二 入鹿切れ

 明治元年(1868年)5月13日の夜中2時頃、羽黒村の庄屋である吉兵衛は、降り続く雨の音で目が覚めた。昨日の夜は、眠るために、妻と一緒にお酒を酌み交わしていた。だから、余り気持ちの良い目覚めではなかった。隣で寝ていた妻は、庄屋の吉兵衛が目を覚ましたのに気づき、こう言った。

 「やっぱり、よく眠れませんね。私も同じです。おととい、小牧奉行所のお役人様や人足たちが入鹿池の杁にある堤防に土俵を積んでいましたが、土俵を積むよりも、池の水を流した方がいいのではないかと、村の者たちが言っていました。」

 すると、庄屋の吉兵衛は、隣で寝ていた妻にこう返した。

 「今、入鹿池の水を流したら、下流の村々は、入鹿池の水によって、大洪水となってしまうだろう。」

 そう言うと、庄屋の吉兵衛は、よろめく足で小窓まで歩き、窓を開けて、外の様子をうかがった。そして、庄屋の吉兵衛は、眠い目をこすってぼんやりと見えた窓の外の闇を通して、地面の上に、白い白い、大きな大きな帆のようなものが湧き上がってくるのを見た。その直後、その白い大きな帆のようなものは、庄屋の吉兵衛の方向に向かって、どっと崩れてきた。次の瞬間、庄屋の吉兵衛の目の前にある家も木も、全ての物が水の流れに押し流されてきた。

 「堤が切れた。」

 そうつぶやいた庄屋の吉兵衛の声は、水の流れに掻き消され、押し流されていった。

 杁の堤防が決壊して、一気に流れ出した入鹿池の大量の水は、両側の山の岩石を砕き、山の樹木を押し倒し、山の麓まで、ものすごい速さと勢いで、岩石や樹木と共に流れていく。そして、山の麓の平野の村々にたどり着くと、入鹿池の水は、ものすごい速さと勢いで、四方八方に流れ出した。入鹿池の下流の村の人々は、家の屋根に登り、救いを求めたけれども、家は決壊した入鹿池の水に沈んでいき、人々は、救いを求めながら死んでいった。家も木も人間も、全ての物が、まるで、マッチ箱や割り箸が流れていくように流れていき、土蔵などの障害物があると、水はその障害物を越えて、助けを叫ぶ人々と共に流れていった。決壊した入鹿池の水から逃れるために、犬山城方面に逃げた人々の多くは、入鹿池の水によって橋が壊されていたことを知らず、暗闇の中で橋から落ちて亡くなった。

 決壊した入鹿池の水は、入鹿池の杁の堤防から尾張平野にある愛知県江南市布袋という場所まで、直線距離にして約11.4キロメートルの間を流れていった。入鹿池の堤防が決壊してからも、雨は降り続き、入鹿池の水は、三日間流れ続けた。そして、一週間、入鹿池の水は引かず、あたりは、まるで海のようであった。奉行所の者は、被災地を舟で往来し、「物を拾ってはならぬ。」と言って回り、炊き出しの舟が出た。

 愛知県江南市布袋の付近は、水が急に引くこともなく、毎日、泥水がよどんでおり、多くの犠牲者の遺体がことごとく集まっていた。犠牲者の遺体は、最初のうちは、水の流れの中で、浮いたり沈んだりして流れていった。しかし、日が経って水が引いてくると、水の流れが緩やかになる中で、犠牲者の遺体は、顔を見せたり、背中を見せたりしながら流されていき、少し大きな石があると、遺体は石のまわりに集まった。愛知県江南市布袋付近に住む村人たちは、多くの人夫を雇い、人夫たちは、大きな穴を掘って、鳶口で遺体を引っかけ、穴の中に犠牲者の遺体を皆一緒に埋めていった。

 入鹿池の堤防が決壊したことによって、900人以上の死者と1400人以上の負傷者が出て、流失した家屋は800戸以上、浸水した家屋は11000戸以上、被害に遭った村は120村以上となった。入鹿池の水が引いた後、田や畑は、まるで河原のようになってしまい、小さな岩でも、人が20人位いないと動かせないような状況であった。そのような状況の中、被災者を救援したのは、江戸城で大政奉還があった後の尾張徳川家と尾張藩付け家老である犬山城主成瀬隼人公と周辺の地域から集まったボランティアたちであった。

 尾張藩付け家老である犬山城主成瀬家家臣の石川喜兵衛は、今年25歳になる若い武士だ。石川は、明治元年(1868年)5月12日の昼頃から次の日の夜明けまで、犬山城大手門にある番所の泊まり番であった。4月の末頃から雨が降り続いていて、入鹿池の杁堤が危ないと、皆、噂している。しかし、石川は、「そんなことはないだろう。」と軽く考えていた。しかし、石川が番所に入った昼頃から、雨は、相変わらず、降り続いていた。

 5月13日の午前4時は、まだあたりは暗闇だ。しかし、石川は、勤務規則通り、太鼓打ちの者を起こし、午前4時の合図である太鼓を打たせた。そして、石川が太鼓打ちの者と犬山城の太鼓堂に来たその時、石川の耳に「ゴーゴー」という音が聞こえてきた。

