三 大山廃寺の言い伝え

 愛知県小牧市は、愛知県の北西部にある、東西約15キロメートル、南北約9キロメートルと細長い形をした市である。東西に長細い形をした小牧市の地形は、西部と東部では、大きく異なっている。濃尾平野の一部である小牧市西部は、木曽川が造った扇状地の一部である。そこにぽつんと立つ標高85mの小牧山には、安土・桃山時代に織田信長が建てた城郭が残されており、小牧山のまわりの平野には、考古の遺跡が各所に見られる。そして、小牧山から東方へ4.5キロメートル以東は、階段状に高くなっていく丘陵地帯となっており、279.6mの天川山を最高部とした山地と尾張東部丘陵地の西麓にあたる。小牧市街地から北東へ約9キロメートルの東部丘陵地帯、天川山の尾根が西に延びる所に標高270mの児山がある。児山の南斜面に、「児神社」という神社があり、この神社を中心とした山の中に、古代から中世にかけて存続したという「大山廃寺跡」がある。

 昭和3年(1928年)2月、児山の南斜面標高208mの山腹平坦地において、地表下2〜3mの深さから、塔の礎石と思われる17個の礎石群が発見された。この調査を手掛けたのが、愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事の小栗鉄次郎である。小栗鉄次郎らは、児神社周辺の山麓に、寺坊跡と思われる数多くの造成面を確認し、大山廃寺跡がかなり大規模な山岳寺院であることに注目していたが、寺院全域の解明には至らなかった。そして、大山廃寺跡は、昭和4年(1929年)12月、塔跡の部分に限ってのみ、文部省の史跡指定を受けることになった。

 その後、40年ほどの間、大山廃寺跡は、毎年4月に児神社で行われる祭礼の時以外は、人を寄せ付けず、静かな山の中に横たわっていた。しかし、昭和47年(1972年)、児神社周辺に、社務所、駐車場、道路建設といった地元住民による整備が行われ始め、部分的に大山廃寺遺跡が破壊されるという事態に及んだ。このため、大山廃寺遺跡の破壊や資料の散逸を緊急に防がなければならないという意見が、地元民有志や研究者の間から起こり、廃寺遺構の存在を確認する発掘調査へと発展していった。

 昭和48年(1973年)、文化庁記念物課調査官の現地視察があり、塔跡以外にどのような遺構が存在するかの調査を行い、その結果をもとに、史跡としての指定地域の拡大をはかり、大山廃寺跡の全貌を明らかにし、その環境整備を計る様にすべきであるという指摘があった。この指摘をもとに、小牧市は、愛知県教育委員会と協議をして、年次計画的に発掘調査を進めることとした。そして、昭和50年(1975年)3月に国庫補助による第1次発掘調査が塔跡にて行われた。以後、昭和53年(1978年)5月までの間、毎年発掘調査は行われ、発掘調査は計5回に及んだ。しかし、第5次発掘調査が行われて以降、2015年現在に至るまでの37年間は、大山廃寺遺跡には、何も手が加えられていない。

 この5回に及ぶ発掘調査の結果、大山寺は、その創建は、白鳳期(7世紀)にさかのぼり、中世末の安土・桃山時代(16世紀)まで盛衰を繰り返しながらも、大規模な伽藍を存続させてきたことがわかった。そして、国の史跡の指定範囲は、塔跡部分から山全体へと大きく拡大された。現在、大山廃寺跡が存在する山一帯の46.06haは、愛知県小牧大山自然環境保全地域となっている。

 ところで、中世末の安土・桃山時代(16世紀)以後、江戸時代・明治時代・大正時代と、大山廃寺跡は、廃寺と言う名の寺として、地元の観光名所になってきた。なぜ、大山廃寺跡が、廃寺と言う観光名所になったのか。それは、地元に古くから伝わる言い伝えによるところが大きい。

 大山廃寺の言い伝えを、現在文章として残している代表的なものは、「大山寺縁起」と「江岩寺縁起」の2つである。

 まず、1つめの大山廃寺の言い伝えとして、ここで紹介する「大山寺縁起」は、的叟が寛文8年(1668年)に記したもので、次のような内容のものである。

 延暦年間(8世紀末から9世紀初頭)、伝教大師(比叡山延暦寺で天台宗を開いた最澄)が大山に来て、小さな寺を建て、「大山寺」と名付けた。その後、伝教大師はどこかへ行ってしまい、久しく大山寺は中絶したが、永久年中(12世紀初め)になって、比叡山法勝寺の住職玄海上人が再興して、天台宗第一の巨刹となし、大山寺の名前を大山峰正福寺と改めた。大山峰正福寺は、寺の経営を盛んにして、その地域にある寺をことごとく傘下に収め、大山三千坊と言われるほどに成長した。

 時に、美作国(現在の岡山県)の住人で、平判官近忠と言う人がいた。平判官近忠は、武道の達人であったが、仏の道を志して、諸国行脚をし、大山にたどりついて、大山峰正福寺の玄海上人に会い、弟子になることを願い出た。玄海上人は、快く引き受け、平判官近忠の髪を剃り、法衣を与えた。平判官近忠は、よろこんで、仏の修業に励み、勉強した。平判官近忠は、天台の法もすぐに覚え、修業もすぐ極めたので、玄海上人は、平判官近忠に玄法上人という名前を与えた。

