三十九 濃尾崩れ

 善右衛門は、切支丹奉行の市川仁左衛門の言うことには耳を傾けなかった。そのくらいの強い信仰心がなければ、岩崎村で農村の開拓はしなかっただろうし、新木津用水の開削工事に参加することもなかった。善右衛門にとって、キリスト教の信仰と農業活動は、表裏一体のものだった。切支丹奉行の市川仁左衛門に責められれば責められるほど、善右衛門の意志は、固いものになっていく。切支丹奉行の市川仁左衛門は、善右衛門を名古屋にある千本松原処刑場に送ることに決めた。

 尾張地方や美濃地方において、寛文年間に処刑場に送られたキリスト教徒は、善右衛門だけではない。1000人以上のキリスト教徒が名古屋の千本松原や笠松の木曽川河岸にあった処刑場で処刑された。徳川幕府政権下の寛文年間に、この地方に勃発したキリスト教徒の大量検挙のことを、後世の人々は「濃尾崩れ」と呼んだ。つまり、この時代、尾張地方や美濃地方には、少なく見積もっても1000人以上のキリスト教徒が存在していた。

 善右衛門と違い、捕らえられたキリスト教徒の中には、「もう二度とキリスト教の信仰はしません。」と切支丹奉行に誓いを立てるキリスト教徒もいた。そのようなキリスト教徒に対して、切支丹奉行は、命を助けて、寺を紹介し、本当にキリスト教の信仰を捨てたのかどうか監視をした。切支丹奉行は、春と秋の年2回、キリスト教を棄教した者を調査し、キリスト教徒に戻っていないことを確認して、記録にとどめた。そして、幕府による監視は、子々孫々まで続いたため、この時代に幕府に捕らえられたキリスト教徒たちは、たとえ、信仰を捨てた者であっても、村八分状態となり、後世に至るまで、差別の対象になった。

 寛文7年(1667年)10月、兼松源蔵正勝は、岩崎村にある善右衛門が建てた大きな邸宅にいた。今月に入ってから、善右衛門の家族や仲間たち12人が切支丹奉行に捕らえられたことにより、この大きな邸宅に住む者はいなくなった。そして、切支丹奉行の市川仁左衛門からは、善右衛門家族や仲間が所有していた邸宅や農地は、全て、兼松がもらい受けることになったという通達が、兼松のもとに届いた。

 「何もここまですることはない。」

 兼松は、徳川幕府に対して、恐怖を覚えた。今回の件で、徳川幕府に対して、嫌悪感を覚えたのは、岩崎村の中で、兼松だけではあるまい。

 そして、兼松は、岩崎村で、善右衛門家族とその仲間たち17人が切支丹奉行に捕らえられ、それきり、家に帰ってこなくなった事実を記録にとどめた。そして、兼松は、知っていた。善右衛門には、一番下にもう一人娘がいたことを。しかし、兼松は、そのことを切支丹奉行の市川仁左衛門には、話さなかった。その娘は、名前を「まつ」と言った。

 善右衛門の一番下の娘のまつは、家の農業をすることがいやで、16歳になったときに、家を出て、名古屋城下町の呉服問屋で、住み込みで働いた。そこて、まつは、同じく住み込みで働いていた若者と夫婦になり、もうすぐ、新しい家族も産まれる。

 寛文7年(1667年)10月昼頃、まつの働いていた呉服問屋の前に黒いかごが2つ停まり、初老で、黒っぽく地味な色の着物を着た上品な女性と、そのお付きの者と見られる若い女性が、それぞれのかごから降りてきた。その初老の上品な女性の灰色の帯には、真っ白な根付が付いている。まつは、その真っ白な根付に目が釘付けになった。その初老の女性は、これから、名古屋城に行くので、おみやげの高級な名古屋帯を探しているといった。まつは、その初老の女性に、買い上げる予定の帯の大体の値段を聞いて、その値段にあった名古屋帯を3つほど、初老の女性の前に差し出した。初老の女性は、その帯の中から、梅の花の柄の入った桃色の帯を選び、まつに差し出した。まつは、その帯を紙の袋に入れ、女性のお付きの者に差し出すと、お付きの者は、お金をまつに渡した。そして、その初老の女性は、店から出るときに、側についてきて、「お買い上げありがとうございます。」と頭を下げるまつに向かって、「元気なお子さんを産んでね。」と言って、にっこりと笑い、かごに乗り込んだ。そして、まつは、2つの黒いかごが名古屋城方面に向かっていく姿が目の前から消えていくまで、店の前に立っていた。

