三十二 暑い夏

 「そして、入鹿村には、キリスト教徒たちが集まってくる。長崎や京都や江戸において迫害され続けても信仰が捨てられないキリスト教徒たちは、尾張地方にある入鹿村ではキリスト教徒の迫害がないという噂を聞きつけ、入鹿村にやってくる。

 ところで、寛永3年(1626年)の夏は、全国的に梅雨がなくて、雨が少ないという異常気象に見舞われた。いわゆる日照りや旱魃と言われるものだ。日照りで最も被害をこうむる職業は、農業だ。この日照りによって、尾張藩は、他の地域同様、入鹿村周辺地域の農家に対しても、農業を禁止した。」

 「そうだ。私が調べたところでは、このとき、入鹿村を池の底に沈めて、入鹿池という名前のため池を造ろうという案が地元有志の間から出た。」

 明治3年(1870年)12月初旬の月曜日の朝、貴船神社本殿に座り込んで、一条院孝三の話を聞いていた青木平蔵は、一条院孝三にこう返した。

 「しかし、その話は、よく考えると謎が多い話なのです。」

 こう言って、青木の話を聞いていた石川喜兵衛が、青木に続いて話し始めた。

 「寛永3年(1626年)の夏に日照りが起きて、小牧村の江崎善左衛門や上末村の落合新八郎ら入鹿六人衆が協議をした上、

 「入鹿村に流れ込む川の出口をせき止めて、一大ため池を造成し、その水を未開墾の地域に引き入れて、新田を開発しよう。」

 という計画を立案した。

 しかし、入鹿六人衆がこの計画を尾張藩に願い出たのは、日照りが起こってから2年後の寛永5年(1628年)のことで、尾張藩がその計画を受け入れて、入鹿池造成工事に着手したのは、更にその4年後の寛永9年(1632年)のことだ。つまり、日照りが起こってから、入鹿六人衆が入鹿池造成計画を立案し、尾張藩に計画を願い出て、尾張藩が工事に着手するまで、6年の歳月が流れている。入鹿村を池の底に沈めるという、入鹿村民の人権に関わる行為を行う目的が日照りに対処するためであるのならば、このタイムラグに対する納得できる説明がない。

 そして、この計画を尾張藩に願い出た入鹿六人衆は、村の「まとめ役」だったということだが、入鹿六人衆を選んだのは、一体、どこの誰なんだ。ちなみに、徳川幕府における尾張藩の村の機構を説明すると、尾張藩主のもとに奉行や代官がいて、その下に村方三役という村役人がいる。村方三役とは、庄屋(名主)・組頭・百姓代のことで、村方三役の下に五人組という本百姓(農家)や水呑百姓(小作農家)がいる。入鹿六人衆は、この機構とは全く関係のない地元有志のグループです。」

 「尾張藩は、新田開発のためだけに入鹿池を造ったのではない。そして、入鹿六人衆は、その祖先が全員、徳川家康公と何らかのつながりがある。」

 一条院孝三は、青木や石川に向かって、こう言った。

 「寛永3年(1626年)の夏、尾張藩主徳川義直と弥助のいる名古屋城に、面会を求める者たちがやってきた。その者たちは、その先祖が、全員、小牧長久手の戦いを通して、徳川家康公と関係があった者たちだと言った。尾張藩主徳川義直は、興味があって、小牧長久手の戦いについて、調査・研究をしている最中であったので、その者たちに会うことにした。」

 寛永3年(1626年)の夏、小牧村の江崎善左衛門了也と名乗る者が後ろに5人の仲間を従えて、名古屋城を訪れた。江崎は、名古屋城の門番にこう言った。

 「私どもは、先祖が小牧・長久手の戦いに何らかの形で関わっていた者たちの集まりです。尾張藩主の徳川義直公が、小牧長久手の戦いについて、熱心に調査・研究されているという噂を耳にして、私どもにできることはないかと思い、皆で名古屋城にはせ参じました。」

 この話を本丸御殿で聞いた徳川義直は、さっそく、この6人のグループに会うことにした。そして、徳川義直の隣にいた弥助は、

 「では、私は、義直殿の息子の五郎太殿の子守にいくとしますか。1歳の子供は、手がかかりますからね。私が五郎太殿の子守をしている間、義直殿は、ゆっくりと、小牧・長久手の戦いの調査研究に没頭していてください。」

 と言って、部屋を出ていった。

 義直が、部下の者から指定された部屋に入ると、小牧村の江崎善左衛門了也と名乗る者が5人の仲間を従えて、座っていた。その集団は、30歳から50歳くらいまでの働き盛りの男たちの集団であった。義直が部屋のひな壇に座ると、30歳くらいに見える小牧村の江崎善左衛門了也と名乗る者が、義直にこうあいさつした。

