二十四 秀吉対家康

 「8年前の小牧・長久手の戦いの中入り作戦の時、わしらは、中入り作戦を実行するために、今いる犬山城から南にある楽田という場所にある砦に移った。そして、家康の本拠地岡崎城を目指して、楽田砦から秀吉軍を東に向かわせたのが、天正12年(1584年)4月6日の夜だ。そして、天正12年(1584年)4月7日には、秀吉軍は、庄内川のほとりの上条村にある城で宿営している。そして、秀吉軍は4月8日も上条城に宿営した。その後、4月8日夜から4月9日朝にかけて、庄内川を渡ってさらに東に進軍した秀吉軍は、天正12年(1584年)4月9日の昼、長久手の仏ヶ根で待ち伏せしていた織田・家康軍に攻撃され、森長可と池田恒興の二人の武将をはじめとする秀吉軍2500人が犠牲になった。

 家康は、天正12年(1584年)4月5日には、小牧山城にいて、土塁工事を指揮しているところが目撃されている。にもかかわらず、4月9日には、織田・家康軍は、秀吉軍を追い抜いて、長久手で待ち伏せすることができた。つまり、織田・家康軍は、4月8日には、我々の動きを察知して、長久手まで動いていたということだ。ということは、織田・家康軍が岡崎城に向かう秀吉軍の動きを最初に察知したのは、4月6日の夜から4月7日にかけてのことではないだろうか。」

 天正12年(1584年)4月6日の夜から4月7日にかけて、秀吉軍は、楽田砦から庄内川ほとりの上条村までの間を東へ東へと向かっている。しかも、秀吉軍の動きを織田・徳川軍に察知されないためにも、秀吉軍の進軍は、夜に限られていた。

 秀吉軍の情報が漏れた原因として考えられるのは、2つだ。1つは、秀吉軍の中に織田・家康軍のスパイがいた。そして、もう一つは、楽田砦から上条村までの間で、秀吉軍の動きを目撃した誰かが、情報を織田・家康軍に漏らした。

 そして、秀吉は、小牧・長久手の戦いの中入り作戦のとき、岡崎に向かう秀吉軍を導いた上末村の武将落合将監安親を犬山城に呼んだ。上末村の武将落合将監安親は高齢ということで、息子と一緒に犬山城にやってきた。そして、文禄2年(1592年)11月末の晴れた日の朝、秀吉は馬に乗り、側近二人と上末村の武将落合将監安親父子を連れて、犬山城を出た。秀吉たちは、犬山城の南にある楽田砦に着くと、そこから、東南方向に進路を取り、物狂い峠を越えて、池ノ内村に到着し、さらに道なりに東南方向に進んでいった。そして、秀吉たちは、大草村にたどり着いた。

 「楽田砦からここまでの道のりでは、あまり、人に会うこともなかったな。大きな町も見当たらないし。たまに、農夫と思われる人間に会うくらいだ。昼間にすれ違う人がこれほど少ないところだから、夜になると、ここらへんは、人一人見当たらないだろうがなあ。」

 秀吉が側近の者たちとこのような話をしていると、秀吉の視線の向こうに、鍬を担いだ一人の農夫が歩いていくのが見えた。

 「おい、少し聞きたいことがあるんだが、ちょっといいか?」

 そして、秀吉は馬から降りると、鍬を担いだ農夫に向かって歩いて行った。そして、秀吉は、着物の袂から、お金の入った立派な巾着袋を取り出すと、鍬を担いだ農夫の前に差し出し、農夫にこう言った。

 「わしは、この大草村という村を初めて訪れた者だが、大草村で人が集まる所といえば、どこになるのかな?あ、これは少ないけど、取っておいてくれ。」

 農夫は、最初は驚いた様子を見せたが、秀吉から巾着袋を手渡されると、上機嫌になって、秀吉にこう答えた。

 「大草村で一番人が集まる所といえば、大久佐八幡宮ですかね。大久佐八幡宮は、昔、源頼朝とその臣下の者たちが大きくした神社という言い伝えがあります。神社の敷地はとても大きくて、今、お侍さんたちが立っているこの場所も大久佐八幡宮の敷地の中なんですよ。」

