三十一 二つの箸置き

 江戸城の中では、義直は丸腰だった。それが、江戸城の中のルールだ。江戸城の中で、刀を持つことができるのは、徳川幕府将軍ただ一人なのだ。

 首に小刀の刃先をあてられたままで、義直は、家光をきっと見上げ、黙って、袂から黒い印籠を取り出し、家光の前に差し出した。黒い漆器の印籠には、家光の誕生月の花である蓮の花が描かれている。そして、黒い印籠には、カオリンの土で作った真っ白な根付が付いていた。

 「孝子殿とおそろいの印籠でございます。」

 家光をきっと見上げながら、義直は、家光にこう言った。

 黒い印籠の頭の先に付いている白い根付をまじまじと眺めた家光は、やがて、義直の首から小刀を外して、鞘に納め、義直から印籠を受け取った。

 それから、義直は、蓮の花を描いた黒い印籠の頭の先に付いている白い根付について、孝子に話したことと同じことを家光に話したが、家光は、白い根付を見つめながら、ただ黙って、義直の言うことを聞いていた。そして、家光は黙って義直の言うことを聞いていたが、家光が義直の言うことを理解していたかどうかは、義直にはわからなかった。義直の話が終わると、家光は義直にこう言った。

 「俺は、俺のことを心配してくれる女性にそばにいてもらいたいのだ。政治のことは側近がやってくれる。」

 家光が白い根付を見つめながらこういうのを聞いて、義直は、しばらく返す言葉がみつからなかった。そして、しばらく沈黙した後、義直は家光にこう返した。

 「それにしても、今日、私は初めて孝子殿に会って、驚いた。孝子殿は、すらっとして、本当にお美しい。それに、立ち居振る舞いに品がある。あんな美人を正室に迎えることができるなんて、私は徳川宗家がうらやましい。私にも正室がいるが、あんなに美人じゃない。」

 すると、家光は、義直にさらっとこう言った。

 「俺も孝子に初めて会ったときはうれしかったが、美人は三日で飽きる。」

 そして、一呼吸おいて、家光は、再び、小刀を鞘から抜いて、義直の首に押し当てながら、耳元で囁くようにこう言った。

 「一つ教えてやろう。この大奥を造ったのは、徳川幕府第2代将軍徳川秀忠公だ。だから、この大奥の中のことは、秀忠公に筒抜けだ。この大奥の中の人間の誰かが、秀忠公の隠密なのだ。」

 「そんなことは、どうだっていい。私は、徳川幕府第3代将軍徳川家光殿に会いに来たのだ。」

 義直は、まっすぐ前を見据えて、家光にこう返した。

 「しかし、側近や秀忠殿の言いなりにならないということは、なかなか難しいぞ。今の俺には無理だな。加えて、孝子の態度は、気に入らない。」

 家光は、義直にこう言った。

 控室での家光と義直の会話は、かみ合うところが一つもない。しかし、義直は、今日、大奥に来て正解だったという妙な自信を持つことができた。江戸城で見ることのできる第3代将軍徳川家光と、大奥で見る第3代将軍徳川家光とは、明らかに違う。

 微妙な空気が控室に流れる中、大奥の女中が、ふすまの向こうで「失礼いたします。」と言うのを聞いた家光は、義直の首元から小刀を外して、再び、鞘に納めた。そして、大奥の女中が控室の中に入ってきて、こう言った。

 「料理の準備ができましたので、お二人とも、お茶室にお入りください。」

 そして、女中に先導されてお茶室に行く途中、前を歩いていた家光は、後ろをついてくる義直にこう言った。

 「今日は、お客様がいるので、京懐石もいいかもしれないが、俺は、大奥に来るたびに、いつも懐石料理なのだ。孝子の食事がまずいというわけではない。孝子の作る京懐石は、本場仕込みの薄味で、初めて食べた時には、そのおいしさに感動した。しかし、懐石料理を食べたくない時だってあるし、酒の肴は、あぶったイカでいいという日もあるのだ。最近は、孝子にも孝子の作る食事にも飽きてしまった。」

