法隆寺の僧侶は焼け落ちた金堂壁画の前で手を合わせ、壁画を模写していた画家たちは、ただ、ただ、「申し訳ございません。」と、平謝りに謝った。

 そして、法隆寺金堂壁画焼失事件は、連合国軍総司令部(GHQ)占領下における日本の国会議員が「文化財保護法」という新しい法律を作るきっかけを与えてしまった。そして、昭和25年(1950年)、「文化財保護法」という新しい法律が生まれ、大正8年(1919年)に作られた「史跡名勝天然記念物保存法」は廃止された。もちろん、「史跡名勝天然記念物保存法」のもとで発足した「愛知県史跡名勝天然記念物調査会」は、「史跡名勝天然記念物保存法」の廃止とともになくなり、その仕事をする組織は、「文化財保護法」が規定する組織に引き継がれていった。

 昭和26年(1951年)、サンフランシスコ平和条約が結ばれ、日本における連合国軍総司令部(GHQ)による占領時代は終わりを告げた。以降、日本は、独立国家としての道を歩み出すことになる。

 一方、昭和20年(1945年)8月15日から昭和26年(1951年)までの日本における連合国軍総司令部(GHQ)による占領時代の間、小栗鉄次郎は、愛知県から委託された臨時古美術調査委員の仕事や日本学術会議の有権者としての仕事をする傍ら、鉄次郎の実家でもある石野村にある自宅で、地方博物館のようなものを開館していた。戦争中、名古屋市内の鉄次郎の自宅にあった考古資料を全て実家のある石野村に疎開させてから、戦争が終わっても、鉄次郎は、石野村にある考古資料を自宅から動かすことができなかった。それで、鉄次郎は、あるときには、石野村にある自宅に、近くの学校の生徒や先生を招いて、自宅の縁側に鉄次郎の収集した考古資料を並べ、考古資料の説明をした。また、あるときには、大学の研究者らを自宅に招いて、鉄次郎が収集した資料の中から、研究に必要な資料を見せたり、その資料について説明したり、貸し出したりした。また、あるときには、百貨店での展覧会に自分の収集した考古資料を出品した。

 そのような生活を送っていた鉄次郎が69歳になった昭和25年(1950年)、鉄次郎は、石野村にある自宅で、ラジオから流れてくるニュースに耳を傾けていた。そのニュースは、大正8年(1919年)に作られた「史跡名勝天然記念物保存法」が廃止となり、新しく「文化財保護法」という法律が出来上がったことを知らせるニュースであった。

 大正8年(1919年)に作られた「史跡名勝天然記念物保存法」は、史跡名勝天然記念物の定義を次のように規定していた。

 一 都城跡、宮跡、行宮跡其の他皇室に関係深き史跡

 二、社寺の跡及祭祀信仰に関する史跡にして重要なるもの

 三、古墳及著名なる人物の墓並碑

 四、古城跡、城砦、防塁、古戦場、国郡庁跡其の他政治軍事に関係深き史跡

 五、聖廟、郷学、藩学、文庫又は是等の跡其の他教育学芸に関係深き史跡

 六、薬園跡、悲田院跡其の他社会事業に関係ある史跡

 七、古関跡、一里塚、窯跡、市場跡其の他産業交通土木等に関する重要な史跡

 八、由緒ある旧宅、苑池、井泉、樹石の類

 九、貝塚、遣物包含地、神籠石其の他人類学及考古学上重要なる遺跡

 十、外国及外国人に関係ある重要なる史跡

 十一、重要なる伝説地

 そして、「史跡名勝天然記念物保存法」は、以上のような史跡名勝天然記念物を国からのトップダウン方式で保護するよう規定していた。つまり、具体的に言うと、保護すべき文化財があった場合、文部大臣が史跡名勝天然記念物を指定し、文部省が地方公共団体に史跡名勝天然記念物を管理するよう指示をし、地方公共団体が史跡名勝天然記念物を保管する費用がなかった場合は、国から費用を補助することができ、史跡名勝天然記念物を保護するために一個人が損害を被った場合は、国が一個人に対して補償を行うことができるというものであった。そして、国からのトップダウン方式で、愛知県史跡名勝天然記念物調査会と言う組織があり、小栗鉄次郎は、愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事という仕事に就いていたのである。

