三 山法師はわが心にかなわぬもの

 「ほお、この茶碗は、わらなどの植物の灰を原料にした釉薬をかけて焼いた灰釉陶器ですな。こうして、手で持ってみると、この茶碗の丈夫さがわかる。茶碗の色も私好みの白っぽい色だ。こんな器に料理を盛ったら、おいしそうに見えるだろう。」

 平安時代末期(12世紀)、京都の市場で、法勝寺住職の玄海上人は、ある茶碗に見とれていた。

 「おい、店主、この器はどこで焼かれた物だ?」

 玄海上人が市場でその茶碗を売っていた店主に聞くと、店主は、こう答えた。

 「その器は、尾張の国でちょっと前に焼かれた器だ。尾張の国に篠岡丘陵という丘陵地帯があって、そこで窯を開く日月窯という窯元で焼いていたが、今でもそういう器を焼いているのかどうか。」

 すると、玄海上人は、その店主にこう聞いた。

 「この茶碗を1個買うから、その窯元の場所を教えてもらえないだろうか?それと、その窯元の近くに寺はないか?もし、あったら、その寺も買いたい。

 今、私は、住職をする寺を探している。住職をする寺が決まったら、そこで生活をするための食器も揃えなくてはならない。大きな寺を造るつもりだから、食器の数も大量に必要なのだ。そんな大量の食器を寺まで運ぶのは大変だから、寺の近くに窯元があれば便利なのだが。」

 店主は答えた。

 「ああ、ちょうど、日月窯の者が品物を納めに来ましたよ。ちょうどよかった。住職とは御縁のある窯元ですね。」

 店主が日月窯から来た者を玄海上人に紹介し、玄海上人は、この市場で気に入った、白っぽい灰釉陶器を見せながら、日月窯の者にこう尋ねた。

 「私は、法勝寺という寺で住職をしている者だが、この陶器がとても気に入った。店主に聞いたところ、あなた方の窯で焼かれた物だということなので、少し、尋ねたいことがある。あなた方の窯の近くに、寺はあるか?」

 すると、日月窯の者は、こう答えた。

 「ああ、ございますよ。うちの窯から30分くらい歩いた山の中に、小さな山寺があります。そこには、毎年、誰か修行僧が来て、修業をしています。その山寺は、大山という山の中にあるので、皆、大山寺と呼んでいます。

 大山寺の特徴というと、そうだなあ、大山寺には、太鼓堂があって、いつも、朝修業が始まるときと、夕方修業が終わるときには、太鼓堂の太鼓が打ち鳴らされます。だから、近所の人は、皆、大山寺から聞こえる太鼓の音を聞いて、「ああ、今日も一日が始まる。」「ああ、今日も一日が終わる。」と思うのです。」

 この話を聞いて、玄海上人は、再び、日月窯の者に尋ねた。

 「そうか。ところで、この陶器と同じ物を日月窯で焼くことはできるか?」

 玄海上人が市場で見て気に入った白っぽい灰釉陶器を日月窯の者に見せると、日月窯の者は、その陶器を見るなり、こう言った。

 「ああ、これは、灰釉陶器ですね。私どもの窯のある篠岡丘陵では、50年ほど前には、こういう灰釉陶器が生産の主流でしたね。しかし、今の篠岡丘陵では、こういう陶器を生産している窯はないですね。私どもの窯でも、10年ほど前までは、灰釉陶器を焼く職人さんがいましたが、現在は、このような無釉の陶器を生産しています。この素焼きの感触がいいからと、好まれるお客様も多いですよ。」

 日月窯の者は、市場に持ってきた無釉陶器を玄海上人に見せながら、こう話したが、玄海上人は、その無釉の陶器を手に取って、しばらく考えてから、こう言った。

 「いや、私が気に入っているのは、やはり、灰釉陶器だ。もう一度、このような白っぽい灰釉陶器を焼くことはできるか?もし、できるなら、1個焼いてみてくれ。それが、私が気に入った、この白っぽい灰釉陶器と同じ物なら、大量に発注したい。」

 すると、日月窯の者は、少し困惑した様子を見せたが、玄海上人にこう答えた。

 「うーん、わかりました。10年ほど前に灰釉陶器を焼いていた職人に頼んで、もう一度、私どもの窯で、こういう陶器を焼いてみます。3ヶ月後、その試作品をこの市場に持って参りますので、ご覧になってみてください。」

