二十五 高度経済成長の時代

 昭和27年(1952年)9月、公職選挙法に基づく最初の衆議院議員総選挙が実施され、52歳になる元海軍主計大尉の斉藤啓輔は、次のような公約を掲げて、衆議院議員に当選した。

 「私は、戦争中に海軍主計大尉の仕事をしておりましたので、軍隊において、何が必要で何が無駄なことなのか理解しているつもりです。日本は、連合国との間で、サンフランシスコ平和条約を結び、独立を果たしましたが、日本は、戦争放棄の政策を日本国憲法の中で規定しております。

 しかし、私たちの目と鼻の先の朝鮮半島では、米ソ冷戦の代理戦争でもある朝鮮戦争が勃発しております。朝鮮戦争の火の粉がいつ日本にふりかかるともわからないこの状況の中、日本は、アメリカとの間で、日米安全保障条約を結び、米軍に日本の基地を提供し、警察予備隊を組織しました。

 もし、私が国会議員になることができたら、警察予備隊にかける予算を少ないお金で最大の効果をあげられるように努力し、米軍に対しても、必要な予算だけをつけるように折衝していくつもりでおります。そして、日本国内においては、復興の速度を上げて、もっと、便利な世の中になるように努力するつもりです。どうか私を国会議員の職に就かせてください。よろしくお願いいたします。」

 そして、衆議院議員に当選した斉藤啓輔は、自分の掲げた公約を守るため、必死になって働いた。斉藤啓輔は、昭和25年(1950年)に文化財保護法が施行された結果、文化財保護行政がどのように変わっていったのかも知らない。そして、昭和34年(1959年)に名古屋市議となった中村佐吉とその仲間たちが空襲によって焼失した名古屋城天守閣を再建したことも知らない。昭和35年(1960年)、小栗鉄次郎が、文化財保護法施行十周年記念大会において、戦争中に文部省国宝監査官として名古屋城の設計図や障壁画を疎開させることに尽力した丸尾彰三郎とともに文化財功労者として表彰されたことも知らない。斉藤啓輔は、ただ、警察予備隊を自衛隊とし、米軍と予算折衝をし、日本を便利な国にするために、道路を造り、住宅を造り、施設を造ることに全力を傾けていった。

 そのようにして、日本において高度経済成長は進み、昭和40年(1965年)に入ると、公害と環境破壊は深刻化していった。そして、斉藤啓輔は、昭和43年(1968年)9月に、小栗鉄次郎が自宅において88歳の生涯を閉じたことも知らなかった。この時、斉藤啓輔は、68歳で、自分が所属する政党の要職に就いていた。若い頃軍人として体を鍛えていた斉藤啓輔は、68歳になっても、頭も体もしっかりしていた。

 日本において公害と環境破壊が進み、公害訴訟で公害の被害を受けた住民が次々と勝訴していった昭和47年(1972年)、小牧市にある大山廃寺跡で、4年前に亡くなった小栗鉄次郎が、文化財保護法が施行されるにあたって、生前、心配していたことが起こっていた。小牧市の大山廃寺跡にある児神社周辺において、地元住民の手によって、社務所・道路・駐車場建設・治水対策の砂防ダム建設などの整備工事が行われ、部分的に遺跡が破壊される事態となったのである。

 昭和3年(1928年)、史跡名勝天然記念物調査会主事であった小栗鉄次郎は、遺跡を永く残すために、できるだけ発掘調査はせず、現状のまま保護できる遺跡は保護していくという考え方で仕事をしていた。鉄次郎による大山廃寺跡塔跡の17個の塔礎石群の発見のとき、鉄次郎は、なるべく、必要な木以外は切らず、なるべく現状のまま遺跡を維持するという方針で、発掘調査を実施していた。だから、これまで、観光客が大山廃寺跡にアクセスする方法は、江岩寺から女坂を登って、児神社に行くという方法しかなかったのだ。そして、大山廃寺跡は、空襲の被害を受けることなく、小栗鉄次郎たちが塔跡で発見した17個の塔礎石群以外は、寺が廃寺となった中世の頃から変わることなく、ひっそりと山の中にたたずんできた。

