三十三 鎖国

 その頃、弥助は、名古屋城の一室で1歳になる義直の息子五郎太に向かって、でんでん太鼓を振り続けていた。座って遊んでいた五郎太は、弥助のでんでん太鼓の音を聞くと、振り向き、でんでん太鼓の音の鳴る方に歩き始めた。

 「さあ、五郎太殿、こっちですよ。」

 弥助は、でんでん太鼓を振り続けながら、1歳になる五郎太にこう話しかけていた。

 「お父上の義直殿は、今頃、小牧長久手合戦顕彰会のメンバーから、「お前の考えは甘い。」などと言われて、お叱りを受けているかもしれませんよ。お父上の義直殿がどのように聞いて育ってきたのかは、この弥助にはわかりませんが、五郎太殿には、この弥助が今まで見てきたこと、聞いてきたことを全てお伝えしていきますよ。」

 そして、小牧長久手合戦顕彰会の6人のメンバーと向かい合っている徳川義直は、顕彰会のメンバーにこう言い返した。

 「しかし、キリスト教徒の彼らは、政治とは全く関係がなく、幕府に協力しろと言われたら、いつでも協力すると言っている。彼らは、あなた方と同じように、尾張藩の経済活動を支えている大事な人材なのです。」

 「義直殿は、入鹿村に次々と集まってくるキリスト教徒に対して、脅威を抱いていないのか?」

 小牧長久手合戦顕彰会の6人のメンバーは、これは意外だという表情で、皆で顔を見合わせた。そして、小牧村の江崎善左衛門了也の後ろに座っている上末村の鈴木久兵衛が義直に対してこう言った。

 「入鹿村の地下にある礼拝所で隠れて信仰しているキリスト教徒に対しては、何となく同情することができる。しかし、入鹿村の中で、堂々と集会を開いているキリスト教徒たちについては、どうなんでしょうかねえ。日本の植民地化を目論むキリスト教宣教師が入鹿村の中に侵入してきた場合、あのキリスト教徒たちは、そのキリスト教宣教師たちに洗脳されないという保障は、どこにもないのです。」

 鈴木久兵衛のこの言葉を聞いて、義直は、返事に詰まってしまった。しかし、入鹿村のキリスト教徒たちと直接会って話をした義直は、入鹿村に集まっているキリスト教徒たちに脅威を感じていないことだけは確かだった。

 「スペイン船の来航を禁止するだけでは、不十分なのか?」

 義直は、小牧長久手合戦顕彰会のメンバーにこう問いかけた。すると、小牧村の江崎善左衛門了也の後ろに座っていた上末村の落合新八郎宗親が、義直にこう言った。

 「徳川幕府第2代将軍秀忠殿にこのことが知れたら、秀忠殿は、カオリンの鉱山を閉鎖し、入鹿村をつぶしてしまうことも考えると思います。」

 そして、義直の正面に座っていた小牧村の江崎善左衛門了也がこう言った。

 「今年は、日照りのために農業をすることが禁止された。それでも、藩の財政が傾かないのは、農業のほかにも、様々な産業があって、尾張藩の財政を維持しているからだ。しかし、今後の尾張藩における農業振興のために、入鹿村に流れ込む川の出口をせき止めて、一大ため池を造成し、その水を未開墾の楽田原や小牧台地などに引き入れて、新田開発を推進していくというアイデアはいかがでしょうか。」

 「そんなことをしたら、ますます、藩の財政が傾く。」

 義直は、吐き捨てるように、小牧長久手合戦顕彰会のメンバーに向かって、こう言った。

 1年後の寛永4年(1627年)夏、徳川義直は、お供の者を二人連れて、江戸城を訪れた。普通、義直が仕事で江戸城を訪れる場合は、大手門をくぐって、まっすぐ本丸御殿に入るのだが、この日の義直は、大手門から本丸御殿に入ることはせず、大手門から左、即ち西側に向かって歩いたところにある坂下門という比較的小さく、ひっそりと建つ門をくぐった。坂下門をくぐると、5年位前までは、尾張徳川家の邸宅があって、江戸城の西側を防御していた。しかし、今、昔尾張徳川家の邸宅があった場所には、モミジの木のシンボルツリーと椿の生垣に囲まれた平屋の邸宅がひっそりと建っていた。そして、江戸城本丸御殿の西側に建つその小さな邸宅に来るようにというのが、徳川幕府第3代将軍徳川家光からの指示であった。

 江戸城本丸御殿の西側に建つその小さな邸宅に入ると、義直は、まず、持ってきた手土産を女中に渡した。女中は、義直から手土産を受け取ると、義直を控室に通した。30分くらいたった後、一人の女中が、邸宅の中にある小さな茶室に義直を案内した。その小さな邸宅にいる女中の数は、一人か二人だと、義直は推測した。

 義直が茶室に入ると、茶釜の前には、徳川家光の正室である鷹司孝子が座り、孝子の正面に徳川家光が座っていた。義直が家光の隣に座ると、家光は義直に向かって、こう言った。

