二十九 隠れキリシタン

 明治3年(1870年)12月最初の日曜日、奥の院アガルタの船着き場を出て、上末村の貴船神社本殿床下にある船着き場にたどり着いた江岩寺の中村住職と青木平蔵と石川喜兵衛と一条院孝三は、貴船神社本殿に向かう登り道を登っていった。一行が船着き場から10mほど登ると、広さが10平方メートルほど、高さが5メートルほどの四角い開けた土地が目の前に広がった。そして、一条院孝三は、開けた四角い場所の真ん中に置かれてあった松明に火をつけた。松明に火がつくと、開けた四角い場所はパッと明るくなった。一条院孝三は、更に、四角い場所の四隅に置かれてある行燈に火をつけて回った。

 真ん中に松明が置かれ、四隅に行燈が置かれたその四角い場所は、右側奥隅に貴船神社本殿に向かう階段が上にまっすぐ登っていて、左側の壁いっぱいに、白く光る地層が天井まで広がっている。どうやら、この白く光る地層が、朝鮮白磁や景徳鎮を作る材料となるカオリンらしい。カオリンの地層のある面の床には、猫車やらつるはしやらが乱雑に置かれてある。この場所では、今でも、時々誰かが、カオリンを採集に来ているらしかった。

 そして、一条院孝三は、船着き場から登ってきた四角い場所の突き当りの壁の中央に立ち、皆を呼び寄せた。

 「みなさん、ちょっとこっちに来て、これを見てください。」

 中村住職と青木平蔵と石川喜兵衛が、一条院孝三の前に集まってくると、一条院孝三は、突き当りの壁の中央あたり、人間の目の高さ位の位置に、人間によって掘られたと思われる30cm四方で奥行きが10cmほどの窪みを指さした。その窪みの中では、赤褐色で十字の形をした高さ3cmほどの石が白い地層を背景にして、浮き彫りになっていた。

 「これは、十字石という名前の石です。日本でも所々で産出するのですねえ。この石は、これといって、使い道はありませんが、キリスト教徒には重宝がられています。」

 一条院孝三はこう話すと、今度は、窪みの奥行きの部分に置かれた小さな物を指にぶら下げて、皆に見せた。それは、黒い背景にとんぼが描かれた蒔絵の印籠だ。

 「この印籠を帯に留める小さな根付の部分をよく見てください。」

 そして、根付をちらっと見て、石川喜兵衛がこう声をあげた。

 「この白い根付に彫り込まれている文様は、三つ葉葵ですけど。私が見たところでは、尾張徳川家の家紋だと思われる。江戸の徳川宗家や紀州や水戸の御三家の家紋との違いは、周囲の丸い円から葵の葉っぱに続く部分が閉じられていて、かつ、葉の葉脈の大きさがこれだけ膨らんでいる部分だ。この部分が尾州三つ葉葵の特徴です。」

 「その通り。さすが、石川殿。」

 こう言って、一条院孝三は、印籠を元の場所に置いた。そして、こう続けた。

 「キリスト教徒に重宝がられている十字石と尾州三つ葉葵の彫られた根付を持つトンボの印籠が今回の話のキーワードです。

 皆さんもご存知のことと思いますが、第2代将軍徳川秀忠、第3代将軍徳川家光の時代には、キリスト教徒に対する弾圧が行われ、多くのキリスト教徒が殉教しました。第2代将軍徳川秀忠の時代に、江戸幕府がキリスト教徒に対する弾圧を強化していったのには訳があります。日本に布教に来ているキリスト教の宣教師たちの多くは、江戸幕府の体制には非協力的で、幕府は幕府、自分は自分という態度で、活発に布教活動を行っていたのです。江戸幕府は、そんなキリスト教宣教師たちの態度を見て、だんだん、締め付けを強くしていきます。」