 「何の音だろう?」

 石川は、太鼓打ちの者に尋ねたが、太鼓堂に上がった太鼓打ちの者は、

 「今は、雨も風も止んで、空は晴れています。」

 と答えただけだった。太鼓打ちの者が午前4時の合図の太鼓を打ち終えて、太鼓堂の下に下りてきて、石川は、太鼓打ちの者と「何事だろう。」と言い合っていた。

 すると、その時、「ドン、ドン、ドン」と犬山城大手門の戸をたたく音がした。石川が、大手門の扉をあけると、3人連れの農夫が立っていた。そして、一人の農夫がこう言った。

 「ただ今、入鹿池の堤防が切れましたので、このことをご家老様にお知らせするため、山伝いにここへ来ました。ご家老様に会わせてください。」

 石川は、3人の農夫を大手門の中に通し、尾張藩付け家老である犬山城主成瀬隼人公の自宅に向かわせた。

 5月13日午前6時頃になると、あたりは、夜も明けて、明るくなった。番所の泊まり番交替のために犬山城大手門にある番所に来た鈴木弥十郎は、番所の見張り番交替のとき、石川にこう伝えた。

 「自分の親族は、河北村まで舟で行った模様です。」

 「それは、本当か。では、実際に見に行ってみよう。」

 石川はそう言うと、鈴木と一緒に、入鹿池の堤防が切れて、被害が深刻であると聞いた橋爪・五郎丸方面に向かった。そこで、石川たちが見たものは、根が付いたままの大きな松や雑木、岩石などが至る所に散乱し、自由に通ることができない土地の状況と壊れた橋、数百人の死者であった。

 翌日の5月14日、天気は快晴で、気温は、夏日並みに上昇していく。犬山城主成瀬家家臣の石川喜兵衛が再び被災地を訪れると、被災地には、遺体の腐ったにおいが充満していて、臭くて耐えられなかった。従って、河原と化した被災地に大きな穴を掘り、遺体を埋めることにした。遺体は、泥まみれになっていて、男女の区別すらつかない状況である。しかも、遺体は、大体が、裸であった。被災地には、毎日、様々な宗派の僧侶が集まり、遺体を丁重に弔った。

 明治元年(1868年)6月1日、尾張藩付け家老である犬山城主成瀬家家臣の石川喜兵衛は、石川と同じ年齢で、名古屋に住む尾張徳川家家臣の青木平蔵と連れだって、大宮浅間神社の夏祭りに行く傍ら、入鹿池を見下ろす尾張富士に登った。石川たちが、尾張富士から入鹿池を見下ろすと、堤防が決壊した入鹿池は、水のない平たい沼のようになっていた。そして、石川は、水のない平たい沼のようになった入鹿池の中に、土の乾いたような場所があるのを発見する。石川は、青木にこう尋ねた。

 「あれ?見てください。私の指の先にあるあそこだけが、土が乾いて見えます。他の場所の土は黒く濡れているのに、あそこだけ白く乾いているなんて、何とも不思議な感じがします。青木様は、何か知っていますか?」

 石川の問いかけに、石川の指が指示している場所を確認した青木は、こう答えた。

 「いや、私は、生まれて初めて、今日、入鹿池の底を見た。入鹿池についても、「235年前に、地元の人々が、新田開発のために、入鹿村に流れ込む川の出口をせき止めて、大きな溜池を造るという要望を尾張藩に提出したため、尾張藩の事業として、入鹿池を造った」ということしか私は知らない。」

 石川と青木は、水のない平たい沼のようになった入鹿池の底にある白く乾いて見える部分を不思議な気持ちで、しばらく、ボーっと眺めていた。

 そして、ふと気がつくと、石川の隣に、背の低い老人が立っていて、こちらを見ている。その老人は、白い大きなひげを蓄えて、農夫のようなみすぼらしい恰好をした老人だった。石川は、隣に立っていた老人にこう尋ねた。

 「あそこに見える、白く乾いたような場所は何だろう?」

 水のない平たい沼のようになった入鹿池の底にある、石川の指が指示している場所を確認した老人は、石川にこう答えた。

 「ああ、あそこですか。あそこには、昔、まだここに入鹿村という村があった頃、白雲寺という名前の天台宗のお寺があった所ですよ。しかし、入鹿池を造るために、白雲寺は、前原に移されたのです。

 ところで、お侍さん方は、とても立派な服装をしていて、刀も差しておられる。身分をお聞きしてもよろしいですかな?」

 老人の問いに石川はこう答えた。

 「こちらは、名古屋にある尾張前大納言様(大政奉還後の尾張徳川家のこと)家臣の青木平蔵様で、私は、尾張藩付け家老である犬山城主成瀬家家臣の石川喜兵衛と申します。」

 すると、その老人は、2人にお辞儀をしながら、こう言った。

 「そうでしたか。立派な方々に対して、ご無礼をお許しください。私は、この近くに住む一条院孝三と申すものでございます。

 ところで、お侍さん方は、あそこに見える白雲寺の跡地に興味がおありなようですね。どうですか?私が案内いたしますから、水がなくなった入鹿池の底を歩いてみませんか?」

 すると、石川と青木は、

 「そうだな、後世の話のタネにもなるだろうから、一度、入鹿池の底を歩いてみようか。あの白く乾いたように見える場所まで、案内をお願いできますか?」

 と、口をそろえて、その老人に答えた。石川と青木は、一条院孝三と名乗る老人の後について、尾張富士を下り、入鹿池の底に向かって、歩き始めた。

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