二十五 奥の院アガルタ

 「つまり、裏切ったり、裏切られたり、日本の大名たちの人間関係がそのままの形で現れた関ヶ原の戦い前夜、このシャンバラにも嵐が訪れることになる。」

 明治3年(1870年)12月最初の日曜日、入鹿池の底にある、一条院孝三の家の中の囲炉裏で、一条院孝三は、囲炉裏にかけてあった鉄製のやかんを取って、奥様が置いていったお茶の葉を入れた大きな急須の中に湯を注ぐと、4つの湯飲みにお茶を注いだ。そして、江岩寺の中村住職の前に湯のみを3つおいて、つまみを食べている青木平蔵と石川喜兵衛に回すように促した。熱いお茶の入った湯のみが全員に行き渡るのを確かめた一条院孝三は、再び話し始めた。

 「ところで、江岩寺の中村住職の話によると、青木様や石川様は、上末村にある貴船神社参道脇の井戸から地下水路を通って、大山廃寺のある山の中に着いたと聞いているが。」

 一条院孝三がこう話しかけると、青木と石川は、それぞれ、つまみを食べながら、「そうですよ。」と口ごもった。それを見た一条院孝三は、二人にこう話しかけた。

 「上末村の貴船神社からは、それとは別に、もう一本、地下水路が通っていて、その地下水路は、シャンバラの奥の院であるアガルタにつながっている。」

 「えっ?」

 青木と石川は、つまみを食べることをやめて、頭をあげて、一条院孝三を見た。

 そして、一条院孝三は、青木と石川に向かって、こう切り出した。

 「二人とも、歩けるか?皆の前に出したお茶を飲んで、少し、酔いをさましてから、アガルタに行くとするか。

 アガルタは、青木様や石川様が入鹿池の底で目撃した白い木の根っこのある場所から更に地下に潜ったところにある。シャンバラを統率する者は、代々、皆、アガルタを仕事場とし、居住もしてきた。上末村の貴船神社本殿床下にある船着き場から奥の院アガルタへ通じる地下水路で運ばれていたものは、上末村で作った陶器ではなく、主に書類だった。つまり、奥の院アガルタは、シャンバラを人間にたとえるならば、脳の役割を果たしていたのだ。」

 そして、一条院孝三と江岩寺の中村住職と青木と石川は、湯呑に注がれたお茶を2〜3杯飲み干すと、全員片手に行燈を持ち、囲炉裏の部屋を出て、玄関で靴を履き、玄関を出て右側にある白い木の根っこのある場所に戻ってきた。白い木の根っこのある場所から1mくらい離れた場所には、1mくらいの長さの石製のベンチが2個並んで置かれてある。一条院孝三は、片手に持った行燈をベンチの上に置き、並んで置かれてあった石製のベンチを1個づつ、白い木とは反対の方向に2mほど引いてずらした。

 一条院孝三がまず、右側に置かれた石製のベンチを1個動かすと、地面がずれて、右側に膨らんだ直径2m位の半円形の穴が現れた。そして、動かしたベンチの左端からは、1本の鉄梯子が半円形の穴の中の壁に沿って、穴の底に向かって下りているのが見える。次に、一条院孝三が左側に置かれた石製のベンチを引っ張って動かすと、直径2m位の半円形の穴は、直径2m位の完全な円形の丸い穴となった。左側のベンチの右端からは、もう1本の鉄梯子が円形の穴の壁に沿って、穴の底に向かって下りている。

 「これが、奥の院アガルタへの入り口です。」

 一条院孝三はそう言うと、ベンチの上に置いてあった行燈を左手に持ち、右側のベンチを乗り越えて、右側にある鉄梯子を下り始めた。そして、一条院孝三に続いて、江岩寺の中村住職が左側のベンチを乗り越えて、左側にある鉄梯子を下り始めた。そして、青木は、一条院孝三に続き、石川は江岩寺の中村住職に続いて、鉄梯子を下りて行った。

 5mほどの鉄梯子を下りると、4人は、丸い穴の底に着いた。丸い穴の底には、3m四方位の何もない空間があり、鉄梯子の位置から見上げると、今下りてきた丸い穴の入り口が見える。そして、下りてきた鉄梯子から振り返ると、高さ3m位のトンネルの入り口がぽっかり口を開けていた。

