二 愛知県史跡名勝天然記念物調査主事 小栗鉄次郎

 明治14年(1881年)1月、小栗鉄次郎は、現在の愛知県豊田市に生まれた。政治的には、日本に政党が結成され、自由民権運動が各地で激しくなり、大日本帝国憲法が公布され、日本で初めて選挙が行われ、日清戦争が起こったという時代背景の中で、小栗鉄次郎は幼少期を過ごした。また、文化的には、大森貝塚や弥生土器が発見され、フェノロサが日本美術を評価し、近代小説が生まれ、発展していったという時代背景の中で、小栗鉄次郎は幼少期を過ごした。

 明治30年(1897年)1月、16歳になった小栗鉄次郎は日誌を書き始める。そして、この日誌は、小栗鉄次郎が病気で亡くなる1か月前、昭和43年(1968年)8月までの70年間に渡り、休むことなく書き続けられた。

 明治33年(1900年)4月、19歳になった小栗鉄次郎は、愛知県立第一師範学校に入学する。愛知県立第一師範学校とは、現在の愛知教育大学の前身となった学校である。明治時代当時は、師範学校を卒業した後に教職に就くことを条件として、師範学校の生徒になれば、授業料がかからず、生活費も保障された。小栗鉄次郎は、師範学校当時、植物手帳をつけ、散歩中に見つけた鳥や植物の名前と場所を記録することを楽しみとするような学生だった。

 明治37年(1904年)、23歳で愛知県立第一師範学校を卒業した小栗鉄次郎は、教員免許を取得し、小学校教諭になった。この年から、小栗鉄次郎は、身近に存在した遺跡に興味を示し、石器採集を始めるようになる。そして、明治39年(1906年)に結婚、明治40年(1907年)に26歳で小学校校長となった。

 小栗鉄次郎が、考古学界や人類学会の会員となり、本格的に考古学を学び始めるきっかけとなったのは、明治41年(1908年)、鉄次郎の親戚にあたる名古屋陸軍幼年学校の教員鍵谷徳三郎がまとめた高蔵貝塚の調査報告書を鉄次郎が読んだことである。名古屋陸軍幼年学校の教員鍵谷徳三郎がまとめた高蔵貝塚の調査報告書は、文章と共に、土器が出土した場所や貝層が観察できる場所の図や、出土した土器のスケッチが掲載されていた。つまり、名古屋陸軍幼年学校の教員鍵谷徳三郎がまとめた調査報告書は、かなり具体的で、絵本的な要素に満ちた調査報告書であり、その頃、文章のみで書かれることが普通だった「郡誌」などとは明らかに違う。そして、後に、小栗鉄次郎が書いた「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告」は、明らかに、名古屋陸軍幼年学校の教員鍵谷徳三郎がまとめた高蔵貝塚の調査報告書に影響を受けているのであった。

 小栗は、身近に存在した遺跡や古墳を調べ、土器や石器を採集するといったことに加えて、身のまわりの民俗や美術などにも興味を持って、調査し、記録することを繰り返すようになる。そして、小栗鉄次郎は、積極的に講演会などに参加するようになった。

 大正5年(1916年)8月、小栗鉄次郎35歳の時、豊橋市で喜田貞吉博士の講演会が開かれ、喜田博士と古墳を見学したり、採集した土器を見てもらったり、石器の話をしたことがきっかけとなって、以後、小栗鉄次郎と喜田貞吉博士は親交を結ぶようになる。

 小栗鉄次郎が講演会を聞きに行った時の喜田貞吉博士は、45歳で、京都帝国大学の講師であった。喜田貞吉博士は、明治4年(1871年)生まれの農家の出身で、東京帝国大学にいた明治42年(1909年)38歳のときに、論文「平城京の研究・法隆寺再建論争」により、文学博士の称号を得た人物であった。

 その後、喜田は、文部省の国定教科書の編纂にも従事した。しかし、喜田は、小学校の歴史教科書を編纂する際、南北朝時代のページに、南朝と北朝を並べて記述してしまった。このことにより、喜田は、明治44年(1911年)40歳の時、「南北朝正閏問題」(日本の南北朝時代において、南朝と北朝のどちらを正統とするかの論争)に抵触したと、南朝を正統とする立場の人々からの非難を浴びて、休職処分となった。また、喜田貞吉博士は、歴史・地理の分野のみならず、民俗や被差別部落の研究にも従事し、多くの著作がある人物であった。

 大正6年(1917年)、小栗鉄次郎36歳の時、小栗は、自身が住む猿投村に伝わる伝説を調査・聞き書きした「猿投村に関する口碑伝説集」をまとめた。そして、この年に、鉄次郎の地元である西加茂郡に来た、東京帝国大学人類学教室助手であった柴田常恵に会い、数日行動を共にして、柴田から多くのことを学んでいる。柴田常恵は、明治10年(1877年)に生まれ、小栗鉄次郎に会った時には、40歳であった。

