三十七 密告

 農業を大きく営むために、慶安4年(1651年)に前原から岩崎村に越してきた善右衛門にとって、10年間はあっという間に過ぎた。この10年の間に、善右衛門は、稲作農家として、大きく成長することができた。

 善右衛門は、最先端の農具を使って、仕事の能率を上げ、大きな収穫を得る。善右衛門が収穫をあげれば、岩崎村の他の農家は、大助かりだった。尾張藩に治める年貢は、村単位の共同作業で、善右衛門の家族が経営する農家の収穫が多ければ、それだけ、他の農家の年貢の負担は軽くなる。年貢の負担が軽くなれば、それだけ、自分たちが食べることのできる米が増える。つまり、善右衛門の家族が経営する農家が多くの収穫を得れば得るほど、岩崎村の村人の生活レベルが向上するのだ。善右衛門家族が経営する農家が高い収穫を得るたびに、岩崎村の村役人たちは、善右衛門に一目置くようになっていた。

 寛文2年(1662年)春、尾張藩によって、新田の検地が実施される。善右衛門の家族が経営する農地も当然、検地の対象になっていた。そして、尾張藩から派遣された5人ほどの役人の集団が善右衛門の家族が経営する農地を訪れた。5人の役人は、皆、羽織袴が同じ紺色で統一されていて、顔も同じに見える。5人の役人が善右衛門の家族が経営する農地に到着すると、そのうちの4人は、二人一組となって、長い竿を使って、農地の計測を始めた。そして、その様子を見ていた善右衛門は何も気が付かなかった。あと一人残された役人がこっそりとその場を離れていったことを。

 その役人は、名前を市川仁左衛門という、40代で妻や子供を持つ男性だ。市川は、寛文元年(1661年)5月に尾張藩が創設した切支丹奉行という仕事についていた。切支丹奉行とは、違法なキリスト教徒を取り締まる任務を背負った役人で、市川は、江戸から尾張藩に派遣された役人だ。市川の家族は、江戸に住んでおり、市川は、単身赴任で、尾張藩に来た。切支丹奉行としての市川の仕事の役割は、告発のあった違法なキリスト教徒をリストアップして、監視し、必要があれば、取り調べて、棄教を促し、棄教に応じなかった違法なキリスト教徒は刑場に送り込み、また、棄教に応じて、釈放されたキリスト教徒が再び違法な行いをしないかどうかを追跡するというものだ。

 では、「違法なキリスト教徒」とは、どのような人々を指すのか。その前に、徳川幕府が認めるキリスト教徒とは、地下や洞窟など昼間は日の当たらない場所で、人目を忍んで、礼拝し、キリスト教を世間に広めようと考えていない者たち、江戸幕府の政策には協力的で、時には、幕府の密命があれば、危ない所で幕府のために仕事をすることができるキリスト教徒のことを言う。つまり、イエスキリストと徳川幕府とを比べれば、徳川幕府のことを優先できるようなキリスト教徒のことだ。その代表的な例は、貴船神社の地下にあるカオリンの鉱山で働きながら、地下鉱山にある礼拝堂で礼拝をしている者たちや、中国に住んで、中国の最新事情をシャンバラにある徳川幕府の隠密機関に伝えてくるキリスト教徒たちのことだ。

 では、違法なキリスト教徒とは、何か。一言でいえば、徳川幕府が認めていないキリスト教徒のことを違法なキリスト教徒という。日の当たる場所で、堂々と礼拝をしている人々、自分がキリスト教徒であることを決して隠さない人々、キリスト教を他の者たちに広めようとしている人々、徳川幕府よりもイエスキリストのことを優先する人々、キリスト教徒であることを利用して、地位を築いている人々のことを違法なキリスト教徒という。

