三十四 北京へ

 「入鹿村民の移転が完了した寛永9年(1632年)、尾張藩は、入鹿池築堤工事を着工した。入鹿村は、尾張富士・羽黒山・奥入鹿山・大山といった山々に囲まれた盆地にある村だ。それらの山々から今井川、小木川、奥入鹿川といった川が村に流れ込んでいる。そして、周囲の山から流れ込んだ川は、入鹿村の西のはずれで1つになっているということが入鹿村の地理的な特徴だった。入鹿村の西のはずれで1つになった川は、五条川となり、入鹿村の西南方向に広がる尾張平野に流れ込んで、尾張平野を潤している。このような地理的な状況が、まるで、銚子を傾けて酒を注ぐ姿に似ているといった理由で、入鹿村やその周辺の村の人々は、川が1つになる入鹿村の西のはずれの場所を「銚子の口」と呼んでいた。

 入鹿六人衆、いや、小牧長久手合戦顕彰会のメンバーの計画は、この「銚子の口」を締め切ることによって、山から流れ出る川の流れをせき止めて、入鹿村を池の底に沈めてしまうというものだ。」

 明治3年(1870年)12月初旬の月曜日の朝、貴船神社本殿に座り込んで、話をしている一条院孝三がここまで話をすると、「ギッ。」という扉が開く低い音が聞こえた。青木平蔵と石川喜兵衛が貴船神社本殿の西側にある扉の方向を向くと、一人の男が、扉を開けて、中に入ってくるのが見える。そして、その男が扉を閉め、一条院孝三たちの方向に振り向いたとき、貴船神社本殿東側の窓から差し込む太陽の光がその男を照らすのを見て、石川喜兵衛が声をあげた。

 「稲垣さんじゃないですか。稲垣さんがどうしてここに?」

 そして、陶磁職人の稲垣銀次郎が青木平蔵と石川喜兵衛の隣に座ったとき、江岩寺の中村住職が青木と石川に向かって、こう話し始めた。

 「稲垣さんをここに呼んだのは私です。昨日、孝三さんの奥様に頼んで、私たちが孝三さんのもとにいることを家内に伝えてもらいに行ったとき、孝三さんの奥さんに、稲垣さんへの文を渡したのです。」

 「そして、昨日の昼頃、中村住職の奥様が、私がいる職場に来て、この文を置いていきました。その文には、こう書かれていました。

 「明日の朝9時頃、貴船神社の本殿に来てください。そして、青木様と石川様に稲垣さんのことについて話してください。」

 一条院孝三さんも、一晩中話をして、お疲れでしょう。今度は、私が、孝三さんの続きの話をしましょう。」

 陶磁職人の稲垣銀次郎は、こういうと、持ってきた包みを開けて、おにぎりと大きな水筒に入れたお茶を取り出した。

 「このおにぎりとお茶は、今朝、中村住職の奥様が早起きして作って、私のもとに持ってきたものです。孝三さんの話を一晩中聞いて、皆様もお疲れでしょう。どうぞ、召し上がってください。」

 稲垣はそういうと、持ってきた包みの中から小さな竹筒を5個取り出して、一条院孝三と中村住職と青木と石川と自分の前に置き、それぞれの小さな竹筒にお茶を注ぎ始めた。そして、おにぎりを配り終えると、稲垣は、おにぎりを一口食べ、話を始めた。

 「私の祖先は、信長のもとで小姓をしていた黒人の弥助です。そして、弥助と日本人妻みつには3人の子供がいて、私は、一番末の息子次助の血を引いている。一番末の息子次助は、肌の色が母親譲りで、他の日本人と並んでも、その違いはわからない。しかし、弥助の長男の太助は、肌の色が父親譲りで、シャンバラの中にいても、肌の色でいじめに会ったりしたこともあったと聞いている。

 だから、太助は、少し心に傷を持っていたが故に、皆が嫌がる中国行も承諾し、中国で陶磁器の勉強をして、日本に帰ってくることができたのだ。太助には妻や子供がいなかったが、次助の子供たちの中に、陶磁器制作に興味を持つ者がいて、太助の窯元は、今まで続いてきた。

 ところで、孝三さんの話は、どこまで済んでいますか?」

 稲垣が一条院孝三にこう尋ねると、孝三は、「寛永9年(1632年)の入鹿池築造の頃までです。」と言った。それを聞いた稲垣は、「わかりました。」と言い、一口おにぎりをほおばった後で、話を始めた。

 「文禄・慶長の役で朝鮮半島に進軍した秀吉軍の武将たちは、「李氏朝鮮の軍は弱く、明の軍はもっと弱い。」と言っていたが、秀吉の死去によって、家康は、朝鮮半島から軍を撤退させることにした。