 家光に続いて、義直がお茶室に入ると、そこにいたのは、正室の鷹司孝子だけではなかった。女主人として、お茶室の茶釜の前に座っているのは、正室の孝子であったが、孝子が入れるお茶や料理やお酒を家光と義直の前に運んでくるのは、二人いる女中の役割だった。その他にも、お茶室の周りには、たくさんの女中たちが、料理の支度や運搬に追われて、動いている。つまり、家光と義直と孝子のお茶室での会話は、同時に、たくさんの女中たちの耳にも入っていくわけだ。

 「ああ、なるほどね。」

 義直は、心の中でそうつぶやきながら、家光がさっき控室で示した態度や言葉には、嘘がないことを確信した。

 そして、茶釜の前に座っている孝子と向かい合って、隣同士で座っている家光と義直の前に、膳が配られてきた。それを見て、最初に声をあげたのは、家光だった。

 「おっ、この箸置きは、今までに俺が大奥の中で見たことのないものだ。俺と義直殿の膳の上に置かれているお揃いの白い箸置きは、もしかして・・・。」

 「上末村の地下で採集されたカオリンの土を使って、私が陶磁職人に作らせたペアの箸置きでございます。徳川幕府第3代将軍徳川家光殿と正室孝子殿への手土産があの小さな印籠だけというのは、少々気が引けましたので。」

 義直が家光にこう答えると、家光は、向かいに座る孝子に向かって、こう言った。

 「義直殿は、俺と孝子のためにこの箸置きをお揃いで作ったのだ。義直殿にいただいたペアの箸置きの最初の使い方を間違えてないか?」

 家光のこの言葉に反応したのは、孝子ではなく、周りの女中たちだった。ざわついた女中たちは慌てて、箸置きを下げようとした。しかし、家光は、

 「いや、このままでいい。」

 と、女中たちの動きを制止するのであった。そして、孝子は、

 「その箸置きは、私の指示で、家光殿と義直殿にお出ししたのです。」

 と言った。その様子を見た義直は、無言で座っていたが、心の中では、こうつぶやいていた。

 「明日、家光殿は秀忠殿から、もう少し正室と仲良くするようにと注意を受けるのだろうな。」

 そして、女中たちは、家光と義直と孝子の前に盃を配り、酒を注ぎ始めた。酒が入ると、その場のピリピリした雰囲気は、徐々になごんでくる。3人とも年齢が近いこともあり、能の話や家光の好きな刀の話や世間の様々なうわさ話で、その場は盛り上がった。

 お茶室での食事が終わると、家光は、大奥の中で義直が泊る部屋までついてきて、部屋の中で、更に義直と酒を飲んだ。部屋の中に差し出された酒についての話の後で、家光は、義直に、

 「ところで、義直殿には、子供はおるのか?」

 と聞いた。義直は、

 「家光殿と同様に、私も正室との間に子供はいない。今年の7月に側室との間に男の子が生まれた。」

 と答えた。家光は、上機嫌で、

 「それは、よかった。おめでとう。また、一人、親戚が増えたな。」

 と言った。

 そして、少しの沈黙の後、家光は、少し真顔で、義直にこう言った。

 「カオリンの鉱山で働くキリスト教徒たちの話を秀忠殿や側近たちの耳に触れさせないように細工するということなら、俺にもできるかもわからない。」

 「本当か?ぜひ、よろしくお願い申し上げる。」

 このように頭を下げる義直に対して、家光は、こう言った。

 「ただし、条件がある。この条件を義直殿が飲んでくれるというのなら、協力できる範囲で協力する。条件というか、このくらいの覚悟が義直殿におありなら、義直殿の言うことを聞こう。」

 「どんな条件だ?」

 酒を注ぎながら、義直は家光にこう返した。家光は、義直を見据えて、こう言った。

 「義直殿にもおわかりのように、俺と孝子の仲は最悪だ。義直殿もご存知の通り、いまだに俺と孝子の間には子供がいないのだが、これからも俺と孝子の間には子供ができないかもしれない。

 ところで、尾張徳川家が御三家として君臨するのは、徳川宗家に世継ぎが生まれなかった場合に、徳川幕府将軍を輩出するという役割を担っているからだ。しかし、今後、尾張徳川家から徳川幕府将軍を出すことはしない。もし、世継ぎが生まれなかった場合には、紀伊や水戸から徳川幕府将軍を輩出してもらうこととする。義直殿がこの条件を飲めるのなら、俺は、カオリンの鉱山で働くキリスト教徒に対して、最大限の計らいができるよう、幕府の中で、動き回ってもいいぞ。」

