二十四 残されたもの

 「おい、この洞窟なら、たとえ、比叡山の僧兵が攻めてきても気付かないだろう。いつ、比叡山が攻めてくるかわからないから、今晩、この坊にある仏像や経本を洞窟の中に移動させるぞ。」

 平安時代末期の仁平2年(1152年)のある夜、大山寺で修業をしていた一部の僧侶たちは、洞窟に、自分たちの坊にある仏像や巻物などをいくつも運び込んだ。

 その洞窟は、大山寺のある山の中にあった。その洞窟の入り口は、大山寺にある鉄鉱石の鉱山の場所よりも山を下ったところにある、巨岩壁の上の方にあった。しかし、その洞窟の入り口は、巨岩壁の上からは見えないし、下からも見えない。巨岩壁を登らなければ、その洞窟は、存在がわからないようになっていた。そして、自分たちの坊にある大事なものを全て運び終えると、大山寺の僧侶たちは、木の枝を細かい格子状に組んで作った柵で洞窟の入り口をふさぎ、誰も入れないように、ひもでしっかり、岩に固定した。

 そして、仁平2年(1152年)3月15日、比叡山僧兵がやってきて、大山寺に火を付け、一山まるごと焼き払った。この時、洞窟に仏像や巻物などを密かに運び込んだ僧侶たちは、迫りくる火に飲まれて亡くなった。しかし、巨岩壁の上の方にあいている洞窟の中まで火の手はまわらず、洞窟の存在は比叡山の僧兵たちにも気付かれないまま、僧侶たちが運び込んだ仏像や巻物は、洞窟の中にひっそりと隠れたのであった。

 「おーい、こっちだぞ。」

 仁平2年(1152年)から790年余りたった1945年の秋、大山廃寺の地元住民である田中一郎は、学校の同級生だった大草に住む井上太郎を手招きして、大山廃寺跡の山の中にある巨岩壁を登っていた。その巨岩壁は、児神社と江岩寺の中間くらい、どちらかというと、江岩寺よりの山の中にあった。

 田中一郎は、巨岩壁の上の方にあいている洞窟の入口に着くと、岩場に足をかけ、持っていた小刀で、入口を塞ぐ木の柵を結わえている片方のひもを切った。そして、扉のように木の柵を開いて、洞窟の中に入った。

 「おい、太郎、こっちだ。俺の手をつかめ。」

 田中一郎は、巨岩壁を登ってくる井上太郎に手を差し出して、井上太郎を洞窟の中に引きずり上げた。

 田中一郎と井上太郎が洞窟の奥まで進むと、そこには、いかにも古そうな仏像や巻物が積まれていた。

 「どうだ、すごいだろう。俺は小さいころから、大山廃寺の山の中が遊び場だった。この洞窟は、俺の秘密基地だ。ここなら、GHQもわからないだろう。」

 田中一郎がこう言うと、井上太郎は、腰に差していた2口の白鞘刀を腰からはずして、仏像の前に置いた。

 井上太郎は、大草に住む大久佐八幡宮の氏子だ。日本が太平洋戦争に敗れて、田中一郎も井上太郎も、生きて戦場から帰還することができた。しかし、多くの大久佐八幡宮の氏子たちが、戦場で命を落とした。大久佐八幡宮の氏子や宮司の間には、悲痛な思いが漂っていた。

 一方、田中一郎や井上太郎が戦地から日本に帰還した1945年秋頃、愛知県の田舎には、次のような噂が広まっていた。

 「名古屋の広小路にあるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)名古屋本部から、進駐軍(米軍)が来て、各家庭にある日本刀を没収するつもりらしい。進駐軍は、金属探知機を持って、日本刀を探して没収するため、隠しても見つかってしまう。」

 大久佐八幡宮の氏子である井上太郎は、大久佐八幡宮の宮司に訴えた。

 「神社の宝物蔵にある2口の白鞘刀をGHQに没収されるのは、いやです。なんとかなりませんか。」

 しかし、大久佐八幡宮の宮司は、「でも、日本は戦争に負けたのだし。」と言葉を濁すだけだった。

 「神社にあるこの2口の白鞘刀は、俺の心そのものだ。宮司は、日本が戦争に負けたことで、意気消沈しているようだが、俺は、この2口の白鞘刀だけは、米軍から守ってみせる。」

