法灯を継ぐもの シャンバラ編 参考図

現在の入鹿池

上の写真は、2013年9月にこのホームページ管理人が撮影した入鹿池の写真である。

入鹿池決壊被害の図

 上の図は、このホームページ管理人が作成した入鹿切れの被害にあった地域の図である。

入鹿池周辺の図

 上の図は、「入鹿池史」(入鹿池史編纂委員会編集 入鹿用水土地改良区 1994年(平成6年)2月発行)230ページの絵に、このホームページ管理人がペイントで記入したものである。

入鹿池と小牧市の地形図

 上の図は、このホームページ管理人がペイントで作成した図である。(参考文献 「小牧市史 本文編」 小牧市教育委員会 1977年(昭和52年)3月発行)

シャンバラ編の舞台その1

上の図は、「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 1979年(昭和54年)3月発行)の中の「図版2 大山廃寺付近航空測量図」の上に、このホームページ管理人がペイントで記入した、「法灯を継ぐもの シャンバラ編」舞台背景の参考図である。

貴船神社アベマキの木説明板

貴船神社アベマキの木遠景

貴船神社アベマキの木

上の写真は、小牧市上末にある貴船神社の小牧市指定天然記念物アベマキの木の説明板と木の遠景と木の近景の写真である。2015年5月にこのホームページ管理人が撮影したものである。

小牧長久手の戦いの図

上の図は、「スーパーマップル東海三県地図」(昭文社 2000年7月発行)と「小牧の文化財 第二十集 小牧の歴史 W 秀吉VS家康 小牧・長久手の合戦」(小牧市教育委員会 平成17年3月発行)をもとにして、このホームページ管理人が作成した図である。