 徳川義直の付家老である犬山藩の成瀬正成が、徳川義直に名古屋城でその話を伝えたのは、元和5年(1619年)11月に入ってからのことであった。その話は、弥助の息子である太助から、徳川義直の付家老である犬山藩の成瀬正成に伝わった話である。34歳になった弥助の息子である太助は、九州からカオリンの層を探しに来た喜助の指導もあって、大山廃寺のある山の中で窯を開き、磁器を作る陶磁職人となっていた。そして、太助は、陶磁職人の仕事をする傍ら、犬山藩の成瀬正成のもとで、隠密の仕事も請け負っていた。太助は、小さな子供を持つ妹のうめが友達から聞いた話として、次のような話を成瀬正成に伝えた。

 「元和5年(1619年)10月、京都で、52名の一般庶民が、市中引き回しの上、京都六条河原で処刑された。処刑された、女子供を含む52名の一般庶民は、全員、キリスト教徒だった。

 京都所司代の板倉勝重は、キリスト教徒に対して好意的で、江戸幕府が禁教令を出してからも、キリスト教徒を黙認したため、京都では、「デウス町」というキリスト教徒が多く住む町までできるほどだった。しかし、江戸幕府から出される禁教令は、年々厳しくなっていく。京都所司代の板倉は、とうとう、江戸幕府の方針に逆らうことができず、キリスト教徒を牢屋に入れざるを得なくなった。そして、京都所司代の板倉は、徳川秀忠に対して、牢屋にいれたキリスト教徒たちを許してくれるように訴えた。

 しかし、徳川秀忠は、直々に、52名のキリスト教徒たちを火あぶりの刑に処すよう命じた。そして、他のキリスト教徒たちは、処刑された52名の一般庶民を殉教者として、語り継いでいった。」

 そして、隠密の太助は、成瀬正成に、続けてこう言った。

 「この話が、妹うめの友達にも伝わり、うめの友達は、自分もいつか、幕府に捕まって、処刑されるのではないかとおびえていた。その様子を見たうめは、キリスト教徒である友達をかわいそうに思い、友達にシャンバラに住むことを提案した。

 江戸幕府は、キリスト教徒たちが幕府の方針に非協力的だから、処刑したと言っているが、うめの友達のキリスト教徒たちの中に、幕府の転覆を企てたり、幕府の方針に逆らったりする者は、一人もいない。もし、うめの友達にキリスト教の信仰を認めてくれれば、うめの友達のキリスト教徒たちは、幕府に協力すると言っている。」

 第2代将軍徳川秀忠は、徳川義直の兄にあたる。とはいっても、秀忠は、義直より22歳も年上で、母親も違う。親子ほどの年の離れた兄の存在は、義直にとっては、脅威であった。

 「しかし、2か月後に秀忠殿の息子の竹千代殿が元服して、徳川家光を名乗り、従三位権大納言に任官することが決まっている。2か月後に徳川家光を名乗る竹千代殿は、この義直より3歳年下だ。そして、徳川家光は、近い将来、第3代将軍となるお方だ。

 シャンバラにキリスト教徒たちが住み着いている話は、秀忠殿に相談しても、悪い結果しか生まないような気がする。この話は、しばらくは伏せて置き、近い将来第3代将軍となる家光殿に相談する方が懸命なのではないだろうか。」

 「しかし、秀忠殿がお元気である以上、家光殿が第3代将軍になっても、しばらくは、秀忠殿は幕府の政治に対して、影響力があると思われる。特に、キリスト教徒に関しては。」

 付家老である犬山藩の成瀬正成は、徳川義直に対して、こう反論した。

 二人の間に沈黙が続いた後、徳川義直は、付家老の成瀬正成にこう言った。

 「とにかく、一度、シャンバラに行き、シャンバラにいるキリスト教徒たちに会ってみなくてはならんな。」

 そして、徳川義直がシャンバラに行くことができたのは、その1年後の元和6年(1620年)11月に入ってからのことであった。

 3日間ほど休みが取れた元和6年(1620年)11月のある晴れた日、19歳の徳川義直は、お供の者を二人ほど連れて、趣味の鷹狩りをするために、朝から昼過ぎまで、春日井原にある朝宮御殿に滞在した。そののち、朝宮御殿から東北方向に向けて45分ほど馬に乗り、大久佐八幡宮にたどり着いた。