 「会っていただいて、とても光栄至極に存じます。私共は、「小牧・長久手合戦顕彰会」という団体の者でございます。「小牧・長久手合戦顕彰会」とは、先祖が天正12年(1584年)に起こった小牧・長久手の戦いに何らかの形で関わった者たちの集まりでございまして、小牧・長久手の戦いをもっと世の中に広めることを目的として、集まった団体でございます。」

 これを聞いた義直は、うれしそうに、こう答えた。

 「今日は、わざわざ名古屋城までお越しいただき、ありがとうございます。小牧・長久手の戦いは、江戸の徳川宗家の方でも、顕彰の対象にしています。徳川幕府の中では、徳川家康公が徳川幕府を開くことが決定したのは、関ヶ原の戦いや大坂の陣というよりは、小牧・長久手の戦いで秀吉方に勝利したことによると考えられているのです。そして、小牧・長久手の戦いの地元である尾張藩でも、独自で調査・研究を進めているところでございます。今日は、ここにいらした皆さま一人一人の話を伺いたく思っております。」

 すると、小牧村の江崎善左衛門了也と名乗る者が、こう答えた。

 「今日は、公平を期するために、小牧・長久手の戦いにおいて、先祖が徳川家康公率いる軍についた者3名と豊臣秀吉公率いる軍についた者3名で、メンバーを構成いたしております。まずは、私の方から、お話いたします。

 私は、小牧村から来た江崎善左衛門了也と申します。私の父である江崎善左衛門宗度は、小牧・長久手の戦いの時、秀吉軍が庄内川を渡って東へ向かおうとしているという情報をキャッチした徳川家康公が、密かに小牧城を出て庄内川を渡り、小幡城に向かった時の道案内役を務めました。父は、その後、家康公が使用していた軍扇をいただきました。

 父の話によれば、家康公は、庄内川を渡る際に、一時、川のほとりの勝川村で馬を休めました。その時、家康公は、勝川村に住む武士である長谷川甚助の家に出向き、庄内川の深さを尋ねられ、次に布陣している場所の名前を尋ねられました。すると、甚助は、「この場所は、勝川と申します。」と答えました。すると、家康公は、「それはめでたい名前だ。」と言って、上機嫌に笑い、出陣の儀式である、冷や飯にお湯をかけた湯漬けを食べ、その後すぐに、竹を切らせて、川を渡るときに使う竿を作らせました。そして、自分の着ていた陣羽織を甚助に差し上げ、小幡城の方向を指して、一行を進ませたそうです。そして、一行が庄内川を渡り切った頃は、夜明け前でした。家康公が近くの高台に登り、北方向を眺めると、遠くに、秀吉軍の一団が庄内川の河畔で休息しているのが見えました。家康公は、秀吉軍を確認すると、この時初めて甲冑を身にまとったそうです。家康公は、結構、縁起を担ぐ人だったようですね。

 小牧長久手の戦い以後、父は、名古屋から中山道に通じる街道を短期間で開通させるなどの業績を残し、尾張徳川家から報奨が与えられました。そして、義直殿が鷹狩を行う際の休息所を父の屋敷の敷地内に建てて、「小牧御殿」と名付けました。

 それでは、次は、私の後ろの左端に座っている上末村の落合殿の話を聞きましょうか。落合殿から順番に右端にいる小口村の舟橋殿まで、話をお願いします。」

 義直は、メモを取りながら、熱心に、小牧村の江崎善左衛門了也の話を聞いている。そして、今度は、義直から見れば、小牧村の江崎善左衛門了也の後方にいる5人の男たちの中で、最も右側に座っていた落合新八郎宗親が話し始めた。落合新八郎宗親は、50代くらいに見える男である。

 「私は、上末村の落合新八郎宗親と申します。祖父は、落合将監安親と言い、祖父の息子、即ち私の父である庄九郎とともに、小牧長久手の戦いの中入り作戦で、秀吉の軍が犬山の楽田から大草を通り、長久手を経て家康の本拠地岡崎城を攻めるときの秀吉軍の道案内役を務めました。しかし、徳川家康の軍は、なぜか、中入り作戦の情報をキャッチしており、祖父と父が長久手に着くと、背後から秀吉軍を襲い、秀吉軍を撃破してしまうのです。そして、秀吉軍の道案内役であった祖父の落合将監安親とその息子の庄九郎は、長久手で、消息不明になってしまいました。

 ところで、秀吉軍の道案内役であった祖父の落合将監安親とその息子の庄九郎は、道案内役として、上末城から多くの兵士を従えて、長久手に向かいましたが、この時、全ての兵士を長久手に出しては、自分たちの本拠地である上末城が手薄になり、いつ何時、敵に襲われるかもわかりません。上末の南にある田楽には、徳川家康の家臣である長江平左衛門とその一族が居を構えています。従って、秀吉軍の道案内役であった祖父の落合将監安親とその息子の庄九郎は、上末城に300人くらいの兵士を留守居役として残して、長久手に向かいました。

