三十六 切支丹灯篭

 「ところで、太助と10人のキリスト教徒たちが中国で任務についていた頃、日本では、入鹿池が完成し、入鹿村に住んでいた人々は、入鹿村から一山隔てた神尾、前原、奥入鹿などの地域に移り住んだ。そして、入鹿村にたくさんいたキリスト教徒たちは、全員改宗し、近所の寺に所属していった。

 とまあ、ここまでは、尾張藩と小牧長久手顕彰会のメンバーたちにとっては、何もかもがとんとん拍子に進んでいるかのように見える。しかし、これから、問題が発生してくるのだ。入鹿池築造工事の費用は、尾張藩に重くのしかかっていた。この工事費用による尾張藩の財政支出の赤字を穴埋めするには、入鹿池から用水を引いた小牧台地の原野を開拓して、一面を田畑にし、農業によって、尾張藩の財政を潤す以外の方法は考えられない。尾張藩にとっては、キリスト教徒対策よりも、こちらの方が優先事項だった。尾張徳川家の徳川義直は、江戸幕府の徳川家光のキリスト教徒対策には、生活感が感じられないと思っていたのだ。」

 明治3年(1870年)12月初旬の月曜日の朝、貴船神社本殿に座り込んで話をしていた陶磁職人の稲垣銀次郎は、ここで一息ついて、お茶を飲み、おにぎりをほおばった。そして、前に座っている青木平蔵と石川喜兵衛の方に向き直り、こう問うた。

 「青木さんと石川さんは、今から3年前の慶応3年(1867年)に大政を奉還して、徳川幕府が滅びることになった転換点は、歴史上のどこにあると思っていますか?」

 すると、しばらく沈黙した時間が流れた後、青木が口を開いた。

 「私たちは、ずっと尾張藩の中にいましたので、江戸城の中のことまではわかりません。しかし、稲垣さんの話の筋から言うと、尾張藩に限って言えば、尾張藩が入鹿池を築造した、今から235年以上前から、尾張藩は、財政に困窮していたということになりますね。そして、尾張藩が中国の明にお金をつぎ込んだのも痛かった。」

 「政権の中枢にいる者は意外と気が付かないものかもしれない。いつのまにかこういうことになっていたという感覚かな。」

 稲垣は、ぽつりとこう言うと、再び話を始めた。

 「徳川家康が江戸に幕府を開いてから260年余り、徳川幕府は、日本を治めてきたが、その間、一貫して行われてきた政策は、キリスト教禁教令だ。つまり、人々から宗教の自由を奪うことは、経済活動の停滞につながっていくことに気付く人間は、徳川幕府の中にいなかったということになる。徳川幕府のもとでの日本は、スペインやポルトガルの植民地になることはなく、歌舞伎や浮世絵など日本独自の文化を築くことができた。しかし、徳川幕府がキリスト教を禁教として、キリスト教徒を弾圧したその時から、幕府の経済は傾いていった。

入鹿池が出来上がってから17年後の慶安3年(1650年)、尾張藩主徳川義直は51歳で亡くなり、その翌年の慶安4年(1651年)、徳川幕府第3代将軍徳川家光が48歳で亡くなる。そして、この二人が亡くなって以降の徳川幕府は、改革に改革を重ねていかなければ、経済がもたなかった。そして、入鹿池の地下に存在するシャンバラは、この二人が亡くなって以降は、その存在が人々から忘れ去られていくことになる。」

 入鹿池ができあがった翌年の寛永11年(1634年)秋、小牧長久手合戦顕彰会の6人のメンバーのうち、小牧村の江崎善左衛門了也、上末村の落合新八郎宗親、田楽村の鈴木作右衛門の3名のもとに、尾張藩から次のような書状が送られてきた。

 「このたび、入鹿ため池ができあがったので、小牧村の江崎善左衛門了也、上末村の落合新八郎宗親、田楽村の鈴木作右衛門の3名を新田頭に任命する。新田頭に任命された3名は、入鹿池から引かれた入鹿用水のもとで新田を開発する一切を取り仕切ってもらいたい。入鹿用水のもとで新田を開発した者には、3年間、年貢と諸役を免除するので、新田開発に邁進するように。」