 市川が仕事をしていくうえで、いつも痛感しているのは、違法なキリスト教徒とそうでないキリスト教徒を見分けることの難しさだ。市川は、江戸で、日本に密入国してきた何人もの外国人宣教師を取り調べ、話を聞いた実績がある。80代くらいの年老いた先輩の切支丹奉行の話によると、今から60年くらい前に日本にいた「イエズス会」に所属する外国人宣教師と、この時代に日本に密入国してくる外国人宣教師とは、若干、ニュアンスが違っているらしい。「イエズス会」に所属している外国人宣教師たちは、今から30年くらい前に、日本から追放されたらしいが、この時代に日本に密入国してくる外国人宣教師たちよりも、日本の政治や文化に対して理解があったらしいのだ。市川の取り調べの中で、今の時代に密入国してくる外国人宣教師たちから日本の政治や文化についての話が出たことはなく、彼らは、ただただ、日本において、キリスト教のすばらしさを広めたいという思いを市川に語るだけであった。寛文2年(1662年)、尾張の岩崎村に来た切支丹奉行の市川仁左衛門は、岩崎村に到着すると、まず、兼松源蔵正勝の屋敷を訪れた。

 尾張藩士の子供である兼松源蔵正勝は、寛永12年(1635年)に尾張藩によって立てられた次のような立札を見て、慶安元年(1648年)に16歳で岩崎村にやってきた。

 「このたび、入鹿池ができたので、入鹿池から取水している入鹿用水が通っている小牧台地に新田を開発する。従って、小牧台地新田開発のための開拓民を募集する。新田開発のための開拓民は、尾張藩内の者、尾張藩以外の者を問わず、また、いかなる重罪の者であっても、その罪は許される。この主旨を伝えて、小牧台地新田開発の開拓民希望者を集めるように。」

 16歳で岩崎村にやってきた兼松源蔵正勝は、14年間、岩崎村に住み着いて、木津用水の開削に従事し、田畑を広げてきた。兼松は、尾張藩士の子供で、勉強もできるインテリであったことから、農家として働いてきた14年の間に、岩崎村の中では、庄屋格の家柄にのし上がっていった。

 善右衛門家族が岩崎村にやってきたのは、兼松が岩崎村に来てから3年後の慶安4年(1651年)だ。19歳の兼松は、遠くに見える隣の敷地に大きな家が建つのを見て、どんな人がこの土地に越してきたのか、興味津々だった。まだ結婚したばかりの兼松から見れば、隣の家は、小さな子供も含む6人の大所帯だ。

 兼松源蔵正勝が善右衛門と初めて言葉を交わしたのは、善右衛門家族が岩崎村に越してきてからすぐの慶安4年(1651年)初夏の頃だ。善右衛門は、自分たちの田植えをするために、木津用水から水を引きたいのでよろしく頼むと兼松源蔵正勝の所に挨拶に来た。慶安元年(1648年)に着工し、慶安3年(1650年)に完成した木津用水の開削に参加した兼松は、善右衛門の田畑に木津用水から水を引くのを手伝った。

 それから、兼松源蔵正勝と善右衛門は、親しく挨拶を交わすようになる。

 「このたび、入鹿池ができたので、入鹿池から取水している入鹿用水が通っている小牧台地に新田を開発する。従って、小牧台地新田開発のための開拓民を募集する。新田開発のための開拓民は、尾張藩内の者、尾張藩以外の者を問わず、また、いかなる重罪の者であっても、その罪は許される。この主旨を伝えて、小牧台地新田開発の開拓民希望者を集めるように。」

 兼松も善右衛門もこの立札を見て、岩崎村に来たという共通点もあり、善右衛門は、時々、兼松の誘いに応じ、兼松の家で、酒を酌み交わした。

 「木津用水からの水だけでは足らない。新しい用水が必要だ。新しい用水の開削が決まったら、俺も皆と一緒に用水を造りたい。」

 酒がまわると、善右衛門は、いつも兼松にこのように訴えた。兼松は、そのたびに、

 「俺は、慶安元年(1648年)に着工し、慶安3年(1650年)に完成した木津用水の開削に参加したが、用水の開削は、それは重労働だった。用水開削にかかった費用は、全部自分持ちだし、用水路を掘って、石垣を積み上げるという作業は、思った以上の重労働だった。善右衛門殿も相当の覚悟がないと新しい用水はできませんよ。」