 大久佐八幡宮は、徳川義直の父徳川家康がシャンバラに行く起点とした神社で、小牧長久手の戦いのときは、家康が中入り作戦で秀吉に勝つ決め手となった情報を入手した神社だ。そして、弥助が比叡山延暦寺に行くきっかけとなったシャンバラでの事件後、シャンバラが尾張地方北部の鬼門となってしまった場合に備えて、家康は、大久佐八幡宮を鬼門防除の神社として、尾張藩に信仰を厚くさせた。そして、尾張藩主の代理として、小牧代官の赴任・退任の際には、代官に報告参拝をさせ、神社の祭りの際にも、補助金を与えたうえで、代官に参拝させていた。そして、今日、尾張藩主徳川義直は、シャンバラを訪れるために大久佐八幡宮に2日間宿泊する。今回の徳川義直のシャンバラ訪問は、今後のシャンバラの行く末を左右する重要な訪問だからだ。

 義直は、大久佐八幡宮に到着すると、翌日のシャンバラ行のために、鷹狩の疲れを取り、栄養を取って、早く就寝した。翌日、義直が起きると天気は快晴だった。義直は、馬に乗って、大久佐八幡宮を出発すると、北の方向に進路を取り、大山村に向かった。そして、20分ほどかけて大山村に到着すると、今度は馬で5分ほど山道を登り、江岩寺にたどり着いた。江岩寺にたどり着いた義直は、江岩寺の住職に挨拶をして、馬を江岩寺につないだ。そして、義直は、江岩寺を出て、児川を渡り、両端にある2本の大きな杉の木をくぐり、石畳の女坂を10分くらい登って、児神社にたどり着いた。

 義直は、どちらかといえば、寺よりも神社の方が好きであった。そして、平安時代の昔、比叡山延暦寺の僧兵たちに攻められて、一山丸ごと焼き払われ、その時に亡くなった稚児を祀ったという伝説を持ち、大山廃寺跡に建つ児神社を義直は、前々から一度訪れたいと思っていた。だから、今日、義直は、シャンバラに近い不動坂を通らず、江岩寺から児神社に一直線に続いている女坂に向かったのだ。シャンバラに行くには少々遠回りでも、義直には関係のないことであった。
 義直が児神社に着くと、打ち合わせ通り、付家老である犬山藩主の成瀬正成と隠密の太助が義直を待っていた。義直は、後ろにお供の者二人と付家老である犬山藩の成瀬正成と隠密の太助を従えて、児神社本殿を参拝した。神社の参拝が済むと、隠密の太助が、義直一行をシャンバラまで案内した。

 児神社から大山不動まで5分くらい歩き、大山不動から滝を右側に眺めながら、20分くらい山道を登ると、シャンバラへ行くトンネルの入り口に到着する。滝の音や川のせせらぎや鳥のさえずりを聞きながら、義直は、無言で山道を登っていく。そして、シャンバラの入り口にたどり着くと、太助は、義直一行に行燈を持たせて、トンネルの中を案内していった。

 シャンバラに抜けるトンネルを通り、石でできたカウンターに着くと、太助は、カウンターの下をくぐって、カウンターの向こうにある仏像の曼陀羅の中を抜けていく。義直たちは、迷路のような仏像の曼陀羅の中で迷うことのないように、太助の背中を追いかけていった。そして、太助は、白い木の根っこのある場所にたどり着いた。そして、義直たちが全員太助にたどり着くのを見て、こう言った。