 天正12年(1584年)4月9日、祖父の落合将監安親とその息子の庄九郎が道案内役を務める秀吉軍が、長久手の合戦で、背後から攻撃してきた家康の軍に敗れ、祖父の落合将監安親とその息子の庄九郎は、消息不明になったという悲しい知らせが上末城に届きました。そして、天正12年(1584年)4月9日の夕方になり、上末城の南の方から大きなざわめきが聞こえてきます。

 「田楽の長江平左衛門一族が、勝鬨をあげている。」

 そして、上末城に留守居役として残っていた兵士のうち、270名余の留守居役の兵士たちが、上末村の中で、長久手方面を眺めることができる高台に登り、消息不明になった落合将監安親とその息子の庄九郎や仲間の兵士たちをしのび、自害をしました。

 その後、落合将監安親とその息子の庄九郎たちは、命からがら、上末城に戻ってきました。そして、自害をした270名余の留守居役の兵士たちのことを知った落合将監安親とその息子の庄九郎たちは、自害をした兵士たちを弔うため、自害をした高台の近くに住む農民たちにお金を渡して、祠を建てさせ、祠の周囲につつじの木を植えさせて、その祠を「おつつじ様」と名付けて、末永く面倒をみてもらうようにお願いしました。もちろん、落合将監安親とその息子の庄九郎たちは、農民たちには、自分たちのことは、一切、口外しないように言い含めました。そして、自分たちは、上末城を出て、丹後の国(京都府北部日本海側)にいる京極氏のもとに身を寄せました。丹後の国の京極氏は、秀吉の側室を出すなど、秀吉軍の仲間だったからです。

 その後、天正12年(1584年)11月になって、秀吉公は、秀吉軍と家康軍を和解させるために、桑名で織田信雄と直接会い、様々な条件を示して、戦いを終わらせました。そして、秀吉公は、戦いを終わらせる条件の1つとして、小牧長久手の戦いで秀吉が利用した全ての城砦を廃城にするという案を信雄に提示しました。その結果、上末城は、廃城となりました。今、落合将監安親とその息子の庄九郎の子孫である私は、上末村に住み、農業を営んでおります。」

 義直は、上末村の落合新八郎宗親の話が終わると、メモを取る手を休めて、落合新八郎宗親に向かって、こう言った。

 「本当にご苦労をなされて。内戦は、悲惨なことであるから、内戦が起こらないような世の中にしなければならないという方針が、信長公から伝わり、秀吉公、家康公へと引き継がれました。ですから、これからの世の中では、内戦が起きないように我々としても努力しているところです。」

 そして、次は、落合新八郎宗親の隣に座っていた鈴木久兵衛という名の50代くらいの男が話し始めた。

 「私は、上末村の鈴木久兵衛と申します。私の祖父の鈴木彦九郎は、織田信長公の家臣丹羽長秀に仕えておりましたが、本能寺の変後は、上末村に移り住みました。私は、上末村で生まれ育ち、父は、小牧長久手の戦いで、上末城の留守居役の兵士たちの一人でした。

 そして、天正12年(1584年)4月9日に上末村であった痛ましい出来事は、先ほど落合新八郎宗親殿が述べたとおりです。上末城で留守居役を務めていた私の父は、天正12年(1584年)4月9日の夕方に上末城の南の方角から聞こえてきた大きなざわめきには恐怖を覚えたと、語っていました。そして、父は、上末村にある長久手方面を見下ろすことができる高台に自害をしに行く失意のどん底にいた兵士たちの集団を見て、

 「おい、あれは、本当に田楽の長江平左衛門一族の勝鬨の声なのか?やめておけ。」

 と、一人一人に声をかけたけれども、父の声が心に届かなかった兵士たちは皆、幽霊のように高台まで歩いて行ったそうです。

 それにしても、天正12年(1584年)4月9日の夕方に上末城の南の方角から聞こえてきた大きなざわめきは、本当に田楽の長江平左衛門一族の勝鬨の声だったのでしょうか?鈴木作右衛門殿は、先祖の人たちからどのように聞いていますか?」