 と答えた。しかし、善右衛門は、そのたびに、真剣なまなざしで、

 「そんなことはわかっている。」

 と兼松に言い放つのだった。善右衛門のこのような情熱は、どこから来るのだろう。そういえば、兼松が善右衛門を家に呼ぶことはあっても、善右衛門が兼松を家に呼んだことはない。兼松は、次第に、善右衛門の家族に対して、興味がわいてくるのだった。

 慶安5年(1652年)春、兼松は、岩崎村の近くにある田県神社の豊年祭りに行かないかと善右衛門を誘った。田県神社の豊年祭りとは、地元の厄男たちが、ご神体を神輿にして担ぎ、地元の区長や長老たちが塩をまいて先導する後ろをついて、近くの神社から1kmほどの道のりを田県神社まで練り歩くという神事で、毎年3月15日に行われる。神輿を担ぐ厄男たちの行列の中には、天狗に扮した男や、巫女の恰好をして、各々小さなご神体を抱えた女性集団の姿も見られる。その行列は、今年の農家の豊作を祈りながら、1時間半かけて田県神社まで練り歩く。

 そして、祭りの中心となっている厄男たちが担ぐ神輿のご神体とは、長さ約2m、直径60cm余りの大きさで、樹齢200年以上の木曽ヒノキから彫り出された男性器だ。この男性器の彫刻は、毎年、宮大工の手によって、新しく作られるもので、「母なる大地は父なる天の恵みにより受胎する。」という古代人の民族思想に基づき、五穀豊穣・世界平和・万物育成の祈りが込められている物だ。

 善右衛門家族は、妻と息子一人、娘二人に加えて、お手伝いさんの女性一人の計6人で、兼松夫婦の道案内のもとに田県神社の豊年祭りを見に行った。善右衛門家族は、皆、楽しそうに、祭りの屋台を見て回り、ご神体の行列を見て、笑っている。兼松から見れば、善右衛門家族は、自分たちと何も変わらない。

 豊年祭りが終わり、岩崎村に帰ってきた善右衛門家族は、兼松夫婦の家の前で、兼松と別れたが、別れる前に善右衛門は、兼松にこう言った。

 「今年は、今日から2週間後の3月29日に、我が家の庭で、小さなお祭りを開く。今日の田県神社の豊年祭りのように立派なお祭りではないが、毎年知り合いを何人か招待しているので、豊年祭りに連れて行ってもらったお礼として、兼松殿を我が家のお祭りに招待するよ。2週間後の3月29日昼頃に我が家に来てくれよ。」

 「妻と二人で、ぜひ、お邪魔するよ。」

 兼松は、善右衛門とこのように約束して、家の前で別れた。

 そして、2週間後の3月29日、兼松は、妻と共に、初めて、善右衛門の家の中に入った。兼松の妻は、兼松と同い年の20歳で、今は、大きなおなかを抱えている。兼松と妻の子供が生まれるのは、3か月後くらいだろう。

 善右衛門の家は、平屋だが、部屋がコの字型に10部屋もあり、家の前には、大きな庭がある豪邸だ。コの字型の家の右端に玄関があり、兼松夫婦が善右衛門の家の玄関を入ると、お手伝いさんが家の中央にある大広間に兼松夫婦を通してくれた。20畳ほどの大広間には、部屋の中央に大きなテーブルが置かれてあり、テーブルの上には、様々な料理が置かれてある。それらの料理は、兼松夫婦が普段見たことのないものだったので、お手伝いさんに質問すると、これらの料理は、根菜の煮物・漬物・ゆで卵・パン・ウサギ肉の煮込みであるということだった。そして、何よりも兼松夫婦の目を引いたのは、皿の上にたくさん盛られている、卵の殻がカラフルに色付けされたゆで卵の山だった。青色に塗られた殻に黒い水玉をあしらった卵、赤色に塗られた殻に白い小花をたくさん描いた卵、虹色に塗られた卵、黒色に塗られた殻に白い星を描いた卵など、カラフルな卵が20個くらい皿の上に盛ってある。

 兼松夫婦が珍しいものを見ている目で、それらの料理を眺めていると、やがて、一人また一人と、兼松夫婦以外の客が部屋に入ってくる。そして、若い男女のペアが一組と、60代くらいの男女、30代くらいの男女が子供二人を連れて部屋に入ってくると、最後に善右衛門家族が部屋の中に入ってきた。善右衛門家族は、善右衛門とその妻と息子一人、娘二人、お手伝いさんの女性一人の計6人である。合計16名が部屋に入ると、20畳の大広間も狭く感じられる。