 「この白い木の根っこのある場所から更に地下に下りたところに奥の院アガルタがあり、キリスト教徒たちは、奥の院アガルタを礼拝堂にしています。」

 「なるほど。父上が日本の首都をシャンバラではなく、江戸にしたのは、正解だったな。」

 義直がこうつぶやくと、太助は、更に話を続けた。

 「しかし、キリスト教徒でも、足の弱い者や体力のない者が奥の院アガルタに行くことは容易なことではないですよね。だから、奥の院アガルタに行けないキリスト教徒たちは、この白い木の先端に集まって、そこで毎週ミサを行っています。

 この白い木の先端は、入鹿村にある白雲寺の参道に突き抜けています。そして、この白い木の先端は、丸い小石が敷き詰められた石掛で囲まれています。奥の院アガルタに行けないキリスト教徒たちは、奥の院アガルタでミサがある日は、白雲寺の参道にあるその石掛の周りに集まって、ミサを行っています。では、これから、奥の院アガルタに行きましょうか。」

 そういうと、太助は、白い木の根っこのある場所から1mくらい離れた場所に置かれてある1mくらいの長さの2個の石製のベンチを動かした。そして、太助が、直径2m位の穴の中に下りて行くのを見て、義直たちも無言で、太助についていった。

 奥の院アガルタは、20畳位の広さがあり、天井の高さは3mある、石の壁の四角い部屋だ。そして、部屋の手前の両側には、5個ずつ積み上げられた座布団が左右10列ずつあった。座布団の数は、全部で100個だ。そして、部屋の奥の突き当りには、ひな壇があった。ひな壇の背後には、立った人の頭の上の位置に棚が置かれてあって、その棚の上には、大きさが10cm位の、手で持つことができる小さな仏像が20体、横一列に置かれてあった。

 義直は、ひな壇の背後の棚の上に置かれた20体の小さな仏像を眺めながら、太助にこう聞いた。

 「これは、仏像ではないか。ここの場所のどこがキリスト教の礼拝堂だというのだ?」

 すると、太助は、義直に近づいて、20体あった仏像のうちの一つを手に取り、こう言った。

 「ほら、よく見てください。この仏像の胸のあたりに私たちが爪でつけたかのような、小さな十字の形が刻まれているでしょう?それから、こっちの仏像には、おなかのあたりにもう一つ小さな赤ちゃんのようなものが刻まれているでしょう?これらの仏像は、仏像の形をしているが、キリスト教徒にとっては、イエスキリストやマリア様の像なのですよ。」

 「ふーん、まあ、おれは、寺より神社の方が好きだからな。」

 義直は、少々気に入らないといった様子で、太助にそっけないそぶりを見せた。すると、太助は、義直にこう答えた。

 「ああ、そうですね。義直殿が寺より神社が好きだという情報は、私の方でもつかんでいます。ですから、私は、これから、義直殿を貴船神社本殿床下にあるもう一つの礼拝堂に連れていくつもりです。そちらの礼拝堂は、鉱山で働くキリスト教徒の労働者が造った礼拝堂です。この部屋の右側奥にあるあの石の扉から船着き場に下り、船で地下水道を進んだところにある礼拝堂です。その前に、おにぎりと赤だしの豆腐の味噌汁をご用意いたしましたので、みなさん、ここで少し休憩してから、船に乗りませんか?」

 そして、徳川義直一行が黙々と腹ごしらえをすませるのを見て、太助は、奥の院アガルタの右側奥隅に垂れ下がっていた直径10cmくらいの青緑色の輪に手をかけて、引いた。そして、ゴトンという音とともに石の壁が手前に開くと、太助は、開いた壁の向こう側に移動していった。徳川義直一行も太助について、四角い部屋を出た。そして、一行は、部屋から続く階段を5分ほどで下り、船着き場にたどり着いた。船着き場には木の船が一艘つながれていた。太助はその船の先頭に乗って櫂を握り、船着き場にたたずむ徳川義直とお供の者二人と犬山藩主の成瀬正成に向かって、こう言った。

