二十八 天下統一

 「慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原において、天下分け目の戦いが行われたことは、皆も知っているだろう?この日、徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元と秀吉の腹心だった石田三成を中心とする西軍が関ヶ原で激突した。

 そして、この戦いにおいて、シャンバラの奥の院アガルタの船着き場で家康が比叡山延暦寺の僧侶である雲海と了慶に託した2通の文が、微妙に効力を発揮した。上末村にあるカオリンの層は、九州にいる大名たちにとっては、とても魅力的なものだったのだ。そして、比叡山延暦寺再興の話は、近畿地方在住の大名たちにとって、願ってもない話だった。家康は、上末村にあるカオリンの層と比叡山延暦寺再興をネタにして、多くの大名たちの支持を得て、関ヶ原の戦いに臨んだのだ。」

 明治3年(1870年)12月最初の日曜日、江岩寺の中村住職と青木平蔵と石川喜兵衛を船に乗せて、奥の院アガルタの船着き場から、上末村に向かって、地下水道を進んでいた一条院孝三は、船の先頭で櫂を操りながら、話を続けた。

 「関ヶ原で合戦が行われていた慶長5年(1600年)9月、比叡山延暦寺の僧侶である雲海と了慶は、九州から、朝鮮人陶工の日本人弟子である喜助を連れて、加藤清正の部下の武将たち二人に守られながら、官道を通って、上末村に到着した。運のいいことに、官道は、関ヶ原合戦場から少しずれた場所を通っていた。そして、比叡山延暦寺の僧侶である雲海と了慶は、朝鮮人陶工の日本人弟子である喜助を上末村に残し、弥助を連れて、比叡山延暦寺に帰って行く。

 九州からカオリンの層を探しに来ていた喜助は、30代の男性で、妻と幼い子供が二人、九州にいた。従って、喜助は、1か月に1回くらいは、家族がいる九州に帰るという形で、九州とシャンバラの間を何度も往復しながら、シャンバラに3年間滞在した。

 喜助がシャンバラにいる間は、シャンバラやその周辺地域に住む人々に、喜助の持っている技術を伝授していくということが、家康と喜助の間の約束事だった。そのためなら、家康は、喜助にいくらでも援助を出すと言った。喜助は、家康からの援助を元にして、シャンバラの中で、陶芸教室を開き、陶芸に興味を持っている者には誰にでも、自分の技術を教えていった。そして、喜助の開いた陶芸教室の中で、最も熱心に陶芸に打ち込んでいたのが、弥助の息子である太助だった。

 一方で、家康は、比叡山延暦寺復興のために、弥助を延暦寺に送り込み、弥助が仕事をしやすくするために、天海という僧侶を弥助の上につけた。天海と弥助は、家康の期待に応えて、建物の面でも、僧侶たちの教育の面でも、延暦寺を建て直していった。

 そして、関ヶ原の戦いに勝利した家康の天下統一は順調に進んで行ったが、キリスト教は、家康の心配事の種であった。弥助がシャンバラからいなくなれば、シャンバラをキリスト教徒の手から守り切ることができるという保証はなかった。

 「家康が天下統一をしたあかつきには、家康の生まれ故郷岡崎にも近く、織田信長公の心の故郷でもあったシャンバラを家康の政務をつかさどる中心地とする。」という家康の一時期の夢は、無残にも打ち砕かれた。家康の政務をつかさどる中心地は、キリスト教の影響が及ばない場所に造らなければならない。なぜなら、キリスト教は、スペインやポルトガルといった大国の植民地支配と表裏一体だからだ。日本は、スペインやポルトガルの支配地ではなく、家康の支配地にしなければならないのだ。

 弥助が比叡山延暦寺に去って行った後、シャンバラがどのようになるのかは、家康にもわからなかった。」

 「キリスト教徒の影響力のない場所に、首都を造る。」

 これが、家康の考え方だった。それほど、スペインやポルトガルの力は強大だった。九州に上陸したキリスト教は、東へ東へと歩みを進めている。秀吉公がキリスト教宣教師たちを追放しても、キリスト教徒は、日本に増え続けていた。

 「シャンバラは、尾張地方北部の鬼門となってしまうかもわからない。平安時代末期に、比叡山延暦寺の僧兵たちから逃げることができたシャンバラは、キリスト教徒たちからは逃げられなかった。」

 しかし、当時、全国に70万人いたとされるキリスト教徒は、家康が秀吉から与えられた江戸には、まだ、訪れていないようであった。江戸が、西には富士山の噴煙が見え、温泉が湧くような田舎で、人もあまりいないことが、キリスト教宣教師たちの布教活動の足を妨げているようであった。だから、家康は、江戸を政務の中心地にしたのだ。家康は、江戸を首都にして、江戸に、官僚組織を築き、全国の大名や公家や寺社を統制していった。

 今までの為政者とは違う家康の政策の特徴は、キリスト教対策であった。家康は、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家の土地はもちろんのこと、全国の主要地でキリスト教を禁止した。そして、家康は、自分の考えた政策は、子孫たちにも受け継がせた。

 家康には、11人の息子がいたが、11人の息子のうちで、徳川の名前を名乗ることができたのは、三男の徳川秀忠、九男の徳川義直、十男の徳川頼宣、十一男の徳川頼房の4人だけである。三男の徳川秀忠は、第2代徳川幕府将軍である。その他の3人は、徳川御三家と言われ、それぞれ、直轄地を与えられたが、徳川御三家の筆頭が尾張徳川家であった。九男の徳川義直は、尾張藩の初代藩主となり、尾張徳川家の始祖となる。また、十男の徳川頼宣は、紀州徳川家の始祖となり、秀吉による文禄・慶長の役で朝鮮半島から朝鮮人陶工を連れてきた加藤清正の娘を正室とした。十一男の徳川頼房は、水戸徳川家の始祖となり、徳川頼房の三男が水戸藩2代藩主の水戸光圀公となる。

 関ヶ原の戦いから7年後の慶長12年(1607年)、家康は、9番目の子供である義直に尾張の地を与え、尾張藩の初代藩主にした。慶長15年(1610年)、徳川義直には、付家老と呼ばれる補佐役がついた。その補佐役の一人が、犬山藩初代藩主の成瀬正成である。成瀬正成は、小牧・長久手の戦いで、徳川方について、徳川方の勝利に貢献した人物であった。成瀬氏は、家康より特に乞われて、義直の付家老となり、犬山城を与えられた。

 そして、2年後の元和2年(1612年)、家康は75歳で亡くなる直前に、4人の子供たちを呼び、シャンバラの話を聞かせる。このとき、シャンバラの経営は、家康の手から、4人の子供たちの手に移って行ったのだった。そして、シャンバラに対して、最も大きな責任を負うことになったのが、尾張藩初代藩主であり、尾張徳川家の始祖である徳川義直だった。シャンバラの行く末は、徳川義直の肩にかかっているといっても過言ではない。

 そして、家康が亡くなってから7年後の元和9年(1623年)、秀忠は、自分の息子に将軍職を譲る。つまり、徳川幕府3代将軍徳川家光は、尾張徳川家始祖徳川義直の甥にあたる。

 一方、キリスト教徒に対する禁圧は、2代将軍秀忠の頃も厳しいものだったが、3代将軍家光の時代になると、更に度を増し、日本は、鎖国の道へと突き進んでいく。そのような時代背景の中、3代将軍徳川家光と尾張徳川家の始祖徳川義直の間には、衝突が絶えなかった。そして、3代将軍徳川家光と尾張徳川家の始祖徳川義直の不仲が、シャンバラに与える影響は、余りにも大きかった。

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