 ところで、大正8年(1919年)、史跡名勝天然記念物保存法という法律が施行された。明治30年代以降(1900年代以降)、鉄工業・軍事工業などの重工業を中心として、第2次産業革命が日本に起こり、日本では、急速に、鉄道や工場が建設されて、土地開発が盛んに行われるようになる。それに伴い、史跡・名勝・天然記念物など文化財の多くが破壊されるという事態となり、文化財の保存運動が起こった。この文化財保存運動の中心にいたのが、東京帝国大学にいた黒板勝美である。黒板勝美は、明治7年(1874年)生まれで、大正8年(1919年)に史跡名勝天然記念物保存法という法律が施行された時には、45歳であった。

 大正8年(1919年)に施行された史跡名勝天然記念物保存法という法律では、次のようなことが規定されている。まず、「記念物」に総称される史跡・名勝・天然記念物を内務大臣が指定し、指定された「記念物」の保存に関して、地域を定めて、一定の行為を禁止、または、制限をし、更に、必要な施設を命じることができる。また、内務大臣は、地方公共団体を指定して、記念物の管理を行わせることができる。そして、記念物の現状変更の制限及び環境保全命令を規定し、違反した者には、罰則を設ける。そして、この法律と共に、「史跡名勝天然記念物調査会」という組織が出来上がった。

 柴田常恵は、大正9年(1920年)43歳の時、内務省地理課嘱託・史跡名勝天然記念物調査会考査員となる。史跡名勝天然記念物調査会とは、内務省における史跡名勝天然記念物についての最終的な決定機関であり、会長は、歴代の内務大臣が就任していた。会長のもとで、高等官と学識経験者からなる委員が調査・審議を行っていたが、委員のもとで、調査の実務を担ったのが、学識経験者から任命された考査員であった。柴田は、若手研究者の中から抜擢された考査員であり、実際の史跡名勝天然記念物の調査の中心となる立場に置かれた。柴田の考査員としての調査は、考古学の分野を専門として行われたが、審議に参加して決定する段階における委員の中に考古学の専門家はいなかったため、事実上、考査員として調査に従事する立場の柴田が、審査・決定段階においても影響力があったと推測されている。以後、考古学の分野に関する文化財保護行政において、大きな影響力を与えることになる柴田常恵と小栗鉄次郎との交流は、昭和29年(1954年)に柴田常恵が亡くなるまで続くのである。

 ところで、大正8年(1919年)に史跡名勝天然記念物保存法という法律が施行されたことを受けて、大正11年(1922年)、愛知県史跡名勝天然記念物調査会が発足した。愛知県史跡名勝天然記念物調査会は、愛知県内における史跡名勝天然記念物の調査・収集を行う組織である。そして、この調査会は、大正12年(1923年)から昭和17年(1942年)まで、毎年、「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告」を発行した。

 昭和2年(1927年)4月、小栗鉄次郎が46歳の時、鉄次郎は、豊田市内の小学校校長から、知多郡常滑市にある鬼崎南小学校の校長に転任する。鉄次郎は、常滑市内にある学校の校長に転任してからは、古常滑陶器研究を始めた。

 昭和2年(1927年)5月、愛知県史跡名勝天然記念物調査会主催の展覧会が松坂屋にて開かれることになった。小栗鉄次郎は、自分が今まで収集してきたものをこの展覧会に出品することにした。小栗鉄次郎が、前日までの打ち合わせ通り、出品物を手に持って、バスで松坂屋に運び、展覧会事務所に行って、台帳に記入していると、展覧会事務所に、内務省の史跡名勝天然記念物調査会考査員の柴田常恵が入ってきた。この時、小栗鉄次郎と柴田常恵が初めて会った時から10年が経過していた。小栗鉄次郎は、久しぶりに会った、50歳になる柴田常恵と、話しこんだ。

 愛知県史跡名勝天然記念物調査会主催の展覧会に自分が収集したものを出品するということは、とても忙しいことである。松坂屋の会場に持って行った自分の出品物は、自分で陳列しなければならない。展覧会発会式にも参列しなければならない。展覧会場に行き、知人に案内をしなければならない。委員の徽章を付けて、会場巡りをしなければならない。史跡名勝天然記念物調査会愛知県支部発会式に参列しなければならない。常滑市内にある学校の校長に転任したばかりの小栗鉄次郎の休日は、このように潰れていった。

 松坂屋にて行われた愛知県史跡名勝天然記念物調査会主催の展覧会が終わって、1週間くらいたったころ、知多郡常滑市にある鬼崎南小学校の校長であった小栗鉄次郎のもとに、愛知県史跡名勝天然記念物調査会で働く新人で、28歳になる伊奈森太郎氏より、次のような連絡があった。