 戦後、小栗鉄次郎のこの考え方を支持する有識者は多く、昭和47年(1972年)に、大山廃寺跡の遺跡の一部が破壊される事態に及ぶと、地元民の有志や研究者の間から抗議の声が上がった。天皇主権のもとで作られた史跡名勝天然記念物保存法が廃止となり、国民主権のもとで作られた文化財保護法が、文化財を保護していくのは、国家ではなく、国民一人一人であることをうたっていても、やってはいけないものは、やってはいけないのだ。戦前と戦後で、いろいろなものの価値観が変わったけれども、戦前に行われていた考え方が正しい場合もある。

 そして、地元民の有志や研究者の間から、大山廃寺遺跡の調査と保存を訴える声が相次ぐようになる。大山廃寺跡のある地元の篠岡中学校の教員であった入谷哲夫は、他の教員や生徒に声をかけ、大山廃寺跡の中で建物跡が確認できる造成面を調査し、地元民が道路や駐車場建設などの整備工事をした時に出土した遺物を収集し、記録し、大山廃寺に関する言い伝えを調査して、その結果を「大山廃寺遺跡概説」として、刊行した。

 昭和47年(1972年)10月の晴れた日の朝11時頃、75歳になる渡辺周五郎と中村佐吉は、地元民が造った大山廃寺駐車場に降り立った。名古屋市議会議員の職に就いていた中村は、小牧市にある大山廃寺跡で、地元民が道路や駐車場や砂防ダムを建設し、地元民有志や研究者の間から抗議の声があがっているという噂を聞いて、渡辺を名古屋市内から大山廃寺までのドライブに誘ったのであった。車を運転したのは、中村だった。

 茶色のズボンと緑色の長袖シャツと茶色いジャンパーと白い運動靴と四角い黒ぶちのメガネをかけた中村は、大山廃寺駐車場に車を停車させて、車から降りると、こげ茶色のデニムの中折れ帽子をかぶった。そして、助手席に乗っていた渡辺は、丸いメガネをかけて、青い長袖シャツと紺色のズボンと紺色のジャンパーとグレーの運動靴といった姿で、中村が大山廃寺駐車場に車を停車させ終わると、グレーのデニムの中折れ帽子をかぶりながら大山廃寺駐車場に降り立った。

 渡辺と中村がまだ愛知県警特別高等課の警察官だった昭和6年(1931年)、大山廃寺跡の児神社に行くには、江岩寺からつま先上がりの女坂を10分位かけて登るしかなかった。あれから40年以上の月日が経過し、75歳になった渡辺と中村は、もし、大山廃寺跡に車が入れなかったら、大山廃寺跡には来ていなかっただろう。41年前には、平地のような場所に10人ほどの人夫や小栗鉄次郎が背後の山の中を行ったり来たりしていて、後から小栗鉄次郎の奥さんだとわかった女性が、小さな塚のようなものを背にしながら、たたずんでおにぎりをほおばっていた場所が、今はきれいに舗装されて、何もない20m四方ほどの駐車場になっていた。

 「この駐車場を造るときに、皿や壷や瓦や鏡などが段ボール箱いっぱい出たらしいよ。40年前、俺たちの足元には、そんなものがいっぱい埋まっていたんだなあ。」

 中村がこう言うと、渡辺は、

 「今は、当時の面影が全くなくなってしまったな。」

 と言った。そして、渡辺は、何となくさびしそうに駐車場を見まわして、大山廃寺駐車場の山側の東の一角に、小さな登山道が山にくっついて山の中に入っていくのを見つけた。

 「あ、あれは、41年前に小栗鉄次郎が人夫たちと一緒に造っていた塔跡への道じゃないか?おい、中村、あそこに行ってみないか?」

 そして、中村と渡辺は、大山廃寺駐車場に車を停めて、駐車場から塔跡に続く登山道に入って行った。登山道の途中には、鉄次郎が木にぶら下げ、赤いペンキで「火の用心」と書いた札がまだ、かかったままであった。