 そして、16名を前にして、善右衛門は、こう言った。

 「神様へのお祈りが済んだら、皆さん、各々、テーブルから料理を取って、庭に出るなり好きにしてください。お祈りの後の食事がすんだら、庭で、お楽しみのエッグハントをしましょう。」

 そして、善右衛門家族や他の客たちが、料理が乗ったテーブルの周りに座って、胸の前で両手を合わせて握り、下を向いて目を閉じながらお祈りする様子を兼松夫婦は、不思議な気持ちで眺めていた。

 皆のお祈りは1分くらいで終わり、兼松夫婦は、部屋で座って、机の上に並べられた料理を皿の上にのせて食べていた。すると、善右衛門が兼松源蔵正勝の隣に来て、こう話しかけた。善右衛門の両手には、ガラスで作られた脚付きのコップのようなものが2個握りしめられている。

 「奥さん、おめでたですね。今日の復活祭は、まさに、奥さんのために開かれたような祭りです。ああ、これ、飲んでみませんか?」

 善右衛門にすすめられて、兼松は、ガラスで作られた脚付きのコップのようなものを手に取り、少し飲んでみた。

 「これは、ワインという名前のお酒です。このグラスもワインも長崎の知り合いから取り寄せたものです。兼松さんの家にある日本酒とはまた、違った飲み物でしょう?これは、普段手に入らない貴重なお酒で、今日のようなお祭りの時にしか飲むことができません。

 だから、我が家では、今後は、あの皿においてあるパン同様にワインも家で作ろうと思っています。そのためには、小麦とブドウを畑で栽培しなければなりません。小麦やブドウは、稲ほど水を必要とはしない。しかし、我々には、もっと、水が必要なのです。」

 「ああ、だから、あんなに熱心に新しい用水の開削を主張しているのか。」

 兼松は、善右衛門の話を聞いて、心の中でこうつぶやいた。そして、兼松は、ワインを飲み、皿からパンを取って、かじりながら、善右衛門にこう質問した。

 「善右衛門さんたちのお祭りは、お米と日本酒ではだめなのですか?」

 「お米と日本酒ではだめです。パンは神様の肉であり、ワインは神様の血だからです。」

 善右衛門は、兼松に対して、きっぱりとこう言った。

 兼松が、祭りの間に、祭りに来た他の客たちから話しかけられる事柄は、もっぱら、新しい用水の開削の必要性だった。そして、この祭りに来ている人々が用水の開削を必要としているのは、年貢に出すコメを作るためだけではない。自分たちのためには、もっと、水が必要だというのが彼らの主張だ。そして、ワインを飲んで、皆が上機嫌におしゃべりしていた時、善右衛門が皆を庭に集めた。

 「これから、エッグハントをしましょう。皆さん、この庭の中のどこかに、この赤い卵と黄色い卵と緑の卵が隠されています。卵を探し当てた人には、豪華な景品を差し上げます。一番いい景品は、この赤い卵を探し当てた人です。その次が緑の卵、その次が黄色い卵を探し当てた人です。なお、赤い卵は、この庭の中に1個しか隠されていません。あとは、このお祭りに来た人数分の黄色い卵と緑の卵が隠されています。つまり、はずれはなし。さあ、皆さん、卵を探し当ててこの善右衛門の所まで、持ってきてください。」