 「どうやら、ぎりぎり皆この船に乗ることができるようです。さあ、みんな船に乗ってください。」

 そして、義直一行が全員船に乗ったことを確認した太助は、櫂をこいで、船着き場を後にした。

 「貴船神社とは珍しい。尾張藩の中で、貴船神社という名前の神社は、余り聞いたことがない。」

 徳川義直が船の先頭に立って船をこいでいる太助にこのように話しかけると、太助は、このように返した。

 「そうですね。これから行く貴船神社本殿床下の地下空間は、カオリンの層がある鉱山の中にある空間で、鉱山労働者たちは、皆、その地下空間でカオリンを採集して、生計を立てています。

 カオリンというのは、中国の景徳鎮や朝鮮白磁などの高級な磁器を作るために必要な土のことです。カオリンはとても貴重な土なので、高いお金で売れるのです。成瀬殿の隠密である私の本職は磁器を作る職人ですが、磁器職人の稼ぎだけでは、カオリンの土は、ほんの少ししか買えません。だから、私は、カオリンに他の土を混ぜて、磁器を作り、売っています。

 今日は、徳川義直殿に会えるということで、鉱山労働者の中のキリスト教信者たちが皆集まって、その地下空間で徳川義直殿を待っています。」

 そして、太助は、貴船神社本殿床下の船着き場に着くと、皆を下ろした。徳川義直一行が目の前の階段を10mほど登ると、広さが10平方メートルほど、高さが5メートルほどの四角い開けた土地が目の前に広がり、10人ほどの男女がそこにたたずんでいるのが見えた。その10人の男女は、徳川義直一行が四角い開けた土地に登ってくるのに気が付くと、一斉に徳川義直一行の周囲に集まってきた。

 「義直殿、我々の話を聞いてください。」

 「義直殿、我々に信仰の自由をください。」

 皆が、徳川義直に向かって、口々に叫ぶ中、太助は、その空間にいた10人の男女に向かって、こう言った。

 「まま、みんな、とにかく、義直殿には、まず、ここに造られた礼拝堂を見ていただきましょうよ。皆の意見を義直殿に聞いていただくのは、そのあとにして。」

 太助がこういうと、義直一行を取り囲んでいた10人の男女は、パッと二手に分かれた。太助は、道が開けた方面に向かって歩き出し、義直一行もそのあとに続いていく。義直は、左右に分かれた人々の顔を見ながら、無言で太助についていった。

 太助は突き当りの壁の中央あたりに来た。そこには、ちょうど人間の目の高さ位の位置に、人間によって掘られたと思われる30cm四方で奥行きが10cmほどの窪みがあるのが見える。その窪みの中では、赤褐色で十字の形をした高さ3cmほどの石が白い地層を背景にして、浮き彫りになっていた。そして、太助は、義直一行の方を振り返り、こう言った。

 「義直殿、ここが、皆が崇拝する礼拝堂です。義直殿から見れば左側の白い壁はカオリンの層です。カオリンを採集する鉱山労働者たちのうちのキリスト教信者の皆さんは、ここを礼拝堂にして、日々、一生懸命仕事をしています。

 ちなみに、この十字架は、カオリンを採集していた鉱山労働者が偶然見つけた物です。真っ白なカオリンの層の中に、不純物として、この小さな赤褐色の十字の形をした石が混ざっていたのです。それを見つけた労働者は、近くで仕事をしていたキリスト教信者である労働者に声をかけ、他のキリスト教徒たちがその石の形をたいそう珍しがって、ここを礼拝堂にすることに決めたのです。

 さあ、義直殿、この十字架の前に立って、キリスト教信者の皆さんと話し合ってください。」

 そして、太助に促されて、十字架の前にあるひな壇に登った徳川義直は、しばらく、十字架を鑑賞した後、皆の方向に振り返った。

 「カオリンの層からカオリンという土を掘り出して、貴船神社の外まで運び出すという作業は、思った以上に重労働です。この息苦しい地下空間の中で、重い土を運び出す我々が仕事を投げ出さないのは、キリスト教のおかげなのです。我々にキリスト教を信仰するなということは、仕事をするなということと同じです。」