 「なんだと?それでは、天正12年(1584年)4月6日の夜から4月7日にかけて、秀吉軍は、大草村にある神社の敷地を横切って、東に向かっていたというのか?」

 秀吉は、心の中でこのように叫んで、農夫に頼みごとをした。

 「すまんが、これから、その大久佐八幡宮というところにわしらを案内してもらえないかね?」

 「ああ、いいですよ。」

 農夫は秀吉の頼みごとを快諾して、秀吉一行を大久佐八幡宮の境内まで案内していった。

 「さっきから、結構歩いているのに、まだ、神社の境内に着かないのか。こんな人気のない場所にあるにしては、ずいぶん大きな敷地を持つ神社だな。」

 秀吉がこのように思いながら歩いていると、農夫が大久佐八幡宮の説明を始めた。

 「大久佐八幡宮は、源頼朝とその臣下の者たちが大きくした神社ですので、1年間で開催されるお祭りの数も多いのですが、中でも、5月に行われる流鏑馬神事と10月に行われる神輿神事が最も人が集まるお祭りになりますかね。」

 「確かに。これだけの敷地があれば、流鏑馬を行うことも可能だろうな。」

 秀吉は、歩きながら、ぽつりとこう言った。すると、農夫はこう言った。

 「それに、この神社は、これほど敷地の広い神社ですので、今日のお侍さんたちのように、結構、身分の高い恰好をしたお侍さんやお坊さんがひっきりなしに訪れることでも有名な神社なんです。地元の者は皆、そう噂しています。」

 「ほう。」

 秀吉は、農夫のいうことに耳を傾けていたが、しばらくしてから、このような質問を農夫にぶつけてみた。

 「ところで、この神社では、4月6日の夜に人が集まる行事か何かがあるのか?」

 すると、農夫は少し考えてから、こう答えた。

 「そうですね、5月に行われる流鏑馬神事というお祭りの打ち合わせが、その位の時期に頻繁に行われますかね。流鏑馬神事は、結構大きなお祭りなんで、神社側としても準備を入念に行うんです。だから、お祭りの1か月前ともなれば、神社の神官や氏子の間で、夜遅くまで、打ち合わせが開催されていますね。

 ああ、流鏑馬神事は、いつもここらへんで開催されていますよ。」

 そのような農夫の説明を聞きながら、秀吉一行は、ようやく、大久佐八幡宮の境内にたどり着いた。

 大久佐八幡宮境内にたどり着くと、秀吉は、その農夫にお礼を言って、農夫を解放した。農夫は巾着袋のお礼を言って、秀吉たちから離れていった。

 晩秋の大久佐八幡宮は、10月に行われる神輿神事も終わり、人気も少なく、ひっそりとそこにたたずんでいる。そして、大久佐八幡宮の周囲は、所々に小さい畑が見られるが、ほとんど何もない原野であった。そのような場所に、こんなに広い敷地を持つ神社があり、しかも、この神社は、位の高い服装をした武士や僧侶がよく訪れてくるということだ。秀吉の目には、大久佐八幡宮の大きさがとても不自然に思えてならなかった。

 そして、秀吉の後ろを歩いていた上末村の武将落合将監安親が秀吉に向けてこう言った。

 「我々の住む上末村からこの神社を過ぎて、大山にかけて広がる丘陵地帯を篠岡丘陵といいますが、奈良時代や平安時代の昔は、篠岡丘陵は、日本でも有数の窯業地帯でした。今は原野になって何もないこの土地ですが、奈良時代や平安時代には、このあたりには、100基以上の登り窯がひしめいていて、陶磁職人やその家族たちで、にぎわっていたのです。そして、大山には大山三千坊と言われるほどの巨大な山岳寺院が存在していて、僧侶や寺院で働く人々が数多く行きかっていました。