 「このトンネルに向かう前に、下りてきた穴をふさいで、ベンチを元の位置に戻しておきましょう。」

 そう言うと、一条院孝三は、持っていた行燈を下に置き、穴の壁に沿って下りた鉄梯子を1本ずつ、2mほど、空間の中央に向かって引っ張って、下りてきた穴をふさいだ。

 「石製のベンチを動かすなんて、なんて力持ちなんだと思ってませんか?いえいえ、あの石製のベンチは、大谷石という名前の軽い石で作られているのです。大谷石とは、敷石や石垣なんかに使われている石ですね。」

 こう言うと、一条院孝三は、再び行燈を手に取って、高さ3m位のトンネルの入り口に向かって歩き始めた。他の3人も一条院孝三に続いて、トンネルに向かって歩き始めた。

 高さ3m位、長さ1kmほどのそのトンネルの中は、3m間隔で行燈が置かれており、一条院孝三は置かれた行燈に火を灯しながら、前に進んでいく。行燈に火が灯るたびに、トンネルの中は明るくなっていくのだが、トンネルの中は、何もない空間だった。そして、4人が1kmほど歩くと、トンネルは、行き止まりとなった。トンネルの行き止まりには、ちょうど、一条院孝三の腰の高さほどの場所に、直径10cmくらいの2つの青緑色の輪が、左右に並んで、垂れ下がっている。持っていた行燈を床に置いた一条院孝三は、両手にそれぞれの輪を握り、こう言った。

 「これは、ヒスイという石でできた扉の取手です。この石の扉の向こうに、奥の院アガルタがあります。」

 そして、一条院孝三は、左右の手で握っていた2つの青緑色の輪を押した。すると、トンネルの行き止まりは、ゴトンという音とともに、観音開きに開いた。開いた石の扉の向こうは、真っ暗闇だった。

 江岩寺の中村住職と青木平蔵と石川喜兵衛が、それぞれの手に行燈を持って、一条院孝三の後に続いて、暗闇の中に入って行くと、一条院孝三は、部屋の真ん中に置いてあった松明に行燈の火を移しているところだった。部屋の真ん中に置いてある松明に火が灯ると、部屋の中は、パッと明るくなったが、一条院孝三は、更に、部屋の4隅にある行燈に火をつけて回っていた。

 その部屋は、20畳位の広さがあり、天井の高さは3mある、石の壁の四角い部屋だった。四角い部屋の真ん中には、大きな松明が置かれ、部屋の4隅の壁には、行燈が掛けられていた。その他には、右隅に、壁に向かって机といすが置かれ、机と対角線上にある部屋の隅っこに、高さ50cm位の大きさの黒い常滑焼の壺が置いてある。そして、机の置かれてある壁の向かいの壁には、高さ2m、横幅2mで、3段ある棚があり、棚には、巻物がぎっしり詰め込まれていた。しかし、部屋の中には、松明1つと行燈4つと机1つといす1つと棚と黒い壺以外の物は、何一つ置かれておらず、20畳の広さの割には、雑風景で何もない感じのする部屋だった。

 「一番上の棚にあるのは、シャンバラにある仏像や仏の教えに関する巻物、真ん中の棚にあるのは、シャンバラにある刀や武器を扱う心得に関する巻物、一番下の棚にあるのは、陶器や磁器の作り方や取引に関する巻物です。しばらく、誰も使っていないので、ほこりまみれになっていますが。」

 一条院孝三がこう話すと、石川は、何もない机の上に20cm位の石像が置いてあるのを見つけて、つかつかと机に歩み寄った。そして、その石像を手に取ってこう言った。

 「これ何だろう?最初は、立っているお地蔵さんかと思ったけど、よく見ると、お地蔵さんのおなかのあたりに、もう一つ小さなお地蔵さんが彫り込まれているように見えるんだけど。」

 「そして、お地蔵さんの胸のあたりには、小さな十字紋が彫り込まれているのが見えるでしょう?」

 一条院孝三は、石川にこう返した。

 すると、今度は、青木が、黒い常滑焼の壺のもとに歩み寄って、壺にかぶせられていた木のふたをずらして、壺の中をのぞいた。壺の中には、真っ白な土が壺いっぱいに詰め込まれていた。