 鈴木久兵衛が隣に座っている40代くらいの男にそう質問すると、今度は、その男が語り始めた。

 「私は、田楽村の鈴木作右衛門と申します。私の曽祖父は、鈴木九兵衛尚方と申す者で、今川義元に仕えておりました。

 曽祖父は、今川義元に仕えていた時、駿府城(現在の静岡県静岡市)で、当時人質として今川義元のもとにいた、10歳くらいになる竹千代殿のお世話をしておりました。竹千代殿とは、後の徳川家康公のことでございます。天文24年(1555年)、竹千代殿が人質先の駿府城で元服すると、翌年の弘治2年(1556年)、曽祖父は、なぜか、武士の座を捨て、農業をやるために尾張の国の田楽村にやってきました。曽祖父は、まだ子供である竹千代殿の面倒を見ているうちに、竹千代殿がのちの徳川家康となって、天下統一をして、徳川幕府を築く才能を見出したのかもしれません。曽祖父が今川義元のもとを去った4年後の永禄3年(1560年)、今川義元は、桶狭間の戦いで織田信長に敗れて、首を討たれてしまいます。曽祖父がそのような経歴を持っているため、私どもは、田楽村で、農業を営みながらも、長江平左衛門一族のもとに仕え、徳川家康公の応援をいたしておりました。

 天正12年(1584年)3月3日、秀吉と気脈が通じたという噂のあった老臣3人を織田信雄殿が呼び出し、殺害したことがきっかけとなって、小牧長久手の戦いが勃発します。その知らせを聞いた秀吉公は、出陣を命じ、織田信雄殿は、家康公に助けを求めます。家康公は、信長公との間に交わした清須同盟の趣旨に則って、3月13日に織田信雄のいる清須城に入ります。そして、秀吉方の武将池田恒興が犬山城を奇襲し、犬山城に入ります。

 さて、池田恒興の犬山城奇襲により、城を追い出された犬山城の残党は、田楽村にある伊多波刀神社に集まりました。その様子を見た曽祖父は、3月28日に家康公が小牧山城に入ったらしいという噂を聞き、小牧山城に家康公を訪ねていきます。この時、今川義元のもとで家康公のお世話をしてからほぼ30年ぶりに、曽祖父は家康公と再会します。そして、曽祖父の案内で、田楽村の伊多波刀神社に出向いた家康公は、伊多波刀神社に集まっていた犬山城の残党を説得して、田楽村で一番大きい屋敷を持つ長江平左衛門の家に集めます。そして、家康公は、彼らに砦を築かせ、守らせました。これが、小牧長久手の戦いにおける徳川方の田楽砦の始まりです。

 ところで、上末村の鈴木久兵衛殿の話によると、4月9日朝、長久手で家康軍が背後から秀吉軍を襲って、秀吉軍を破り、4月9日の夕方に上末城の南の方から大きなざわめきが聞こえてきたとのこと。ここで、もう一度、小牧長久手の戦いにおける織田・徳川軍の動きをおさらいしてみましょう。この絵図を見てください。」

 そして、田楽村の鈴木作右衛門は、懐から、折りたたまれた大きな紙を取り出して、立ち上がり、義直に向かって、腕いっぱいに絵図を広げて、話し始めた。

 「家康公が大久佐八幡宮で、神社の者、即ち、篠木村の住民から、秀吉軍が犬山城から南に向かって進攻しているという情報をもらったのが、4月7日の午後4時のことです。その情報を聞いた家康公は、急いで、大久佐八幡宮から小牧山城に戻ります。そして、4月7日の夜、午後8時に小牧山城を出発した9300の織田・徳川軍は、小牧山城の南側に下り、市之久田村から更に南の豊場村を過ぎ、更に南の如意村を過ぎたあたりで、東に進路を変え、庄内川沿いの勝川村を経由して、庄内川を渡り、小幡城に入ります。小牧山城から勝川村まで、このルートを利用した場合、直線で11kmの距離があります。

 実は、家康公が小牧長久手の戦い当初、小牧山城から岡崎城に行くルートとして考えていたのは、小牧山城から家康公が造った軍用道路を通って、東南方面にある田楽砦に行き、田楽砦からまっすぐ南に向かって勝川村を経由して庄内川を渡るルートでした。小牧山城から田楽砦を経由して勝川村に至るこのルートは、直線で11kmの距離です。しかし、織田・徳川軍があえて、わざわざ軍用道路を利用しないルートを使ったのには、理由があります。小牧山城から5.5kmほど北側に存在する秀吉軍の小口城の者たちに織田・徳川軍の動きを悟られないようにするためです。秀吉軍の小口城に関することは、後程、外坪村の舟橋仁左衛門殿から説明があると思います。

 そして、小幡城を出た織田・徳川軍が長久手の色金山に到着したのが4月9日の朝です。長久手の色金山で軍議を開いた織田・徳川軍は、秀吉軍と合流することのないように、更に南にある長久手の仏ヶ根に移動し、秀吉軍を迎え撃ちます。そして、織田・徳川軍は、4月9日昼頃、長久手合戦で秀吉軍に勝利します。その後、秀吉軍に勝利した織田・徳川軍は、長久手の仏ヶ根から小幡城に帰ってきます。