 この時、65歳になっていた鷹司孝子とお付きの者が乗った黒いかごが名古屋城の東門に到着すると、東門が開いて、身なりのいい武士が孝子たちを出迎えた。身なりのいい武士は、孝子とお付きの者を、二之丸庭園にいくつかあるうちの一番奥の茶室に招き入れ、「ここで、旅の疲れをおとりください。」と言って、孝子たちにお茶をふるまった。そして、孝子たちは2時間ほどそのお茶室で休んだのち、身なりのいい武士に付き添われて、二之丸東三之門をくぐって、本丸御殿にたどり着いた。

 本丸御殿の玄関で草履を預けた孝子たちは、大廊下を通って、表書院に入った。孝子たちを案内している身なりのいい武士が、後ろを歩く孝子たちにこう言った。

 「これから入る上段之間に、第2代尾張藩主の光友殿がお待ちです。」

 そして、身なりのいい武士がふすまを開けると、そこには、42歳になる第2代尾張藩主徳川光友が座っていた。孝子とお付きの者は、上段之間に入ると、光友の前に座り、畳に手をついた。そして、孝子は、お辞儀をしながら、光友にこう言った。

 「初めてお目にかかります。亡くなった第3代徳川幕府将軍徳川家光殿の正室本理院でございます。今日は、第4代将軍徳川家綱殿から書状を預かってまいりました。光友殿には、この書状に目を通していただき、答えを書いていただきます。そして、光友殿の答えの書かれた書状は、この本理院が責任をもって、第4代徳川幕府将軍徳川家綱殿にお届けいたします。」

 そして、光友は、孝子の手から書状を受け取り、書状の中身を読んだ。

 「わかりました。それでは、今すぐ、二之丸御殿で、書状に返事を書いてきましょう。その間、本理院殿は、この部屋でくつろいでいてください。後で、食事を持たせますので、私と会食をお願いします。」

 そういって、立ち上がりかけた光友を見て、孝子は、とっさに、声をかけた。

 「ちょっとお待ちください、光友殿。光友殿は、どういう返事を書くおつもりなのですか?」

 孝子が突然光友にこのように声をかけてきたので、光友は、怪訝な顔をして、孝子を見た。孝子は、立ち上がりかけた光友にさらにこのように言った。

 「私は、第4代徳川幕府将軍徳川家綱殿から多大の信頼を得ているがゆえに、この書状を光友殿にお持ちすることができたのです。家綱殿は、この本理院にいつも手厚い保護を与えてくださっている。私は、江戸城本丸にある家綱殿が仕事をする御殿にも入ることができる。そして、家綱殿は、この本理院が光友殿にお持ちしたこの書状の中身も私に話してくださっているのです。」

 孝子がここまで言うと、光友は、書状を手にしたまま、孝子に目を向けながら、再び、畳に座った。

 「この地域においては、寛文年間に入ってから、1300人以上のキリスト教徒が死罪になったと聞いております。」

 孝子が光友の前でお辞儀をしながらこのように言うと、光友は、「その通りだ。」と答えた。

 「それで、光友殿は、その書状に対して、どのように答えるおつもりですか?」

 孝子がお辞儀をしながらこのように聞くと、光友は、しばらく沈黙した後で、こう答えた。

 「地下にはまだ相当数のキリスト教徒が潜っている。彼らも全員捕らえるべきなのかどうか、お伺いを立てたく存じます、と。」

 この言葉を聞いて、孝子は、顔をあげて、光友を見て、こう言った。

 「光友殿は、どうして入鹿池ができたのか、ご存じですか?亡くなった義直殿は光友殿に何か話していませんでしたか?」

 「亡くなった義直殿は、あまり、私に話をするような人ではなかった。私の小さいころは、弥助という名の色の黒い僧侶が時々私の側にいて、遠い異国の話をされていたが、私が大きくなると、弥助は、いつの間にか側にいなくなっていた。

 そして、私の記憶が確かならば、弥助は、イエズス会のキリスト教宣教師たちに連れられて、故郷であるアフリカの地から、ポルトガル・スペインに渡り、そこから、東へ東へと進み、中国から、日本の長崎にたどり着いた。それから、さらに東へと進み、京都の地で、織田信長公と出会った。そして、信長公の小姓となったが、本能寺の変の勃発で、シャンバラに逃げて来て、今は、五郎丸殿の側にお仕えしているのです、と言っていた。

