二十三 地域の形

 豊臣秀吉が亡くなってから2年後の慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こり、徳川家康は、この戦いに勝利した。そして、慶長8年(1603年)、徳川家康は、源頼朝と同じ、征夷大将軍となった。

 征夷大将軍となった徳川家康は、江戸幕府を開き、以後、260年余、日本は、江戸時代という、安定した平和な時代を迎えるのである。征夷大将軍となった徳川家康は、源頼朝を尊敬し、源平の戦いから源頼朝が鎌倉幕府を開き、北条氏が執権政治によって鎌倉幕府を支えた時代に書かれた歴史書である「吾妻鏡」を愛読書としていた。

 そして、江戸幕府御三家の尾張藩尾張徳川家は、自分たちも大久佐八幡宮を大きくした波多野氏と同じ源家の末裔であるということで、大久佐八幡宮を崇敬した。大久佐八幡宮は、尾北の鬼門防除の神として、歴代の尾張藩代官の赴任・退任時において、代官の奉告参拝を受けた。また、神社で祭りがあるときは、尾張藩の代官は、大久佐八幡宮に奉幣参拝をしていた。つまり、徳川家康は、神社の社領を大きくすることはしなかったものの、「今は、耐えてください。私が天下を取った暁には、必ず、よくしますから。」という言葉通り、大久佐八幡宮を立派な神社にしたのであった。神社の領地の縮小によって、流鏑馬などの大きな祭りはできなくなったが、徳川幕府のバックアップのもと、江戸時代の大久佐八幡宮は、全国から歌を集めて歌会を開くことができるほどの立派な神社になっていた。

 慶応3年(1867年)に明治天皇が即位し、江戸幕府が滅びた。明治政府は、それまでの武家社会を改革し、近代化の道を急速に進めていく。地方政治では、藩を廃止して、県を置き、中央政治では、法律を整備し、政党を作り、帝国議会を開いた。文明開化が進み、産業革命と富国強兵策がとられた。

 このような時代背景の中で、宗教政策にも明治政府の改革のメスは入れられた。それまで同じ扱いを受けていた神社と寺は分離され、全国の神社は、官社、諸社、無格社に分かれた。大久佐八幡宮の社格は、児神社と同じ、諸社の中の村社であった。

 明治時代当時の神社は、その半数が無格社だったことを考えると、大久佐八幡宮や児神社の「村社」という社格は、中の上であると筆者は考える。しかし、江戸時代に徳川幕府のバックアップを受けて大きく成長した大久佐八幡宮の氏子たちが、明治政府のこの決定に納得がいったはずがない。以後、昭和時代に入って、太平洋戦争が終結し、神社が全て平等に「宗教法人」となるまでの間、大久佐八幡宮の氏子たちの葛藤は続くのである。

 昭和の時代に入って、日本が太平洋戦争に敗れると、日本人は、世界の先進国の仲間入りをするべく、必死で働いた。日本の経済は、高度成長時代に入ったが、日本の高度成長時代には、忘れ去られたものがあった。それが、自然や環境や歴史や文化といった分野のことである。

 昭和60年(1985年)、大久佐八幡宮の氏子たちの間から、神社の荒れた姿は放置できないという声がわきあがり、翌年から、大久佐八幡宮の昭和の大修復が始まる。しかし、その時には、白鞘刀2口を始めとする6点の社宝が所在不明・紛失していたのであった。

 ところで、元亀2年(1571年)に江岩寺が大山寺の法灯を継いで以来、江岩寺には、何年かおきに、臨済宗妙心寺派から僧侶が派遣され続けて、現在に至っている。そして、久寿2年(1155年)に鷹司宰相友行が大山に赴任して来て、大山廃寺跡の片隅に建てた児神社は、毎年4月に祭礼を行いながら、現在に至っている。

 江岩寺が大山寺の法灯を継いでから、大山寺は廃寺跡となり、大きな遺跡のみを残すところとなった。江戸時代以降に大山廃寺跡地に寺が建設されることはなかった。しかし、寛文8年(1668年)に、江岩寺住職の的叟が、大山寺の言い伝えとして地元の人々の間に残っていたものを文章にして、「大山寺縁起」という書を残した。そして、明治時代になり、作者不詳の「江岩寺縁起」という書が書かれて、大山寺と江岩寺の歴史が後世に残った。

 また、「尾張名所図会」という、江戸時代における尾張地方の観光名所の図や絵を集めた本が、天保15年(1844年)に刊行された。この中に、大山廃寺跡を紹介したページがある。つまり、江戸時代には、大山廃寺跡は、尾張地方の観光名所になっていた。そして、江戸時代以降、大山寺は、建物が再興されることはなかったが、大山廃寺として、書物に紹介されて、観光名所にもなり、後世に残っていくことになる。

 そして、大山廃寺遺跡のある山のふもとには、江岩寺が、ひっそりとたたずんで、大山寺の法灯を守り、毎年お盆には、万灯会を行って、先祖の供養と平和を願っている。大山廃寺遺跡の一角に建つ児神社では、毎年4月に、山のふもとの大山の里から、二組の獅子が児神社まで登り、神主が稚児の祈祷をするという祭礼を行っている。

 昭和3年(1928年)に大山廃寺跡の中、地表下1〜2mの深さから、塔の礎石跡が発見され、翌年に、塔の礎石跡付近が国の指定史跡となる。その後、太平洋戦争を挟んで、昭和49年(1974年)から5年間をかけて、大山廃寺跡の中の塔跡と児神社境内を中心として、発掘調査が行われ、発掘調査報告書が刊行された。その結果、大山廃寺跡の中の国の指定史跡の範囲が拡大された。現在、大山廃寺のある山の中一帯は、愛知県の「自然環境保全地域特別地区」に指定されている。