 一方、4月9日昼頃に長久手の仏ヶ根で秀吉軍に勝った織田・徳川軍が小幡城に入ったという情報を手に入れた秀吉公は、2万の大軍を率いて、犬山の楽田城から南に向かい、4月9日午後5時ころ、小幡城から1kmほど北東方面にある竜泉寺砦に入ります。家康公がいる小幡城を攻めて、敵を討つためです。しかし、家康公は、4月9日午後8時ころ、密かに小幡城を出て、北北西に進路を取り、途中で庄内川を渡りながら、7kmほど進み、比良城に到達します。比良城には、織田・徳川軍についた武将佐々成政がいました。そして、比良城に着いた家康公は、そこから7・5kmほど北方向に位置する小牧山城に帰って行きます。家康公のこの動きは、北東方向にある竜泉寺砦にいた秀吉公に気付かれないように、そっと後ずさりして秀吉公の前から姿を消したように感じられませんか?秀吉公がこのことを知ったのは、4月10日の明け方のことでした。4月10日、秀吉公は、なすすべもなく、竜泉寺砦から犬山の楽田城に帰って行きました。

 4月7日の夜、小牧山城から南側に下りて南進して庄内川を渡り、小幡城から長久手に向かったルートも、4月9日の夜、小幡城から西進して小牧山城に帰るという遠回りのルートも、全て、家康公が秀吉公に動きを察知されないように気を配った結果、使ったルートでした。では、家康公が小牧山城からの軍用道路まで造った田楽砦の意味は、一体、何だったのでしょうか。

 この図を見てください。田楽砦とそこから小牧山城まで伸びる軍用道路は、織田・徳川軍が小牧山城から長久手まで行って帰ってくるルートを秀吉軍の攻撃から防ぐために造られているかのようですよ。そして、その防波堤の内側で、織田・徳川軍は、秀吉軍に決してその動きを悟られないように動いていたのです。もしかしたら、織田・徳川軍は、家康の居城岡崎城が秀吉軍に狙われるかもしれないことを頭の中に入れていたのかもしれません。」

 すると、田楽村の鈴木作右衛門が掲げた図を見た上末村の落合新八郎宗親がこう言った。

 「私が先祖の者から聞いている話では、先祖の落合将監安親は、もともと、織田信長とその子信雄に仕えていた。しかし、小牧長久手の戦いのとき、中入り作戦を秀吉公に主張した池田恒興という武将が、突然上末城にやって来て、

 「上末城が秀吉軍の砦にならないのなら、我々秀吉軍は、上末城を攻め落とす。」

 と脅し、無理矢理、秀吉軍に従軍させられたということだ。それほどまでにして、秀吉公が上末城を手に入れたかった理由は、小牧山城から田楽砦までが織田・徳川軍の前線基地だったからなのか。つまり、我々の上末城は、秀吉軍の最前線だったということだ。」

 「そうです。」

 田楽村の鈴木作右衛門は、上末村の落合新八郎宗親に向かってこう言った。

 「もし、上末城が織田・徳川方の砦になれば、秀吉軍は、徳川軍に押されて後退してしまいます。そして、田楽砦は、秀吉軍の武将池田恒興が犬山城を奇襲したときに、犬山城を追い出された残党で組織されている。

 従って、そのような緊張状態の田楽砦から、まだ徳川方の作戦が終了していない4月9日の夕方に勝鬨の声が上がるなどということは考えられません。では、4月9日の夕方に上末城の南の方角から聞こえた大きなざわめきとは、一体、何だったのでしょう。」

 そして、鈴木作右衛門は、左隣にいる鈴木久兵衛の方を向いて、こう言った。

 「久兵衛殿は、源平合戦の富士川の戦いをご存知ですか?治承4年(1180年)10月20日、源氏の兵は富士川の東岸に進み、平氏の兵は富士川の西岸に布陣した。その夜、源氏方の武田信義の部隊が、平氏軍の後背をつこうと、富士川の浅瀬に馬を乗り入れる。すると、富士川の水鳥がこれに反応し、水鳥の大群が一斉に飛び立った。その羽音は、ひとえに軍勢のごとく思われ、驚いた平氏軍は、大混乱に陥った。平氏軍の兵たちは、武器や防具を忘れて逃げまどい、他人の馬にまたがる者あり、杭につないだままの馬に乗って、ぐるぐる回る者ありで、集められていた遊女が馬に踏みつぶされる事件まで起こるような始末であった。そして、平氏軍は、源氏軍と戦うことなく、撤退した。富士川の戦いは、源氏軍の不戦勝に終わった。

