三十 白い根付

 「大山廃寺の中にある児神社は、平安時代末期に比叡山延暦寺僧兵によって焼き払われた大山峰正福寺で犠牲になった2人の稚児を祀るために建てられた神社だという話は覚えているか?」

 明治3年(1870年)12月最初の日曜日、奥の院アガルタの船着き場を出て、貴船神社本殿床下にあるカオリンの鉱山の中にある高さ3cmほどの赤褐色の十字石の前にたどり着いた一条院孝三は、中村住職と青木平蔵と石川喜兵衛に向かって、こう聞いた。すると、青木がこう答えた。

 「ああ、覚えていますよ。確か、児神社は、平安時代末期の久寿2年(1155年)に鳥羽上皇の命を受けて、勅使として、大山に派遣された鷹司宰相友行によって、建立が始まったのですよね。」

 「さすがは、エリートだ。よく覚えていたな。」

 一条院孝三は、青木をほめて、続けて、こう話した。

 「鳥羽上皇の勅使として、大山に派遣された鷹司宰相友行がいた鷹司家は、公家の名門で、その血脈は、明治維新後も続いている。寺よりも神社が好きという徳川義直も鷹司家とは知り合いだった。そして、元和9年(1623年)12月、鷹司家の娘の鷹司孝子が第3代江戸幕府将軍徳川家光の正室に決まった。徳川義直もよく知っている鷹司家から第3代江戸幕府将軍徳川家光の正室が出たことを、義直も誇りに思っていた。

 しかし、義直にとって、誤算だったのは、結婚当初から、鷹司孝子と第3代江戸幕府将軍徳川家光とは不仲だったということだ。そのことを知らない徳川義直は、第3代江戸幕府将軍徳川家光と一対一で話をするために、鷹司家の伝手を利用して、江戸城本丸御殿大奥に入り込んだのだった。徳川義直が上京した寛永2年(1625年)10月の段階で、第3代江戸幕府将軍徳川家光は21歳、家光の正室の鷹司孝子は23歳、徳川義直は、24歳だった。」

 江戸城には、政治を行う場である「表」と徳川将軍とその家族の私的な生活の場である「奥」がある。徳川家康の時代から、幕府の政治は、江戸城本丸御殿で行われていたのだが、家康の時代には、公的な場である「表」と私的な場である「奥」の境界があいまいであった。元和4年(1618年)、第2代将軍徳川秀忠は、江戸城本丸御殿の中で、それまであいまいだった「表」と「奥」の境界をはっきりとさせた。従って、元和4年(1618年)以降、江戸城本丸御殿は、幕府が政治をつかさどる「表」、徳川将軍が政務をつかさどる「中奥」、徳川将軍の私邸「大奥」に区分された。

 江戸城本丸御殿において、「表」と「中奥」は、一つにつながっている一つの御殿である。しかし、「大奥」は、「表」「中奥」御殿とは、切り離された空間であった。「表」「中奥」御殿と「大奥」御殿とは、銅塀で仕切られていたのだ。そして、銅塀で仕切られた「中奥」と「大奥」を結ぶ廊下が「御鈴廊下」と呼ばれる廊下である。なぜ、「中奥」と「大奥」を結ぶ廊下は、「御鈴廊下」と呼ばれていたのだろうか。それは、鈴が、徳川将軍が「表」「中奥」から「大奥」に入るときのインターホンの役割を果たしていたからだ。徳川将軍は、鈴が付いたひもを引っ張って、鈴を鳴らして、合図を送り、銅塀にある出入り口である「御錠口」を開錠させていたからである。

 さて、「大奥」において、一番偉い人は、徳川将軍ではなく、「御台所」と呼ばれる徳川将軍正室である。そして、徳川将軍の「御台所」は、公家・宮家・天皇家から選ばれるのが慣例となっていた。

 「そう、だから、私はここにいるのだ。」

 寛永2年(1625年)10月のその日、昼間は、空が高く、快晴の一日であった。午後5時、夕日が鷹司孝子を照らし始めると、昼間少し暑く感じられた外の気温も快適に感じられるようになる。少し薄暗くなった御鈴廊下から流れてくる鈴の音を聞いて、鷹司孝子は、立ち上がって、銅塀に向かって歩き出した。

 古来より、日本の政治を行ってきたのは、天皇家であり、公家であった。だから、武士が日本の政治を支配しているこの時代になっても、天皇家や公家の人間は、かつての為政者としての誇りや責任を忘れてはいなかった。鷹司孝子もそんな公家の端くれの一人だ。