 鎌倉時代に入って、篠岡丘陵にあった窯業地帯は、瀬戸や常滑に移っていき、この神社あたりも閑散としましたが、大山にある大山寺は、相変わらず、たくさんの人が行きかう大寺院でしたので、大久佐八幡宮も大山寺に出入りする人々でにぎわっていたのでしょう。その大山寺も今は廃寺となってしまったので、かつてのこの地域の隆盛をとどめるものは、大久佐八幡宮だけになってしまいました。」

 落合将監安親の話を背中で聞いていた秀吉は、落合将監安親にこう質問した。

 「そういえば、さっき、農夫が言っていた、この神社を頻繁に訪れる身分の高い服装をした武士とは、だれのことなんだろう?」

 すると、落合将監安親は、こう答えた。

 「さあ、我々にはよくわかりません。もしかして、秀吉殿は、この神社を頻繁に訪れていた身分の高い武士とは、徳川家康公だとお考えになっているのですか?」

 「いや、この神社は、上条村までの道の前半あたりだからな。この先、庄内川のほとりにある上条村の上条城まで行ってみないと何とも言えないのだが。では、そろそろ、この神社を出て、先に行くとするか。」

 秀吉のこの言葉を聞いた落合将監安親父子は、「わかりました。こちらに行きましょう。」と言って、再び秀吉の前に進んだ。そして、小牧長久手の戦いの中入り作戦で自分たちが先導していった道を秀吉に案内した。

 そして、秀吉が庄内川のほとりにある上条村の上条城に着いたのは、お昼を過ぎた頃だった。秀吉たち一行は、壊された上条城の天守閣の上に立った。落合将監安親の居城である上末村の森下城もこの上条城も、取り壊すことを決めたのは、秀吉だった。天正14年(1586年)、秀吉は、これらの城を取り壊すことを条件として、小牧長久手の戦いを終結させたのだった。

 秀吉たち一行は、壊された上条城天守閣の上に立って、周囲の景色を眺めながら昼食をとった。大久佐八幡宮の敷地から上条城に至る道のりの間で、秀吉は、特に気になった個所を見つけることはなかった。そして、秀吉は、もしかしたら、ここ上条城に2泊もしてしまったことが、家康に先を越された1つの要因であるのではないかとも思うのだった。

 「やはり、実際に現場に立って、自分の目で見てみなければ何もわからないな。織田・徳川連合軍は、地元のことをよく知っていたうえで、戦っていたということか。」

 文禄2年(1593年)11月末頃の秀吉は、文禄の役という朝鮮出兵がひとまず一段落ついて、朝鮮半島から日本に軍を撤退させていた時期であった。秀吉が朝鮮出兵の決意を諸大名に対して発表したのは、2年前の天正19年(1591年)8月になってからのことだ。天正18年(1590年)に徳川家康に関東国替えを命じた後のことである。いや、秀吉の頭の中で、朝鮮半島に出兵し、中国明を征服したいという思いが強くなったのは、小牧・長久手の戦いで徳川家康に敗れ、織田信雄との間に和睦が成立した直後の天正13年(1585年)のことであった。

 つまり、秀吉は、家康の影響力の及ばない土地に自分の勢力を広げておきたかったのだ。尾張地方は、意外にも家康の影響力が大きい地方だった。信長の家臣として働いてきて、秀吉自身が清須会議で信長の後継者指名に強い発言力を持っていたあの頃でさえ、家康に敗れたのだ。今後、家康は、秀吉の脅威になりうる存在だろう。だから、秀吉が息子の秀頼に豊臣政権を継がせるためには、家康の影響力が大きい土地よりも、もっと広い領土が必要だった。

 しかし、文禄の役のために朝鮮半島へ出兵した大名たちの多くは、秀吉に対して、次のような報告をしてきた。

 「李氏朝鮮の軍は弱い。軍事力では秀吉の軍隊の方が上である。そして、明の軍隊は、李氏朝鮮の軍隊よりも弱いと聞いている。

 しかし、朝鮮半島は、土地が広く、言葉も通じない。中国大陸にある明は、もっと広い。そして、朝鮮の都は、ハエが異常に多く、水はけも悪い上に牛も多く、衛生環境は劣悪である。また、冬はとても寒い。