 「我々は、幕府を転覆させようなどとは、これっぽっちも思っていません。我々にキリスト教の信仰を認めてくださるのなら、いつでも幕府に協力します。」

 キリスト教徒たちが口々にこのように叫ぶのを聞いて、徳川義直は、こう言った。

 「父である徳川家康公がキリスト教を認めなかったのは、日本に伝来した当初のキリスト教が、スペインやポルトガルなど世界の大国の植民地化と表裏一体だったからです。この日本は、日本人による日本人のための国であって、世界の大国のための国ではない。

 そして、イエズス会宣教師たちによってキリスト教が日本に伝来してから、70年以上がたちました。今、私の目の前にいるキリスト教徒の皆さんの中に、日本をスペインやポルトガルなどの大国の植民地にしようと考えている人はいないということは、私にもわかります。しかし、日本にいるキリスト教徒が皆、外国の植民地化とは関係のない人たちばかりなのかと問われれば、疑問が残る。

 昨年、京都のデウス町と言われる町に住んでいたキリスト教徒を火あぶりの刑に処したのは、江戸幕府の第2代将軍徳川秀忠公ですが、徳川秀忠公の下す政策は、全て、側近の者たちが決めている。秀忠公の側近の者たちの話によれば、側近たちが会うキリスト教徒たちは、幕府は幕府、自分は自分で、幕府の政策には非協力的で、なおかつ、キリスト教の布教には積極的なのだそうだ。」

 「しかし、我々は違う。我々は、ただ、神社や寺にお参りに行く人たちと同じようにキリスト教を信仰している。」

 その場にいたキリスト教徒の一人が義直の話をさえぎってこう言うと、義直は、更に続けてこう言った。

 「では、私たち幕府の人間は、何を基準にして、キリスト教徒たちを振り分けるのだ?大国の植民地化をもくろむキリスト教徒とあなた方のようなキリスト教徒を見分けるには、どうしたらいいのだ?」

 すると、その場にいた者たちは全員、黙り込んでしまった。そして、しばらく沈黙の時間が流れたのちに、口を開いたのは、徳川義直だった。

 「まあ、このような地下でキリスト教を信仰している分には、江戸幕府の目には触れないだろう。これからは、余り大っぴらに外で集会を開いたりはしないことだな。」

 「しかし、俺のかあちゃんのように、足が悪くて、地下に行けないキリスト教徒もいるじゃないか。」

 キリスト教徒たちの一人がこのように口ごもった。そして、しばらく考えたのち、義直は、こう答えた。

 「どう考えても、キリスト教徒の線引きは不可能だ。やはり、当分の間、キリスト教徒は、地下に潜るのが得策だ。江戸幕府も地下世界までは追いかけてこないだろう。」

 「でも、義直殿は、我々キリスト教徒の話を聞いてくれるじゃないか。側近を通さず、直接、第2代将軍徳川秀忠公に話をしたら、秀忠公も我々を認めてくれるんじゃないのか?秀忠公は、義直殿の兄なんだろう?」

 「そうだ。そうだ。」

 貴船神社本殿床下の礼拝堂で、キリスト教徒たちは、徳川義直に口々に詰め寄った。「いや、そんなことを言われても困るよ。」という表情をかもしだし、義直は、まあまあ、と、両手でキリスト教徒たちをいさめて、こう言った。

 「第2代将軍徳川秀忠公は、私の兄と言っても、私より22歳も年上で、母親も違うのだ。現に、京都では、京都所司代の板倉がキリスト教徒たちを見逃してくれるように話しても、秀忠公直々に火あぶりの刑の決定がされたではないか。

