三十八 新木津用水

 明治3年(1870年)12月初旬の月曜日の朝、貴船神社本殿に座り込んで話をしていた陶磁職人の稲垣銀次郎は、ここまで話すと、一息ついて、手に持っていたお茶を飲んだ。そして、おもむろに着物の懐に手を入れると、そこから、紫色の小さな包みを出した。稲垣銀次郎が紫色の小さな包みを開けると、直径10cmほどの真っ白な皿が姿を現した。

 「この皿は、貴船神社本殿地下にあるカオリンの土を使って焼いたものです。石川さんと青木さんは絵が苦手だと言うものですから、最初のうちは、絵付けをしない陶磁器を売っていくことにします。絵付けは、勉強すれば誰でもできるようになります。だから、これからしばらくの間、お二人には、絵付けを勉強していただいて。」

 こういうと、稲垣は、青木と石川に白い皿を渡した。青木は、石川と一緒にその白い皿をまじまじと見つめてから、稲垣に皿を渡しながら、こう言った。

 「私が下手な絵を描くよりは、よっぽど、このほうが高級な皿に見えますよ。」

 「しかし、真っ白な皿ばかりでは、皆に飽きられてしまいます。それに、カオリンの土は貴重ですから、皿の値段も高くなってしまいます。安価な皿を大量に作って売るためには、カオリンに他の土を混ぜて皿を焼かなければなりません。従って、この皿ほど真っ白な皿は作れません。絵付けを勉強したら、絵を描くことで、皿の白さをごまかさないと。」

 稲垣は、青木に向かってこのように言って、白い皿を紫色の包みの中にしまい、再び自分の懐に入れた。

 「話は戻って、寛文2年(1662年)、入鹿池の底に沈んだシャンバラに、中国から次のような情報がもたらされ始めました。

 キリスト教の一派であるイエズス会は、中国においてキリスト教を布教する政策として、ヨーロッパのキリスト教文化を一方的に押し付けるのではなく、中国の政治や文化を尊重し、その上でキリスト教を布教するという態度を取り続けてきた。例えば、中国人は、儒教や仏教や道教の思想から、日常生活の中で、祖先の位牌の前で香を焚き、祈りをささげている。イエズス会は、このような中国人の行為を宗教行為とはみなさず、中国人の生活様式の一部であると解釈して、中国人がキリスト教に改宗した後でも、このような行為を行うことは差支えないと主張していた。中国人の政治や文化を尊重したうえで、キリスト教を布教し、ヨーロッパの高度な自然科学や人文科学の技術をもたらしたイエズス会は、中国人に受け入れられ、中国におけるキリスト教徒の数は、増加の一途をたどっていた。

 しかし、中国にキリスト教を布教しに来ていたのは、イエズス会一派だけではなかった。ドミニコ会やフランシスコ会の宣教師たちは、イエズス会の適応政策に反対し、イエズス会士たちが中国文化を学んで、儒学者の衣服を着ていることを批判した。ドミニコ会やフランシスコ会の宣教師たちは、中国において、ヨーロッパのキリスト教文化を強制し、中国の伝統や文化を軽視する態度を取り続けたため、中国人の反発を受け、中国から追放されてしまった。

 そして、ドミニコ会やフランシスコ会の宣教師たちは、自分たちが中国から追放されたのは、イエズス会が中国人たちと手を組んだからだと主張し、ローマにある教皇庁に対して、イエズス会が異教の習慣を許容していると訴えた。結果、ローマの教皇庁は、イエズス会に対して、中国において、中国的な行為を行うことを禁止する通達を出した。

 しかし、イエズス会は、ローマの教皇庁が出したこの通達に詳細に反論した。イエズス会は、中国において、中国の政治や文化を尊重することは、キリスト教の教えに反することではないと教皇庁に対して主張したのだ。イエズス会のこの主張にローマの教皇庁の通達は、二転三転している。しかし、ローマの教皇庁内部では、中国の儒教の習慣を許容することは、カトリック教会の脅威になるとする考え方が根強い。このままでは、中国のイエズス会は、中国でキリスト教の布教活動ができなくなる可能性もある。そして、中国からイエズス会がいなくなれば、中国では、日本同様、キリスト教が禁止されてしまうだろう。」

 稲垣は、ここで、一息ついて、お茶を飲んだ。青木も石川も黙って、稲垣の言うことを聞いている。そして、稲垣は、口を開いた。

 「この情報が中国から入鹿池地下にあるシャンバラにもたらされると、シャンバラの地下やカオリンの鉱山でキリスト教を崇拝している者たちの間で、動揺が走った。この頃、シャンバラで、徳川幕府の隠密機関を維持していたのは、弥助の一番末の息子次助の孫の世代だ。80歳近くになった太助は、中国で陶磁器の勉強を終えた後、60歳になって、入鹿池地下のシャンバラに戻り、ひっそりと暮らしていた。そして、太助と共に中国に渡った10人のキリスト教徒たちは、中国で家族を作り、中国に根を下ろし、中国人の助けも借りながら、北京で暮らし、日本の徳川幕府に中国の情報を送り続けている。

 尾張徳川家は、義直の息子五郎太が光友を名乗り、第2代尾張藩主になっていた。光友の名前は、第3代徳川幕府将軍徳川家光から諱をもらって名付けられた。この頃、年齢が30代後半になる光友の正室は、家光の長女千代姫だ。千代姫は、家光の側室の子供で、15歳で元服した光友のもとに、3歳の時に嫁入りしてきた。そして、この頃の徳川幕府将軍は、第4代の徳川家綱である。家綱は、家光の側室の子供だが、千代姫とは母親が違う。