 そのような慣れない土地での戦闘で、秀吉軍の死者の多くは、戦死ではなく、病死・過労死・餓死・凍死である。たとえ、今回の戦役で李氏朝鮮や明に勝って、朝鮮半島や中国大陸の土地をもらったとしても、我々にとっては、あまり喜ばしいことではない。」

 話は戻って、その日の夕方に犬山城に帰ってきた秀吉は、道案内をした上末村の落合将監安親父子をねぎらい、犬山城で、大阪から連れてきたブレーンや側近の者たちとともに、宴会を開いた。

 「落合殿は、ご高齢なのに、よく秀吉に付き合って、ここに来てくれたな。今日は、犬山城に泊まって、皆と情報交換をしていってくれ。

 ところで、この秀吉が落合殿の居城森下城を取り壊す命令を出してしまい、落合殿にはとても申し訳ないことをした。この場を借りて、謝るぞ。本当に申し訳なかった。」

 このように頭を下げる秀吉に対して、落合将監安親父子は、秀吉にこのように言った。

 「いえ、我々は、秀吉殿が天下を統一して、日本の内戦を終結させ、平和な社会を取り戻すという決意に感激して、秀吉殿についていったのです。そして、秀吉殿の願いは、かなったのですから、秀吉殿は、我々に頭を下げる必要などないのです。」

 そして、犬山城での宴会の最中、秀吉の頭の中を支配していたのは、大草村にあった大久佐八幡宮のことであった。

 「天正12年(1584年)4月6日の夜から4月7日にかけて、あの不自然にだだっ広い神社の中の誰かが、岡崎城に向かう秀吉軍を目撃し、家康に通報したに違いない。そして、長久手で、秀吉軍は、織田・家康連合軍に大敗を期した。」

 一方、このような考えで頭の中がいっぱいであった秀吉から離れた席で、上末村の落合将監安親父子は、秀吉のブレーンである比叡山延暦寺の僧侶たちと話し込んでいた。

 「そうですか。比叡山延暦寺で僧侶をなさっているのですか。では、尾張の大山寺という山岳寺院のことは、ご存知ですか?」

 落合将監安親が延暦寺の僧侶たちにこう質問すると、延暦寺の僧侶たちは、皆、一様に

 「いや、そのような名前の寺は聞いたことがない。」

 と言った。すると、落合将監安親は、延暦寺の僧侶たちに向かって、こう話し始めた。

 「尾張の大山寺は、平安時代の頃は、「西の比叡山、東の大山寺」「大山三千坊」とも称されるほどの巨大な山岳寺院であったと、地元の者は語り継いでいます。

 我々の住む上末村は、奈良時代から平安時代の昔に、日本でも有数の窯業地帯の一部でした。上末村で作られた陶器は、全国各地に運ばれていたのですが、上末村で作られた陶器の主要な供給先の一つに、大山寺という大きな山岳寺院がありました。

 大山寺は、上末村から篠岡丘陵を一里ちょっと(約4.5km)登ったところにあるのですが、重い陶器を運んで丘陵地帯を登っていくというのも大変なことですよね。それで、上末村から大山寺に陶器を運ぶために、地下水路が二本建設されました。

 上末村には貴船神社という名前の神社があります。貴船神社は、大山寺に向かう2本の地下水道の起点でした。1本目の地下水道は、貴船神社の参道脇にある灯篭が入り口となっていて、こちらの地下水道は、大山寺がある大山の山の中につながっています。そして、もう1本の地下水道は、貴船神社本殿が入り口となっていて、神社の本殿床下から地下に下る階段を下りたところに船着き場があり、こちらの地下水道は、入鹿村の地下施設につながっています。

 入鹿村の地下施設のことを大山寺では、シャンバラと呼んでいますが、シャンバラと山岳寺院大山寺とはトンネルで結ばれており、平安時代末期、大山寺が比叡山延暦寺の僧兵に襲われて、一山丸ごと焼き払われた時も、延暦寺の僧兵たちはシャンバラまではたどり着いていないと語り伝えられています。」