 つまり、前線にいる兵士は、自分の命をかけて戦っているので、非常に神経質になっているのです。神経質になっている兵士たちの心を落ち着かせるのは、大将の重要な仕事の一つです。しかし、天正12年(1584年)4月9日の夕方、上末城で留守居役をしていた兵士たちに、長久手の戦いで自分たちの大将が行方不明になったという情報がもたらされました。上末城に残った兵士たちの心は、いわば、糸の切れた凧のような状態になってしまったのです。

 上末城の南の方角に与兵池という古くからある大きなため池があります。与兵池から更に南に行くと、徳川家康軍の田楽砦があります。与兵池には、様々な種類の鳥たちが住んでいるのですが、鳥たちの中でも一番派手な動きと派手な声を出すのは、ハヤブサの群れです。私には、ハヤブサの鳴き声が「エイエイオー」という勝鬨の声に聞こえてなりません。夕方になって、ハヤブサの群れがまるで、会話をするように鳴き始めると、あたかも勝鬨の声が上がるかのようです。普通に生活しているときは、冷静に「ああ、ハヤブサが鳴いている。」と思うだけかもしれませんが、自分たちの大将を失った上末城の残党たちがその声を聞いたとしたら、どうでしょう。張りつめた糸が切れたと同時に恐怖を感じるのではないでしょうか。人間は束になっているときは強いですが、個々になったときには、意外と弱いものです。」

 そして、田楽村の鈴木作右衛門は、今度は、右隣にいる男に向き直った。

 「ところで、小牧長久手の戦いで、秀吉方と家康方のどちらが軍資金をたくさん持っていたのかと言えば、それは、まぎれもなく、秀吉方でした。だから、家康公は、長久手の戦いで秀吉方に勝利しても、最終的には、秀吉公との和睦の道を選んだのです。小牧長久手の戦いで、そんな徳川方に軍資金を提供していたのが、隣にいる村中村の丹羽又兵衛殿の祖先の方です。」

 そして、今度は、村中村の丹羽又兵衛と名乗る40代くらいの男が話し始めた。

 「私は、丹羽又兵衛と申しまして、村中村で、代々農業を営む資産家の家に生まれた者でございます。当時もすでに資産家であった私の祖父は、天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いで、結果的に徳川家康公に軍資金を渡すことになったのですが、軍資金を渡すことになった経緯を説明いたします。

 天正12年(1584年)3月に小牧長久手の戦いが勃発し、徳川家康公が織田信雄の居城である清須城に入りました。そして、秀吉方の武将池田恒興が犬山城を奇襲して、手に入れると、家康公は、部下の者に、小牧山に堀を造るように命じます。そして、小牧山の周囲に堀を造っている最中、偶然、地中から仏様が見つかります。その仏様は、如意輪観世音菩薩像と言い、結構小ぶりな仏様でした。そして、小牧山の周囲の堀の工事中に出土したのは、その仏様だけではありません。小牧山の周囲には、古い時代から様々な人々が住んできたのでしょう。確かに人間が作ったと思われる旧石器や土器などの考古資料がたくさん掘り出されました。

 そして、小牧山の周囲に堀が完成すると、家康公は、小牧山城に入り、周囲の村にいる資産家を集めて、堀の工事の時に見つかった仏像などの考古資料のオークションを開始します。祖父は、大変信仰の厚い人でしたので、小ぶりな仏様だったにもかかわらず、結構な高値でその仏像を競り落としました。

 祖父は、その仏像を手に入れると、小牧山のふもとに寺を建て、玉林寺と名付けて、家康公から競り落としたその仏像を安置しました。それからも、祖父は、小牧山城で家康公が度々開催するオークションに顔を出しましたが、その仏像ほどのお金を出して落札したものはありませんでした。

 そして、私の代になって、3年前の元和9年(1623年)に玉林寺を2つに分けました。小牧山のふもとから移動して、1つは、小牧村の町中に建て、1つは、村中村に建てました。2つの寺は両方とも玉林寺と言い、どちらにも、先祖の代から集めた宝物を安置してあります。なお、祖父が家康公から競り落とした仏像は、小牧村の方の玉林寺にあります。」

 熱心にメモを取る徳川義直をちらっと見た丹羽又兵衛は、更に話を続けた。

 「ところで、私の祖先は、小牧長久手の戦いの時、軍資金を出すことによって徳川方に貢献しましたが、小牧長久手の戦いの時、元々家にあったお宝で、秀吉方に貢献した人がいます。それが、隣に座っている舟橋仁左衛門殿です。そうでしたね、仁左衛門殿。」

 そして、丹羽又兵衛の言葉を受けて、義直から見れば小牧村の江崎善左衛門了也の後方にいる5人の男たちの中で最も左側に座っていた50代くらいの男が話し始めた。

 「私は、外坪村の舟橋仁左衛門と申します。私の祖先である舟橋文平は、織田遠江守広近が築いた小口城で織田遠江守広近に仕えました。長禄3年(1459年)に織田遠江守広近が小口城を築城してからの付き合いで、延徳3年(1491年)に織田遠江守広近が亡くなるまでの32年間お仕えして参りました。以後、舟橋家の者は、代々、小口城に仕えることになります。