 玄海上人は、「わかった。それでは、3ヶ月後を楽しみにしているよ。」と言って、市場を離れた。

 玄海上人は、市場から法勝寺に帰ってくるなり、弟子の僧侶を呼んだ。そして、弟子の僧侶に、このような指示を出した。

 「ようやく、白河上皇が指示された寺の創建に踏み切ることができそうだ。尾張の国に大山寺と言う、修行僧によって運営されている山寺がある。その寺は、私が住めそうな寺かどうか、確認してきてくれ。」

 そして、玄海上人の弟子の僧侶は、さっそく、大山寺に調査に出向いた。

 「鴨川の水、双六の賽、山法師は、わが心にかなわぬもの。」という有名な言葉を残した白河上皇の今の政治的課題は、比叡山延暦寺の僧兵対策である。

 比叡山延暦寺の開祖最澄が亡くなってから、比叡山延暦寺は、僧侶の養成機関としての地位を徐々に高めていった。比叡山延暦寺が、それまで、特権階級の者に限られていた僧侶の養成を一般の人々に開放したことによって、確かに、優秀な僧侶が次々と比叡山延暦寺から輩出された。しかし、どのような人でも僧侶になることができるということは、優秀な人材を集める半面、優秀でない者も集めてしまうという結果になる。比叡山延暦寺では、僧侶の中に、エリートと非エリートという階級ができ、非エリートになった者は、その不満を爆発させる機会を探していた。

 そのような不満を持つ僧侶たちの集まりの中には、自分たちの主張を通そうとして、暴力的な態度に出る者たちが現れ始めた。それが、比叡山延暦寺の僧兵たちである。比叡山延暦寺の僧兵たちは、武装して、他の寺と争ったり、都に強訴したりして、貴族や民衆に恐れられる存在となった。

 白河上皇が院に武士をおいたのは、比叡山延暦寺僧兵対策でもあった。しかし、院に武士をおくだけでは、比叡山僧兵を封じることはできなくなっているのが現状だった。やはり、比叡山延暦寺に対抗する寺を造営して、そこに有力者の子弟を集め、延暦寺の勢力を削がなければならない。白河上皇は、自分が天皇の時に建てた法勝寺という寺の中から、最も上皇が信頼を寄せていた玄海上人を選んで、比叡山延暦寺に対抗する寺を造るように、内密に指示していたのであった。

 大山寺に調査に入った玄海上人の弟子の僧侶が帰ってきて、玄海上人に、大山寺の様子を報告した。そして、3ヶ月後の市場で、日月窯の者が持ってきた灰釉陶器を見た玄海上人は、尾張の国の大山寺を、比叡山延暦寺に対抗する寺にすべく、動き出したのであった。

 大山寺に入った玄海上人は、大山寺を比叡山延暦寺の僧兵に対抗できる寺としなければならない。そのためには、大山寺を、比叡山延暦寺に匹敵するか、それ以上の大きさの寺にしなければならなかった。

 白河上皇のバックアップのもと、玄海上人は、まず、廃墟となっている昔の塔の跡から一山隔てた裏側という、わかりにくい場所に本堂を建てた。本堂の大きさは、20m四方あり、50mほどの廻廊が、本堂を回る様に造られた。そして、廻廊の左右には、お堂を18棟造った。比叡山僧兵に対抗するために、玄海上人は、本堂の造りを、山の中の要塞のようにしたのだった。そして、本堂の中には、弥勒菩薩を安置した。

 また、玄海上人は、昔、大山寺の本堂があった場所には、金属工房を造った。新しく造られた金属工房では、鍛冶職人が雇われて、僧侶たちの手伝いも合わせて、武器が生産された。

 玄海上人は、地元の人に親しまれていた大山寺の太鼓堂も新しく造りなおした。太鼓堂は、2階建てとなり、2階には、太鼓の他に半鐘も吊り下げられた。太鼓は、皆に毎日時間を知らせるために置いた。半鐘は、洪水などの災害が起きたときに、地元の人々に危険を知らせる目的もあったが、何よりも、玄海上人は、比叡山僧兵が攻めてきたときのことを考えて、半鐘を置いていた。また、玄海上人は、新しい太鼓堂を建てる場所は、今までと同じ場所にしたが、太鼓堂の建物の向きを以前とは少し変えた。新しい太鼓堂は、山肌を背にして、以前より山肌と平行した向きに建てられたことにより、太鼓堂から打ち鳴らされる太鼓や半鐘の音が、山肌に反響して、以前より、地元の人に聞こえやすいようになった。

