二十三 木曽川大洪水

 「つまり、天正12年(1584年)に起こった小牧・長久手の戦いによって、その後の徳川家康が天下統一を果たす事も、徳川家康が開いた徳川幕府がどのような方針で日本を統治するのかも決まってしまったのだよ。」

 明治3年(1870年)12月最初の日曜日、入鹿池の底にある、一条院孝三の家の中の囲炉裏で、わかさぎや魚の干物や野菜を焼きながら、一条院孝三は、青木平蔵を見、石川喜兵衛を見、江岩寺の中村住職を見た。3人とも一条院孝三の話に夢中になっていた。その時、一条院孝三の奥様が、皿4枚と漬物を持って、囲炉裏の部屋に入ってきた。

 「家で漬けた蕪のぬか漬けですよ。どうぞ召し上がってください。」

 そして、一条院孝三の奥様は、持ってきた4つの皿に蕪の漬物をそれぞれ載せて、青木と石川と中村住職と一条院孝三の前に置いた。次に、一条院孝三の奥様は、お茶の葉を入れた大きな急須1つと湯飲みを4つ持ってきて、一条院孝三の横に置き、

 「このお茶を飲むときは、囲炉裏にかけてある鉄のやかんのお湯を入れてくださいね。」

 と言った。

 「わかっておる。」

 と一条院孝三が奥様に答えると、奥様は、そのまま、囲炉裏の部屋を出ていった。奥様が部屋を出ていくと、一条院孝三は、話を続けた。

 「小牧・長久手の戦いは、秀吉が勝った訳でもなく、織田・徳川連合軍が勝った訳でもない。秀吉は、小牧・長久手の戦いで、池田恒興と森長可の2人の武将を失ったが、その後、慶長3年(1598年)に63歳で秀吉が亡くなるまでの14年間、関白として日本を統治し続けた。

 ところで、江岩寺で家康が弥介と再会してから2年後の天正14年(1586年)6月、木曽川で大洪水が起こった。この大洪水は、尾張の国に大きな被害を与えた。そして、この大洪水によって、木曽川は大きくその流れを変え、今の木曽川の流れになったのだ。

 そして、木曽川で大洪水が起こってから7年後の文禄2年(1593年)11月から12月にかけて、秀吉は、洪水による荒廃から今だ立ち直っていない尾張の国に滞在した。秀吉の尾張滞在は、もちろん、表向きは、尾張地域の振興策を練るためである。だから、秀吉は、多くのブレーンを従えて、尾張に滞在した。しかし、この時期の秀吉の尾張滞在には、もう一つの目的があった。

 この時期の秀吉は、公的には朝鮮半島出兵や朱印船制度の遂行など仕事が忙しかったが、私的なことでは、8月に側室の淀殿との間に秀吉の息子である秀頼が誕生していた。そして、秀頼の誕生によって、秀吉には一つの人生の目標ができた。それは、秀頼に豊臣政権を継がせるということだ。そのためには、小牧・長久手の戦いで露呈した尾張地方における秀吉の地盤の弱さを修復しておく必要があった。

 そして、木曽川洪水によって傷ついた尾張地域の振興策は、秀吉が従えてきた多くのブレーンにまかせ、秀吉自身は、尾張地方における自分の地盤の弱さを分析する仕事を行った。」

 元亀2年(1571年)に信長が比叡山焼き討ちを行って以来、成安上人は、大山寺を廃寺にし、自らは、多くの仏像と共にシャンバラに入り、比叡山延暦寺とは連絡を断ってきた。それから13年後に起こった小牧・長久手の戦いの翌年、成安上人はシャンバラで亡くなり、成安上人の遺言通り、弥介は、シャンバラを統率する成安上人と同じ役割を担っていた。

 弥介も成安上人と同じように、比叡山延暦寺とは一切関わりを持たないようにした。それが、たびたびシャンバラを訪れてくる徳川家康の使いの者の指示であったし、家康が本能寺の変直後に農民に変装した延暦寺僧兵たちに命を狙われた話を聞き、弥介は比叡山延暦寺を恐ろしいと思ったからだ。

 しかし、比叡山延暦寺と関係を断って困るのは、シャンバラの運営費用の問題だった。成安上人が生きている頃は、弥介やその他の修業僧たちが、近隣の寺の手伝いをしたり、近隣の寺に仏像を貸し出したりして、しのいできた。そして、徳川家康の使いの者たちがたびたびシャンバラを訪れるようになってからは、徳川家康から若干の運営費用がもらえるようになった。しかし、シャンバラの経営は苦しく、弥助は、黒人奴隷時代に身に着けた肉体労働を行うことによって、自分の食い扶持だけは何とか自分で確保できる毎日を送っていた。そして、小牧・長久手の戦いから2年後の天正14年(1586年)6月、木曽川で大洪水が起こった。