*小牧長久手の戦いタイムテーブル*

和暦西暦月日出来事
天正10年1582年6月2日本能寺の変で明智光秀に攻められた信長自刃。信長の子信忠も二条城にて自害。
6月13日山崎の戦いで秀吉が光秀を討つ
6月27日清須会議。信長の後継者には、秀吉が推した信長の孫で信忠の子供三法師が決まり、秀吉が後継人となる。二男信雄は尾張を相続し、三男信孝は美濃を相続した。
天正11年1583年4月賤ケ岳の戦い。清須会議の内容に不満を持った三男信孝に対して、秀吉は、二男信雄と結び、信孝を攻めて孤立させ、信孝を支援する柴田勝家を賤ケ岳の戦いで破り、信孝を知多郡野間の大御堂寺で自害させる。このことによって、秀吉に対して身の危険を感じた信雄は、20年以上前から織田家と清州同盟を結んでいた徳川家康に助けを求める。家康は信雄の求めを承諾する。
天正12年1584年3月3日信雄が秀吉と通じたと噂のあった三人の老臣を殺害する。秀吉は、その知らせを聞いて、出陣を命ずる。
3月7日家康が浜松城を発つ
3月13日家康が信雄の居城清須城に入る。秀吉方の武将池田恒興が犬山城奇襲。
3月17日秀吉方の武将森長可が羽黒に布陣する。家康軍が羽黒に進出し、八幡林の戦いで勝利。
3月18日家康が小牧山に砦を築くように命じる。(工事中に多くの考古資料が出土する。)
3月21日秀吉が大阪を発つ。
3月22日家康に命じられていた小牧山の防御工事が完了する。
3月23日家康方の砦である蟹清水砦・北外山砦・宇田津砦が完成する。
3月24日家康方の小幡城と比良城を修理する。
3月27日秀吉が犬山城に入り、二重堀・岩崎・小松寺山・青塚・内久保等の砦を築かせる。(秀吉方の脅しによって、上末城が秀吉方の砦となる。)
3月28日家康が小牧山に入る。
3月29日信雄が小牧山に入る。家康が犬山城を追われた残党に声をかけて田楽砦を築き、小牧山城・蟹清水砦・北外山砦・宇田津砦と結んだ軍用道路を開く。
4月秀吉軍と家康軍の間で小競り合いが続く。
4月6日秀吉方の武将池田恒興と森長可が秀吉に中入り作戦(家康の居城岡崎城を攻撃する)を提案する。秀吉は中入り作戦を了承し、犬山城から楽田城に入る。
4月6日夜半秀吉は岡崎城を目指す37,000余の軍を編成して、4つに分けて、第1隊に池田恒興、第2隊に森長可をつけるなどし、楽田城を出す。秀吉の岡崎侵攻隊は、進軍する途中の大草で合流した上末城の落合将監安親・庄九郎父子の道案内により、岡崎城を目指す。
4月7日秀吉軍が庄内川河畔にある上条城に入り、宿営する。
4月7日午後4時秀吉軍の進軍を目撃した篠木の住民が家康に密告する。
4月7日午後7時徳川先遣隊が小牧山城を出発し、午後10時に小幡城に入る。
4月7日午後8時家康が9,300の隊を編成して小牧山城を出発し、小牧村の江崎善左衛門宗度の道案内で、勝川村を目指す。
4月8日明け方家康が「勝川とは縁起の良い名前だ。」と喜び、竿を立てて庄内川を渡る。庄内川を渡り切った高台から北方面を見下ろし、秀吉軍を確認すると、初めて、家康は甲冑を着る。その後、家康は小幡城に入る。
4月9日早朝秀吉軍第1隊の池田恒興の部隊が白山林にさしかかり、家康方の城を攻め落とす。その頃、最後尾の秀吉軍は、朝食をとっていたところを徳川先遣隊に突然攻め込まれ、総崩れとなる。その頃、家康と信雄は、色金山にて軍議を開き、秀吉軍と合流しないうちに仏ヶ根前山に陣を移すことを決断する。
4月9日昼仏ヶ根で、信雄・家康の軍と秀吉軍が激突する。秀吉軍は、池田恒興・森長可らの武将を失い、家康軍の大勝利に終わる。秀吉軍の死者は2,500、織田・家康軍の死者は510であった。秀吉軍の道案内をした落合将監安親と庄九郎父子は行方不明になる。
4月9日夕方上末城にて、長久手で秀吉軍が織田・家康軍に大敗を期し、道案内をしていた落合将監安親・庄九郎父子が行方不明になった知らせを聞いた留守居役の兵士たち270名余が、上末村の中で長久手方面を眺めることができる高台に登り、自害する。
4月9日午後5時長久手の昼合戦で大敗したという知らせを聞いた秀吉は、楽田城を出発し、家康を討つべく、竜泉寺城に入る。
4月9日午後8時家康は密かに小幡城を出て、比良城を経由して小牧山城に帰る。
4月10日朝家康が小幡城を出て小牧山城に帰ったことを知った秀吉は、竜泉寺城を出て、楽田城に戻る。
5月1日秀吉は、青塚・楽田・犬山に一部の軍隊を残して、小牧から撤退する。
5月2日秀吉は、長久手での大敗を受けて、各地に主要な武将を配置して、引き締めを図る。小牧山城の真正面に位置していながら、徳川方の動きを見抜けなかった小口城には、家康も一目置く武将稲葉一鉄が入城する。
5月以降秀吉軍と家康軍の間で小競り合いが続くが、長久手の戦いほどの決着のつく戦いは起こらなかった。
7月中旬秀吉の撤退を受けて、家康も小牧から撤退する。
11月1日秀吉が桑名にて織田信雄に直接会い、和解する。このことにより、清州同盟に従って小牧長久手の戦いに参加した家康が秀吉と戦う意味がなくなり、秀吉と家康は和解する。家康は秀吉の臣下となり、秀吉は、天下統一を果たす。

上の表は、「小牧の文化財 第二十集 小牧の歴史 W 秀吉VS家康 小牧・長久手の合戦」(小牧市教育委員会 平成17年3月発行)をもとにして、このホームページ管理人が作成した表である。

入鹿用水・木津用水・新木津用水の図

上の図は、「スーパーマップル東海三県地図」(昭文社 2000年7月発行)、「小牧の文化財 第二十集 小牧の歴史 W 秀吉VS家康 小牧・長久手の合戦」(小牧市教育委員会 平成17年3月発行)、「入鹿池史」(入鹿池史編纂委員会編集 入鹿用水土地改良区 1994年(平成6年)2月発行)「都市地図 愛知県20 小牧市」(昭文社 1999年1月発行)をもとにして、このホームページ管理人が作成した入鹿用水・木津用水・新木津用水の図である。

切支丹灯篭説明板

切支丹灯篭

上の写真は、切支丹灯篭とその説明板である。2016年5月小牧市岩崎にて、このホームページ管理人が撮影した。

物部神社説明板の写真

名古屋市教育委員会による物部神社説明板の写真

物部神社本殿の写真

物部神社境内にある石その1の写真

物部神社境内にある石その2の写真

名古屋市東区筒井にある物部神社にて、2018年7月23日撮影。

大山村絵図に書き込んだもの

「小牧市史 資料編2(村絵図編)」(小牧市 昭和53年(1978年)3月発行)の中の大山村絵図解読図の上に、このホームページ管理人が書き込んだもの。 

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