 織田遠江守広近が亡くなってからは、小口城は、織田遠江守広近がもう一つ築城した木ノ下城や犬山城の支城として残りました。だから、織田遠江守広近が亡くなってからも、舟橋家の者は、代々、小口城に仕え続けました。そんな小口城に転機が訪れたのは、織田遠江守広近が亡くなってから70年後のことです。

 織田遠江守広近が亡くなってから70年後の永禄4年(1561年)6月下旬、前年に桶狭間で今川義元を破った織田信長が小口城を攻めてきました。その頃の小口城の城主は、犬山城家老の中島豊後守でした。小口城の者たちは、皆、よく戦いました。小口城の守りはとても強固で、小口城の曲輪の中に侵入してきた織田信長の有能な家臣である岩室長門のこめかみを突いて、討ち死にさせ、信長を悔しがらせたほどでした。しかし、桶狭間の戦いで今川義元に勝った織田信長には勢いがあり、このままでは、小口城は、時間の問題で信長の手に落ちることは、目に見えて明らかでした。桶狭間で今川義元を破った織田信長には、天下統一という目標があり、その一環として、小口城は信長に攻められているのです。

 小口城の者たちは、皆で話し合った末、織田信長の軍に投降することに決めました。その時、小口城にいた舟橋家の祖先は、小口城主である中島豊後守から、小口城の設計図を預かっていました。そして、小口城にいる他の者たちが、舟橋家の祖先にこう言いました。

 「俺たちは、これから、織田信長の軍に投降する。だから、お前は、その設計図を持って、遠くに逃げろ。後ろにある城壁から逃げれば、敵には見つからない。この設計図だけは、絶対に織田信長に渡してはならない。さあ、早く行け。」

 舟橋家の祖先は、小口城の設計図を持って城を逃げ出しました。そして、小口城から2kmほど南にある外坪村まで逃げてくると、舟橋家の祖先は、外坪村に居を構え、武士の地位を捨てて、農業に従事することになりました。それから20年間は、舟橋家の者は、小口城の設計図を家宝として門外不出にして、農業に従事しながら、家の中で大事に守って参りました。そして、永禄4年(1561年)に舟橋家の祖先が小口城を離れて外坪村に来てから23年後の天正12年(1584年)、小牧長久手の戦いが勃発します。」

 ここで、外坪村の舟橋仁左衛門は、一息ついた。そして、徳川義直の方を見た。義直は、近くにいた家臣に、皆の者にお茶を出すように言い、出されたお茶を飲み干した舟橋仁左衛門は、続けて、こう話し始めた。

 「私の祖父は、小牧長久手の戦いが勃発したとき、織田信長に攻められて廃城となった小口城が再び秀吉方の砦として使われているという噂を外坪村で耳にしました。その時、祖父の心の中にある思いが芽生えていました。

 「このまま、小口城の設計図を門外不出の家宝として家で守っていても、設計図は朽ち果てていくだけだ。それならば、いっそのこと、使うべき人が使った方がいいのではないか?」

 私の祖父が、散々、悩んだあげくに犬山城にいる秀吉公のもとに小口城の設計図を持って行ったのは、小牧長久手の戦いのために秀吉公が犬山城に入って、多くの砦を築いてから1か月後の4月末のことでした。その頃、秀吉軍は、中入り作戦の情報が家康軍に漏れたことにより、長久手で背後から家康軍に襲われ、大敗した直後でした。そして、秀吉公は、祖父にこう言いました。

 「これで、秀吉軍は、まだ、戦闘を続けられる。本当にありがとう。この者に、なにがしかのお礼の品を与えるように。」

 秀吉公に小口城の設計図を渡した祖父は、大量の金貨を秀吉公からもらって、犬山城を後にしました。

 秀吉公は、祖父にこう言ったそうです。

 「長久手の戦いで秀吉軍が家康軍に敗れた責任の一端は、小口砦にある。小口砦からは、小牧山城が真正面に見えているにもかかわらず、家康の部隊9300が4月7日午後8時に小牧山城を出発して、勝川から庄内川を渡り、4月9日の朝、長久手で秀吉軍9000を待ち伏せて、たたくという一連の行動を見抜くことができなかった。だから、小口城の古い設計図を手に入れた今、秀吉軍は、もう一度小口砦を整備しなおして、小牧山城にいる家康軍に勝つことができるようにする。」