 そして、玄海上人は、大山寺の名前を「大山峰正福寺」と改めた。「大山峰正福寺」は、白河上皇のバックアップを受けた玄海上人によって、寺としての活動を活発化していった。大山峰正福寺には、人が集まり始め、それに伴って、山の中に坊もたくさん建てられていった。そして、近隣の寺をことごとく傘下とした大山峰正福寺は、「大山三千坊」「大山五千坊」「西の比叡山、東の大山寺」といわれるほどの、天台宗第一の巨刹となった。

 さて、大山峰正福寺が天台宗第一の巨刹となったある日、美作国(岡山県東北部)の住人である平判官近忠という者が、尾張の国の大山寺を訪ねた。平判官近忠は、武道の達人だったが、武道を捨てて、仏道に志し、諸国を行脚していた。

 平判官近忠は、大山峰正福寺となった大山寺を見て、玄海上人に会い、弟子になることを願い出た。玄海上人は、快く受け入れて、平判官近忠の髪を剃り、僧衣を与えた。平判官近忠は、仏道に専念し、天台宗の法や梵字をすぐに覚えた。そして、平判官近忠は、物事を学ぶことが、他の人よりも優れていたため、玄海上人は、平判官近忠を賞賛し、平判官近忠の法名を玄法上人と名付けた。

 その後、大山寺を大山峰正福寺として、天台宗第一の巨刹となさしめた玄海上人が亡くなり、玄法上人が、玄海上人の跡を継いだ。玄法上人は天性博識秀才だったので、大山寺の近隣の有力者たちは、こぞって、子弟を大山寺に修業に出した。

 大山寺に修業に来た有力者の子供たちの中には、三河の国出身の牛田と言う子供や、近江の国出身の佐々木と言う子供のように、一を聞いて百を察し、一度読んだことはすぐに暗記し、理にも通じ、本をよく読む優秀な子供たちもいた。玄法上人は、そのような子供たちのためにも、そうでない子供たちのためにも、玄海上人のように、大山寺を更に充実させていった。

 玄法上人は、玄海上人の跡を継ぎ、大山寺で使用される仏具や食器は、全て、篠岡丘陵の日月窯に焼いてもらった。篠岡丘陵で操業していた窯が、粘土の不足などで、他の地域に移り始めている中、日月窯は、大山寺のために、無釉の陶器だけでなく、灰釉陶器も焼き続けた。篠岡丘陵の粘土は、どんどん減少していくのだった。

 玄法上人は、玄海上人の跡をついで、大山寺の住職になったため、大山寺を、比叡山延暦寺僧兵に対抗する寺にするという、白河上皇と玄海上人の意思をそのまま受け継いだ。玄法上人は、武士の出身であったので、大山寺の中で武器を作り、僧侶に武器の使い方を教えて、訓練するという施策には、特に力を入れた。

 玄法上人が、有力者の子弟を教育することと併行して、大山寺に僧兵を組織し、その僧兵を使って、地元の治安を守るということにも力を入れたため、大山寺は、地元にとって、経済的に潤うだけでなく、安全も守ってくれる寺となった。大山寺は、いつしか、地元になくてはならない寺となっていった。

 玄法上人がそのように大山寺で頑張っている間に、都では、白河上皇が崩御し、鳥羽上皇による院政の時代が始まった。鳥羽上皇は、それまで天皇であった崇徳天皇を退けて、まだ2歳であった近衛天皇を即位させた。

 この頃の日本(12世紀)は、比叡山延暦寺の僧兵の脅威と併行して、武士が中央政界に進出したという特徴がある。中央政界に進出したときの武士の役割といえば、現在の自衛隊・警察・消防のようなものだった。飢饉、疾病、洪水などの天変地異は、人々の心の中を殺伐とさせ、都の中は、毎日、火事が起こり、盗賊は横行していた。

 そんな不安定な時代に、日本の東の空に、突然、ハレー彗星がやってきた。この時代の人々は、ハレー彗星に恐怖を感じ、人々の心は、更に不安定になっていくのだった。

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