 シャンバラのある入鹿村は、山に囲まれた盆地にある村なので、木曽川の洪水による直接的な被害はなかった。しかし、木曽川の大洪水により、入鹿村から見れば尾張富士の山の向こうにある犬山城下の城下町や扶桑町や江南市といった木曽川沿いの平野の村は、大きな被害を受けた。木曽川の水によって、村は水没し、水が引いた後も、村の畑や田んぼには大きな岩石がゴロゴロ転がっていた。犬山城の城下町の家々は、すべて廃墟と化した。そして、今まで川が流れていなかったところに、木曽川が流れ始めた。木曽川沿いの平野に居を構える人々は、みな、今まで築いてきた生活の場を捨て、新しい生活を築くことを余儀なくされていた。

 この木曽川洪水の惨状を見るに及んで、弥介をはじめとするシャンバラの修行僧たちは、犬山城城下町に住む人々や木曽川近辺の村に住む人々に対して、救いの手を差し伸べないではいられなかった。シャンバラの修行僧たちは、畑や田んぼに転がった大きな岩石を取り除き、多くの犠牲者の遺体を埋め、お経をあげて供養を施した。しかし、シャンバラの修行僧らボランティアの手だけでは、とてもこの惨状から人々を救い出すのは不可能だった。一体、いつになったら、木曽川洪水の被害にあった人々が平和に暮らせる日が来るのか、弥介たちには、皆目見当もつかないのであった。

 天正14年(1586年)3月に大阪城にて、秀吉からキリスト教の布教活動を認められたイエズス会宣教師のガスパール・コエリョは、京都の南蛮寺にて、尾張の国で木曽川大洪水が起こり、犬山城城下町を含む木曽川沿いの広い地域で大きな被害があったという噂を耳にした。

 コエリョたちイエズス会宣教師による日本での布教活動により、九州、大阪、京都、金沢、静岡などの地域でキリスト教の教会を建てることができた。しかし、尾張の国は、キリスト教の空白地帯で、いまだに、イエズス会宣教師たちは、足を踏み入れることができていない地域だ。そして、ガスパール・コエリョを中心とするイエズス会宣教師たちは、10人ほどのグループを作り、尾張の国にキリスト教を布教させるため、木曽川大洪水の被害地の一つである犬山城城下町に立った。

 木曽川大洪水が起こった3か月後の天正14年(1586年)9月、犬山城城下町に立ったガスパール・コエリョを中心としたイエズス会宣教師たち10人ほどの団体は、ただただ、呆然とその風景を眺めていた。大きな岩石がゴロゴロ転がっている横には、岩石に踏みつぶされて廃墟となった家がそこここに点在し、まだ手つかずで残された白骨化した犠牲者の遺体がそこここにある。そして、コエリョは、穴を掘っては白骨化した遺体を穴に埋め、お経をあげているひとかたまりの僧侶の団体を、遠くから、ぼーっと眺めていた。

 その僧侶の団体は、一つの遺体を埋め、お経をあげ終わると、また、次の遺体をみつけ、穴を掘って埋め、お経をあげるという単純な動作を繰り返していた。そして、その僧侶の団体は、遺体をみつけるたびに、コエリョたちの方に近づいてくる。そして、コエリョたちは、やがて、ひとかたまりの僧侶の団体が、黒い点を中心として、動いていることに気が付いた。

 気になったコエリョは、ひとかたまりの僧侶の団体の方向に歩き出した。その他の10人の宣教師たちも、コエリョの後ろをついていく。そして、コエリョは、お経をあげる黒い頭をした僧侶の正面に立った。コエリョは、黒い頭の僧侶がお経をあげ終わると、黒い頭の僧侶に対して、こう声をかけた。

 「弥介!弥介ではないか。お前、生きていたのか。なぜ、我々に何の連絡もなく、ここにいるのだ?」

 お経をあげ終わった弥介は、目をあげて、コエリョを見た。そして、驚く様子もなく、コエリョにこう言った。

 「私は、今、忙しいので、話しかけるのはやめてもらえますか。あなたがたも、この地域の惨状を目にして、大きな岩石を取り除いたり、落胆して座り込んでいる方々をなぐさめたり、やることは山ほどあるでしょう。

 ああ、あそこにも犠牲者の遺体が転がっている。皆で、供養してあげましょう。」

 そして、黒い頭の僧侶を中心とした一団は、次の犠牲者の遺体を見つけ、穴を掘り、お経をあげる動作を繰り返して、コエリョたちから遠ざかっていくのだった。

 コエリョたちイエズス会宣教師たちは、木曽川洪水の惨状を見るに及んで、布教活動は二の次にして、地元の人々に対してボランティア活動をすることにした。コエリョたちは、岩石がゴロゴロと転がっている荒野の中でミサを行い、食べ物を作って、地元の人々にふるまった。そして、ふさぎ込んでいる被害者に向かって、音楽を演奏したり、踊りを一緒に踊ったりして、被害者を慰めた。