 そして、シャンバラの地下やカオリンの鉱山でキリスト教を信仰している者たちの間で、ローマの教皇庁に対する批判の声が高まった。もしかしたら、中国の情報を日本に流している日本人キリスト教徒たちは、中国を追い出されてしまうかもしれない。中国に渡った日本人キリスト教徒たちは、日本には帰ってこられないのだ。彼らがいなくなったら、誰が中国の情報を日本にもたらしてくれるのだろう。

 そして、中国におけるキリスト教の動向を知った徳川幕府内部の者たちは、「これで、キリスト教徒たちの化けの皮がはがれた。」と思った。日本の政治や文化を否定して、ヨーロッパのキリスト教文化を押し付けてくるようなキリスト教徒たちは、徳川幕府の者たちには必要のないものだ。徳川幕府の者たちがキリスト教徒を黙認するとしたら、それは、ローマの教皇庁の言うことよりも徳川幕府の言うことを聞くキリスト教徒たちだ。しかし、当時の徳川幕府の者たちに決定的に欠けていた考え方は、ローマの教皇庁を総本山とするキリスト教を国家の宗教に掲げている国々は、日本とは違った、優れた科学技術を持っているということだった。」

 寛文2年(1662年)11月中頃、稲刈りが終わった岩崎村で、新木津用水の開削工事が行われることとなった。工事にかかる費用は全て自分持ちとなるため、工事に参加する村人は、限られてくる。兼松源蔵正勝は、12年前の木津用水の開削工事に参加したこともあって、今回の新木津用水の開削工事では、岩崎村から参加する村人のリーダーとなることが決まっていた。

 「11月・12月の休みは、11月23日の新嘗祭の日だけです。」

 兼松のこの主張は、江戸時代の農村の休みに対する一般的な考え方だ。江戸時代は、どの村でも11月・12月は休日がないのが普通だった。

 江戸時代の農村では、一般的に、一月・六月・七月が一年の中で最も休日が多く、一か月の中で五日くらいは休みがあった。その他の月で、休みは大体月2〜3日ほどだった。休みが少ないのは、5月や10月で、一か月の中で休みは一日のみだ。そして、11月・12月は休みがない。農村の休みで確実な休みは、一月一日・一月七日・三月三日・五月五日・九月九日の節句の日で、その他には、村の神社の祭礼の日が休日になったりした。

 「それは困ります。我々は、神様が復活した週の初めの日を「主日」と呼び、仕事を休んで礼拝することが義務付けられています。今年の11月の主日は、5日・12日・19日・26日で、12月の主日は、3日・10日・17日・24日・31日と定められています。我々は、主日があるから、その他の日には、どんなつらい仕事であっても耐えることができるのです。」

 これが、新木津用水の開削工事に岩崎村から参加する善右衛門の主張だった。善右衛門達キリスト教徒は、七日に1回休みをとることが義務付けられている。

 村の皆が休みの日に働き、村の皆が働いている日に休むということが、兼松にとっては、納得がいかなかった。全長14キロメートルに及ぶ新木津用水の開削工事は、皆の総力を結集しなければ、終わらない。来年の春になると、農家は、種まきや田植えの仕事で忙しくなる。忙しい農家の仕事の合間に、工事を終わらせるには、休みのない11月・12月の間に集中して用水路を掘り、石垣を積んでいかなければならない。

 工事にかかる費用が全て自分持ちとなる新木津用水の開削工事は、慢性的な人手不足に陥っていることが兼松を苦しめた。だから、兼松は、善右衛門の主張を飲むことにした。そして、善右衛門たちの休みの間には、その仕事のしわ寄せは、全て兼松たちの所に来た。

 一方、中国におけるキリスト教の動向の情報を仕入れた切支丹奉行の市川仁左衛門は、キリスト教徒の取り締まりを強化する方向に動いていた。寛文2年11月・12月の間に、市川は、時々、新木津用水の開削工事現場に視察に訪れた。他の人々が工事の休憩の合間に酒を飲んでいることに対して、善右衛門たちは、工事の間中、休憩の時間であっても、一滴の酒も飲まず、工事をまじめにこなしている様子を見て、市川は感心した。しかし、兼松は、市川にこう訴えるのだった。

 「善右衛門達キリスト教徒は、私たちが11月・12月の間は休みを取らずに働いていることに対して、七日に1回、必ず、工事の仕事を休みます。神様が復活した週の最初の日は仕事を休んで、礼拝をするというのが、彼らの労働スタイルのようです。ですから、善右衛門たちが休みの日は、新木津用水の開削工事の仕事がはかどりません。」

 そして、兼松は、新木津用水の開削工事をしていく間に、労働者が一人また一人と、善右衛門達キリスト教徒の労働スタイルに共鳴していく様子を目撃する。善右衛門たちは、工事の合間にキリスト教の布教活動など一切していないのに、である。そして、たびたび新木津用水の開削工事現場を訪れていた切支丹奉行の市川の目にも、兼松と同じ光景が映っていたのだった。

 寛文3年(1663年)4月、切支丹奉行の市川仁左衛門は、兼松源蔵正勝の屋敷の中の一部屋を借りて、そこに善右衛門を呼びつけた。兼松に連れられて部屋に入ってきた善右衛門を畳に座らせて、市川は、兼松に部屋を出るように言った。兼松が部屋を出ていくと、市川は、善右衛門に対して、こう言った。

 「この地域には、キリスト教徒が多く存在している。それは、今から30年くらい前に、入鹿村を池の底に沈めたのちも、幕府を偽って、キリスト教をやめなかった者たちが多数この地域に残っているからだ。

 しかし、徳川幕府のもとでは、キリスト教は、禁教である。善右衛門殿は、今すぐ、キリスト教徒であることをやめなさい。」

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