四十二 「尾張は、将軍位を争うべからず」その2

 正徳3年(1713年)12月、物部神社境内のイチョウの木の下で、6代尾張藩主徳川継友がこのように話し終わると、向かいに座っていた古井村の30代になるリーダー格の男が話し始めた。

 「私たちの方が一足早くこの場所にたどり着いたのです。」

 そう言って、30代になるリーダー格の男は、お茶を一口飲んだ。そして、更に話を進めた。

 「私の名前は、物部佐吉といいます。私たちの祖先は、今から1440年ほど前に中国にある晋という国から日本に渡ってきました。私たちが日本に渡ってきた理由は、日本にある邪馬台国という同盟国の女王壱与が中国にある同盟国の晋に助けを求めてきたからなのです。私たちの祖先は、中国の晋で官僚をしており、晋と同盟国の日本の邪馬台国が同じく日本にある狗奴国から戦争を仕掛けられて困っているということなので、日本の調査のために、家族と共に日本に渡ったのです。

 日本に渡った私たちの祖先は、邪馬台国の女王壱与に挨拶をすませると、さっそく、狗奴国の調査を始めました。邪馬台国の女王壱与は、どうやら、狗奴国のある場所すらつかめていない様子でしたので、私たちの祖先は、まず、狗奴国という国がどこにあるのかをつきとめることにしました。その結果、狗奴国という国がどうやら、この尾張地方にあるらしいということをつきとめたのです。私たちの祖先は、尾張地方への潜入調査を実施しました。

 しかし、私たちの祖先は、狗奴国の軍隊に捕まってしまいます。そして、狗奴国の心臓部である地下施設に連れていかれました。私たちの祖先は、その時、死を覚悟しましたが、狗奴国のリーダー格の男が、私たちの祖先に、自分たちの仲間になって、狗奴国を一緒に建国していこうと呼びかけたのです。狗奴国は、私たちの祖先が持っていた中央集権的な官僚の知識を欲していたようなのです。私たちの祖先は、狗奴国の位置さえつかめていない邪馬台国よりも狗奴国について行った方が有利であると考えたのでしょう。もう、中国に帰るのをあきらめた私たちの祖先は、家族を狗奴国に呼び寄せ、中国の晋とも日本の邪馬台国とも連絡を絶って、狗奴国の地下施設で暮らすことにしました。」

 物部佐吉がここまで話すと、今度は、物部佐吉の隣に座っていた30代くらいの男が話し始めた。

 「そして、今から1440年ほど前、中国の晋から日本の九州地方に渡ったもう一つの家族がいました。その家族の祖先は、キリスト教宣教師で、もともとは、ローマ帝国に住んでいましたが、ローマ帝国では、キリスト教徒に対する迫害が激しさを増してきたので、ローマを脱出し、東へと歩を進めました。そして、中国の晋から日本の九州に上陸し、更に東へと歩を進めていたとき、私たちの祖先と狗奴国の地下施設で出会いました。

 ローマ人キリスト教宣教師のその家族と狗奴国で出会った頃、私たちの祖先は、狗奴国の中では、まあまあの地位についていました。いつも聖書を手に携えたローマ人キリスト教宣教師のくっきりした目鼻立ちは、明らかに東洋人とは違っていますので、私たちの祖先の目にとまったこともあったのでしょう。私たちの祖先は、ローマ人キリスト教宣教師と中国晋の懐かしい話で盛り上がりました。そして、意気投合した二人は、ともに、狗奴国の建国に力を貸すことにしました。私たちの祖先が物部を名乗っていたことに対して、そのローマ人キリスト教宣教師は、「ノグトュス・アウレリウス・ペッラ」と長い名前を名乗っていたため、私たちの祖先は、ローマ人キリスト教宣教師を「ノグチ」と呼び始めました。やがて、狗奴国の中で、ローマ人キリスト教宣教師の家族は、名前を「野口」と名乗るようになりました。」

 そして、今度は、物部佐吉の隣の隣に座っていた20代くらいの男が話始めた。

 「そして、物部と野口が狗奴国の地下施設で、狗奴国をまとめ始めた頃、中国の晋から、もう一つのグループが狗奴国の地下施設にやってきました。そのグループの先祖は、今から1490年ほど前に中国を統一していた秦の始皇帝のもとで働いていた者たちであるという言い伝えを持つ。その者たちは、行方不明になった私たちの先祖である物部を探すために、中国晋の依頼を受けて、日本の邪馬台国に入りました。そして、狗奴国を探して、ここに来たのだと言いました。その者たちは、名前を秦(ハタ)といい、中国では、土木や養蚕・機織り・農業などをこなしていたと言いました。

 物部と野口は、狗奴国の経営に行き詰っていて、新しく日本に起こった大和という国の傘下に入るかどうか決断する最中でした。そして、物部と野口の間では、頼りない邪馬台国は、やがて、大和国家につぶされていくであろうという意見で一致していました。そして、邪馬台国が大和国家によってつぶされてしまえば、中国晋との連絡は途絶えてしまうだろうという見方を示し、秦のグループに、こう決断を迫りました。

 「おそらく、近いうちに邪馬台国はつぶされ、中国晋との連絡は途絶えてしまうだろう。だから、今すぐ、ここを離れて中国に戻るか、私たちと共に、狗奴国から大和国になるであろう日本に残るか、決断してほしい。」

 そして、秦のグループは、迷うことなく、物部と野口のもとに残ることにしました。秦のグループがキリスト教を信仰していたため、中国晋に残っても、おもしろくないことが多いことも影響していました。」

 そして、物部佐吉は、6代尾張藩主徳川継友にこう言った。

 「そして、物部が中央集権体制を作り、野口が民の心のケアをし、秦が物を作るということをベースにしていた狗奴国は、大和国家に統一されていきました。しかし、狗奴国が大和国家に統一されたのちも、物部と野口と秦のグループは、尾張地方を統治し続けていました。そして、私たち物部一族は、先祖の歴史を1440年もの間、このように言い伝えることができました。しかし、野口は、この後、数奇な運命に会っていくのです。そのことが野口の子孫たちに言い伝えがうまく残らなかった理由となります。そして、今後、私たち物部一族の間でも、言い伝えは残らなくなっていくかもしれません。言い伝えを残すということは、本当に難しいことなのです。」

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