四十一 「尾張は、将軍位を争うべからず」その1

 明治3年(1870年)12月初旬の月曜日の朝、上末村から篠岡丘陵を歩いて大山村に帰る途中、稲垣は、青木と石川にこのように続けた。

 「今日は、晴れていて、歩いていても気持ちがいい。こういう日は、地下にいるよりも、外にいる方が断然いい。あっ、こんな所に緑釉陶器のかけらがありますよ。ここにあった窯跡が使われなくなってから700年の月日がたっても、緑色がきれいですね。陶磁器は、永久ものですね。」

 そういうと、稲垣は、拾った緑釉陶器のかけらを袂に入れ、話を続けた。

 「このかけらは、今後の陶磁器つくりに必ず役立ちます。

 ところで、寛文年間(1661年〜1673年)に尾張(現在の愛知県西部)や美濃(現在の岐阜県南部)において濃尾崩れが起こり、たくさんのキリスト教徒が死罪となったが、死罪とならなかったキリスト教徒も多くいた。それほど、この地方には、キリスト教が普及していた。キリスト教は、実は、家族の間で伝わることが多く、先祖代々キリスト教徒であるというのが一般的だ。だから、死罪になったキリスト教徒の中には、多くの小さい子供がいた。」

 正徳3年(1713年)12月、21歳になる6代尾張藩主徳川継友は、10年ほど前に山の中に新しく建てられた物部神社のイチョウの木の下にいた。継友は、尾張藩付家老犬山城主成瀬正幸など3人の従者を後ろに従えていた。継友の足元は、落葉した黄色いイチョウの葉で埋め尽くされている。そして、継友と大きな角ばった石を挟んで、向かいには、3人の20代から30代の男たちがいた。そして、3人の男たちの中で、30代になるリーダー格の男が頭を下げながら、継友にこう言った。

 「殿のお父上である3代尾張藩主徳川綱誠殿が、10年前、荒廃していたこの神社を建て直したのです。従って、代々この神社の周囲に住む古井村のものは、皆、尾張藩の方々には感謝しているのです。」

 「3代藩主徳川綱誠は、元禄11年(1698年)に「尾張風土記」の編纂を命じたまま、元禄12年(1699年)6月に48歳で亡くなりました。そして、私たちは、3代藩主徳川綱誠が残した未完成の原稿を元にして、「尾張風土記」の続きを完成させようと努力しています。しかし、その道のりは、なかなか、遠い。現在は、尾張藩内にある全ての村の神社や寺、名所旧跡などの調査をしています。」

 ここまで言うと、6代尾張藩主徳川継友は、尾張藩付家老犬山城主成瀬正幸に何か耳打ちをした。そして、尾張藩付家老犬山城主成瀬正幸が後ろに向かって、「あれをここに。」というと、神社の外に待機していた尾張藩主徳川方の従者たち6人ほどが、一斉に神社の中に入って来て、野点の準備を始めた。神社にあった大きな角ばった石の横に御座を10枚並べて、茶道具が置かれた。黄色い絨毯の上に敷かれた御座の上で茶を入れ始めたのは、3人ほどの女性従者たちだった。そして、一斉に神社の中に入ってきた尾張藩主徳川方の従者たちは、6代尾張藩主徳川継友と尾張藩付家老犬山城主成瀬正幸他4名と古井村の者3名を促して、茶釜の前にある一角に向かい合って座らせた。お菓子とお茶が次々と、御座に座った7名のもとに運ばれていく。

 「どうぞお召し上がりください。」

 6代尾張藩主徳川継友はこう言って、お菓子をつまみ、抹茶を飲みながら、話始めた。

 「大山村という村が尾張藩東北の端にあります。尾張藩士が大山村のことを調べるために大山村の村民にいろいろ尋ねたのですが、彼らは、なぜか、尾張藩士にあまり協力しようとしない。彼らは、大山村が尾張藩に提出している年貢の量や田畑の様子、山林の様子については話す。しかし、山林の中に何かありそうなのだが、「昔、この山の中に大山三千坊ともいわれるほどの巨寺があったが、平安時代末期に比叡山から来た僧兵に一山丸ごと焼き払われた。その時焼け死んだ二人の稚児を弔うために児神社が建立した。」以上のことは話してもらえない。彼らは、本当に自分たちの村のことを知らないのか、それとも、何か訳があるのか。

 そして、尾張藩士は、村の中を歩き回ったあげく、江岩寺という寺にたどり着き、江岩寺住職にいろいろ聞いてみたのです。しかし、江岩寺の住職もそれ以上の詳しいことは知らない様子だ。それで、困った尾張藩士は、「とにかく、村に伝わる言い伝えを文章にして、尾張藩に提出してください。三日後に、それを取りに伺います。」と江岩寺住職にお願いしたのです。江岩寺住職は、尾張藩士の提案を快く引き受けてくださいました。そして、江岩寺住職は、尾張藩士と別れる際にこう言ったのです。

 「ここから南の方に古井村という村があり、そこに物部と名乗る一族が住んでいます。彼らに聞くと、もう少し詳しい話が聞けるかもしれません。」

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