 そのようにして、木曽川大洪水の被災地に1週間ほど滞在したコエリョたちイエズス会宣教師たちは、京都の南蛮寺に戻ってきて、今後、尾張地域に対して、どのように布教活動をおこなっていくか、話し合った。

 「弥介は、我々のもとからいなくなってから、仏教徒に改宗したのだ。これ以上、弥介を追うことはやめにしないか?」

 このような意見もあれば、

 「いや、我々は弥介を取り戻し、もう一度、弥介にキリスト教徒になってもらうべきだ。」

 という意見もあり、

 「弥介は、もしかしたら、将来的には、我々と戦う存在になるのではないか?」

 という意見もあった。

 そして、弥介との付き合い方に関しては、皆の意見の一致が見られないまま、1年間が過ぎた。

 木曽川大洪水が起こってから1年後の天正15年(1587年)6月、九州地方をまわっていた豊臣秀吉は、長崎で、ガスパール・コエリョと面会した。秀吉は、コエリョにこう言った。

 「イエズス会宣教師たちは、キリスト教の布教と称して、九州の領民に対して、無理矢理キリスト教に改心させたり、従来から日本に存在している神仏の寺院や像を破壊したりしていると聞いている。また、海外に日本人を売り飛ばしているという噂も聞いた。

 したがって、今後、キリスト教宣教師たちは、日本で活動することを禁止する。日本でキリスト教の布教をしてはならない。ただし、貿易は、これを許可する。」

 そして、秀吉は、ガスパール・コエリョに、「バテレン追放令」を示した。ガスパール・コエリョは、秀吉から「バテレン追放令」を受け取ると、秀吉にこう聞いた。

 「木曽川大洪水の被災地で、弥介に会いました。秀吉殿に対して、弥介が何か話をしたのですか?」

 しかし、秀吉は、コエリョに背中を見せて、こう言った。

 「弥介のことなど知らん。ただ、九州におけるイエズス会宣教師たちの活動には、目に余るものがある。それだけだ。」

 そして、イエズス会宣教師たちは、九州の平戸に集結して、以後の布教活動を表だってすることを控えた。秀吉は、南蛮貿易は認めているらしい。したがって、イエズス会宣教師たちは、日本で商売をすることを隠れ蓑にして、潜伏活動によって、キリスト教を布教するという方針に転換した。そして、キリスト教布教のための地下活動を行いながら、イエズス会宣教師たちの心の中には、こんな疑問が芽生え始めた。

 「弥介は、本当は、秀吉殿とつながっているのではないか?弥介は、我々が戦うべき相手なのではないか?」

 一方、天正14年(1586年)9月、木曽川大洪水の被災地からシャンバラに帰ってきた弥介は、徳川家康の使いの者がシャンバラを訪れた際、木曽川大洪水の被災地で、イエズス会宣教師たちに会ったことを報告し、彼らが再び自分を取り戻しに来るのではないかと心配していることを告げた。その頃の弥介は、日本人女性との間に子供も生まれ、家族とともにシャンバラに居ついていたのである。子供がまだ1歳くらいであることを考えると、弥介は、どうしてもシャンバラを離れるわけにはいかないのであった。

 すると、家康の使いの者は、弥介にこのように言った。

 「イエズス会宣教師たちが九州で行っている布教活動は、日本を植民地化にする第一歩なのではないかと危惧している声が豊臣政権の中に出てきている。家康殿が天下を取った暁には、キリスト教は禁止する方針でいると家康殿は考えておられるのだが、秀吉殿も、もしかしたら、近いうちに、キリスト教の布教を禁止するつもりでいるかもしれない。

 だから、弥介殿は過度に心配しすぎることはないと思う。今のまま、シャンバラの活動を続けてください。しかし、シャンバラのことは、秀吉殿のみならず、世間に極秘ですので、くれぐれも、シャンバラの情報を漏らすことのないように気を付けてください。特に、秀吉殿のブレーンに存在している比叡山延暦寺の僧侶たちとは、問題を起こしてはなりません。」

 そして、1年後の天正15年(1587年)10月、新しく京都に完成した、秀吉が政務をつかさどる聚楽第のお披露目のため、徳川家康を呼んだ秀吉は、家康に聚楽第の中を案内しながら、こう聞いた。