 「ああ、その白い土は、カオリンと言う名前の土です。青木様や石川様も、中国の景徳鎮や朝鮮白磁の名前は聞いたことがあるでしょう。磁器と呼ばれるあのような高級な焼き物は、カオリンという土がなければ、作ることができません。

 景徳鎮や朝鮮白磁のような磁器が日本で作られるようになったのは、比較的新しくて、豊臣秀吉が朝鮮半島から磁器を作ることができる陶工を日本に連れてきてからのことです。それまでの日本では、陶器しか作られていませんでしたので、日本人は、豊臣秀吉の時代に、初めて、白くて硬い磁器の作り方を朝鮮半島から来た陶工に教わったのです。それからは、磁器は、日本で作られるようになりました。

 青木様や石川様と一緒に仕事をしている稲垣銀次郎という陶工は、赤絵の磁器を製造する犬山焼の職人です。犬山焼は、真っ白な磁器に赤い絵の具や時には緑色や青色の絵の具も使って、鳥や花や紅葉の図柄を描くことを特徴とする、とても美しい磁器です。

 ところで、そのカオリンという名前の白い土は、上末村で採集されたものです。上末村には、カオリンの地層が存在します。上末村の人々は、今でも、トンネルを掘って、カオリンを採集し、生計を立てています。」

 一条院孝三は、こう話すと、カオリンの入った黒い壺の向かいにある壁の前に立った。その壁には、一条院孝三の腰の高さほどの場所に、直径10cmくらいの青緑色の輪が1つだけ、垂れ下がっていた。

 「この壁の向こうに船着き場があります。そして、その船着き場から、地下水道に沿って、船をこいでいくと、上末村にたどり着きます。」

 そして、一条院孝三は、行燈を左手に持って、右手で直径10cmくらいの青緑色の輪を引いた。ゴトンという音とともに、石の壁が手前に開いた。一条院孝三は、行燈を持って、開いた石の壁の隙間に入って行った。江岩寺の中村住職と青木平蔵と石川喜兵衛もそれぞれの手に行燈を持って、一条院孝三の後に続いて、開かれた石の壁の隙間に入って行った。

 奥の院アガルタの部屋を出ると、そこには、石で造られた階段が下っていた。4人が1列に並んで、転ばないように、慎重に階段を下りていくと、5分ほどで、船着き場にたどり着いた。船着き場には木でできた船が1艘泊っている。船着き場は、そこで行き止まりになっていたが、地下水道は、船着き場から向こうへも流れて行っているようであった。

 そして、船に乗って櫂を手にした一条院孝三は、こう言った。

 「ここから上末村までは、地下水道の流れに逆らって進みますので、青木様や石川様が大山廃寺跡から上末村に帰って行った時よりも、少々、時間がかかります。さあ、みなさんも船にお乗りください。」

 そして、江岩寺の中村住職と青木平蔵と石川喜兵衛は、行燈を持ったまま、急いで、船に乗り込んだ。江岩寺の中村住職と青木平蔵と石川喜兵衛は、船の中に一列に並んで座り、一条院孝三は、船の先頭で櫂を操りながら立っている。そして、一条院孝三は、こう話し始めた。

 「関ヶ原の戦い前夜の慶長5年(1600年)6月初めころ、比叡山延暦寺を出た雲海と了慶は、尾張の上末村に到着した。上末村の入り口には、森下城という名前の壊れた城跡があって、その壊れた城跡を登ったところに「陶昌院」という名前の寺がある。「陶昌院」こそ、小牧・長久手の戦いの中入り作戦のとき、岡崎に向かう秀吉軍を導いた上末村の武将落合将監安親父子の菩提寺であることを、雲海と了慶は、木曽川堤防築造のときに本人たちから聞いていたのだった。

 陶昌院にたどり着いた雲海と了慶は、さっそく、落合将監安親父子を呼び出してもらった。落合将監安親は、もうすでに亡くなっているとのことで、安親の息子が、陶昌院にやってきて、比叡山延暦寺の僧侶である雲海と了慶に再会した。」

上へ戻る