 そして、井上太郎は、幼なじみの大山の住民である田中一郎に相談し、大山廃寺跡の山の中にある田中一郎の秘密基地に、神社の宝物である2口の白鞘刀を隠すことにした。そして、井上太郎は、神社の宝物蔵から、2口の白鞘刀をこっそり持ち出して、今、大山廃寺の山の中の洞窟にある仏様の前に置いたのであった。昔、近衛天皇と八条院が持っていた刀は、同じ時代に作られた仏像や巻物と一緒に、洞窟の中に眠ることになった。

 井上太郎は、その2口の白鞘刀に手を合わせると、洞窟から出た。そして、田中一郎も2口の白鞘刀に手を合わせると、井上太郎の後について、洞窟を出た。田中一郎と井上太郎は、巨岩壁の岩場に足をかけ、扉のように開いていた木の柵を閉めて、洞窟の入り口にある岩に、ひもでしっかりと固定した。そして、田中一郎と井上太郎は、巨岩壁から下りた。その後、田中一郎と井上太郎が洞窟を訪れることはなかった。二人とも、太平洋戦争後の高度成長時代には、必死で働かなければならなかった。

 太平洋戦争後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による刀狩りが行われ、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって没収された刀の多くは、米軍倉庫に保管された。そして、昭和26年(1951年)にサンフランシスコ平和条約が締結されて日本が独立国家になると、GHQに没収されて米軍倉庫に保管されていた日本刀は、日本政府に返還された。現在、これらの刀のほとんどは、所有者が不明のため、日本政府に所有権が移っている。大久佐八幡宮にGHQが刀狩りに来たのかどうかは不明である。しかし、神社の記録によれば、昭和13年(1938年)には存在していた2口の白鞘刀は、昭和60年(1985年)の神社の修復の時には、木製の収納箱だけになっていた。

 平成19年(2007年)秋、筆者は、大山廃寺遺跡のある山の中を歩き回っていた。大山廃寺遺跡は、桃花台ニュータウンの中にある筆者の家から、車で15分、歩いて45分位の所にある。大山廃寺跡の山の中は、江岩寺、女坂、児神社、塔跡、大山不動以外の場所は、人の手が入っておらず、昼間でも薄暗い。しかし、うっそうとした山の中で、遺跡を発見しては、デジタルカメラに収めていると、なぜか、心が落ち着くのを筆者は感じていた。それに、大山廃寺の山の中を、1〜2週間に1度、2時間くらい歩きまわることを続けていると、筆者の体には筋肉がついて、ウェストまわりも痩せてくるのであった。

 もう一度、その場所に行けと言われたら、たどり着けないと思う。女坂から西の山の中に入ると、その岩場が見えた。筆者は、なんとなく、その岩場を登ってみたくなって、登った。すると、もう少しで岩場の頂上に着くという途中に、突然、洞窟があった。洞窟の入り口は木を格子状に編んだ柵で覆われている。筆者は、その木の柵を開けて中に入ろうとした。しかし、木の柵は、岩場にひもでしっかり固定されていて、びくともしない。それ以上力を入れてひもをひっぱると、岩場の下に落ちそうな感覚を覚えて、筆者は、洞窟の中に入るのをあきらめた。そして、岩場の頂上まで登り、迷いつつも、何とか、女坂に戻ることができ、家に帰ることができた。

 秋も深まった後日、大山廃寺の山の中の女坂を登っていると、突然、筆者の携帯から、サザンオールスターズの「TSUNAMI(ツナミ)」の音楽が流れ始めた。静かな山の中に突然流れたその着信音にびっくりして、筆者は、携帯を開いた。

