三十五 龍香御墨

 「そんな大量の銀は今すぐ用意できない。」

 太助は、林忠義にこう言った。

 「明日にでも、使いの者を日本に発たせるから、少し待ってほしい。今、手付として、お渡しできる銀は、40分が限界だ。しかし、尾張徳川家なら、4000分の銀を準備してくるだろう。それまで、この龍香御墨は、何とか、林様が抑えていてもらえないだろうか。よろしく頼む。」

 太助は、林忠義にこう言って頭を下げた。すると、林忠義はこう言った。

 「わかりました。それでは、銀40分の手付金とは別に、私に10分ほどの銀をもらえないだろうか。崇禎帝の経費節減のために私の給料は半分に減らされたのだが、私の家族は、妻が病気で寝たきりだし、息子は、科挙の勉強で金が要る。私の家族に銀を10分ほど融通していただけたら、この龍香御墨は、私の権限で、尾張徳川家のためにとっておきましょう。」

 「わかった。あなたの言うとおりにしよう。」

 太助は、林忠義に向かって、こう言った。

 そして、尾張徳川家は、明王朝の崇禎帝に銀4000分を支払い、林忠義には、太助たちとは別に銀10分を渡した。その後も、明王朝の崇禎帝は、他の龍香御墨に加えて、明王朝が所有する高価な古墨を次々に尾張徳川家に売りさばいた。

 古墨とは、作られてから100年以上が経過した墨のことである。そして、100年以上経過した墨ならどんなものでも古墨になるとは限らない。書いたときに紙の上に出る字や絵本体の他にも、字や絵から出るにじみがすばらしくなければならない。また、古墨の墨色は上品で深く、のびもよく、年代によって、墨が変化し、濃淡潤渇によって、墨の色が変化する。墨の色は、決して、黒一色ではなく、時代がたつと、赤みがかったり、青色に変化したりする。つまり、作られてから100年以上が経過し、なおかつ、墨の原材料である煤と膠と香料のバランスが絶妙なもののみが「古墨」と称される。明時代の墨の職人たちの代表は、程君房や方干魯である。しかし、程君房や方干魯が作った墨は、世界中探しても、本当にみつからない。

 おかげで、李自成率いる反乱軍は、しばらく、山奥に隠れざる負えない状況となった。しかし、崇禎帝が抱いている側近たちに対する不信感が、崇禎帝を破滅に追い込んでいく。

 崇禎帝の側近たちに対する不信感が顕著に表れ始めたのは、3年前のことだ。万里の長城の山海関を守っていた袁崇煥という名の武将がいた。後金国のリーダーであるホンタイジは、山海関がなかなか攻略できないことから、明の国にスパイを送り込み、宦官を買収して、「袁崇煥が崇禎帝に対して、謀反を起こそうとしている。」という噂を流した。すると、崇禎帝は、その噂を信じ込み、1630年8月、北京に来た袁崇煥を捕らえて、死刑にしてしまった。

 270年以上権力が続いていた明の官僚たちの多くは、崇禎帝の時代になると、政治的に腐敗していた。従って、崇禎帝は、多くの重臣たちを信じることができず、多くの重臣たちが崇禎帝によって、誅殺されたり、罷免されたりした。そのような状態であったので、李自成たちの反乱軍が山奥に退くと、明軍は、李自成たちの反乱軍を侮り、攻撃の手を緩めた。李自成たちの反乱軍追討のために、崇禎帝が増税し、増税によって貧窮した民衆が李自成たちの反乱軍に流れていったことも影響した。李自成たちの反乱軍は、たちまち勢力を盛り返し、その後10年の間に、古代中国の時代には首都であった西安を陥落させ、順という国を建て、元号を永昌とし、李自成は、順王を名乗るまでになった。一方、内モンゴルを平定し、朝鮮半島を服属していた後金国は、李自成たちの反乱軍が勢力を盛り返しつつあった10年の間に、女真という民族名を満州に改め、満州文字を改良して、国号を大清に改めた。

 1644年3月15日の夜、北京のイエズス会キリスト教会の近く、太助と10人のキリスト教徒たちが貿易の仕事場としていた事務所の扉を叩く者がいた。

 「こんな夜更けに誰だろう?」

 と思いながら、太助が扉を開けると、息を切らした林忠義がそこに立っていた。太助は、林忠義を事務所の中に招き入れ、日本茶をふるまった。しばらくして、落ち着いた様子に変わった林忠義は、低い声で、太助に、

