二 白鳳文化の瓦を戴く塔

 「わあ、なんてエキゾチックな塔なのだろう。この塔、唐の香りがするよ、なんてね。」

 諸国の山寺を行脚することを好んでいた最澄は、初めて、尾張の天川山(大山)に来て、潰れかけていると聞いていた五重塔を見て、思わず声を上げた。

 その五重塔は、重厚な瓦を戴いて、そこに建っていた。瓦の色は、軒丸瓦、軒平瓦ともに灰白色である。軒丸瓦は、端正な白鳳様式の素弁八弁蓮華文で、8枚の花弁をもつ花が屋根に咲いているようだ。軒平瓦は、均整唐草文の天平様式で、100年ほど前に建った平城宮の瓦と同じ型のものだそうだ。

 このような東洋的な瓦は、この五重塔の近くにある篠岡丘陵で操業していた瓦職人によって焼かれたものらしい。100年ほど前の白鳳、奈良時代までは、そのような、高い技術を持つ、須恵器を焼く瓦職人が、篠岡丘陵に窯を操業していた。しかし、最澄が生きている平安時代前期には、篠岡丘陵には、須恵器を焼く瓦職人はいなくなってしまった。

 代わりに、平安時代の篠岡丘陵では、灰釉陶器という、わらなど植物の灰を原料にした釉薬をかけて焼く、須恵器よりは更に硬い陶器を焼く窯が生産の主流であった。だから、この五重塔を存続していこうと思ったら、このエキゾチックな唐の香りのする須恵器質の瓦を捨てて、灰釉陶器の瓦で屋根を葺き替えることになるのだ。

 「こんな立派な瓦を捨ててしまうなんて、もったいないなあ。この五重塔は、これで、とてもいいのだがなあ。」

 最澄は、大山寺の中にあった潰れかけた五重塔を見て、考え込んでしまった。

 尾張の天川山(大山)の中は、大和朝廷の時代には、尾張地方の有力豪族の古墳がたくさん存在していた。しかし、朝鮮半島から仏教が伝わり、大化の改新が始まって、薄葬令や火葬が普及すると、尾張の天川山(大山)の中に、様々な仏教の修行僧が来て、修業をするための寺を建てていった。地元の人は、この寺を大山寺と呼んだ。

 話は変わって、最澄は、僧となってから、噂を聞きつけては、全国のいろいろな山寺を行脚することをライフワークとしていた。最澄は、当時の乱れた仏教界を批判し、自分の信じる仏教をこの世に実現するために、滋賀県大津市の比叡山の中に一乗止観院という小さな山寺を建てた。しかし、最近、最澄は、自分が建てた一乗止観院に物足りなさを感じていた。

 「全国には、様々な人が建てた様々な寺がある。他の僧侶たちが建てた寺を拝見して、一乗止観院の参考にしたい。」

 最澄はそのように考えて、全国の山寺を行脚していた。そして、たまたま、尾張の国の大山寺という寺の中にある、潰れかけた五重塔が素晴らしいという噂を聞いて、大山寺を訪れたのであった。

 大山寺に建っていた潰れかけた五重塔を見て感動した最澄は、この五重塔を、このままの状態で存続させたいと思った。従って、最澄は、五重塔をこのままの状態で存続させる方法を考えるため、大山寺の中に小さな坊を建てて、しばらく、大山寺にいることにした。そして、最澄は、毎日、このエキゾチックな五重塔を眺めていた。

 大山寺の中に小さな坊を建てて住み始めた最澄は、篠岡丘陵に何度も出向き、大山寺の中にある五重塔に葺かれている瓦と同じものを作ってくれる瓦職人を探した。しかし、五重塔に葺かれている須恵器様の瓦を焼いている職人は、篠岡丘陵には皆無であった。最澄の生きた平安時代には、須恵器を焼く窯を操業している職人は、全国的にも皆無だった。

 毎日、大山寺の中の五重塔を眺めながら、最澄は、次第に、打ちひしがれていった。

 「この世の中には、古い物を修復してくれる職人は皆無なのか。」

 このように絶望した最澄であったが、大山寺の五重塔を毎日眺めているうちに、最澄の心の中には、ある思いがふつふつとわいてきていた。

 「この五重塔の瓦は、恐らく、100年前の職人が、世界の最先端を行く国、唐の瓦を模して作ったものだろう。唐では、まだまだ、こういう瓦が使われているのだろうか?

 私は、まだ、一度も唐の国に渡ったことはないけれど、唐の国は、仏教も進んでいると聞いた。比叡山の中に建てた一乗止観院を、更に大きな寺院にするためには、私は、唐に渡って、仏教を勉強しなおすべきなのではないだろうか?」

 「おい、潰れかけた五重塔の近くに小さな坊を建てて住んでいたあの僧侶、どこへ行った?五重塔をあのままの状態で再建したいと意気込んでいたが。」

 大山寺へ来ていた別の修行僧が、他の修行僧に、最澄の行方を聞くと、他の修行僧から、こんな返事が返ってきた。

 「なんでも、毎日、あの五重塔を眺めているうちに、自分が滋賀の山の中に建てた小さな山寺を、更に大きくするためには、唐の国に渡らなければいけないことを思いついたらしい。今頃、九州から船で唐の国に渡っている頃だと思うよ。」

   このように、尾張の大山寺から突然いなくなった最澄は、九州から船で唐の国に渡り、唐の国で仏教を学びなおして、日本に帰ってきた。そして、最澄は、日本において、天台宗を開いた。最澄の死後、滋賀県の山の中にあった一乗止観院は、それまでの日本では東大寺などでしか認められていなかった、僧侶を養成できる寺となり、現在の比叡山延暦寺となっていく。最澄は、それまでの旧仏教から独立し、全ての者が仏になることができるとした大乗仏教の教えを唐で学び、日本に伝えたのであった。

 そして、最澄が唐へ去っていった後の大山寺の五重塔は、廃墟となり、エキゾチックな、唐の香りのする瓦は、崩れ落ちて、山の中に埋もれていった。その後、大山寺において、五重塔が再建されることはなかった。

 しかし、五重塔が廃絶しても、大山寺自体は、全国から修行僧が集まってきて、修業の寺として、存続していった。

上へ戻る