四十 清国

 明治3年(1870年)12月初旬の月曜日の朝、貴船神社本殿に座り込んで話をしていた陶磁職人の稲垣銀次郎は、ここまで話すと、一息ついて、手に持っていたお茶を飲んだ。そして、江岩寺の中村住職、一条院孝三、青木平蔵、石川喜兵衛をゆっくりと見まわして、こう言った。

 「ところで、一晩中話を聞いていて、皆さん、疲れませんか?話の続きは、まだまだ長い。ここで、一休みして、家へ帰って休息してはどうでしょうか。青木さんと石川さんには、今日一日で体をしっかり休めていただき、明日からの仕事に備えていただきたいのですけれども。」

 「大山焼のこと すっかり忘れてた。」

 石川は、はっと我に返った。そして、青木は稲垣にこう聞いた。

 「明日から、私たちは絵の勉強をするのでしょうか?」

 稲垣は、青木からの質問にこう返した。

 「絵は、素地に型紙をあてて、その上を塗りつぶすことによって描くこともできますし、点や〇を描くだけでもいい。我々が作る大山焼は、安くて大量に生産する生活用品であり、芸術品を作るわけではないのです。絵の勉強をするほどのことではない。それよりは、できるだけ安い費用で、大量の土を手に入れたり、釉薬をできるだけ安く手に入れたり、作った陶磁器を多く売りさばく方法を考えることの方が重要です。そのアイデアを出すためには、江岩寺の中村住職や一条院孝三さんの話を聞くことは、絵を勉強することよりはるかに重要です。

 明日からは、青木さんと石川さんが大山廃寺跡で集めた粘土を使って、3人それぞれ陶磁器を作ります。そして、陶磁器ができたら、販路の確保です。」

 稲垣の話を聞いて、青木と石川は背筋を伸ばした。そして、稲垣はこう続けた。

 「この話の続きは、仕事をしていく中で、機会があれば、少しずつ、私の口から、石川さんや青木さんに伝えていきますよ。清国の陶磁器は、景徳鎮をはじめとして、世界の最先端技術の水準を持っています。陶磁器生産の仕事をしていく中で、清国は外せない国です。陶磁器の仕事に携わる青木さんや石川さんは、必ずや、この話の続きを聞く日が来ます。」

 そして、稲垣は、貴船神社本殿の扉を開け、外に出た。江岩寺の中村住職、一条院孝三、青木平蔵、石川喜兵衛も稲垣の後に続いて、貴船神社本殿を出た。外の空気は冷たいが、天気は晴れている。稲垣たちは、上末村から篠岡丘陵を歩いて大山村に帰ることにした。歩いて帰る途中、稲垣は、青木と石川にこのように話した。

 「ところで、享保8年(1723年)、清はキリスト教を禁止した。清の政府の中にいた宣教師以外の宣教師は国外退去となる。寛永9年(1632年)の入鹿池築造と共に明に渡った10人の日本人キリスト教徒たちの子孫は、明から清になり、ついに清がキリスト教を禁止したこの時、二手に分かれて行動した。1つのグループは、イエズス会が清を追われた後に、清に存続していたロシア正教会を頼って、商売をする傍ら、細々と、徳川幕府に清の情報を送り続けた。もう1つのグループは、徳川幕府との関係を断ち、イエズス会と共に清から西に進んだ。そして、そのグループは、ヨーロッパからアメリカ大陸へ渡り、アメリカ大陸で生活することになった。」

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