 「ここは、あの頃と変わらないな。」

 渡辺がそう言うと、中村も、登山道の左右に点在する、まるで誰かが削ったような角ばった石を見渡しながら、

 「ああ、そうだな。」

 と言った。そして、女坂に比べたらゆるやかな登山道を5分ほど登ると、鉄次郎たちが建てた「史蹟 大山廃寺塔跡」と旧字で彫られた石標柱が見えてきた。

 「ああ、あの石標柱だ。あの頃と何も変わってない。」

 渡辺と中村は、そう言うと、石標柱に駆け寄り、高さ240cmの四角い石標柱の南側正面に彫られた「史蹟 大山廃寺塔跡」の面を見、西側側面に彫られた「昭和六年十月建設」の面を見、東側側面に彫られた「史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ昭和四年十二月十七日文部大臣指定」の面を懐かしそうに見上げた。そして、その石標柱の奥に小栗鉄次郎が発見した17個の塔の礎石群をみつけると、渡辺は近づいていって、深さ2〜3mで約7m四方の四角い穴の中にある17個の塔礎石群を見下ろした。

 一方、中村は、17個の塔礎石群のある場所を素通りして、17個の塔礎石群の奥にある山肌に打ちつけられた、「文部省」と彫られた面の裏面に「史蹟境界」と彫られた50cmほどの石標をみつけて、渡辺の方に向かって、叫んだ。

 「おーい、渡辺、どうやらここらへんは、41年前と何も変わっていないようだ。今日は天気もいいし、これから、この山を登って、本堂が峰まで行き、大山不動に行かないか?」

 「賛成だ。」

 渡辺は、こう言って、17個の塔礎石群から奥の山肌に目を移し、中村の声がする方向へ歩いて行った。

 5分ほど歩いて、渡辺は、鉄次郎の発見した17個の礎石群の奥にある山肌に打ちつけられた、「文部省」の裏面に「史蹟境界」と彫られた50cmほどの石標をみつけると、その石標から右前方の山肌を見た。そして、少し頭を上げて、山の中腹にある、てっぺんに赤いロープをくくりつけられた木をみつけた。

 「ああ、40年の間に、あの木、あんなに成長したのか。」

 渡辺はそう言うと、中村に続いて、赤いロープを目がけて山肌を5分ほど登り、赤いロープをてっぺんに括りつけられた木の根元にある穴のあいた塚のようなもののある場所にたどり着いた。渡辺と中村は、その塚のようなものの穴の中をのぞきこんだ。

 「やっぱり、何もないな。」

 渡辺がそう言うと、中村は、その塚に背を向けて、山の頂上と思われる草むらを目指した。途中、鉄次郎が赤いペンキで木の幹に書きこんだ赤い矢印を確認しながら、5分ほど登っていくと、草がぼうぼうに生えた山の頂上のような平たい狭い場所についた。足元には岩が露出している。

 「しかし、昔も今も、頂上からは何も見えんな。」

 中村がそう言うと、頂上に到着した渡辺は、塔跡がある方向と反対の方向に向き直り、人が一人分入るくらいの木々の隙間を見つけた。

 「おい、小栗は、確か、ここから下に滑り降りていったよな。俺たちも下に滑っていくか。」

 渡辺がそう言うと、中村は、少したじろいで、こう言った。

 「いいか、俺たちはもう75歳になるんだ。もし、ここでけがをしても、誰も助けに来ないぞ。だから、ここは、慎重に、けがをしないように、腰を低くおとして、滑るんだぞ。時間がかかっても構わん。」

 そして、2人は、思い切って、木々の隙間から下に滑り降りた。

 10分くらいかけて、2人は、頂上から塔跡とは反対側の方向にある本堂が峰と呼ばれる場所に滑り下りた。すり鉢の底のような場所である本堂が峰は、41年前に2人が鉄次郎に案内されて入った頃と全く同じだった。そして、2人は、すり鉢の底から右側に延びるくねくねと曲がっている道に沿って進み、道の左右にパッチワークのように色の変わった平地のような土地を眺めながら、無言で歩いて行った。そして、10分ほどその道を歩いて行って、中村が口を開いた。