 「愛知県史跡名勝天然記念物調査会の所属している愛知県庁社寺兵事課の岩瀬課長からの伝言です。小栗さんに対して、愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事への就職の希望を出すように、私の口から伝えてほしいと頼まれました。どうしますか?明日、愛知県庁社寺兵事課の岩瀬課長に会って、小栗さんの決断を小栗さんの口から伝えてください。」

 愛知県史跡名勝天然記念物調査会ができて以降、愛知県内における史跡調査は、増加の一途をたどっており、遺跡の性格把握や資料の調査収集に対応できる専門家を集めることは、愛知県調査会の緊急課題となっていた。愛知県内において、史跡名勝天然記念物の調査に興味がある人や技術を持っている人は、限られている。ましてや、考古の遺跡を担当できる者を探す事は、もっと難しかった。内務省の史跡名勝天然記念物調査会考査員の柴田常恵は、そのような現状を知っていたからこそ、人材確保のために、全国を飛び回っているのだった。柴田は、史跡名勝天然記念物保存法という法律の持つ意味を理解できる人間は、全国には、まだまだ少ないと考えているのだった。

 常滑市の小学校校長の職についている小栗鉄次郎は、伊奈氏に、

 「明日の朝まで考えさせてください。」

と返答した。23年間、小学校教員として働き、小学校校長という肩書まであった小栗鉄次郎にとって、趣味で考古学の研究をしていたとはいえ、それは、教員と言う仕事の休日の合間にやっていた程度のものだった。それに、愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事の仕事とは、小学校校長の仕事とは全く違う、鉄次郎にとっては、未知の仕事だった。

 翌日の朝8時半に愛知県庁に着いた小栗鉄次郎は、愛知県史跡名勝天然記念物調査会の伊奈森太郎氏と話した後、愛知県史跡名勝天然記念物調査会の所属している社寺兵事課の岩瀬課長に会い、自分の決断を伝えた。

 「愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事の就職を希望します。」

 そして、小栗は、岩瀬課長と、様々な仕事の話をした。そして、課長との話し合いが終わると、小栗は、校長として勤務している常滑市の小学校へと帰って行った。
 3日後、知多郡常滑市にある鬼崎南小学校の事務員が、校長である小栗に連絡事項を伝えながらこう言った。

 「愛知県庁の社寺兵事課の岩瀬課長から手紙が来ていて、明日、県庁に出てきてほしい、とのことでした。何かあったんですか?」

 小栗は、何も答えなかった。

 このようにして、小栗鉄次郎は、小学校校長から愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事に転身し、小栗の職場は、小学校から愛知県庁の社寺兵事課に変わった。昭和2年(1927年)7月、46歳になる小栗鉄次郎は、愛知県庁の中でたった一人の愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事となった。以後、昭和20年(1945年)3月31日付で、愛知県庁から主事の退職辞令が出るまでの18年間に渡って、小栗鉄次郎は、愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事の仕事を続けていくことになるのだった。

 愛知県史跡名勝天然記念物調査会が毎年出版していた「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告」を読むと、小栗鉄次郎が調査会主事になってから最初に調査報告を書いたのは、小栗が小学校校長から愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事に転身したばかりの昭和2年(1927年)のことである。「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告」第5巻にある「西加茂郡猿投村舞木廃寺跡」が、小栗が主事になってから最初に書いた調査報告であった。舞木廃寺跡は、小栗がまだ、豊田市の教員だった大正13年(1923年)に、家族ぐるみの付き合いをしていた内藤政光子爵と調査研究をした思い出のある遺跡だった。昭和2年(1927年)、小栗は、舞木廃寺跡を国の史跡にするべく、指定願を書くよう、猿投村長に要請した。そして、昭和3年(1928年)、内務省史跡名勝天然記念物調査会考査員の柴田常恵と小栗は、舞木廃寺跡を訪れている。そして、昭和4年(1929年)、舞木廃寺跡は、国の史跡となった。

 昭和4年(1929年)、小栗が調査した遺跡の中で、舞木廃寺跡の他に、国の史跡に指定された遺跡があと2つある。大山廃寺跡と北野廃寺跡である。いずれも廃寺跡であるが、この本では、小栗が愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事になってから、2つ目に調査報告を書いた、大山廃寺跡にスポットをあてる。実は、小栗が書いた大山廃寺跡の史跡調査報告を読み、現地で小栗の足跡をたどると、小栗が就いた愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事の仕事とは、遺跡の調査をしているだけではないということが見えてくる。遺跡の調査から、国の史跡に指定される過程において、調査会主事としての小栗と、小栗には見えないけれども、明らかにそこに存在している時代の声との格闘が垣間見える。昭和初期という時代背景の中で、一見、戦争とは関係のないように見える小栗の調査会主事としての仕事は、まさしく、戦争に突入していくことになる。

 それでは、この本の中でスポットを当てる大山廃寺跡とは、一体、どのような遺跡なのか、説明していこう。

上へ戻る