 「へえ、それで、その地下水道は、2本とも、今使われているの?」

 秀吉のブレーンである比叡山延暦寺の僧侶たちが落合将監安親にこう尋ねると、落合将監安親はこう答えた。

 「平安時代末期に大山寺が比叡山延暦寺僧兵の手によって、一山丸ごと焼き払われてから、上末村からあれほど大量の陶器を大山寺やシャンバラに運ぶことはなくなりました。上末村をはじめとする篠岡丘陵にあったおびただしい数の窯元は、皆、瀬戸や常滑に引っ越していきましたからねえ。でも、2本の地下水道は、今でも、大山寺のある大山の山の中や入鹿村の地下施設を結んでいます。

 大山寺は、平安時代末期に比叡山延暦寺僧兵たちの手で一山丸ごと焼き払われてから、鎌倉時代には再興を果たし、それまで以上の大きな山岳寺院として、大山の山の中に存在し続けました。しかし、大山寺は、最近では、大規模山岳寺院を運営していくことがむつかしくなったと見えて、完全に廃寺となってしまいました。そして、あの2本の地下水道を利用する人も少なくなってしまいました。」

 「そのような場所がいまだに存在しているのなら、我々が尾張地域に滞在している間にぜひ、行ってみたい。秀吉殿、ちょっといいですか?」

 比叡山延暦寺の僧侶たちは、考え事をしながら酒を飲んでいる秀吉に近づいて、秀吉にこう聞いた。

 「我々が尾張地域に滞在している間に、落合将監安親殿の住んでいる上末村に行ってみたいのだけれど、よろしいですかな?」

 しかし、秀吉は、比叡山延暦寺の僧侶たちに対して、こう返した。

 「わしたちが尾張地域に滞在している期間は、2週間ほどしかないのだが、木曽川堤防についての具体的な方針を考えることはすんだのか?わしらがここに来た目的は木曽川堤防の建設計画を立てることにあるのだ。まずは、そちらを優先させてくれ。」

 このようにして、秀吉たちが木曽川堤防の建設計画に集中できたおかげで、1か月後の文禄3年1月には、木曽川堤防は築堤を開始することができた。木曽川堤防の築堤には、多くの人夫が雇われ、雇われた人夫相手に様々な商売が行われ、木曽川堤防築堤現場は、活気づいた。そして、イエズス会を母体とする商人たちは、木曽川堤防築堤の現場に進出し、現場で働く人たちに向けて、カステラなどのお菓子やたばこなどの嗜好品を売って歩いた。

 そして、木曽川堤防築堤のために秀吉が尾張地方に滞在してから1年後の文禄3年(1594年)、秀吉は、全国的に実施した太閤検地の対象の1つに、尾張の大草村にある大久佐八幡宮を加えた。そして、徹底的に調査された大久佐八幡宮の敷地が5分の1以下にまで減らされたのは、それから2年後の慶長元年(1596年)になってからのことだ。

 大久佐八幡宮に実施された太閤検地によって、明らかになったことは、大久佐八幡宮は、黒に近い灰色だったということだ。従って、太閤検地の調査による大久佐八幡宮の敷地を没収する理由は、人の住んでいない地域にこのように敷地の大きな神社は必要ない、ということだった。

 しかし、秀吉は、大久佐八幡宮を御取り潰しにしなかったことで、大草村の人々の支持を勝ち取った。大草村の人々は、太閤検地の結果に反対すれば、次は、神社の御取り潰しがあることを悟り、恐怖のあまり、秀吉に従わざるをえなかった。そして、領地の没収によって、それまで大久佐八幡宮で行われていた流鏑馬神事や神輿神事は、実施が不可能になった。

 そして、大久佐八幡宮の敷地が大きく減らされてから1年後の慶長2年(1597年)2月、秀吉は、それまで朝鮮半島から撤退させていた軍隊を再び朝鮮戦役に送った。慶長の役である。そして、秀吉軍は、朝鮮半島で、李氏朝鮮や明の軍隊に勝つこともあれば負けることもあり、戦線は膠着していった。