 ところで、秀吉が文禄・慶長の役で李氏朝鮮と明の連合軍と戦っていた頃、中国東北部では、ヌルハチというリーダーによって建国されたマンジュ国が勢力を拡大しつつあった。ヌルハチが、秀吉軍と李氏朝鮮・明連合軍との戦いを見ていて、「明の軍は弱い。」と考えたかどうかはわからない。そして、秀吉の死後、家康が朝鮮半島からの撤退を決めた背景には、ヌルハチの建国したマンジュ国が中国東北部で勢力を拡大しつつあったことが、家康の耳に入っていたのかどうかもわからない。

 しかし、日本で関ヶ原の戦いが終わり、徳川家康が征夷大将軍となって、徳川幕府を開き、大坂夏の陣で豊臣氏が滅びた1年後の1616年、ヌルハチは、イエヘ部族を除く女真族を統一して、後金国を建国する。ヌルハチは、満州文字を定め、八旗制という軍事・社会組織を確立した。そして、1618年、ヌルハチの建てた後金国は、明に対して挙兵するほどまでに成長する。

 日本の京都で、52名の一般庶民キリスト教徒が、市中引き回しの上、京都六条河原で処刑された1619年、ヌルハチ率いる後金国軍は、後金国討伐の目的で結成された明・李氏朝鮮連合軍と中国東北部で激突した。この戦いは、「サルフの戦い」と言われている。10万の明の大軍は、大小の火器を揃え、戦いに臨んだが、ヌルハチは、6万の勢力で、夜の奇襲戦を行い、明の大軍を撃破した。この戦いによる明軍の被害者数は4万7千、後金国軍の被害者数は2千であった。

 入鹿池築堤工事が始まり、弥助の息子の太助が、10人のキリスト教徒とともに中国の北京に到着した寛永9年(1632年)の頃は、ヌルハチは亡くなって、その子供のホンタイジが後金国のリーダーとなっていた。ホンタイジ率いる後金国軍は、明の北部と南モンゴルを征服し、その勢力は、明の首都北京に迫ってくるほどの勢いがある。しかし、ヌルハチやホンタイジが率いる後金国がどうしても越えられない明の要塞があった。それが山海関と呼ばれる万里の長城の一部にある要塞である。明は、キリスト教の布教のために中国を訪れていたイエズス会と関係が深かった。明は、山海関に西洋式の大砲を大量に並べていた。

 一方で、尾張藩で日照りのために農業が禁止されていた翌年の中国では、1627年、1628年と大旱魃が起き、中国各地で、明に対する反乱が起きていた。明は、後金国の対応に追われて、足元で勃発した反乱に対処することができず、明に対する反乱は、拡大の一途をたどっていた。」

 寛永9年(1632年)、太助と10人のキリスト教徒たちは、北京に着くと、さっそく、北京にあるイエズス会の教会を訪れた。そのキリスト教会は、紫禁城の西側にある教会だった。

 紫禁城とは、明の政権が持つ城だ。しかし、紫禁城と一口に言っても、紫禁城のある土地は、日本とはスケールが違う、とてつもなく大きな土地である。紫禁城という地域の周りに、紫禁城地域の4倍以上の大きさを持つ皇城という地域があり、皇城地域の周りに皇城地域の4倍以上の大きさを持つ内城という地域があり、内城地域は、高さが10メートルある城壁といくつかの城門によって、外の地域と隔てられている。イエズス会のキリスト教会は、内城地域にある城壁の西側にあいた西直門の近くに建てられていた。そして、多くのキリスト教徒が、その教会の近くに家を建てて住んでいた。

 父の弥助からもらった小さな赤褐色の石の十字架は、イエズス会において、効力を発揮した。中国で活動しているイエズス会宣教師たちは、自分たちを国外に追放した日本に対して、興味津々だった。太助と10人のキリスト教徒たちは、イエズス会宣教師から紹介された空き家に居を構え、仕事場にした。

 太助と10人のキリスト教徒たちの北京での生活手段は、貿易だ。明の現状を日本に伝えるために、太助と10人のキリスト教徒の中から、3か月に1度の間隔で、5人が入鹿池地下にある徳川幕府の隠密機関に帰り、明の情報・陶磁器・墨などと引き換えに日本の金・銀・銅や海産品などを仕入れて、北京に戻る。尾張徳川家は、特に明の墨を好み、高価な取引に応じてくれる。イエズス会宣教師たちが太助たちに紹介した中国明の商人たちは、中国明で不足している銀を欲していた。そして、太助と10人のキリスト教徒たちの任務は、あくまでも極秘任務であるため、日本の長崎の港と明を結ぶ港は、当時の明では密貿易として使われていた上海に限られていた。