 「そういえば、今年の6月に、イエズス会宣教師のガスパール・コエリョと長崎で会って、「バテレン追放令」を渡した際、コエリョが、

 「弥介を木曽川大洪水の被災地で見た。弥介が何か秀吉殿に話したのか?」

 と言っていたが、家康殿は、弥介の消息について、何か聞いておるか?」

 すると、家康は、その言葉に驚く様子もなく、こう言った。

 「さあ、私は、何も知りませんが。大体、コエリョたちイエズス会宣教師が木曽川大洪水の被災地で会った黒人は、本当に弥介だったんですか?日本に来た黒人は弥介だけではない。九州の大名たちの家臣にも黒人たちはいた。黒人を見て弥介だと決めつけるのは、ちょっとおかしいのではないでしょうか?」

 秀吉は、家康のこの言葉を聞いて、

 「それもそうだな。」

 と、納得したが、何となく、心に引っかかるものがあることを秀吉は感じていた。

 木曽川大洪水以降、木曽川沿いの平野にある被災地では、木曽川に堤防を造ろうという機運が高まっていった。そして、木曽川大洪水の被災地でイエズス会宣教師たちと出会った弥介は、以後、被災地にボランティア活動に行くことを控えた。弥介は自分がどうしても目立ってしまうことを考慮して、地元の人々と触れ合う仕事は、仲間の僧侶たちに任せておいた。

 弥介自身は、昼間は大山村で農業をしたり、土木作業の仕事があれば仕事をして、夜はシャンバラで仏像の管理の仕事をした。イエズス会宣教師たちは、バテレン追放令が出た後も、何度か木曽川大洪水の被災地に出向いたが、弥助に出会うことはなかった。

 そして、木曽川大洪水の被災地で、布教活動ができなくなったイエズス会宣教師たちは、以後、弥介を探し出すことを目標にして、何度も木曽川大洪水の被災地に出向いた。もちろん、イエズス会宣教師たちは、表向き、木曽川大洪水の被災者の人たちに向けて、物を売る商売をしながらの情報収集だった。

 弥介にとっても、イエズス会宣教師たちにとっても、それからの3年間は、あっという間に過ぎた。そして、木曽川大洪水から4年後の天正18年(1590年)、秀吉は、小田原城を攻略して北条氏を滅亡に追い込み、全国統一事業を完成させた。そして、秀吉は、徳川家康を聚楽第に呼び、家康にこう言った。

 「家康殿には、豊臣政権の五大老の筆頭として諸大名の上に立ってほしい。家康殿には、伊豆・相模・武蔵・上総・下総・上野の関東6か国240万石と11万石を与えるから、今後、家康殿は、岡崎や駿府(静岡県浜松市あたり)から関東に国を移ってほしい。」

 家康は、秀吉のこの申し出を受け入れ、さっそく、関東に入国し、江戸を政治の中心地に定めた。以後、家康は、江戸城を築き、江戸の町造りに奔走する。その頃の江戸は、近くにある富士山はたびたび噴火を繰り返し、温泉がわく未開の荒野であった。

 そして、家康は、関東に移る前に、シャンバラに使いをよこし、弥介にこう指示した。

 「今後、家康殿は、岡崎から江戸に本拠地を移す。しかし、今までと同じように、シャンバラには、定期的に使いの者をよこすことにする。それから、秀吉殿からの収入はアップしたから、シャンバラの運営費用を増額する。

 秀吉殿は、弥介とシャンバラのことについて、何か気づいているのかもしれない。私は、江戸にできるだけ立派な街を造ることで、秀吉殿の目を江戸に向けさせるつもりでいる。しかし、弥介もあまり表だって行動をしない方がいいかもしれない。ただでさえ、目立つ存在だからな。

 くれぐれも、秀吉殿のブレーンである比叡山延暦寺とは問題を起こさないように。イエズス会宣教師たちと比叡山延暦寺とは接触しないことだ。」

 家康が関東に国替えになってから2年後の文禄2年(1592年)11月末、豊臣秀吉は、ブレーンの者たちを従えて、いまだ洪水の爪痕が残る木曽川大洪水の被災地に立った。もう二度と洪水の被害にあわないように、この地に堤防を造ってくれということが、被災者たちの希望であるらしい。

 そして、木曽川にどのように堤防を造るかは、ブレーンの者たちに任せておいて、秀吉は、8年前の小牧・長久手の戦いでなぜ、中入り作戦が失敗したのか分析することにした。今年の8月に誕生した息子秀頼に豊臣政権を継がせるためには、8年前の中入り作戦の失敗の原因をつかみ、尾張地方に対する影響力を家康の手から秀吉の手に移していかなければならない。犬山城に入った豊臣秀吉は、さっそく、尾張地方の地図を広げた。

上へ戻る