 そして、慶長の役の最中、慶長3年(1598年)5月、秀吉は病に臥せる。秀吉の病は日を追うごとに悪化していった。死を予感した秀吉は、家康ら五大老に対して、遺言書を出し、秀頼の後見人になるように依頼する。これが、秀吉が息子秀頼に対してすることができる最後の仕事であった。

 慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉は死去する。63歳であった。このとき、秀吉が行っていた全ての政策は止まった。

 秀吉の死から2年後の慶長5年(1600年)、秀吉からの再興の費用が底をつき、比叡山延暦寺を経営する僧侶たちは、困り果てていた。信長による比叡山焼き討ちから30年近く経ってもなお、比叡山延暦寺は、まだまだ、再興の途上にある。

 慶長5年(1600年)5月の夜、比叡山延暦寺のトップにいる僧侶たちが10人集まって、今後の延暦寺の方針について話し合った。すると、かつて秀吉のブレーンを務めていたという一人の僧侶が、隣の僧侶にこう話しかけた。

 「秀吉殿が亡くなってから2年が経つが、次に日本を引っ張っていく権力者が誰になるのか、皆目、見当もつかない。

 ところで、7年くらい前に、亡くなった秀吉殿のブレーンとして、木曽川堤防築堤のために尾張に入ったとき、夜の宴会の席で、尾張の上末村在住の落合将監安親殿父子がした話を覚えているか?」

 すると、隣にいた僧侶が話に加わってきた。

 「ああ、小牧・長久手の戦いの中入り作戦の際、秀吉軍を岡崎城まで導いたというあの武将親子の話か。覚えているぞ。

 確か、落合将監安親武将父子の住んでいる上末村にある貴船神社という名前の神社から2本の地下水路が伸びているということだったな。一つは、大山寺という山岳寺院のある山の中に、そして、もう一つは、シャンバラという名前の地下施設に伸びているという話だったな。」

 「大山寺は、「西の比叡山、東の大山寺」「大山三千坊」とも称されるほどの巨大な山岳寺院だったらしいが、平安時代末期、大山寺が比叡山延暦寺の僧兵に襲われて、一山丸ごと焼き払われたという。しかし、延暦寺の僧兵たちはシャンバラまではたどり着いていないと地元の人々は語り伝えているということだ。大山寺という山岳寺院は、今は廃寺になっているという話だが、シャンバラは、今でも、地下施設を存続させているらしい。」

 「あの時は、木曽川堤防築堤に集中するために、秀吉殿に止められて、上末村に行くことができなかった。しかし、あの時以来、俺は、上末村にあるという地下水路を通って、シャンバラという名前の地下施設に行ってみたいという夢をあきらめることはできなかった。だから、今、その夢をかなえてみたいのだ。」

 すると、それを聞いていたリーダー格の僧侶は、こう言った。

 「そうだな。話を聞くと、どうやら、シャンバラという地下施設も比叡山延暦寺とは、関係がありそうな雰囲気だ。よし、秀吉殿のブレーンだった雲海と了慶は、上末村に調査に行くことを許可する。もしかしたら、そのことによって、延暦寺の再興がまた一歩進むことになるかもしれない。」

 そして、慶長5年(1600年)6月初めころ、雲海と了慶は、比叡山延暦寺を出て、尾張の上末村に向けて出発した。

 ちょうどその頃、弥助は、15歳になった息子と13歳になる娘と10歳になる息子と妻と連れ立って、大宮浅間神社の夏祭りを見るために、入鹿村の西側にそびえたつ尾張富士を登っていた。40代半ばになる弥助にとって、尾張富士の急な山道は少々こたえるものがあったが、息子たちの年齢を考えると、こうして、家族全員で尾張富士に登って夏祭りに行くのは、今年が最後のことになるかもしれないという思いが、弥助を奮い立たせていた。

 夏祭りが開かれていることもあって、尾張富士の登山道の途中には、多くの出店が出ていた。頂上にある大宮浅間神社はまだまだ先だ。すると、疲れた弥助の目に、ふと、カステラを売っている出店が映った。