 「ここが、孝子殿の新しい邸宅だ。孝子殿が江戸城本丸御殿の大奥に入ることは、今後二度とない。俺がここに来ることも今後ないだろう。今、正室のいない本丸御殿大奥は、側室を迎えるまでの間、春日局という女中の代表者が仕切っている。そして、このことは、孝子殿と二人で話し合って決めたことだ。」

 「私をここに呼んだ目的は何ですか?入鹿村にいるキリスト教徒に関することですか?」

 「さすが義直殿だ。察しがいいな。」

 家光をにらみつける義直を見下すように、家光は、小さな声で話し始めた。

 「だから、孝子殿も義直殿も考え方が甘いのだ。スペイン船の来航を禁止しても、日本の植民地化を目論むキリスト教宣教師たちは、法の抜け道を利用して、日本に入ってこようとするだろう。これでは、いつまでたっても、いたちごっこだ。

 しかし、この家光は、孝子殿と義直殿の意志は尊重しようと思う。それに、カオリンの鉱山が日本の陶磁器生産に寄与していることも事実だ。だから、入鹿村にいるキリスト教徒たちを皆殺しにすることはしない。」

 「だからと言って、入鹿村を池の底に沈めることはないでしょう。今年に入って、日照りも解消されて、今年は、昨年とは打って変わって、豊作の予感がします。農業を1年間我慢していただければ、翌年からは、例年通りの収穫が見込めるのです。それに、入鹿村を沈めるような大きなため池を造る費用は、誰が支払うんですか?もちろん、徳川宗家の方で、全額負担していただくことになりますよ。尾張徳川家には、そのようなお金はございません。」

 「いや、これは尾張藩の農業振興のためですので、全額、尾張藩の負担にしていただきます。入鹿村にいるキリスト教徒たちの命を救いたければ、尾張藩が、全額負担してください。」

 「それは、脅しだ。」

 義直は、家光をにらみつけた。

 「お茶が入りました。お二人とも、一服どうぞ。今、女中に干菓子を持って行かせます。」

 孝子がこういうと、女中が一人、干菓子の入った大きな器を持って茶室に現れ、家光と義直の前に置いた。

 「女中の数もこんなに少なくなって。このような話をするときは、女中の数が少なければ少ないほどいいのだが・・・。」

 義直は、心の中で、孝子に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 そして、孝子は、真っ白な茶碗に抹茶をたて、家光の前に差し出した。

 「この真っ白な茶碗は、今日、義直殿が持参してきた茶碗です。」

 孝子がそういうのを聞いた家光は、義直に礼を言った。

 「この茶碗は、カオリンの土から作った茶碗ですね。本当に見事な茶碗だ。孝子殿、お点前頂戴いたします。」

 そして、家光は、ゆっくりと、お茶を飲み始めた。続いて、義直の前には、黒い楽茶碗にたてたお茶が差し出された。義直も

 「孝子殿、お点前頂戴いたします。」

 と言って、ゆっくり、お茶を飲み始めた。

 「本当にゆったりとした時間が流れている。」と、義直は思った。この雰囲気は、江戸城本丸御殿大奥とはまるで違う。

 そして、お茶を飲み終えて、話を切り出したのは、義直だった。

 「それで、入鹿村を池の底に沈めた後、入鹿村のキリスト教徒たちはどのようにするおつもりですか?」

 すると、家光はこう答えた。

 「まず、カオリンの鉱山は残すので、そこで働く者たちには、引き続き、仕事に励んでもらう。誰の目にも触れず、地下でひっそりとキリスト教を信仰することは大目に見てやる。問題は、鉱山労働者以外のキリスト教徒たちだ。彼らは、ほかっておいたら、次に移住した地で、キリスト教徒の集会を行うに決まっている。従って、彼らには、中国に行く切符を持たせるつもりだ。」

 それを聞いた義直がこう言った。

 「中国といえば、今は明王朝が政権を握っていますが、最近、中国東北部にいる満州族が明王朝を脅かしているという噂があります。つまり、今の中国は、政権が交代する可能性がある。」

 「今の中国で、盛んにキリスト教の布教活動を行っているのがイエズス会だ。入鹿村のキリスト教徒たちも中国へ行けば、イエズス会の者たちと活動ができるぞ。隣の国で彼らがキリスト教徒の集会を開こうと俺の知ったことではない。」

 家光は、さらっとこう言った。

 「そして、入鹿村を池の底に沈め、入鹿村民を他の地へ移住させることについては、全権を義直殿に任せる。後は、義直殿が指揮してくれ。俺は、今後、入鹿村のことについては、一切、関与しない。

 ただ、今後、キリスト教禁教令はどんどん厳しくなっていくぞ。それが、徳川幕府を支持する者たちの声だからな。最終的に日本と国交を持つのは、キリスト教の影響を受けていない政権を持つ国だけになるだろう。」