 「今すぐ、この事務所にある人や物を隣のキリスト教会に移動させるように。」

 と言った。そして、このように続けた。

 「3日後に、順王を名乗る李自成の反乱軍が、北京を包囲して、紫禁城に攻め込む。反乱軍の奴らは、民間人を巻き込むことがあるかもしれない。しかし、キリスト教会は狙わないというのが、彼らの方針だ。だから、今すぐ、君たちもキリスト教会に避難するのだ。」

 こういうと、林忠義は、扉に向かって、走り出した。そして、事務所を出る間際に太助たちの方を振り返り、こう言った。

 「尾張徳川家とあなたたちが、私と私の家族に銀をたくさんくれたおかげで、息子は科挙試験に合格し、薬のおかげで、妻の容体は回復傾向にある。私は、あなた方に私ができうる限りのお礼をしたいのだ。」

 この瞬間、太助は、林忠義が二重スパイだったことに気が付いた。いや、もしかしたら、彼は、三重スパイかもわからない。これが、明の官僚たちの現状なのだ。翌日、太助と日本人キリスト教徒たちは、事務所の物を全てイエズス会キリスト教会に移動させた。イエズス会の方にも同じような情報が飛んでいるらしく、イエズス教会は、太助たちを受け入れた。

 1644年3月18日、紫禁城にいた崇禎帝は、息子たちを紫禁城から脱出させた。そして、側室と娘たちを殺害し、皇后の自害を見届けた後、危急を知らせる鐘を鳴らした。しかし、紫禁城内にいるはずの林忠義ら官僚は、全て逃亡した後で、崇禎帝のもとへ駆けつけてきたのは、王承恩という名の宦官ただ一人だった。

 「やはり、龍香御墨を日本に売ったのは間違いだった。どんな理由があろうとも、皇帝の墨は、皇帝が最後まで握っていなくてはいけなかったのだ。」

 絶望した崇禎帝は、紫禁城の北にある山の中で首を吊って自殺した。これが、明という国の最後だった。1644年3月19日、李自成の反乱軍は、北京を陥落した。

 しかし、明の皇帝が使用するはずだった墨や明の文化財である数々の古墨は、李自成の反乱軍に渡ることはなく、日本の尾張徳川家に残った。日本では、奉書船以外の海外渡航が禁止された後には、日本人の海外渡航と帰国が禁止され、島原の乱のあとは、キリスト教徒に対する締め付けが強まり、ポルトガル船の来航も禁止された。そして、入鹿池築造の費用や明の皇帝用の墨や古墨への出費がかさみ、尾張徳川家は、次第に財政難に窮するようになる。

 崇禎帝が自害し、李自成の反乱軍が北京を陥落させた頃、万里の長城にある山海関という清にとって難攻不落な要塞を守っていたのは、呉三桂という名の明軍の武将だった。山海関の西にある北京からは、李自成が呉三桂に対して投降を呼びかけていた。山海関の東側では、ドルゴン率いる清軍がこちらに迫ってきている。そして、呉三桂の下した決断は、異民族である清軍への投降だった。呉三桂は、山海関を明け渡し、ドルゴン率いる清軍と共に、李自成を討つべく、北京に進軍した。

 李自成の反乱軍が北京を陥落させてから40日後、呉三桂とドルゴンの明・清連合軍は、北京で李自成の反乱軍と激突し、李自成の反乱軍は、大敗する。李自成は、北京から西南方面へと逃げるが、翌年、農民による自警団によって、殺害された。

 そして、清は、北京を首都として、中国全土を支配していった。明は、余りにも政治的に腐敗していたのだ。中国に住む圧倒的多数民族である漢民族は、少数異民族である満州族による支配体制を素直に受け入れた。

 正保2年(1645年)、「反清復明」を唱え、明の再興を目指す明の遺臣や皇族たちは、中国南部で南明政権を樹立して、徳川幕府に軍事的援助を要請してきた。中国に渡った太助や10人のキリスト教徒たちからの情報を仕入れていた徳川幕府が南明政権に軍事支援をすることはなかった。

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