 玄海上人が亡くなると、大山峰正福寺は、玄法上人に引き継がれた。玄法上人は、博識秀才であったので、有力者は、こぞって、その子息を大山峰正福寺に修業に出した。ところが、大山峰正福寺は、近衛天皇の勅願の儀について、比叡山と法論を生じた。仁平2年(1152年)3月15日、比叡山僧兵が一揆をおこし、大山峰正福寺に押し寄せて、僧坊に火を放った。大山峰正福寺の僧侶は比叡山僧兵と戦ったが、玄法上人は、本堂に安座し、僧侶たちに指揮をすることはしなかった。そして、玄法上人は、煙の中で意識を失い、命を終わらせていった。玄法上人が倒れると、玄法上人と共にいた二人の優秀な子供たちは、何を思ったか、炎の中に飛び込んで、時の塵となった。いたい有様であった。山の中にあった大伽藍は全て焼失した。

 そのことが起こってからしばらくして、かねてから病弱であった近衛天皇の病気は悪化した。医者たちは、近衛天皇を治そうとしたけれども、どのように治療しても、効果が現れなかった。その頃、平安京の御所清涼殿に異形の化け物が現れ、人々を恐怖に陥れていた。それで、御所の人々は、安部氏に相談した所、それは、比叡山僧兵に襲われて、一山まるごと焼き払われた大山峰正福寺の僧侶たちの崇りであるので、弓矢で射て退治しなければならないということであった。それで、御所の人々は、兵庫頭頼政に頼んで、化け物を射させることにした。兵庫頭頼政は、家臣の弓の名人である井の半弥太を連れてきて、紫宸殿に待機し、化け物が現れるのを今か今かと待っていた。夜も更けた頃、陽明門の方角より、鵺のような声を発し、光りながら渡ってくるものがあったので、井の半弥太は、そのものに向かって弓を射た所、矢は誤らず、化け物の真ん中を射とおした。化け物は、庭の上にどっと落ちたので、井の半弥太は、かがり火を振り上げてみてみると、その化け物は、胴は虎、尾は蛇の化け物だったので、井の半弥太は、おのれ曲者よと差し止めた。

 しかし、化け物を退治しても、近衛天皇の病気は治る気配がなかった。それで、御所の公卿たちは、皆で話し合った所、安部清業を連れてきて、考えさせようということになった。御所に来た安部清業は、しばらく考えてから、このことは、比叡山僧兵に一山まるごと焼き払われた大山峰正福寺で焼け死んだ二人の児法師の一念であるので、焼き払われた大山峰正福寺のあった所に神社を建てて、二人の児法師の魂を祀れば、近衛天皇の病気は治るでしょう、と答えた。それなら、ということで、公卿たちは、久寿2年(1155年)11月、鷹司宰相友行を勅使として、大山に派遣した。鷹司宰相友行は、いくつか神社を建立し、焼け死んだ二人の子供を「多聞童子」「善玉童子」として、神社の守り神とした。これが現在の児神社である。ついに、近衛天皇の病気は治り、そのことにより、児神社は多くの社領を得、年に6度の祭りを行い、二度繁盛の地となった。そののち、勅使の鷹司宰相友行は、神社が成功したお礼として、大山の中の様々な御神跡に立ち、大山不動に参詣し、3つの滝を、金剛の滝、胎蔵の滝、王子の滝と名付け、大伽藍の跡を一つ一つ申し上げられた。本堂は、12間四方(21.72m四方)あり、30間(54.3m)の廻廊があり、左右に18の御堂があり、前に五重塔があった。その中で、弥勒菩薩と太鼓堂・鐘堂等は焼けずに残った。勅使が来た後も、神徳を称し、霊験新かであった。全ての罪のない者を守りたもう。

 また、2つめの大山廃寺の言い伝えとして、ここで紹介する「江岩寺縁起」は、作者は不明であるが、明治時代に書かれたと推測されているものである。「江岩寺縁起」に書かれている内容は、大山峰正福寺が比叡山僧兵によって一山まるごと焼き払われるまでは、「大山寺縁起」と同じであるが、その後、大山峰正福寺がたどった経緯を次のように伝える。

 大山峰正福寺が比叡山僧兵によって一山まるごと焼き払われてから、様々な宗派の高僧がこの山に来て、修業をしたが、山の中に伽藍を建立するまでには至らなかった。しかし、当時、大山のなかに「洞雲坊」という寺屋敷があり、「洞雲坊」に住む秋岩恵江という僧侶が、仁平2年(1152年)の焼き討ちによって焼け残った仏像を毎日供養していた。第106代正親町天皇の時代(1557年〜1586年)、秋岩恵江という僧侶は、古の大山峰正福寺の再興を願わんと、京都花園妙心寺の高僧である開山恵玄禅師法孫十洲宗哲大禅師を呼んできて、中興と仰ぎ、同時に洞雲坊という寺屋敷の寺号を洞雲山という山号に改めた。そして、秋岩恵江という僧侶の名前の中から二字を取って、「洞雲坊」という寺屋敷を「江岩寺」と改称した。元亀2年(1571年)に創建した江岩寺は、十洲宗哲大禅師を勧請開山と仰ぎ、秋岩恵江和尚を第二世として、法灯を連続し、今日に至っている。

上へ戻る