 「大山廃寺発掘調査報告書」が刊行された昭和54年(1979年)、古代には篠岡古窯跡群が存在していた篠岡丘陵にて、桃花台ニュータウンの宅地分譲が開始された。そして、現在、桃花台ニュータウンには、約3万人の人々が暮らしている。しかし、桃花台ニュータウンの規模は、古代にこの地に存在していた篠岡古窯跡群と比較したら、その一部分にすぎない。

 筆者は、桃花台ニュータウンも含めた小牧市東部の地域の形は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の時代(安土・桃山時代)に、現在と同じものができあがったと考えている。安土・桃山時代から410年がたって、この地域には、住宅地ができ、高速道路が建設されたけれども、それは、安土・桃山時代にできあがったものを壊すほどの力はない。このことは、小牧市東部の篠岡丘陵付近に限らず、尾張平野全般について、言えることである。昭和20年(1945年)太平洋戦争が終結し、空襲によって、名古屋市の名古屋城は燃えてしまったけれども、名古屋市から安土・桃山時代の影響を全て消し去ることはできなかった。

 そして、平成19年(2007年)の秋、筆者は、大山廃寺遺跡の塔跡の背後にある山肌を登った。この山肌には、途中、古墳の石室の横側に穴をあけたような、人が一人寝ることができるような長方形の穴が存在している。そして、筆者は、塔跡の背後の山の頂上に立って、景色を眺めようとしたけれども、山の木々に遮られ、頂上からの景色は見られなかった。筆者はその後、塔跡とは反対側に下って行った。塔跡の反対側の山肌は、スロープのようになっていて、落ち葉がクッションになっている。筆者は、スキーで斜面を滑り落ちるように、腰を落として、頂上から塔跡とは反対側のふもとに滑り下りた。滑り下りた所は、台地のようになっていて、台地を一段降りると、平坦な土地になっている。

 頂上から塔跡とは反対側に下りたその場所は、すり鉢の底のような場所で、すり鉢の底から、曲がりくねった道が一本伸びている。従って、その場所から抜け出すためには、その道を先に進むか、今滑ってきたスロープを歩いて登るかの2つの選択肢しかない。当然、筆者は、曲がりくねった道を先に進んでいった。このすり鉢の底のような場所は、この小説「法灯を継ぐ者」の中では、玄海上人が平安時代末期に本堂を建てた所である。

 曲がりくねった道は、意外に高低差のない山道だ。道の左右に色の違う土地を何箇所か確認しながらしばらく進むと、左手に、白く光る大きなものが見えてきた。筆者が、「何だろう?」と思って、白く光る大きなものに近づいていくと、そこにあった白く大きなものは、ダムであった。それは、愛知県が、最近建設した新しい治水ダムだ。そのダムは、今まで、古代・中世の時代の遺跡に想いを馳せながら、道を進んできた筆者の目の前に突然現れた、昭和・平成時代の建造物であった。

 そして、筆者は、平成12年(2000年)に起こった東海豪雨が収まってから3日後位に、大山廃寺遺跡の近くにある山道を車で通り過ぎたとき、山から、まるでナイアガラの滝のように水が多量に落ちていたのを目撃し、恐怖を感じたことがあったことを思い出した。小牧市洪水ハザードマップによると、大山廃寺遺跡や江岩寺やふもとの大山地区は、急傾斜地崩壊危険個所、土石流注意箇所、崩壊土砂流出危険地区に指定されている。このダムも地域の人々の要望で建ったものなのだろう。しかし、「大山廃寺遺跡概説」の中で著者の入谷哲夫氏が書いている通り、平安時代末期に児神社建設のために都から来た勅使である鷹司宰相友行が歌に詠んだ金剛・王子・胎蔵の滝は、ダム建設によって枯れてしまった。今、大山廃寺遺跡の中の不動坂を歩くと、枯れた滝の近くに、コンクリートのベンチだけが残り、滝の歴史を物語っているようだ。

 そして、白い大きなダムの横側の山肌を滑り降りると、道は二手に分かれている。その道を左手に入ると、大山不動に到達すると思われるが、筆者は、その道を右に進んでいった。すると、しばらくして、児神社の裏に到着した。筆者が大山廃寺遺跡の山の中を歩いた印象では、児神社は、塔跡や大山不動など大山廃寺遺跡観光の起点になっている。大山廃寺遺跡の中の様々な古道は、全て、児神社につながっている。

 そして、児神社の隣に、昭和の時代に開発した大山廃寺駐車場がなければ、筆者は、こんなに何回も大山廃寺の山の中に入ることはできなかっただろう。大山廃寺駐車場は、第5次発掘調査地点の上に建設されている。そこは、この小説「法灯を継ぐ者」では、平安時代末期に玄海上人が太鼓堂を建てた場所だ。しかし、大山廃寺駐車場を利用する観光客が意外に少ないのは、なぜだろう。

 これは、観光地全般に言えることだが、駐車場を造ったからと言って、観光客が増えるというものではない。観光客を増やすためには、できるだけ多くの人々にその観光地を知ってもらう努力をしなければならない。観光対策の施設の建設と観光地の紹介は、観光対策という車の両輪だ。現在の大山廃寺遺跡という車は、車の両輪のうち、施設の建設の輪が重く、観光地の紹介の輪が軽くできているので、とても不安定で、何か事が起こった時には、倒れてしまいそうだ。大山廃寺遺跡という車が少しでも安定走行ができるように、観光地の紹介の車の輪がもう少し大きくなるように、筆者は、この小説「法灯を継ぐ者」を執筆している。

 最後に、大山廃寺について、筆者の頭の中を離れることがないできごとを、小説にして書いてみる。

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