 そして、祭りに集まった16人の老若男女は、一斉に、庭の中を探し回る。そして、次々と緑の卵や黄色い卵を探し当て、善右衛門の所に持って行った。

 兼松は、夢中になると、他のものには目もくれなくなる性格の男だ。他の人々が次々に卵を探し当てる中、兼松は、いつの間にか、草むらの中を這いずり回って卵を探していた。

 兼松がふと気が付くと、そこは、木々がうっそうと生い茂る静かな場所だった。木々の向こうから、皆の歓声が聞こえてくる。そして、兼松が立ち上がると、頭の上に木の枝がぶつかった。兼松は、頭の上の木の枝を払い、一歩、木々の中に踏み込んだ。すると、一歩踏み込んだ木々の間には、人が6人ほど立つことができるスペースがあった。そのスペースは、木々の間から差し込む木漏れ日はあるが、庭の他の場所よりも薄暗い。そして、兼松の前には、兼松の背の高さ半分ほどの石灯篭がたたずんでいる。その石灯篭は、竿の真ん中あたりの両側に羽のように出っ張りが付いていて、基礎の部分は地面に埋め込まれ、竿の下部には、何かの像が彫り込まれているという珍しい形の、神秘的な灯篭だ。そして、その石灯篭の前には、赤い卵が置かれてあった。

 祭りが終わり、兼松は、妻と一緒に家に帰って来て、部屋に寝転がった。兼松がもらってきた赤い卵の景品は、2つのガラス製の脚付きグラスだった。祭りに来ていた他の客たちに、赤い卵の景品を見せてくれとせがまれた兼松は、皆の前で箱を開けた。

 「それは、長崎でしか手に入らないものだよ。うらやましいなあ。」

 と、他の客たちは、皆一様に口をそろえてこう言っていた。そして、兼松は、妻に日本酒を持ってきてくれと頼んだ。ガラス製の脚付きグラスに日本酒をそそぎ、飲みながら、兼松は、何となく、善右衛門に対して、違和感を覚えていた。

 あれから10年がたった。この10年の間に、兼松の子供は三人になっていた。善右衛門の3人の子供たちは、一番小さかった子でも今年15歳で元服を迎える。この10年の間に、岩崎村には、次々と新しい農家が越してきて、新しい用水開削の要求は日増しに高まっていくばかりだった。

 「しかし、用水の開削は、そんなに生易しいものではない。結局のところ、用水開削の安全を願う先は天照大神であり、我々は、秋になって、天照大神に米をささげるために、つらい肉体労働に耐えているのだ。今の状態のまま、岩崎村をあげて新しい用水開削に取り組めば、善右衛門家族やその仲間たちとの溝は広がるばかりではないかと懸念しているのです。そして、その時に用水工事現場で起こるトラブルは、水奉行所の管轄の話ではない。最近新しくできた切支丹奉行所の管轄ではないかと考えられるのです。」

 寛文2年(1662年)、兼松源蔵正勝の屋敷を訪れた切支丹奉行の市川仁左衛門に対して、兼松源蔵正勝は、このように言った。すると、切支丹奉行の市川仁左衛門は、このように答えた。

 「我々が取り締まる違法なキリスト教徒とは、日の当たる場所で、堂々と礼拝をしている人々、自分がキリスト教徒であることを決して隠さない人々、キリスト教を他の者たちに広めようとしている人々、徳川幕府よりもイエスキリストのことを優先する人々、キリスト教徒であることを利用して、地位を築いている人々のことをいう。あなたの言う善右衛門家族とその仲間たちは、このような事柄に当てはまっていますか?」

 兼松は、「そういう細かいことを言われると、よくわからなくなるのだが。」とつぶやいてから、市川に対して、こう言った。

 「もうすぐ、新しい用水を造る工事が着工される。小牧長久手の戦いのときに秀吉軍の砦となった小口城跡の近く、木津用水と五条川が交わるあたりから南南東方面に用水路を造る。その用水路工事は、岩崎村を通って、小牧山城東側にある二重堀で大山川と合流し、更に南下して、田楽村を経て、故尾張藩主徳川義直殿の鷹狩りの時の休憩所として有名な朝宮御殿のあたりで八田川に合流し、更に南下して、勝川村で庄内川に注ぐという、全長14kmの工事だ。そして、岩崎村あたりの用水路工事が行われるのが、今年の秋頃なのだが、この用水路の開削には、善右衛門殿とその仲間たちも協力することになっている。善右衛門殿が工事に参加する今年の秋、市川様には、もう一度、岩崎村に来ていただいて、善右衛門殿の用水路開削の仕事ぶりを観察してもらえないだろうか。その時、善右衛門殿が切支丹奉行所の取り締まり対象かどうかが、はっきりわかると思うのですが。」

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