  太助と10人のキリスト教徒たちが北京にあるイエズス会のキリスト教会の近くで生活を始めた頃、城壁の向こうにある紫禁城で政務をつかさどっていた明の皇帝は、崇禎帝である。崇禎帝は、徐光啓という名の上海出身の歴数学者を側近として重用していたが、徐光啓は、40歳ころに洗礼を受けたキリスト教徒であった。ゆえに、徐光啓は、イエズス会士とも親しく、その伝道事業を援助していた。徐光啓は、熱心なカトリック教徒だったが、カトリックの教えは儒教を補うものであると考えていたため、徐光啓と親しく付き合っていたイエズス会士たちも、儒教の教えを尊重したうえでのキリスト教の布教活動を心がけていた。

 入鹿池築堤工事が完成した寛永10年(1633年)の秋頃、北京にあるイエズス会のキリスト教会の近く、太助と10人のキリスト教徒たちが貿易の仕事場としていた事務所に、太助の知り合いのイエズス会士に伴われた一人の中国人が訪ねてきた。イエズス会士の話によると、その中国人は名前を林忠義と言い、紫禁城の中で、明の皇帝が使う文房具を管理している役人である、とのことだった。太助と事務所にいた3人のキリスト教徒たちが二人を事務所に招き入れると、イエズス会士は、

 「私は、今日は忙しいので、これで失礼する。」

 と言って、事務所を出ていった。後に残された林忠義という名の明王朝の役人を事務所の応接室に座らせて、日本茶と和菓子をふるまうと、林忠義は、低い声で、太助たちにこう話し始めた。

 「今部屋を出ていったイエズス会士の話によると、皆さま方は、日本の徳川幕府から内密にこの国に派遣された方々のようですね。いえ、この話は、私以外の誰にも口外していませんので、大丈夫ですよ。」

 こういうと、林忠義は、リラックスした様子で、話を続けた。

 「私の昔の上司は、1年前に亡くなった徐光啓という名の崇禎帝の側近でして、彼の伝手で、崇禎帝や私は、イエズス会士たちとは、仲良くしてもらっているのです。

 ところで、40年以上前の話になりますが、日本の豊臣秀吉という名の武将が朝鮮半島に攻め込んできたことがありましたね。あの時、中国の明王朝は、朝鮮半島の李氏朝鮮王朝の求めに応じて、軍隊を朝鮮半島に派遣しましたが、日本の軍隊には結構てこずりましてね。明王朝の出費もずいぶんかさんでいたのです。ところが、秀吉による朝鮮出兵から6年後、豊臣秀吉という名の武将が日本で死んで、跡を継いだ徳川家康という名の武将が朝鮮半島から日本の軍隊を引き揚げたおかげで、明王朝の軍備費の負担もずいぶん軽くなりましてね。明王朝は、徳川家康という武将には感謝しているのです。あなた方は、徳川家康という武将が造った政権のもとで働いている方々なのですよね。

 話は変わって、今の明王朝にとっての脅威は、中国東北部にいる満州族が率いる後金国なのですが、イエズス会の協力により、万里の長城の山海関にポルトガル式の大砲を大量に並べているおかげで、後金国が万里の長城を突破して北京に侵入してくるのを防ぐことができているというのが今の状況です。一方で、新たな脅威が南の方面から北京に迫ろうとしています。それが、5年ほど前に起こった飢饉をきっかけとした農民たちによる反乱です。この農民たちによる反乱に、国の財政破たんによる経費節減のため街にあふれた大量の失業者が加わって、大きなうねりとなって、南の方面から北京に押し寄せようとしています。この反乱の指導者である李自成は、崇禎帝が経費節減のために駅伝制度を廃止したことによる失業者です。

 李自成たちによる反乱を抑えるためには軍資金が必要です。それで、紫禁城にいる崇禎帝は、こう考えました。」

 ここまで言うと、林忠義は、持っていた紫色の包みを開けた。紫色の包みが開くと、中から、金色に輝く硬くて丸くて平べったい石のようなものが出てきた。その金色の平べったい石のようなものには、丸い円に沿って竜の模様が描かれており、真ん中には、「龍香御墨」と書かれた文字が浮き彫りになっていた。

 「これは、「龍香御墨」と言って、明の皇帝だけが使うことのできる墨です。明王朝を秀吉の朝鮮出兵から救ってくれた徳川家康が築いた徳川政権ならば、今の明王朝を救ってくれるはずだと崇禎帝は考えておられる。だから、徳川政権から、我々に援助をいただきたい。もちろん、ただで援助してくれとは言わない。

 イエズス会からの情報によれば、徳川家康の子供である徳川義直率いる尾張徳川家は、明の古墨を高く買ってくれるという。この「龍香御墨」をお買い上げいただけますでしょうか。その際の取引額は、銀4000分でお願いいたします。」

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