 今日、鷹司孝子は、久しぶりに第3代江戸幕府将軍徳川家光に会う。しかも、孝子の方から家光に会いたいと言ったのは、家光と結婚してから初めてのことかもしれないと、孝子は思っていた。だから、今日は、孝子のお気に入りの服装である、青藤色の唐草文様の小袖に、若草色の亀甲模様の名古屋帯を締めて、紫色の花喰鳥文様の羽織を羽織った。そして、帯には、白い根付で留めたカキツバタの花柄の黒い印籠をぶらさげた。白い根付の印籠は、後ろの部屋で控えている尾張徳川家の方からいただいたものだ。

 尾張徳川家の徳川義直が京都の鷹司家を訪れたのは、3か月前の初夏のことだった。鷹司孝子の父である鷹司信房に会った義直は、シャンバラにいるキリスト教徒たちのことを相談した。すると、鷹司信房は、義直にこう言うのであった。

 「今から6年前、京都において、徳川秀忠殿の命で、女子供を含む52名のキリスト教徒たちが火あぶりの刑で処刑される様子を見たのだが、何ともかわいそうな光景だった。スペインやポルトガルなどの大国からの植民地化を避ける目的があったとはいっても、火あぶりの刑に処された一般庶民の人々が、そのような謀反の志を抱いて、キリスト教徒になったとは、とても思えない。あんなことを続けていたら、今に、日本国内に内乱が勃発するのではないだろうか。」

 その話を聞いた義直は、信房にこう言った。

 「秀忠殿の政治は、側近政治で、側近に言われた通りのことをやっていると聞いている。だから、秀忠殿が直接、京都にいるキリスト教徒たちに会って、話を聞いていたなら、もしかしたら、6年前のあの事件はなかったかもしれない。しかし、この義直もそうだが、第3代江戸幕府将軍徳川家光殿の外戚である鷹司家の方々も、秀忠殿に直接会うことはなかなか難しいのが、実情だろう。」

 そして、義直は、姿勢を正して、信房に頭を下げて、こう言った。

 「だから、今日は、信房殿にこうして、お願いに参ったのです。どうか、私どもを大奥に入れていただき、第3代江戸幕府将軍徳川家光殿と直接話をする機会をお与えください。秀忠殿とは違い、私と年齢が近い家光殿ならば、こちら側としても、気負わずに話ができそうです。」

 頭を下げる徳川義直を見て、鷹司信房は、まあまあ、と言った様子で、義直をなだめ、義直にこう言った。

 「大奥の中においてなら、義直殿を家光殿に直接会わせることはできるが、現状、徳川幕府においては、秀忠殿と家光殿の二元政治が行われていると聞いている。まだまだ、秀忠殿の権限は強く、家光殿も秀忠殿に逆らうことができないのが実情だ。」

 「しかし、秀忠殿は、もう年だ。近い将来、秀忠殿は一線を退き、後に続くのは、家光殿だ。将来性において、家光殿は、秀忠殿に勝っている。だから、私は、家光殿と直接会って、話がしたいのだ。」

 信房にきっぱりとこう言い放つ義直を見て、信房は、義直の言うことを聞くことにした。

 「わかりました。では、孝子と連絡を取り合って、大奥の中で、家光殿と義直殿の会見場を設けることにしましょう。会見の中身は、尾張にいるキリスト教徒たちの件で、ということでいいですね。

 ただ、秀忠殿やその側近たちにこの話がもれたらまずいですね。家光殿に「尾張にいるキリスト教徒たちの件」と言ったら、会見を拒否されるかもわかりません。だから、家光殿や秀忠殿には知られないように、この話を進めていきましょう。

 大奥に入ったら、義直殿がいて、突然、キリスト教徒の話をしだしたら、家光殿は怒るかもしれません。あとは、義直殿の実力で、その場を乗り切ってください。そのくらいの覚悟が義直殿におありなら、今すぐ、大奥での直接会談の話を進めていきましょう。よろしいですかな?」

 信房のこの話を聞いて、義直は、「ありがとうございます。」と、信房に対して、深々と頭を下げた。

 それから、義直は、大奥での家光との直接会談のための準備を急ピッチで進めなければならなかった。義直の付家老は、犬山藩主の成瀬正成から子供の正虎に代わったが、義直は、正虎を通じて、太助に会い、徳川家光と鷹司孝子への手土産の相談をした。