 入鹿池ができたこの時代に、入鹿池から取った用水が流れた地域は、上末村や田楽村などの入鹿池南西部に広がる小牧台地である。しかし、入鹿池ができた当初の小牧台地には、農民は住んでおらず、小牧台地は、一面原野が広がっていた。この原野を開墾して、田畑を作る農民を集めることが、尾張藩から小牧長久手顕彰会のメンバーに課せられた課題である。この一面に広がる原野は、近い将来、全て、田畑が広がる農村風景に変えていかなくてはならないのだ。しかし、小牧村の江崎善左衛門了也、上末村の落合新八郎宗親、田楽村の鈴木作右衛門らが募集に手を尽くしても、原野を開拓する希望者は、みつからなかった。小牧長久手合戦顕彰会のメンバーは、原野を開拓する農民を集める手段について、尾張藩と協議をしなければならなかった。

 「だから、私は最初から、この計画については乗り気ではなかったのだ。」

 徳川義直は、名古屋城で、小牧長久手合戦顕彰会のメンバーを眺めながら、心の中でこうつぶやいていた。

 「新田開発は、入鹿池のみならず、全国的に徳川幕府が行っている政策であるので、全国的に、原野を開墾する人手は、不足しているようです。」

 小牧村の江崎善左衛門了也は、頭を下げながら、徳川義直にこのように言った。

 「それでは、他の地域と同じことをやっていたら、人手は集まらないではないか。小牧台地の原野を開墾した者には、尾張藩にしかできない特典を与えないと。」

 こう言って、徳川義直はしばらく沈黙してしまった。5分ほどの沈黙の後、義直は、口を開いてこう言った。

 「キリスト教徒たちに、小牧台地を開墾した者には、キリスト教の信仰を許すと言ったら、皆、新田開発に向けて邁進するだろうな。」

 「しかし、それでは、入鹿池を造ったもう一つの目的が達成できません。」

 上末村の落合新八郎宗親は強い口調で、義直のこの言動に抗議した。

 「上末村にあるカオリンの鉱山で働くキリスト教徒たちは、尾張藩の経済に寄与しているぞ。」

 ぽつりとこう言った後、義直は、側で仕えていた者に紙と筆と硯を持ってこさせ、紙にさらさらと書いて、それを小牧長久手顕彰会のメンバーに見せながら、

 「このような立札をたてて、早急に小牧台地開拓民を募集するように。」

 と言った。

 そして、上末村や田楽村などの入鹿用水が引かれた原野にある村々には、次のような高札が立てられた。

 「このたび、入鹿池ができたので、入鹿池から取水している入鹿用水が通っている小牧台地に新田を開発する。従って、小牧台地新田開発のための開拓民を募集する。新田開発のための開拓民は、尾張藩内の者、尾張藩以外の者を問わず、また、いかなる重罪の者であっても、その罪は許される。この主旨を伝えて、小牧台地新田開発の開拓民希望者を集めるように。」

 そして、7年後の寛永17年(1640年)、徳川義直は、入鹿池の堤に立っていた。徳川義直の隣には、小牧村の江崎善左衛門了也、上末村の落合新八郎宗親、田楽村の鈴木作右衛門、上末村の鈴木久兵衛、村中村の丹羽又兵衛、外坪村の舟橋七兵衛がたたずんでいる。この7年間、小牧長久手顕彰会の6人のメンバーは、尾張藩の外にも出向いて、高札を立てて、新田開発の開拓者を募集し、自らも新田開発の開拓民となって、小牧台地の原野を開拓した。そのかいがあって、小牧台地には、農民が徐々に集まりだし、原野は所々開発されて、田畑に生まれ変わりつつあった。

 おかげで、尾張藩に納められる年貢は、年々増加の一途をたどっている。義直は、小牧長久手合戦顕彰会の6人のメンバーに対して、武士が持つ特権である苗字を与え、刀を持つことを認めた。また、6人それぞれには、税を免除した十石の土地を与え、6人が持つ新田頭の役職は、6人の子孫に継承させた。