 「そろそろ、ここを下りたあたりで、滝が見えるはずだが。確か、小栗は、「王子の滝」とか言っていたかな?」

 そして、5分ほどかけて山道を下り、更に5分位歩くと左手に児川が見え始めた。

 すると、突然、児川の先に、白く大きく光る何かが2人の目に映った。

 「うん?何だ?あんなものあったか?」

 渡辺がこう言うと、中村は無言で、白く大きく光る何かが何なのか、確認するため、足早に先に進んで行った。渡辺も中村の後に続いて、白く大きく光る何かを確認するために足早に歩いた。

 そして、渡辺と中村は、白く大きく光る何かの建造物の横に立って、息を呑んだ。

 白く大きく光る大きな建造物は、ダムであった。そして、そのダムは、「王子の滝」の上に建ち、「王子の滝」は消滅して、ただの水たまりになっていた。

 渡辺と中村の頭の中には、小栗鉄次郎に案内されて初めて大山廃寺跡の本堂が峰に入った昭和6年(1931年)から今までの41年間に起こった出来事が、走馬灯のように巡っていた。そして、2人は、まるで、41年前を旅するタイムトラベルから突然、現在に引き戻されたような感覚に襲われていた。

 もはや、中村と渡辺の間に会話はなかった。そして、2人は、ダムから3分ほど先に進んで、大山不動の裏手から大山不動に入った。大山不動に入った2人は、大山不動の不動堂で不動尊に手を合わせた。そして、中村は、渡辺に話しかけた。

 「地元の人たちも怖いんだな。」

 ここで、中村は一呼吸して、溜息をもらした。そして、中村は、続けてこう言った。

 「ここら辺一帯は、江岩寺も含めて、山にへばりつくように、家が建っているだろう?13年前にこの地方を襲った伊勢湾台風の時のような激しい雨が降ると、地元の人々は、山が崩れ落ちてくるような感覚に襲われるのだろう。実際に山崩れが起こって、家が倒壊する災害は、毎年、全国各地のどこかで起こっているんだ。砂防ダムは、あんなに小さくても、ないよりは安心らしい。でも、ダムを造ったら、川や滝はなくなって、山の自然の生態系にも変化を及ぼしてしまう。かといって、江岩寺も含めて、地元の人に山のふもとから立ち退くように言っても、聞かないだろうし。

 日本政府も、日本をもっと便利で住みやすい所にするために、道路やダムを積極的に造る政策でやっている。国の政治家たちは、「不満はあっても不安のない社会をつくる。」と言っているよ。」

 すると、渡辺は、こう言った。

 「でも、俺は、あのダムを見て、まるで、心が切り裂かれたような思いがしたよ。」

 そして、2人は、手を合わせていた不動尊に背を向けて、大山不動から出ようとした。その時、2人が見たものは、大山不動からまっすぐにのびる広くてきれいな舗装道路だった。

 「ああ、地元の人たちは、大山不動まで車で来たかったのだな。この道の方向からすると、この道は大山廃寺駐車場に続いているのかもしれない。どれどれ、どんな道ができたのか、見てやろう。」

 こう話す中村の後を渡辺は無言でついて行った。

 そして、大山不動から車が通ることができる立派な舗装道路を3分ほど歩いたところで、その舗装道路は、女坂を真二つに切り裂いていた。この舗装道路がなければ、女坂は、ふもとの江岩寺から児神社まで続く石畳が美しい景観を醸し出していた場所であった。

 そして、中村と渡辺は、大山廃寺駐車場に着き、車に乗り込んだ。車の中で、助手席に乗った渡辺は、運転席の中村にこう言った。

 「大山廃寺遺跡を巡るこの観光コースは、最初と最後の部分がだめだな。特に、最後の部分がだめだと、観光そのものが楽しくなくなるな。」

 すると、中村はこう言った。

 「名古屋城を壊したのは、米軍による空襲だった。大山廃寺遺跡は、空襲にあわず、戦争によって壊されることはなかったが、その一部分を壊したのは、地元住民だったな。いや、地元住民の責任は小牧市の責任だろう。