 「第3代江戸幕府将軍徳川家光公とその正室鷹司孝子殿への手土産は、カオリンを使った焼き物の茶碗などどうであろう?」

 義直がこう提案すると、太助は、とんでもないといった表情で次のように言った。

 「カオリンはとても高価な土なので、茶碗にすると、とてもお金がかかる上、できあがりまでに時間がかかります。せめて、1年前位には言ってもらわないと、いいものはできません。箸置きのような小さなものでしたら、何とか作れますが。」

 太助はこう言うと、しばらく考え込んでから、再び、口を開いた。

 「そうだ、カオリンで作る白い根付というのは、どうでしょうか?小指の先ほどの大きさしかない根付なら、少ないお金で、すぐにできますよ。カオリンで作る根付は、本当に真っ白で、どんな色の着物の帯に留めても、宝石のように、帯の上で輝きますよ。黒い漆器の印籠と合わせれば、一層白さが際立ちます。」

 「白い根付か・・・。わかった。では、太助殿には、根付を焼いてもらおう。黒い漆器の印籠は、こちらで用意しておく。今すぐ、根付の作成に取り掛かってくれ。」

 そして、義直は、小間物屋で、ハスの花の絵の入った黒い漆器の印籠とカキツバタの花の絵の入った黒い漆器の印籠を買い求めた。蓮の花は、第3代江戸幕府将軍徳川家光公が生まれた8月の花で、カキツバタは、第3代江戸幕府将軍徳川家光の正室である鷹司孝子殿の生まれた5月の花だ。次に、義直は、買い求めた印籠に元々付いていた根付を外させ、太助がカオリンの土から作った白い根付に付け替えさせた。

 そして、白い根付のある黒い漆器の印籠が2つ出来上がった寛永2年(1625年)9月頃、京都の鷹司信房の伝令が尾張藩を訪れた。

 「来月の初めに、鷹司信房殿の奥様とそのお付きの者が、娘の孝子殿に会いに江戸城本丸御殿大奥を訪れることになった。義直殿は、その一行に紛れ込んで、大奥に入ることができます。鷹司信房殿の奥様一行が上京する途中で、尾張の名古屋城を訪れますので、義直殿は鷹司家一行と行動を共にし、大奥に入り込んでください。」

 寛永2年(1625年)10月、徳川義直とそのお付きの者一行は、鷹司家一行の者と合流し、江戸城本丸御殿大奥を目指して上京した。義直は、秀忠や家光の側近にばれることのないように、白い木綿で作った兜頭巾をかぶり、馬は使わず、鷹司家の後ろに歩いてついていく。そして、一行が江戸城に着くと、江戸城の見張りの者と鷹司家の奥様とのやりとりが、義直の耳に入ってきた。

 「第3代江戸幕府将軍徳川家光の正室孝子の母親でございます。今月は、季節の変わり目なので、孝子に着物や日用品などをたくさんお持ちいたしました。」

 「そうか、わかった。ところで、後ろにいる男子一行は?」

 義直の方を見て問いかける見張りの者に対して、鷹司家の奥様は、こう言った。

 「何分、荷物が大量にあるものですから、男性の力も借りなければ、京都から江戸まで来ることは、大変です。あと、私どもの護衛も兼ねまして、男性陣に応援をお願いいたしました。」

 「そうか、通ってよいぞ。」

 義直は、これと同じやり取りを、本丸御殿前、中奥前、大奥前と、あと3回聞くことになる。

 「なかなか、厳重な警戒だな。」

 大奥の勝手口前で鷹司家の奥様と見張りの者のやり取りを聞きながら、義直は、うんざりしていた。頭巾をかぶり、歩いて一行についてきた義直は、汗だくだったが、大奥に入り込むためには、このくらいのことは我慢できないとだめだった。そして、義直にとって、本当の試練は、大奥に入り込むことではなく、第3代江戸幕府将軍徳川家光公に会って話をすることなのだ。そして、義直は、大奥に入り込むと、鷹司家の奥様のはからいで、第3代江戸幕府将軍徳川家光の正室鷹司孝子と話をする機会を得た。

 頭巾を取り、顔に着いた汗を拭いた義直は、第3代江戸幕府将軍徳川家光の正室鷹司孝子とその母親のいる茶室に入った。義直が茶室に入ると、孝子とその母親は、何やら、ひそひそと話をしているのが見えた。そして、孝子は、義直が部屋に入ってくるところを見ると、母親と話をすることをやめて、お茶をたて始めた。そして、孝子の入れたお茶を母親が義直の前まで運んできた。

