二十四 鉄次郎村会議員になる

 「文化財保護法」の施行により、戦後の文化財保護行政が地方自治の一環として行われることを理解した小栗鉄次郎は、戦前に「史跡名勝天然記念物調査会主事」として働いていた知識を活かす事が出来る仕事として、鉄次郎の住む石野村の村会議員の仕事を選んだ。この時、鉄次郎は70歳であった。

 鉄次郎は、戦前に「史跡名勝天然記念物調査会主事」として働いていた時に得た文化財に関する知識を、後に続く者に継承していくという公約を掲げて、村会議員に立候補し、当選した。鉄次郎が戦前身に付けた文化財保護の知識は、地方公共団体の活性化につながるものである。

 鉄次郎の噂を聞きつけて、鉄次郎の持っている文化財保護に関する知識を乞うてくる者は、文化財所有者だけではなかった。地方公共団体の教育委員や大学の研究者、国家公務員、展覧会を開くマスコミ関係者など、多くの人が鉄次郎の自宅を訪れた。そして、その一方で、鉄次郎は、石野村の自宅に保管している考古資料を積極的に様々な展覧会に貸出した。

 そして、70歳になる小栗鉄次郎をその傍らでいつも補佐していたのは、鉄次郎の息子である小栗武夫であった。鉄次郎が石野村会議員に当選した頃、息子の小栗武夫は会社に勤める44歳の男であった。武夫の家族も鉄次郎と同居していた。

 昭和29年(1954年)12月、戦前、史跡名勝天然記念物考査員として、小栗鉄次郎と親交の厚かった柴田常恵氏が脳溢血で亡くなった。77歳であった。戦前自分の仕事を支えてくれていた人たちが皆いなくなっていく。73歳になる鉄次郎を見て、その若々しさに驚愕する人は多かったが、鉄次郎は、息子である武夫の補佐によって、ようやく石野村会議員の仕事を続けていた。そして、柴田常恵氏が残した多くのフィールドノートや写真集の中には、小栗鉄次郎の名前が数多く見受けられるのであった。

 昭和30年(1955年)になると、市町村合併が盛んに行われた。小栗鉄次郎が戦前仕事として関わった大山廃寺跡のある篠岡村は、東春日井郡小牧町と味岡村と合併して、小牧市となった。鉄次郎の住む石野村は、保見村と猿投町と合併することになった。鉄次郎は、昭和30年(1955年)、猿投町会議員に立候補し、当選した。鉄次郎74歳の時であった。

 昭和30年(1955年)10月の晴れた日の日曜日の11時頃、紺色のスーツに白いワイシャツを着て、からし色のネクタイを締め、黒い革靴を履いた、60歳前後と思われる男性が小栗鉄次郎の自宅を訪ねてきた。その男は、玄関に出てきた息子の武夫に対してこう言った。

 「私は、名古屋城天守閣再建を掲げて名古屋市議会議員に当選した中村佐吉と申します。ぜひ、小栗鉄次郎先生に会わせていただき、いろいろ教えていただきたく、自宅に伺わせていただきました。小栗先生は御在宅ですか?」

 そして、息子の武夫は、中村佐吉を鉄次郎のいる書斎へ案内した。鉄次郎は、浴衣を着て、書斎でくつろいでいた。中村佐吉が鉄次郎の自宅の書斎で鉄次郎に会った時、2人は愛知県庁ですれ違って以来、10年ぶりの再会だった。中村佐吉は58歳、小栗鉄次郎は74歳となっていた。中村佐吉が鉄次郎に対して、

 「私は、今年の統一地方選挙の名古屋市議会議員選挙において、名古屋城天守閣再建を掲げて名古屋市議会議員に立候補して当選した中村佐吉と申します。久しぶりに小栗先生にお目にかかります。10年ぶりくらいですかね。」

 と言うと、小栗鉄次郎は、

 「大山廃寺跡であなた方を本堂が峰に案内してからは24年の月日が経ちますかね。24年前、あなた方を大山廃寺跡の本堂が峰に案内しておいて本当によかった。名古屋城を再建するんですか?名古屋城天守閣の設計図は、私たちが疎開させておきましたから、今でも名古屋城の乃木倉庫の中にあるはずですよ。」