 昭和25年(1950年)に公布された「文化財保護法」は、文化財の定義を次のように規定した。

 一  建造物、絵画、彫刻、工芸品、書跡、典籍、古文書その他の有形の文化的所産で我が国にとつて歴史上又は芸術上価値の高いもの(これらのものと一体をなしてその価値を形成している土地その他の物件を含む。)並びに考古資料及びその他の学術上価値の高い歴史資料(以下「有形文化財」という。)

 二  演劇、音楽、工芸技術その他の無形の文化的所産で我が国にとつて歴史上又は芸術上価値の高いもの(以下「無形文化財」という。)

 三  衣食住、生業、信仰、年中行事等に関する風俗慣習、民俗芸能、民俗技術及びこれらに用いられる衣服、器具、家屋その他の物件で我が国民の生活の推移の理解のため欠くことのできないもの(以下「民俗文化財」という。)

 四  貝づか、古墳、都城跡、城跡、旧宅その他の遺跡で我が国にとつて歴史上又は学術上価値の高いもの、庭園、橋梁、峡谷、海浜、山岳その他の名勝地で我が国にとつて芸術上又は観賞上価値の高いもの並びに動物(生息地、繁殖地及び渡来地を含む。)、植物(自生地を含む。)及び地質鉱物(特異な自然の現象の生じている土地を含む。)で我が国にとつて学術上価値の高いもの(以下「記念物」という。)

 五  地域における人々の生活又は生業及び当該地域の風土により形成された景観地で我が国民の生活又は生業の理解のため欠くことのできないもの(以下「文化的景観」という。)

 六  周囲の環境と一体をなして歴史的風致を形成している伝統的な建造物群で価値の高いもの(以下「伝統的建造物群」という。)

 そして、「文化財保護法」は、以上のような文化財を保護するために、政府と地方公共団体の任務として、「政府及び地方公共団体は、文化財がわが国の歴史、文化等の正しい理解のため欠くことのできないものであり、且つ、将来の文化の向上発展の基礎をなすものであることを認識し、その保存が適切に行われるように、周到の注意をもつてこの法律の趣旨の徹底に努めなければならない。」と規定した。

 そして、「文化財保護法」は、国民や文化財所有者に対して、「一般国民は、政府及び地方公共団体がこの法律の目的を達成するために行う措置に誠実に協力しなければならない。」としたうえで、「政府及び地方公共団体は、この法律の執行に当つて関係者の所有権その他の財産権を尊重しなければならない。」とし、「文化財の所有者その他の関係者は、文化財が貴重な国民的財産であることを自覚し、これを公共のために大切に保存するとともに、できるだけこれを公開する等その文化的活用に努めなければならない。」とし、「政府及び地方公共団体は、この法律の執行に当つて関係者の所有権その他の財産権を尊重しなければならない。」と規定した。

 つまり、大正8年(1919年)に作られた「史跡名勝天然記念物保存法」が文化財保護を全て国からのトップダウン方式で決めていたことに対して、昭和25年(1950年)に新しくできた「文化財保護法」は、文化財保護は、政府と地方公共団体と国民と文化財所有者の協力によって行われるものであると規定した。もっとわかりやすく言えば、大正8年(1919年)に作られた「史跡名勝天然記念物保存法」が天皇主権のもとで出来上がった法律であったことに対して、昭和25年(1950年)に新しくできた「文化財保護法」は、国民主権のもとで作られた法律である。従って、「文化財保護法」が出来上がった昭和25年(1950年)を境にして、文化財を保護するのは、天皇を始めとする国家なのではなく、国民一人ひとりなのであるという意識改革が行われたのであった。

 文化財を国宝や重要文化財に指定するのは文部大臣の仕事だが、国宝や重要文化財を「保存し、活用し、国民の文化的向上に資するとともに、世界文化の進歩に貢献すること」は、文化財所有者の仕事である。そして、新しく施行された「文化財保護法」は、「史跡名勝天然記念物保存法」を廃止し、「愛知県史跡名勝天然記念物調査会」という組織も廃止した。「文化財保護法」とは、文化財保護に関して、国家と文化財所有者個人との関係を規定する法律となった。文化財保護の主役は国民だ。

 しかし、一口に国民といっても、日本国民は個性もその環境も様々であり、「文化財保護」という特別な知識を必要とするものを全ての国民に託してしまうのは、余りにも、無理がある。これが、民主主義の理想と現実というものだ。