 弥助は、イエズス会が弥助を連れて訪れた国々は、インドや中国以外のほとんどの国が、スペインやポルトガルの植民地となり、キリスト教が国の宗教となっていると言っていた。どうやら、弥助は、キリスト教に対して、良いイメージを持っていなかったようだ。今の江戸幕府も、弥助が言っていたことと同じようなことを言っているような気がする。」

 光友がこう話すと、孝子は、しばらく沈黙した後で、こう切り出した。

 「今から40年ほど前の寛永4年(1627年)夏、江戸城本丸御殿の西側にある私の自宅の中の小さな茶室で、第3代徳川幕府将軍徳川家光殿と初代尾張藩主徳川義直殿が、人目を忍んで話し合いをされました。その時、私は、自宅の茶室でお二人のためにお茶をたてていました。」

 ここまで話して、一息ついた後、孝子は、帯に付けていた白い根付を外し、それを光友に渡した。光友が白い根付を受け取り、それをまじまじとみつめる様子を見て、孝子は、こう話を続けた。

 「この白い根付は、シャンバラ近くの地下鉱山で採れるカオリンという白い石を粉にして焼いたものだそうです。そして、カオリンの鉱山で働く者たちの中には、キリスト教徒も含まれている。カオリンの鉱山で働くキリスト教徒を捕らえたら、この白い根付は、作ることができなくなってしまいます。

 今から40年ほど前の寛永年間は、九州や江戸や京都など日本中で、キリスト教徒が捕らえられて、火あぶりなど死罪になっていました。しかし、初代尾張藩主徳川義直殿は、カオリンの鉱山で働くキリスト教徒たちを捕らえることはしませんでした。その噂を聞いた日本中のキリスト教徒は、皆、尾張地方を目指して集まってきました。

 第3代徳川幕府将軍徳川家光殿と初代尾張藩主徳川義直殿が、江戸城本丸御殿の西側に建てられた私の自宅に来て話し合った議題は、尾張地方に集まってきたキリスト教徒に関することでした。いえ、話し合われたのではありません。第3代徳川幕府将軍徳川家光殿が、一方的に、初代尾張藩主徳川義直殿に課題を押し付け、それを義直殿が渋々飲むという形で,話し合いは進行していきました。

 当時、旧入鹿村の地下にあるシャンバラや貴船神社地下にあるカオリンの鉱山内にあった教会までたどり着くことのできないキリスト教徒たちは、旧入鹿村の様々な場所に教会を建てて、キリスト教を信仰していました。多くのキリスト教徒たちが次々と入鹿村に集まってくる様子を見ていた徳川幕府の尾張地方の支援者たちは、入鹿村を池の底に沈めてしまおうと考えました。しかし、初代尾張藩主の徳川義直殿は、キリスト教徒には寛大な態度で臨んでいます。それで、徳川幕府の尾張地方の支援者たちは、入鹿池を造る表向きの理由を新田開発のためにして、第3代徳川幕府将軍徳川家光殿から直々に初代尾張藩主徳川義直殿を説得してもらう形で、入鹿池の築造にこぎつけました。

 徳川幕府の者たちは、初代尾張藩主徳川義直殿の意向をくんで、旧入鹿村の中にいたキリスト教徒たちを死罪にはしませんでした。その代わり、キリスト教徒たちには寺を紹介し、キリスト教から仏教に転向できない者は、中国へ渡ってもらい、徳川幕府のために、中国の情報を幕府に送る仕事についてもらうということで、キリスト教徒たちと折り合いをつけました。そして、地下に潜っているキリスト教徒たち以外のキリスト教徒たちは、表向きは、この地方には存在しないことになっていました。

 しかし、今から17年前に初代尾張藩主徳川義直殿が亡くなり、その1年後に第3代徳川幕府将軍徳川家光殿がなくなってからは、どうやら、この地方において仏教に転向したはずのキリスト教徒たちが表に出るようになってきたようです。亡くなった義直殿は、この話を自分の息子にはせず、息子の教育をもっぱら、他の者に任せっきりにしていたのですね。」