 そして、小牧長久手合戦顕彰会の6人のメンバーとその子孫たちは、入鹿用水の他にも、新たな用水を次々と開削していく。入鹿用水が流れる場所以外にも、用水を流せば農地に変えることができる原野が、小牧台地周辺にはまだまだ存在していたのだ。小牧長久手合戦顕彰会の6人のメンバーとその子孫たちは、入鹿池から流れ出る五条川をまたいで、木曽川の支流から南方面に向かい、新川にそそぐ新たな用水を築き、新たに作った用水を五条川で分岐して、更に新しい用水を築いた。いつの間にか、小牧台地周辺には、入鹿用水の他にいくつもの用水が張り巡らされていった。新しい用水ができるたびに、原野を開拓することを希望する農民は、全国各地から小牧台地周辺に集まった。

 その家族は、慶安4年(1651年)に小牧山城から北方向にある岩崎村に移ってきた開拓民だ。慶安3年(1650年)に完成し、木曽川の支流から南方向へ向かい、小牧山城の側を通り、新川と合流する木津用水周辺で、原野を開拓する開拓民を募集しているという立札を目にして、その家族は、岩崎村に移り住んできた。その家族が岩崎村に移り住むことを決意した決め手は、高札の中に書かれた次の文章だった。

 「新田開発のための開拓民は、尾張藩内の者、尾張藩以外の者を問わず、また、いかなる重罪の者であっても、その罪は許される。」

 その家族の世帯主の名前は、善右衛門と言う。善右衛門は、妻と息子一人、娘二人に加えて、お手伝いさんの女性一人の計6人で岩崎村に移り住んだ。善右衛門の祖先は、かつて、入鹿村で農業を営んで、大きな富を築いた。善右衛門の父母は、その遺産を引き継いだが、入鹿村が池の底に沈むことになったのが、善右衛門がまだ10歳のころ、今から18年前のことだ。その後、善右衛門の父母は、祖先から引き継いだ遺産と尾張藩からもらった立ち退きのための手当金を持って、子供の善右衛門と共に入鹿村を出て、入鹿村から北西方面に一山越えた前原という場所に住んでいた。そして、善右衛門は、前原で成長して、妻を持ち、子供が生まれた。前原では、農業をしていたが、前原の地は、入鹿村から移り住んだ人々でごった返していて、大きな土地を持つことがなかなか難しい。遺産はあるのだが、子供たちを育てるためには、もっとお金が欲しい。そんな時、前原に住む善右衛門が目にしたのが、あの高札だった。

 善右衛門は、高札を見て、木津用水沿いの岩崎村で、新田開発に従事して、大きな田畑を持ち、大きく農業を営むことに決めた。家族総出で農業を営むため、家の中の細かいことをやってもらうお手伝いさんも雇うことにした。そして、善右衛門は、岩崎村に大きな家を建てた。

 善右衛門の家は、平屋だが、部屋が10部屋もある大きな庭付きの豪邸だ。ここは、善右衛門がこれから農業で今まで以上に儲けるための起点となる場所だ。そして、善右衛門は、庭の最も奥まった隅の木立の中に一つの灯篭を立てた。善右衛門が立てたこの灯篭こそ、お手伝いさんも含めた家族を結びつける絆となる物だ。

 その石灯篭は、竿の真ん中あたりの両側に羽のように出っ張りが付いていて、基礎の部分は地面に埋め込まれ、竿の下部には、何かの像が彫り込まれているという珍しい形の灯篭だ。善右衛門がひっそりと立てたこの灯篭こそ、切支丹灯篭と呼ばれるものだ。切支丹灯篭の竿の部分は、十字を形作り、竿の下部には、聖母マリアの像が彫り込まれてある。

 それから10年後の1661年(寛文元年)、江戸城本丸御殿の西側に建つ小さな邸宅で、59歳になる鷹司孝子は、一人、茶室でお茶をたてて、飲んでいた。10年前の慶安4年(1651年)、第3代徳川幕府将軍徳川家光が48歳で亡くなった。家光の正室であった孝子は、家光が亡くなってから、出家して、本理院という名前を名乗っていた。今、孝子が使用しているこれらの茶道具は、家光が孝子に残した遺産だ。