 従って、「文化財保護法」は、文化財所有者という個人に対して、必要な知識や費用を補助することができる組織を規定した。それが、地方公共団体の教育委員会である。そして、文化財保護という観点からみると、戦後に存在する教育委員会という組織と、戦前に存在していた「史跡名勝天然記念物調査会」という組織の違いは、次のようなものである。

 戦前に存在していた「史跡名勝天然記念物調査会」という組織が国からのトップダウン方式で文化財保護の仕事のみを行っていたのに対して、昭和25年(1950年)以後の地方公共団体の教育委員会は、その設立当初は地域住民の選挙によって決められ、教育行政全てを任されていた。従って、昭和25年(1950年)以後の地方公共団体の教育委員会は、文化財保護行政に関しては、あくまでも、文化財所有者という個人に対して、必要な知識や費用を補助することだけが仕事であり、文化財保護の主役はあくまでも文化財所有者個人であるという姿勢で仕事をしていた。

 小栗鉄次郎は、戦前、史跡名勝天然記念物調査会主事という仕事をしていたから、石野村にある自宅に収集している考古資料をどのように管理し、どのように活用していくのか理解していたのだ。しかし、鉄次郎たちのように「史跡名勝天然記念物調査会主事」という仕事に就いたことのない一般市民に、自分が所有している文化財の管理方法や活用方法が理解できているのだろうか、と鉄次郎は思った。恐らく、大多数の国民は、自分の所有している文化財について、その管理方法や活用方法がわからず、教育委員会に助けを求めに来るのではないかと鉄次郎は考えていた。それにしては、教育委員会は、教育行政全てを一手に引き受けている。教育委員会は忙しすぎるのだ。それでも、教育委員会が戦後の文化財保護行政における重要なポイントに置かれていることを小栗鉄次郎は認識していた。

 ところで、教育委員会とは、教育に関する事務を行うために地方公共団体に置かれた行政委員会である。教育委員会の管理する教育機関は、公立学校から図書館・博物館・公民館・その他の教育機関と幅広い。昭和22年(1947年)に施行された地方自治法は、教育委員会の仕事は、これらの教育機関を管理し、学校の組織編成・教育課程・教科書や教材の取り扱い・教育職員の身分取り扱いに関する事務、社会教育や学術及び文化に関する事務を管理し執行することであることを規定している。

 昭和22年(1947年)に施行された地方自治法は、普通地方公共団体に置かなければいけない執行機関の1つに教育委員会を揚げている。昭和23年(1948年)に施行された教育委員会法は、都道府県教育委員会は7人の委員で組織され、都道府県の住民による選挙で決められることを規定していた。また、市町村の教育委員会は5人の委員で組織され、市町村の住民の選挙によって決められることを規定していた。そして、教育委員会法は、教育委員のうちの一人は、該当する地方公共団体の議会の議員の中から、議会における選挙によって決められた者が就くことを規定していた。選挙によって決められた教育委員の任期は4年で、国会議員・地方議会の選挙によって教育委員に決められた者以外の地方議会議員・国家公務員・地方公務員は教育委員の職を兼ねることはできず、都道府県教育委員と市町村教育委員は教育委員の職を兼ねることはできないと規定されていた。

 昭和23年(1948年)に施行された教育委員会法は、8年間施行されていたが、8年後の昭和31年(1956年)に廃止され、平成27年(2015年)現在は、昭和31年(1956年)に施行された地方教育行政の組織及び運営に関する法律によって、教育委員会は運営されている。地方教育行政の組織及び運営に関する法律によれば、教育委員会は、5人の委員で組織され、教育委員は、地方公共団体の長が、地方議会の同意を得て任命することが規定されている。教育委員は、兼職禁止なのは、戦後間もなくできた教育委員会法と同じであるが、教育委員にはリコールの制度が適用され、首長の選挙権を有する住民の総数の3分の1以上の者の連署をもって、住民から首長に対して、教育委員の解職を請求することができる。

 昭和26年(1951年)4月、小栗鉄次郎は、石野村会議員選挙に立候補し、当選した。小栗鉄次郎は、この時、70歳であった。昭和26年(1951年)5月、小栗鉄次郎は、愛知県の文化財審議会委員にも名前を連ねた。昭和26年(1951年)9月、日本は、連合国との間でサンフランシスコ平和条約に調印した。そして、6年間に及ぶ連合国軍総司令部(GHQ)による占領時代は終わりを告げ、日本は、独立国としての道を歩み出すのである。

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