 と、顔中をしわくちゃにして、うれしそうにそう言った。

 「そうですか。名古屋城天守閣の設計図が乃木倉庫の中にあるんですか。これは、意外に早く天守閣再建が進みそうですね。」

 中村佐吉はこう言うと、鉄次郎の息子の武夫が出したお茶をすすった。

 「噂によると、小栗先生も猿投町会議員に立候補して当選されたそうですね。名古屋城再建の活動をしていると、小栗先生の噂はよく耳にします。小栗先生たちが名古屋城の設計図や焼失前の写真や障壁画や熱田神宮の宝物を猿投村にある神社に疎開させていたおかげで、名古屋城や熱田神宮が空襲で焼けても、元に戻すことが可能になったとか。あとは、再建費用の問題だけですよね。私たちは、皆から寄付を集めて、そのお金で名古屋城を再建しようと思っているのです。名古屋城が再建すれば、名古屋市の活性化にもつながりますしね。」

 中村がこう話すのを鉄次郎は黙って聞いていた。そして、中村はこう言った。

 「これから、名古屋城が再建されるまでの間、ちょくちょくここを訪れさせてもらいますよ。小栗先生も名古屋城再建のためにご協力お願いします。」

 中村は、こう言って、鉄次郎に頭を下げた。鉄次郎は、中村にこう言った。

 「私も、今頭の中に持っている名古屋城に関する知識をできる限り中村さんの方に伝えていけるよう努力しますよ。だから、私の頭がぼけないうちに、名古屋城再建を実行してくださいよ。」

 そして、この時以降4年間、中村は、頻繁に鉄次郎のもとを訪れるようになる。そして、名古屋市民や名古屋市外の全国の人々からの寄付が集まり、昭和34年(1959年)、名古屋城天守閣の再建が実現した。

 しかし、中村の夢はこれでとどまることはなかった。昭和20年(1945年)の空襲で焼失したのは、名古屋城天守閣だけではなかった。

 「空襲で焼失した名古屋城の全ての建物を再建したい。」

 中村はそう思っていたのだった。

 「次の目標は、名古屋城の本丸御殿を復元し、小栗先生たちが疎開させていたおかげで焼失を免れた国宝の、いや、新しい文化財保護法のもとでは重要文化財となった障壁画を本丸御殿に飾ることだ。」

 しかし、62歳になった中村佐吉にとって、本丸御殿復元の目標は、自分が生きているうちにできるかどうかわからないことであった。自分が名古屋城天守閣の再建活動に携わってから、名古屋城天守閣の再建には8年かかった。名古屋市民や全国の皆様の空襲による名古屋城焼失の記憶がまだ鮮明だったこの時期でさえ、名古屋城天守閣の再建には、10年近い時間を要した。これから、戦争を知らない若者がどんどん世の中に出てくるだろう。そうなったときに、戦争を知らない若者たちに、私たちは、名古屋城の現状をどう説明したらいいのだろう。

 「戦争を語り伝えることと名古屋城本丸御殿再建の話はセットで考えなければいかんな。」

 中村は、これからの自分の仕事は、戦争を語り継いで、後に続く者に本丸御殿再建の意志を伝えることだと確信した。

 そして、昭和34年(1959年)に中村佐吉の地元に伊勢湾台風が訪れ、約4700人の死者を出した。中村佐吉は、名古屋市議として、伊勢湾台風の対応に追われた。

 そして、昭和35年(1960年)以降、東京の国会前では、日米新安全保障条約反対のデモが起こり、東京は騒然とした雰囲気であった。日本国内においては、経済の高度成長が進み、全国で新幹線の建設、高速道路の建設、ニュータウンの建設が進み、公害と環境破壊が進んで、問題化していった。

 しかし、戦前は、名古屋から東京に行くのに、SLに乗って8時間以上かかっていたのが、昭和39年(1964年)に東海道新幹線が開通したことにより、名古屋から東京に行くのに要する時間は、2時間ほどと、大幅に短縮された。

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