 「お点前頂戴いたします。」

 そう言って、義直が、茶菓子を食べ、お茶を飲み終えると、孝子は、義直にこう言った。

 「尾張北部の入鹿村地下にいるキリスト教徒たちを守りたくて、私に会いに来たと母から聞きました。」

 すると、義直は、孝子の手土産に持ってきたカキツバタの絵の入った黒い漆器の印籠を孝子に差し出しながら、こう言った。

 「尾張北部にある入鹿村地下と上末村地下を結ぶ地下水道を入鹿村地下から船に乗って進むと、上末村の貴船神社本殿の地下に到達します。貴船神社本殿地下には、カオリンという名の白い土の鉱山があり、大勢の人が鉱山で働いています。鉱山で働く多くの人々の中に存在するキリスト教徒たちは、その鉱山の中に礼拝所を造って、心の糧とし、日々重労働である仕事に耐えて、私たちにカオリンの白い土を提供してくれています。

 ちなみに、カオリンという白い土は、朝鮮白磁や景徳鎮などの高級な器を作るために必要な土で、カオリンがなければ、あのような高級な器は作れません。だから、カオリンは、とても高値で取引されています。今日、孝子様にお持ちしたこの印籠には、孝子様の誕生日の花であるカキツバタが描かれていますが、この印籠の根付の部分を見てください。この根付は、陶磁職人がカオリンの土で作った根付です。この白い根付は、どのような色の帯に合わせても、白く宝石のように輝くに違いありません。」

 孝子は、義直が差し出した黒い印籠についている白い根付の部分に目が釘付けになっていた。このような根付を孝子は今までに見たことがなかった。孝子は、義直が差し出した印籠を手に取り、白い根付の部分をまじまじと見つめて、こう言った。

 「第3代江戸幕府将軍徳川家光公は、今日の午後5時に大奥を訪れることになっています。私どもの予定では、午後5時に家光公を大奥でお迎えした後、家光公をお茶室の横の控室に一旦お通しすることになっています。家光公には、その控室にて、お茶を飲みながら、午後6時の夕食の時間まで待っていただきます。

 義直殿には、まず、その控室に午後4時に入って、家光公を待っていただきます。私は、御鈴廊下から入ってくる家光公をお迎えして、義直殿のいる控室にお通しした後、お茶室の準備のために、控室から退席させていただきます。

 今日の6時からの夕食は、お茶室にて、懐石料理の予定です。私は、先にお茶室に入っていますので、お付きの者が夕食のお迎えに控室に入ったら、二人とも、控室からお茶室にお入りください。私は、お茶室でお二人をお待ちしております。」

 寛永2年(1625年)10月のその日、午後5時、御鈴廊下の鈴が鳴り、銅塀が開いた。若草色の着物に黒い裃と脇に小刀を指して、第3代江戸幕府将軍徳川家光は、正室である鷹司孝子の前に姿を現した。家光が正室の孝子を見て、最初に言ったのは、こうだった。

 「孝子殿の方から、俺に会いたいと言ってくるなど、初めてのことだな。何か悪いことでも起こるんじゃないのか?

 おっ、俺が見たことのない物を付けておる。その着物は、孝子殿にはよく似合って居るが、帯の所で白く輝いておるその根付は、どうしたのだ?」

 「これから、会っていただきたい方がいます。」

 家光の言葉を振り切って、孝子は、突然にこう言った。そして、くるっと踵を返して、家光に背中を見せ、控室の方に向かって歩き出した。

 「尾張徳川家の徳川義直殿が控室でお待ちです。この根付の黒い印籠は、徳川義直殿からいただいたものです。」

 「なにっ!」

 家光は心の中でそう叫び、少しむかつきながら、後姿の孝子にこう聞いた。

 「今日は、俺に会いたいから、俺を大奥に呼んだのではないのか?」

 その言葉に孝子は何も返さず、無言で、控室のふすまを開けた。

 家光が控室に入ると、控室では、徳川義直がこちらを向いて座っている。

 「では、私は、お茶室の準備がありますので、これで。」

 孝子は、控室のふすまを閉めた。徳川義直の前に、第3代将軍徳川家光は仁王立ちに立った。そして、家光は脇にさしていた小刀を抜き、義直の首に押し当てた。

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