 その後、再度お礼の品を持って、外坪村にある祖父の家を訪れた秀吉軍の者は、この話を祖父にしていきました。

 「秀吉公は、小口城の古い設計図を手に入れた後、稲葉一鉄という武将に小口城を含む地域の采配を預けることにしました。稲葉一鉄とは、美濃(岐阜県)の豪族で、信長公に仕えていたころは、家康も一目置いていた人物でした。信長公が本能寺の変で暗殺されてからは、秀吉公に仕えていたのですが、もう70歳近いということで、秀吉公から話があった最初の頃は、小牧長久手の戦いに出ることを渋っていました。しかし、小口城の古い設計図を秀吉公から見せられてから、やる気が出てきたみたいで。5月に入ってから、稲葉一鉄は、小口城に入り、小口砦の引き締めを図っています。秀吉公からは、重ねて、外坪村にいる舟橋家の者にお礼の品を渡してくるようにと命じられ、私がここに来た次第です。」

 その後、小牧山城と小口城の間で、何度か小競り合いがありましたが、小牧山城の徳川軍は、小口城の秀吉軍を破ることはできなかったそうです。そして、秀吉公は、11月に入って、家康軍と和解して、小牧長久手の戦いは終わりました。秀吉公は、小牧長久手の戦いを終わらせる条件の一つとして、秀吉軍が築いた全ての砦を破壊して、廃城にすることを提示しました。

 小口城は、その後、秀吉公の手によって、廃城となりました。そして、小口城の古い設計図も秀吉公の手で処分されました。しかし、祖父は、後悔していなかったといいます。もし、小口城の設計図を家宝として外坪村の舟橋家の中に置いていたとしても、やがて、紙に書かれた設計図は、朽ち果てて、粉々に破れてなくなってしまうだけだと祖父は言うのです。どうせ、破れてなくなる運命の設計図なら、誰かの役に立った方がよいのではないかと祖父は考えたから、秀吉公に小口城の古い設計図を渡したのです。そして、小口城の古い設計図は、きちんとその役目を果たした。秀吉公のもとに小口城の設計図を渡して、本当に良かった。祖父は、そう私に言い残して死んでいきました。」

 そして、舟橋仁左衛門が話を終えると、徳川義直は、名古屋城に集まった6人の男たちに向かって、お礼の言葉を述べた。

 「大変貴重なお話の数々、ありがとうございました。これで、小牧長久手の戦いに関する尾張藩の調査研究は、大きく前進していくことでしょう。今日は、仕事がお忙しい中、こうして、名古屋城にお越しいただきまして、ありがとうございました。」

 「いいえ、今年の夏は、日照り続きで、尾張藩の方から農業をすることを止められている農家の者は、他にすることがございません。だから、こういう時は、少しでも尾張藩のためになることができれば、という思いで、皆で、ここにはせ参じてきたわけなのです。」

 徳川義直の正面に座っている、小牧村から来た江崎善左衛門了也が笑いながらこういうと、義直は、いかにも申し訳ないという態度で、こう返した。

 「本当に、今年の夏は、皆さまにご迷惑をおかけして、恐縮至極に存じます。もちろん、今回、貴重な話を我々にしていただいたことにつきましては、いくらかのお礼を皆様に差し上げたいという思いでいます。小牧長久手の戦いで、大きな財を築いてきた皆様の祖先の方々には、とても及ばない金額ではございますが・・・。」

 「我々は、お礼がほしくて、ここに来たわけではございません。」

 こう言って、小牧村から来た江崎善左衛門了也は、今度は、真剣なまなざしで、徳川義直の方を見つめた。義直が気が付くと、小牧村から来た江崎善左衛門了也の後ろに座っている5人の男たちも全員、真剣なまなざしで、義直を見つめている。

 「私たちの祖先は、小牧長久手の戦いのときは、確かに、織田・徳川軍と秀吉軍に分かれて戦ってきた。そして、お互いに命を懸けた戦いだった。しかし、織田・徳川軍の者も秀吉軍の者も共通して感じてきた脅威がある。そして、その脅威に対して、織田・徳川軍の者も秀吉軍の者もお互い争っている場合ではないという認識では一致していた。だからこそ、小牧長久手の戦いが終わって、織田・徳川軍について戦ってきた者たちも秀吉公を許し、秀吉公についていこうという気になったのだ。そうでなければ、私たち「小牧・長久手合戦顕彰会」の者たちは、一緒に活動することなど考えられないことなのだ。」

 小牧村の江崎善左衛門了也は、義直をまっすぐに見てこう言った。

 「義直殿の考え方は甘い。日本には、古来より、八百万の神がおり、仏様がいる。そして、それとは全く異なる神を崇拝するのがキリスト教だ。そして、キリスト教とヨーロッパ諸国の政治は不可分に結びついており、ヨーロッパ諸国は、インドやアフリカやフィリピンを次々と植民地化している。そして、フィリピンの目と鼻の先にあるのが、日本だ。」

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