 孝子はこう言うと、しばらく沈黙してしまった。光友も孝子のこの話を聞いて、しばらくは、返す言葉が出なかった。5分ほどの沈黙の後、孝子は、光友にこう言った。

 「今、シャンバラの地下に潜っているキリスト教徒たちをあぶり出したら、中国の情報が日本に伝わらなくなる恐れがあります。そして、第4代徳川幕府将軍徳川家綱殿は、この話を知りません。どうやら、家光殿が亡くなった段階で、家綱殿の側近が全員交替して、この情報が家綱殿に伝わっていないようなのです。

 光友殿は、1300人以上のキリスト教徒を死罪にして、今、どのようなお気持ちでいるのですか?」

 「キリスト教徒たちの処分は、全て江戸幕府の者たちが尾張藩に乗り込んできてやっていることだ。私は、彼らの言うことをはいはいと聞いているだけだ。」

 光友は、孝子の問いに対して、このようにあっさりと答えた。すると、孝子は、このように言った。

 「では、光友殿、今回の書状には、「尾張地方や美濃地方において、キリスト教徒は、全滅した。」とお答え願えないでしょうか?」

 光友は、孝子のこの言葉に驚いて、孝子を見た。孝子は、更に続けてこう言った。

 「何度も言いますが、第4代徳川幕府将軍徳川家綱殿は、この話を知りません。そして、この話を知っている唯一の生き残りである私には、亡くなった家光殿との間に子供ができなかった。家綱殿が亡くなった家光殿の側室の子供であることは、皆さん、ご存知ですよね。そして、私は、今年で65歳になった。あと何年生きられるかもわかりません。」

 そして、孝子は、光友を見て、頭を深々と下げ、

 「どうぞ、よろしくお願いいたします。」

 と言った。

 光友は、「よし、わかった。」と小さい声を出して立ち上がり、孝子が持ってきた書状を持ったまま、名古屋城本丸御殿上段の間を出ていった。そして、光友が再び名古屋城本丸御殿上段の間に現れたのは、30分ほどたった後のことだ。光友が孝子に示した書状には、「尾張地方や美濃地方において、キリスト教徒は、全滅した。」と書かれており、光友の花押がおされてあった。光友は、その書状を縦に4つに折って、孝子に渡した。孝子は、その書状を受け取ると、「光友殿、ありがとうございます。」と頭を下げ、その書状を長方形の黒い漆の箱にしまい込むと、ふたをして、紫色のひもで縛った。

 「この書状は、私の手から第4代徳川幕府将軍徳川家綱殿の手に直接渡します。」

 孝子はそういうと、光友に対して、再び深々と頭を下げた。

 その後、光友は名古屋城本丸御殿上段の間で、孝子と会食をした。光友は、孝子が光友の正室の千代姫のために持ってきたお土産の名古屋帯のお礼を言った。孝子は、

 「名古屋帯は、千代姫殿のお誕生日の月の花である梅の柄の物を選びました。」

 と言った。そして、孝子は、自分が見た初代尾張藩主徳川義直の思い出話をした。孝子がするそれらの話を光友は生まれて初めて聞いたと言った。そして、光友は、こう言った。

 「一度だけ、父である初代尾張藩主徳川義直の口から、本理院殿の話を聞いたことがある。第3代徳川幕府将軍徳川家光殿の正室は、美人だ、と、父が生前言っていましたよ。あんな美人が徳川宗家の正室であったなら、徳川幕府も当分安泰だ、と。」

 そして、光友は、孝子を見て笑い、孝子は、そんな光友を見て、笑った。

 このことがあってから7年後の延宝2年(1674年)、第3代徳川幕府将軍徳川家光の正室鷹司孝子は、72年の生涯を閉じた。第4代徳川幕府将軍徳川家綱は、孝子に対して、絶大な信頼を送っていたが、孝子が亡くなったときには、その喪に服することができなかった。

 寛文年間、美濃地方や尾張地方において、多数のキリスト教徒が幕府の手によってとらえられ、1300人以上のキリスト教徒が死罪になったという一連の事件を、人々は、「濃尾崩れ」と呼び、末代まで語り伝えた。濃尾崩れによって、美濃地方や尾張地方のキリスト教徒は根絶した、と言われている。

 そして、濃尾崩れが起こった時代から明治維新まで実に200年近く、徳川幕府は、財政難に陥っていたにもかかわらず、日本において、権力を持ち続けることができた。しかし、その200年の間に、キリスト教を国の宗教に掲げるヨーロッパの国々は、大きくその姿を変えていくことになる。

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