 ところで、今年に入ってから、秀忠殿の次男である竹千代殿が従三位権大納言に任官し、元服して、家光という名前になった。そして、家光殿は、近い将来、第3代徳川幕府将軍になる。家光殿は、この義直より3歳年下で、なおかつ、私の甥にあたる方だ。ひょっとして、家光殿なら、まだ、秀忠殿よりは話しやすいかもしれない。しかし、現在の状況では、秀忠殿の権限はまだまだ強く、たとえ、家光殿が第3代将軍に就任したとしても、秀忠殿には逆らえないだろうな。」

 「では、我々は、家光殿が第3代将軍になるのを待てばいいのか?」

 「いや、家光殿が第3代将軍になっても、家康公が出したキリスト教禁教令がなくなることはない。ただ、私にとっては、個人的に、家光殿は秀忠殿よりは話しかけやすい相手かも、と思っているだけだ。」

 そして、義直は、貴船神社本殿床下にある礼拝堂に集まっているキリスト教徒たちに対して、くぎを刺すように、こう言った。

 「とにかく、今の日本では、キリスト教は、禁教なのだ。しかし、今日、ここへ来て、キリスト教徒の皆さんの話を聞いていたら、私の心の中では、このようなキリスト教徒たちなら、信仰を許してもいいかもしれないと思っている。しかし、現実は、そう甘くはないのだ。京都所司代の板倉勝重殿も立場は私と同じだったのだ。

 最後に、キリスト教徒の皆さんは、地下に隠れて、礼拝するように。表だって、外で集会を開くことをしないように。江戸幕府の連中に気付かれたら、みなさんもどうなるかわからんぞ。」

 そして、徳川義直は、ひな壇を下り、太助と義直のお供の者二人と付家老である犬山藩の成瀬正成の一団のもとに歩み寄り、こう言った。

 「今日は、このまま、今来た道を戻り、シャンバラを出て児神社に参拝してから、大久佐八幡宮に帰る。貴船神社には、また、後日、行くことにする。」

 そして、貴船神社本殿床下にある礼拝堂から階段を下って、船着き場に戻り、船に乗って、奥の院アガルタを目指している途中で、徳川義直は、付家老である犬山藩の成瀬正成に向かって、こう言った。

 「この尾張地方にいるキリスト教徒たちを守るという仕事は、私のライフワークになるかもしれない。なぜなら、尾張藩を繁栄させていくためには、キリスト教徒たちの経済的活躍が不可欠だからだ。」

 しかし、シャンバラを出て、児神社を参拝している義直の心の中は、暗雲が立ち込めていた。

 そして、徳川義直が上末村にある貴船神社をお忍びで訪れたのは、それから3年後の元和9年(1623年)12月のことであった。付家老である犬山藩の成瀬正成とお供の者二人を連れて、貴船神社を訪れた徳川義直は、貴船神社本殿横にある大きな御神木を不思議な気持ちで見上げながら、付家老である犬山藩の成瀬正成にこう話しかけた。

 「秀忠公も通さず、政策を決める側近たちも通さずに、江戸幕府第3代将軍になられた徳川家光殿と一対一で話せる場所が一つだけある。」

 そして、徳川義直一行は、貴船神社本殿に入り、床下から続く階段を下りて、キリスト教徒たちの礼拝堂がある、カオリンの鉱山に入っていった。鉱山の中には、30cm四方で奥行きが10cmほどの人間が掘った窪みがある。そして、その窪みの中には、赤褐色で十字の形をした高さ3cmほどの石が白い地層を背景にして、浮き彫りになっていた。キリスト教徒たちが崇拝しているその窪みの前に立った徳川義直は、自分の着物の帯に留めていた印籠を外して、窪みの中に置いた。

 「だが、成功する確率は、五分五分だ。」

 元和という元号が寛永に代わり、元和10年が寛永1年になった翌年の寛永2年(1625年)10月、徳川義直は、上京した。

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