 それから、家光は、孝子の方を向いてこう言った。

 「孝子殿、先ほど、俺は、義直殿に向かって、「俺がここに来ることも今後ないだろう。」と言ったが、この言葉は撤回する。ここは、実に静かで、今回のような世間に極秘のことを話し合うには、大奥よりも断然いいところだ。それに、江戸城の皆は俺がここにいることも気が付かないだろう。これからも世間に極秘事項の話し合いは、ここを使わせてもらいたい。孝子殿は、俺の正室なのだから、口も堅いだろうしな。」

 家光のこの言葉を聞いて、孝子は、「そんなことはわかっています。」といった様子で、何も答えなかった。

 それから、名古屋城に帰ってきた義直は、何日間も一人部屋にこもって、時には、弥助の助言も借りながら、入鹿池築造のためのタイムスケジュールを練った。入鹿池築造の目的は、あくまでも、新田開発などの農業振興のためだ。それが、家光からの指示なのだ。そして、その裏側にキリスト教徒対策がある。

 そして、1年間はあっという間に過ぎた。寛永5年(1628年)、小牧長久手合戦顕彰会の6人のメンバーは、義直をせかすように、入鹿池築造計画を尾張藩に提出してきた。あとに義直のもとに残された問題は、入鹿村に住むキリスト教徒たちに中国行の切符を渡すことと、キリスト教徒でない者たちの移住先を決めることだ。そして、義直にとって、最も悩みの種であったのは、中国の動向であった。

 1628年、中国中央内陸部にある陝西省延安で起こった飢饉がきっかけとなり、明に対する反乱が勃発する。この反乱は、中国北部に広がりを見せた。そして、中国東北部には、女真族のリーダーヌルハチが築いた後金国が西へと進撃を続けており、明にとっての脅威となっていた。そんな状況においても、イエズス会は、中国において、政治的には退廃し、文化的には爛熟期に入っていた明の皇帝に取り入り、キリスト教布教活動を続けているらしい。中国行の切符を持たせる入鹿村のキリスト教徒には、隣の大国の動向を日本に報告させるという任務も同時に背負ってもらわなければならない。

 そして、尾張藩は、入鹿村の村民全員を呼び集め、立ち退きを申し渡した。尾張藩が提示した立ち退きの条件は次の通りであった。

 「一、立ち退きの手当金は、家の長さ1.82mにつき、金一両を支給する。

  一、 立ち退き先は、入鹿池のほとりに家を建てるなり、好きな場所を入鹿出新田と名付けて住むなり、好きにしてよい。」

 寛永8年(1631年)徳川幕府は、奉書船制度を開始した。奉書船制度とは、将軍の朱印状の他に老中の書いた許可証を持った船のみが外国と貿易ができるという制度である。

 そして、弥助の長男の太助は、10人の仲間を引き連れて、長崎の港に立っていた。これから、明(中国)の上海に向けて出港する奉書船に乗り込むためだ。太助は、陶磁器の技術を学ぶために、世界レベルの陶磁器技術を持つ明(中国)に渡る。しかし、太助以外の10人の男女は、皆、入鹿村にいたキリスト教徒たちだ。10人しか集まらなかった。

 「これまで通り、キリスト教は日本においては禁教となる。キリスト教徒は、直ちに、改宗するように。表だってキリスト教徒の集会を開くことは、禁止する。(ただ、地下にあるカオリンの鉱山において、密かにキリスト教を信仰することについては、大目に見る。)  キリスト教の改宗ができない者については、今回の奉書船で、明(中国)に渡ってもらう。明(中国)では、イエズス会が活発にキリスト教布教活動を行っている。明(中国)における政治や文化などの動向を日本に報告することを条件に、明(中国)に住むことができる者は、申し出るように。」

 この呼びかけに応じて、太助のもとに集まってきた人間は、皆無だった。だから、太助は、3年も日本を出国することができなかったのだ。3年かけて、太助が集めたキリスト教徒は、たった10人だ。その他にたくさんいたキリスト教徒たちは、父の弥助たちが提案したそれぞれの寺に所属することになった。そんなはずはないのだが。

 そして、太助と10人のキリスト教徒は、長崎から上海に旅立った。太助の手には、父の弥助からもらった小さな赤褐色の石の十字架が握りしめられていた。この十字架は、小さな十字石だ。その小さな十字架は、本能寺で信長のもとにいた頃の弥助が、イエズス会に所属しているという証だった。太助は、この十字架を手にして、中国で活動しているイエズス会に接触する。中国で活動しているイエズス会の中には、父弥助の名前を知っている者がいるかもしれない。そして、太助と10人のキリスト教徒たちが流す中国の情報は、一旦、シャンバラにいる弥助とその家族のもとに流される。入鹿村がため池となる今、入鹿村の地下にあるシャンバラは、徳川幕府の隠密機関となっていた。

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