 慶安3年(1650年)、尾張藩主徳川義直が49歳で亡くなり、その翌年に後を追うように、第3代徳川幕府将軍徳川家光が48歳で亡くなった。今から30年以上前になる寛永4年(1627年)夏、孝子が一人お茶を飲むこの茶室で、孝子と家光と義直の3人が秘密裏に入鹿村を池の底に沈める話し合いをした。だから、当時としては珍しく、尾張地方においては、キリスト教徒の弾圧が行われなかったのだ。今、あの時の状況を知っているのは、孝子だけだ。そして、孝子は、大奥とは離れたこの場所で、本理院という名前で、権力とは全く関係のない日々を過ごしている。

 そして、江戸城本丸御殿の中には、もはや、キリスト教徒に対して理解を示し、勇気ある行動をとる者は、いなくなってしまった。江戸城本丸御殿の中にいる者は皆、自分が安泰であれば、それでいいと思っているようだ。たとえ、徳川将軍家の跡取りがいなくなったとしても、孝子にはもはや関係のない話だし、尾張徳川家が将軍家の跡を継ぐこともないだろう。それが、あの時、キリスト教徒の命を助けることと引き換えにして、家光と義直の二人の間で交わされた約束なのだ。

 あの時、入鹿村を追われたキリスト教徒たちは、そのことを自覚しているだろうか?いや、おそらく、何も知らずに普段の生活を送っているだろう。今の徳川幕府の中の者たちは、自分さえ安泰ならばそれでいいと思っている者たちばかりなのだ。そして、鷹司孝子もその一人だ。孝子は、徳川幕府の政治活動とは関係のない余生を過ごしている。

 「きっと、これから、尾張地方にキリスト教徒弾圧の嵐が吹き荒れる。」

 孝子は、そう確信しているが、だからと言って、自分には何もできないことはわかっている。そして、もはや、自分のもとに、キリスト教徒弾圧をやめさせてほしいと懇願してくる者はこの世に一人もいない。

 「あの時のことを墓場まで持って行くとは、こういうことだ。」

 孝子は、お茶を飲みながら、このように考えていた。

 慶安4年(1651年)に第3代徳川幕府将軍徳川家光が48歳で亡くなり、家光の跡を継いだのは、第4代徳川幕府将軍徳川家綱だ。家綱は、寛永18年(1641年)に家光と側室の間に生まれた子供で、家光の長男である。

 第4代徳川幕府将軍徳川家綱による政治は、側近政治であった。家綱の周りには優秀な側近が多数存在していたおかげで、家綱の時代は、平和な時代であった。家綱は、キリスト教禁教令に関しては、第3代徳川幕府将軍徳川家光の時代の考え方を踏襲した。 そして、家綱は、家光の死後、家光の正室である鷹司孝子に対して、手厚い保護と敬意を送り続けている。そのことが、孝子にとってはうれしいことでもあり、孝子は、益々、権力とは関係のない生活に身を置くことになるのであった。

 「このたび、入鹿池ができたので、入鹿池から取水している入鹿用水が通っている小牧台地に新田を開発する。従って、小牧台地新田開発のための開拓民を募集する。新田開発のための開拓民は、尾張藩内の者、尾張藩以外の者を問わず、また、いかなる重罪の者であっても、その罪は許される。この主旨を伝えて、小牧台地新田開発の開拓民希望者を集めるように。」

 寛永12年(1635年)3月、この立札が尾張藩によって、小牧台地の新田開発予定の場所に立てられた。そして、3か月後の寛永12年(1635年)9月、江戸幕府の命令により、名古屋の町中に次のような立札が立てられた。

 「尾張藩内のキリシタンを名指しで捕獲せよ。キリシタンを捕獲した者には、褒美を与える。」

 江戸幕府の目的は、捕獲したキリスト教信者にキリスト教を棄教させることであった。

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