 「ちょっと、ママ、お昼ごはん作ってよ。」

 携帯から、娘の声が聞こえた。「ああ、もう、お昼か。」と筆者は思ったが、今日は、どうしても、このまま家に帰る気がしなかった。それで、筆者は、小学生の娘にこう答えた。

 「今日は、まだ、少し見たい所があるから、カップラーメンを自分で作って、食べてよ。熱湯はポットの中に入っているから。」

 「ええ、ママって、最低。」

 そんな娘の愚痴を聞きつつ、筆者は、携帯を閉めた。

 そして、筆者は、女坂から西側にある旧参道に入って、鉄穴流しではないかと思われる石でできた施設を南下し、「文部省 史跡境界」と彫られた石標が、間隔を置いて、いくつも打ち込まれている山道に出て、その道をたどって、女坂に戻るというコースを歩き始めた。このコースは、比較的、わかりやすい。しかし、このコースのどこかから、山の中に入り込むと、岩場があり、その岩場の途中に洞窟があった。

 「どこから入ったのだろう?思い出せないなあ。でも、もう一度あの洞窟のある場所にたどり着いて、今度こそ、木の柵を開けて、洞窟の中に入ってみたいなあ。」

 そう考えながら、鉄穴流しと思われる石の施設から、「文部省 史跡境界」の石標の道に入ったそのとき、突然、目の前に人が座っていた。

 大山廃寺の山の中で、筆者が人に会ったのは、この時が初めてであった。筆者は、一瞬、心臓が飛び出るほど驚いたが、その人に「こんにちは。」と声をかけることができた。しかし、筆者が声をかけても、その人は、何か考え込んでいるかのように座っていた。筆者は、ひとまず、その場を離れた。そして、女坂に戻ったが、どうしても、先ほど会った人が気になって仕方がなかった。

 「あんな所に一人で座って、何か、気になるなあ。」

 秋も深まった大山廃寺の山の中には、深紅の紅葉が美しい大きな木や、黄色い葉を雨のように頭の上に降らせてくる森がある。そんな美しい秋の山の光景を見ていても、筆者は、先ほど会った人のことが、心の中にひっかかってくるのであった。

 それで、筆者は、もう一度、今来た道を戻ることにした。女坂から、片方が崖になっている「文部省 史跡境界」の石標の道に入り、先ほど来た山の中に入って行った。「文部省 史跡境界」の石標は、秋の山の木々から落ちてくる枯れ葉に半分埋もれていたが、それはそれで、美しい光景だった。左手に、植林されたと思われる杉林が見えると、その人は、まだ、そこに座っていた。恐る恐る、筆者がその人に近づいて、もう一度その人を見てみると、何か考え込んでいるかのように座っているその人の首に、白いロープが絡んでいるのが見えた。

 それから、筆者は、「文部省 史跡境界」の石標が点々と打ち込まれた細い道を、全速力で走って、戻って行った。筆者は、女坂に戻り、そして、江岩寺にたどり着いた。たまたま、江岩寺の住職が、法衣の姿で車から降りるのが見えた。筆者は、走りながら、娘から携帯に電話が入った時に、素直に家に帰ればよかったと後悔した。しかし、もはや、後悔しても遅い状況だった。

 警察に連絡したのは、江岩寺の住職だ。江岩寺の住職はこう言っていた。

 「前にもあった。2年ほど前の話だ。あの時は、児神社の境内の前の児童遊園で、女の人だった。首つり。」

 そして、まず、消防署の人が消防車のサイレンと一緒にやってきて、警察の人がその後でやってきた。あの静かで、美しく、人にもあまり会わない秋の山の中は、急に、たくさんの人がやってきて、騒がしくなった。それから、筆者は、しばらく家に帰ることができなかった。

 筆者の娘と主人に、携帯で状況を話すと、「帰ってきたら、すぐに、夕食作ってよね。」と叱られた。警察の人の事情聴取があって、何度も、「この人は知り合いか?」と聞かれたが、筆者は、この自殺した人との面識はなかった。そして、「何のために大山廃寺跡に来ていたのか?」と警察の人に聞かれて、筆者は、「遺跡巡りだ。」と答えた。その答えに、警察の人は、意外に思ったようだった。警察の人はこう言った。