 義直は、家光のこの提案を聞いて、盃に注がれた酒を眺めながら、しばらく黙り込んだ。そして、5分ほどの沈黙ののち、義直は、家光にこう言った。

 「それにしても、家光殿の正室の孝子殿は、美人なうえに、本当に優秀な女性だ。孝子殿のおかげで、事態は、私の思い通りに動きそうだ。あのような正室を持つことができるなんて、徳川宗家は、まだまだ安泰だな。

 この義直は、尾張徳川家の当主として、家光殿の提案を飲むことにしよう。その代わりと言ってはなんだが、私が家光殿の提案を飲む証として、7月に生まれた私の息子が15歳で元服したら、家光殿の名前の中から、「光」の字をもらって、第2代尾張徳川家当主の名前にしようと思うのだが、許していただけますね?」

 すると、家光は、上機嫌でこう言った。

 「諱を与えるということが。もちろん、構わないよ。」

 「ありがとうございます。」
 と、義直は、家光に対して、頭を下げた。

 翌日、家光は、大奥から江戸城本丸御殿表に出勤した。そして、江戸城で働く官僚たちに挨拶をした後、中奥に入った。家光が中奥に入ると、部屋の中央に、一人の初老の僧が座っていた。その初老の僧は、頭も着物の裾からのぞく手も真っ黒だ。そのためか、その黒人僧の右側には、網代傘が置かれてある。どうやら、その初老の黒人僧は、自分が黒人であることを周囲に知られないように、普段から、網代傘をかぶって歩いているらしい。

 「ああ、今日は、あなたの担当の日でしたか、弥助殿。」

 家光がその黒人僧に話しかけると、弥助と名乗るその黒人僧は、家光にこう言った。

 「秀忠殿から、もっと正室の孝子殿と仲良くするようにとのお達しだ。」

 弥助のその言葉を遮るように、家光は、弥助の目の前に来て、小声でこう言った。

 「実は、弥助殿に相談に乗ってもらいたいことがある。今日は、一日、俺に付き合ってくれ。」

 「関ヶ原で合戦が行われていた慶長5年(1600年)9月、比叡山延暦寺の僧侶である雲海と了慶は、朝鮮人陶工の日本人弟子である喜助を上末村に残し、弥助を連れて、比叡山延暦寺に帰って行った。その後、弥助は、家康が派遣した天海という僧侶とともに、比叡山延暦寺を立て直していった。

 そして、天海は、家康が亡くなり、秀忠・家光の時代になると、徳川幕府のブレーンとして、徳川幕府を陰で操ることができるほどになる。特に徳川幕府第3代将軍徳川家光は、天海を慕い、政治的に様々な助言を受けることになる。そして、天海とともに行動していた弥助も天海とともに、江戸幕府の運営に携わった。」

 明治3年(1870年)12月最初の日曜日、奥の院アガルタの船着き場を出て、貴船神社本殿床下にあるカオリンの鉱山の中、高さ3cmほどの赤褐色の十字石の前にたどり着いた一条院孝三は、中村住職と青木平蔵と石川喜兵衛を連れて、カオリンの鉱山から貴船神社本殿床下に向かう階段をゆっくりと登りながら、このように話した。そして、一条院孝三は、頭の上にあった観音開きの扉を上へ押し上げた。階段に明るい光が差し込んだ。そして、一条院孝三が貴船神社本殿に登ると、中村住職と青木平蔵と石川喜兵衛が次々と貴船神社本殿に登ってきた。

 貴船神社本殿に差し込む光を見て、中村住職と青木平蔵と石川喜兵衛は、一晩中、寝ずに一条院孝三の話を聞きながら、ここまでたどり着いたことを悟った。しかし、4人とも、眠いとかつらいとかそういう感覚はなかった。それほど、中村住職と青木平蔵と石川喜兵衛は、一条院孝三の話に夢中になっていたのだった。