 小牧市は、今後、地元住民が勝手に遺跡を壊す事をしないように、監視を強めなければならなくなるだろう。これから、小牧市は、大山廃寺遺跡を守るために、どんな手を使ってくるのだろう。少し興味深いな。」

 ところで、小栗鉄次郎が昭和3年(1928年)に大山寺跡の中で発掘調査を行ったのは、塔跡部分のみであり、そのことによって知ることのできる大山廃寺の歴史は、非常に限定されたものであった。言い伝えによれば、大山寺という寺は、平安時代に「大山三千坊」「西の比叡山、東の大山寺」と言われていたほどの巨寺であったらしい。にもかかわらず、小栗鉄次郎が塔跡で塔の17個の礎石群を発掘調査してわかったことは、

 「大山廃寺跡塔跡にある17個の塔礎石群の周囲から出土した瓦は、法隆寺などに類例がある百済様式の物である。」

 ということだけであった。つまり、大山廃寺塔跡は、少なくとも、日本に法隆寺が建立された7世紀(奈良時代以前、聖徳太子の政治が始まる飛鳥時代から、大化の改新を経て、白鳳文化が栄えた時代)には、この地に存在していた、ということである。

 しかし、小栗鉄次郎も認めているように、大山廃寺跡に関する塔跡以外の建造物については、確実に、位置、大きさ、年代を知る資料が存在していない。そして、大山廃寺遺跡は、平坦地が山全体に無数にあることから見て、塔跡以外にも多くの堂や僧坊などがあったと想像することができる。つまり、大山廃寺跡は、発掘調査をするということが、その位置、大きさ、年代を知り得るために、今現在採ることのできる最も有効な手段である。

 小栗鉄次郎は、大山廃寺跡を永久に保存すべき重要な史跡であるとして、国の史跡に指定するよう、史跡名勝天然記念物調査会に依頼した。その結果、国の史跡に指定されたのは、大山廃寺跡塔跡の周囲1320平方メートルの部分のみであった。

 「遺跡を永く残すために、できるだけ発掘調査はせず、現状のまま保護できる遺跡は保護していく。」という小栗鉄次郎の考え方と、余りにも謎が多い大山廃寺遺跡の間で、小牧市教育委員会と地元住民はジレンマを抱えていた。

 そして、昭和47年(1974年)、入谷哲夫氏が刊行した「大山廃寺遺跡概説」は、大山廃寺遺跡が専門的な調査を受けることを訴えるきっかけとなった。そして、小牧市教育委員会は、地元区民と話しあい、大山廃寺遺跡の発掘調査を実施することになる。そうすることが、大山廃寺遺跡に対する地元の人々の不満を解決する最も有効な手段であるということが、小牧市教育委員会の決定であった。

 昭和48年(1973年)、石油危機が起こる。昭和48年(1973年)10月の第4次中東戦争勃発によって、当時世界に石油を輸出していた中東アラブ諸国は、イスラエルが占領地から撤退するまで、アメリカなどのイスラエル支持国への経済制裁として、石油の輸出を禁止する政策を決定した。

 日米安全保障条約を締結していた日本の政治家たちは、日本はイスラエルの支持国ではないことを確認した上で、この事態に動揺を隠せず、日本国内での石油の需要を抑制する政策をとる。その結果、日本において消費が低迷し、大型公共事業は凍結されるか縮小される事態となった。ここにきて、日本の経済の高度成長は行き詰まりを見せ始めたのだった。73歳になった斉藤啓輔は、20年以上国会議員を勤めてきて、そろそろ、自分の引退を考えるようになった。

 昭和48年(1973年)、文化財保護を仕事としている国の機関である文化庁記念物課から、調査官が大山廃寺跡に現地視察に来た。文化庁記念物課の調査官は、小牧市教育委員会に対して、次のように指摘した。