 「ここは、昆虫採集に来る人が多い所です。ここは、ミヤマクワガタが採集できることで有名です。こんなところに、遺跡なんて、あるのですか?」

 ところで、警察・消防の人も、江岩寺の住職も、筆者も、自殺遺体を見て共通して感じたことがあった。それは、「結構、いい服を着ていますね。」ということだ。

 筆者が大山廃寺の山の中を歩くときには、ジーパンとトレーナーとフリースのジャケットという、汚れてもいい恰好で出かけるのが普通だ。しかし、そこに座っていた自殺遺体は、まるで、建設会社の社長が山の中を歩くような格好をしていた。

 警察の人は、「自殺遺体ということで、遺体は検査に回さず、荼毘にふします。」と言った。その日、筆者が家に帰ったのは、あたりが暗くなった夕方5時頃だった。

 筆者が家に帰ると、リビングの机の上には、空のカップラーメンの容器がいくつも散乱していた。筆者は、疲れて帰ってきて、汚れた机の上を片付けて、夕食を作り始めた。

 夕食ができて、家族全員で食卓を囲むと、家族の話題は、筆者が、大山廃寺の山の中で遭遇した自殺遺体の話になった。筆者は、家族に、今日の一日の経緯を説明し、娘の携帯が鳴った時に、素直に家に帰ればよかった、と今の気持ちを話した。筆者は、家族の者たちから、「もう二度と、大山廃寺の山の中には入らないように。」と、約束させられた。

 家族の者と話している時は、何ともなかった。しかし、筆者がその自殺遺体の第一発見者になってから3日間くらいは、夜、寝るときに、暗闇の中で、「自分も自殺したい。」と思う衝動を抑えるのに必死だった。そして、そのような心の衝動は、時が経つとともに、だんだん、薄れていった。

 後日、夕方ころ、警察の人が桃花台ニュータウンにある筆者の自宅に来た。筆者は、警察の人が持ってきた調書にサインした。警察の人の話によると、筆者は気がつかなかったが、自殺遺体の現場の状況は、缶ビールの空き缶が大量に遺体の周りに転がっていて、青いポリバケツが一つ転がっていた、ということだった。そして、自殺遺体の身分を証明する物は、何一つ残されていなかった。その話を筆者の後ろで聞いていた娘が、「本当に、信じられない話だ。」と言った。

 また、筆者は、その自殺遺体は老人男性だと思っていたが、警察の人の話によれば、その自殺遺体は、年齢不詳の男性ということだった。筆者がその自殺遺体を発見したときには、死後3日が経過しており、その位時間が経過すると、自殺遺体の年齢は、若いのか年老いているのかわからなくなる、とのことだった。

 筆者が警察の調書にサインしてから、大分経ってから、インターネットに公開されている官報を読んだ。官報には、大山廃寺の山の中で自殺遺体として見つかった、行旅人の記事が掲載されていた。

 筆者は、その後、大山廃寺遺跡のある山の中に踏み込むことができなくなった。そして、「自分も自殺したい。」と思う心の衝動は、時と共に薄れていったが、筆者の心の中には、どうしても忘れることのできないものが残された。それは、洞窟の入り口はどこにあるのか、洞窟の中には何があるのかという疑問と、大山廃寺の言い伝え(大山寺縁起)に対する疑問だった。

 そして、筆者は、「大山寺縁起」の漠然とした内容を明らかにするため、平安時代末期の古典をひもといた。そして、大山廃寺の伝説を、できるだけ多くの人々に知ってもらうことを目的として、この小説「法灯を継ぐ者1」を書き進めていったのであった。つまり、「法灯を継ぐ者」とは、この小説を読んでいただいた皆様であるということがわかっていただければ、筆者は、幸いである。

 大山廃寺遺跡の山の中を歩き回っている時についた筆者の筋肉は落ち、一時的に痩せた筆者のウェストは、また、元に戻ってしまった。

(終わり)

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