 「また、元に戻ってきたな。」

 青木の言葉に石川も

 「そうだな。」

 と、ただただ、うなずいた。そして、中村住職と青木平蔵と石川喜兵衛は、貴船神社本殿の中に座り込んだ。一条院孝三は、観音開きの扉を両手で閉め、扉の横に座り込んで、こう言った。

 「それにしても、僧侶は年をとっても元気だ。仏の道を志し、自然と共に生き、殺生をせず、精進料理を食べているからなのかな。徳川幕府第3代将軍徳川家光の時代、弥助は、70歳近かったが、天海は90歳を超えていた。そして、70歳近くなった弥助は、久しぶりにシャンバラに帰ることになる。

 比叡山延暦寺で延暦寺の再興に携わった弥助は、それまでも、ちょくちょく、シャンバラには帰っていた。そして、弥助が江戸城で徳川幕府将軍のブレーンの仕事を任されると、弥助は、比叡山から江戸城に行く傍ら、シャンバラによるようになった。しかし、弥助が60歳を過ぎ、比叡山延暦寺と江戸城との往復がつらくなってくると、弥助は、天海とともに、徳川幕府将軍のブレーンとして、江戸に住むことになる。

 寛永2年(1625年)10月、徳川幕府第3代将軍徳川家光は、江戸城中奥の間で、昨日、江戸城大奥であったことを弥助に話した。なぜなら、徳川幕府の宗教政策は、弥助の担当だったからだ。そして、弥助は、家光に対して、シャンバラへの出張を願い出るのだった。シャンバラを出て比叡山延暦寺に行った弥助は、1か月に1度はシャンバラに帰っていたのだが、弥助が江戸に来てから、シャンバラを訪れるのは、3か月ぶりだった。そして、今回のシャンバラ出張は、弥助の個人的なことではなく、仕事として、訪れるのだ。そして、弥助の家族たちは、まだ、シャンバラに健在だった。」

 弥助は、シャンバラに帰るたびに、シャンバラに増え続けるキリスト教徒たちを複雑な思いで見守っていた。シャンバラにいるキリスト教徒たちの中に、徳川幕府を転覆させて、スペインやポルトガルの植民地にしようと考えている者などいないことは、百も承知のことだ。

 「しかし・・・。」

 弥助は、若いころ、実際にこの目で見てきたのだ。弥助が、イエズス会の者たちに雇われて訪れた様々な国が、スペインやポルトガルの植民地になっていったという事実を。そして、自分は、イエズス会宣教師たちから逃れるために、比叡山延暦寺に行ったのだ。

 寛永3年(1626年)4月、弥助は、秀吉が造り、家康が整備した木曽川御囲堤の上に立った。家康が御囲堤に植えた桜並木は、弥助の立っている犬山城付近から、延々48km西へと連なり、白い桜の花は満開に近い状態だ。弥助がこの地を初めて訪れたのは、36年前の木曽川大洪水直後のことだった。思えば、あの日、木曽川洪水の被災地で、イエズス会宣教師たちとばったり出会ったことが、弥助の比叡山延暦寺行きを決めたのだ。

 弥助は、網代傘をかぶり、木曽川御囲堤を下りて、犬山城を通り、入鹿村の白雲寺に入っていった。3か月ぶりに訪れたシャンバラは、相変わらず、様々な人々が多く行きかっている。

 「最近のシャンバラは、昔若いころ訪れたシルクロードのイスタンブールのような雰囲気があるな。この雰囲気は、シャンバラに住み着いたキリスト教徒たちの影響によるものだろうか。」

 60代後半になる弥助の妻は、シャンバラに健在で、時々、娘であるうめの子供の面倒を見ている。娘のうめは、結婚して、シャンバラに住み続け、うめの弟の次助は、シャンバラを出て、名古屋城の近くで、商売をしている。うめの兄の太助は、大山廃寺の中に窯を造り、磁器の生産をしながら、犬山城の成瀬氏の隠密の仕事をしている。そして、太助は、時々、母親が無事でいるかどうか確認するために、シャンバラを訪れている。

 寛永3年(1626年)4月、シャンバラに着いた弥助は、名古屋城にいる徳川義直のもとを訪れた。弥助の手には、家光から預かったでんでん太鼓のおもちゃが握りしめられていた。弥助の今回の仕事は、まだ1歳にならない義直の息子に家光からのおみやげを手渡すことだった。

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