 「この大山廃寺跡は、昭和4年(1929年)に塔跡の周囲1320平方メートル部分に限って国の史跡に指定されたようであるが、どうやら、塔跡以外にも保存すべき遺跡が存在するようだ。従って、まず、塔跡以外にどのような遺構が存在するかの調査を重点的に行う。そして、その調査結果をもとにして、国の史跡としての指定地域の拡大を図る。そして、大山寺という山岳寺院の全貌を明らかにして、大山廃寺遺跡の環境整備を計るようにすべきである。」

 そして、小牧市教育委員会は、文化庁記念物課調査官によるこの指摘を受けて、愛知県教育委員会と協議し、年次計画を立てて、大山廃寺跡における発掘調査を進めることとした。そして、昭和49年度から、3か年計画で小牧市教育委員会主催のもと、国庫から補助が出て、発掘調査事業は実施されることとなった。

 大山廃寺跡の第1次発掘調査は、昭和50年(1975年)3月1日から3月25日にかけて行われ、まず最初に、小栗鉄次郎が昭和3年(1928年)に発見した17個の塔礎石群の周囲の調査が行われた。47年ぶりに調査の手が入ったこの時、塔跡周辺は、桧や松の大木やら雑木やらが生い茂り、地形の確認も困難なほどであった。また、深さ2〜3mで約7m四方の四角い穴の中にある17個の塔礎石群の周りの土の壁には、いくつかの盗掘坑が掘られており、桧や松の大木のうちの1本が塔の基壇に向かって、穴の中に倒れかかっていた。第1次発掘調査では、小栗鉄次郎が昭和3年(1928年)に発見した17個の塔礎石群の周囲から、奈良時代の軒平瓦や白鳳時代の軒丸瓦など多くの瓦が出土した。

 そして、深さ2〜3mで約7m四方の四角い穴の中にある17個の塔礎石群の周囲を発掘調査するにあたって、塔礎石群の周囲の土地が削られたため、17個の塔礎石群を見下ろす深さ2〜3mで約7m四方の四角い穴はなくなった。昭和4年(1929年)に国の史跡に指定された塔跡の周囲1320平方メートル部分は、17個の塔礎石群を中心として、山肌まで緩やかな傾斜が続く平たい場所となった。

 第2次発掘調査は、昭和50年(1975年)7月25日から9月10日までの間に実施された。この時、発掘調査は、地元の人々が「旧参道」と呼んでいる大山廃寺駐車場下にある女坂の途中にある平地にて行われた。この平地では、「満月坊」という墨書が施された土器が多数出土したことから、発掘調査報告書は、この平地のことを「満月坊地区」と呼称した。

 「満月坊地区」の調査の結果、宋銭や茶碗や皿など、生活用具が多数出土した。そして、「満月坊地区」と同時に、児神社境内の南東部にある平地の調査も行った結果、奈良時代から平安時代末期の瓦を多く出土した。

 一方、世の中に目を移すと、第1次・第2時発掘調査が実施された昭和50年(1975年)4月、米軍が撤退して、ベトナム戦争が終わった。8月には、日本赤軍がクアラルンプールでアメリカ・スウェーデン両大使館を占拠し、日本政府に過激派7人の釈放を要求し、出国を望む過激派5人が釈放された。

 第3次発掘調査は、昭和51年(1976年)7月21日から8月25日の期間行われた。第3次発掘調査は、児神社境内において、古代瓦の出土が多かったことから、児神社境内の詳細な調査を行った。この調査では、中世や奈良・平安期の遺構と共に、多くの銅滓・鉄滓が出土した。児神社境内では、中世の遺構に奈良・平安期の遺構が重なっているようであった。