 「カステラか。懐かしいな。おーい、みんな、ここでカステラを食べながら少し休憩してから、上を目指さないか?」

 息が切れつつこのように話す父親の声に促されて、家族の者は、皆、カステラを売る出店の前に集まった。

 「お父さんは、20歳くらいの頃、ポルトガルという国にいたことがある。日本に来る前の話だ。ポルトガルには、カステラという名前のお菓子があって、若いころのお父さんもよく食べていた。あれから20年以上経つが、まさか、日本にある大宮浅間神社の夏祭りの出店でカステラを見るとは思わなかったよ。あ、このカステラを5切れください。」

 弥助は、白いひげを蓄えて、青い頭巾をかぶり、紺色の有松絞の着物を着た出店の主人にこう話しかけた。出店の主人は、焼き立てのカステラを5切れ、箸で紙袋に入れ、竹の楊枝を5本つけて、弥助に手渡した。

 そして、竹筒に入っている水でカステラを流し込んで、少し休憩を取りながら、弥助は、カステラの出店の主人にこう話しかけた。

 「このような狭い敷地の上に店を並べて、出店の人たちは皆、大変ですね。」

 すると、カステラを焼いている二人の女性の隣で店番をしていたカステラ屋の主人はこう言った。

 「そうですね。こんなに狭い土地に店を出すだけでも、数々のコネを利用しています。コネがなければ、尾張富士の夏祭りに出店を出すことなどできませんよ。」

 「そうか、では、俺もがんばって、頂上を目指すとするかな。」

 こう言って、弥助は、家族の者が全員、カステラを食べ終わるのを見ると、再び、頂上にある大宮浅間神社を目指した。

 そして、家族5人で頂上を目指す弥助の背中を見て、カステラ屋の主人はこうつぶやいた。

 「弥助、とうとう、お前を見つけることができたぞ。今度こそ、お前を逃さんぞ、弥助。」

 一方、慶長5年(1600年)6月初めころ、57歳になった徳川家康は、いつもシャンバラへ向かう使いの者とともに、馬に乗って、江戸から尾張にあるシャンバラを目指していた。

 秀吉公が進めた文禄・慶長の役で、朝鮮半島に進軍した大名たちは、なぜか、皆、仲違いをして日本に帰国してくる。家康は、秀吉公に、何度も、朝鮮に進軍することをやめるように主張したのだが、秀吉公は、家康の声を全く無視して、朝鮮に進軍を続けた。

 そして、秀吉公が亡くなり、朝鮮半島に進軍した大名たち全員に日本帰国を命じたのは、家康だ。朝鮮半島に進軍した大名たちは全員日本に帰国したが、リーダーがいなくなった全国の大名たちは、お互いの利害関係がぎくしゃくしたまま、混とんとした状態にある。きっと、近く、内戦が勃発するだろう。まだ7歳の秀頼公に大名たちを治める力はない。

 そして、信長公が自分の心のふるさとのように慕っていたシャンバラは、今、使いの者が報告している通りのシャンバラなのか。もし、天下統一をすることができるのが家康だとしたら、家康にとって、比叡山延暦寺再興は重要課題となるだろう。シャンバラと比叡山延暦寺とは、関係を断ったままでいられるのか。家康にとっては、大名たちの間にある争い事を解決するだけで手いっぱいなのだ。今、比叡山延暦寺とシャンバラの間でもめ事が起きると、日本は、また、信長公以前の状態に戻ってしまう。

 そして、シャンバラのリーダーの弥助は、イエズス会の者たちといさかいを起こしていないか。ただでさえ、弥助の外見は目立つのだ。イエズス会が南蛮貿易を隠れ蓑にして、キリスト教の布教活動をしていることくらい、家康は、お見通しだった。

 大久佐八幡宮が秀吉公の手によって、御取り潰し寸前の姿にまでなったことは、家康も知っている。しかし、秀吉公は、シャンバラのことは、何も知らない様子だった。

 東海道を西へ西へと進みながら、家康の心は、不安にさいなまれるのだった。

上へ戻る