 そして、第3次発掘調査の結果を踏まえ、当初3か年計画で実施されていた発掘調査事業は、文化庁の視察の結果、報告書作成を含めて、更に2か年延長することが決定された。

 一方、第3次発掘調査が行われた昭和51年(1976年)は、ロッキード事件の捜査が始まり、田中角栄前首相が逮捕された年だった。

 第4次発掘調査は、昭和52年(1977年)8月25日から9月30日までの期間行われた。第4次発掘調査では、まず、前年度から続いていた児神社境内の調査を更に掘り下げる調査をした。

 その結果、この地域には、平安後期に金属溶鉱炉やその関連施設が建っていた可能性が考えられた。また、7世紀後半から8世紀の土器が出土し、この地域に7世紀代(大化の改新の頃、白鳳時代)の生活遺構があった可能性がでてきた。

 一方、世の中の動きに目を移すと、第4次発掘調査が行われた昭和52年(1977年)、巨人の王貞治選手が通算756号ホームランという世界最高記録を達成した。また、日本赤軍が日航機をハイジャックし、ダッカ空港で、身代金と同志の釈放を要求する様子が、一日中テレビに流されていた。日本政府は「超法規的措置」で、要求を受諾した。

 第5次発掘調査は、昭和53年(1978年)5月25日から6月5日までの期間実施された。この調査では、社務所西側の大山廃寺駐車場のある地点が調査された。この地点にある遺構は、平安時代後期の11世紀に廃絶したことが確認された。

 昭和53年(1978年)は、キャンディーズが解散し、新東京国際空港(成田空港)が開港し、サザンオールスターズがデビューし、日中平和友好条約が調印された年だった。

 そして、第5次発掘調査まで終えた小牧市教育委員会は、昭和54年(1979年)3月、「大山廃寺発掘調査報告書」を発行した。5回に及ぶ発掘調査事業によって調査された地域は、大山廃寺遺跡の中に無数にある平地(人間が鋤いたと思われる土地)のごくごく一部にすぎない。しかし、「大山廃寺発掘調査報告書」は、次のような文章で締めくくられている。

 「本寺院跡は、白鳳期(7世紀)にさかのぼる可能性があり、中世末まで連続する山岳寺院跡という特殊な遺跡であって、尾張では他に類を見ない多様な古代瓦を出土し、その瓦類に様々な問題を含んでいる。また、平安後期の掘立柱建物伽藍も注目に価し、さらに、中世末まで何回かの盛衰をくりかえしながらも大規模な伽藍を存続させた本寺院跡の歴史的意義は大きく、塔跡部分のみの史跡指定地を更に拡大して、主要な遺構群、造成面群を含んで保存策が講じられなければならない時点にきているといえよう。」

 大山廃寺発掘調査で出土した古代瓦は、白鳳時代から奈良時代、平安時代にかけて、平城京や法隆寺などの国の中枢部で使用していた瓦と同じ型の瓦であった。また、大山廃寺の言い伝えとして、地元に伝えられている「仁平2年(1152年)、比叡山の僧兵が大山寺に攻めてきて、一山まるごと焼き払われた。」という話を裏付けるように、児神社境内で出土した10世紀の掘立柱建物を埋めている整地層には、多量の灰が含まれていた。そして、発掘調査において出土した土器は、13世紀以降のものが圧倒的に多く、大山寺は、中世にかけて、かなりの勢力を誇っていたと考えられた。

 そして、大山廃寺跡の国の史跡指定範囲は、塔跡の周囲1320平方メートルの部分から、江岩寺に至るまでの山全体に拡大された。

 大山廃寺発掘調査報告書が発行された昭和54年(1979年)、国公立大学で初の共通一次試験が行われ、アメリカのペンシルバニア州にあるスリーマイル島で原発事故が発生し、木曽御嶽山が有史以来初の噴火をした。

 そして、衆議院議員を引退した斉藤啓輔は、この時、79歳となり、名古屋市議会議員を引退した中村佐吉と喫茶店の経営を娘に引き継いだ渡辺周五郎は、この時、82歳となっていた。

 大山廃寺発掘調査報告書が発行された昭和54年(1979年)、小栗鉄次郎が自宅において、88歳の生涯を閉じてから、11年の月日が流れていた。

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