四十三 「尾張は、将軍位を争うべからず」その3

 正徳3年(1713年)12月、物部佐吉たち古井村民が帰って行った後の物部神社境内のイチョウの木の下で、6代尾張藩主徳川継友は、尾張藩付家老犬山城主成瀬正幸と向かい合って座っていた。継友は、手に載せていた抹茶茶碗の底を見ながら、成瀬にこう言った。

 「50年以上前にこの地方に起こった濃尾崩れにより、とりあえず、尾張藩をはじめとする濃尾地方では、キリスト教徒は全滅したことになっている。だから、「尾張風土記」の続きには、キリスト教関係の史跡などは、一切、載せてはならない。しかし、この地方に、キリスト教が古い時代から根付いていたとはな。」

 すると、成瀬は、継友をまっすぐ見つめ、継友に諭すようにこう言った。

 「現在第7代徳川幕府将軍である徳川家継殿は、若干4歳の子供であるので、実質的に政治を行っているのは、56歳になる側近の新井白石殿や母親の月光院殿をはじめとする大奥の方々です。中でも、新井白石殿は、尾張徳川家に期待を寄せており、尾張徳川家には、今から政治に参加して、次期将軍の座をつかんでほしいとおっしゃっておられる。新井白石殿は、屋久島で捕まり、江戸に送られてきたシドッチと言う名のキリスト教宣教師と話をして、キリスト教宣教師に対して、悪い感情を抱いていない。むしろ、キリスト教宣教師たちは、自分たちの政治を進めていくうえで、参考になる話を多く語るというのです。尾張徳川家と新井白石殿の間には、共通する気持ちがあるのかもしれません。

 しかし、徳川家康公が江戸幕府を開いてから、110年もの歳月がたったのです。第6代徳川幕府将軍徳川家宣殿が亡くなる直前に次の将軍職として名前を挙げたのは、尾張徳川家第4代目の徳川吉通殿でした。しかし、実際に徳川幕府第7代将軍になったのは、4歳になる徳川宗家の徳川家継殿だった。そして、尾張徳川家第4代目の徳川吉通殿は、4歳で徳川幕府第7代将軍になった徳川家継殿を補佐するため、江戸城に詰めていて、名古屋城に帰ることができず、5か月前に25歳の若さで急に亡くなったではありませんか。そして、吉通殿の息子の尾張徳川家5代目の徳川五郎太殿は、若干、3歳で、父親の死から2か月後に急に亡くなった。私も江戸城にいる亡くなった吉通殿のもとを時々訪れていましたが、江戸城の中では、何が起こるかわからない。現在4歳の徳川幕府第7代将軍徳川家継殿もどうなるかわかったものではありません。今、徳川幕府は続いていくのかどうかの岐路に立っている。それは、徳川幕府の財政事情と同様にキリスト教対策が岐路に立っているからです。

 しかし、私が亡くなった吉通殿のもとを訪れた時、江戸城の私たち以外の者たちは、明らかに私たちに対して敵意を持っていた。このまま尾張徳川家が江戸城の中で権力を持ち続ければ、必ず、内戦が勃発するという敵意だ。ですから、亡くなった徳川吉通殿・五郎太殿の跡を継いで、尾張徳川家第6代当主になられた継友殿は、決して、江戸城に行ってはなりません。徳川宗家の徳川家継殿と尾張徳川家の徳川継友殿が今亡くなると、直系の徳川家の者はいなくなってしまいます。」

 そして、その3年後の正徳6年(1716年)4月、徳川幕府第7代将軍徳川家継は、7歳に満たない年齢で亡くなった。家継の死因は風邪を長引かせたことによる肺炎と言われているが、成人した大人にとってもつらい将軍職に子供の体力でつくことは、無理な話だった。このとき、6代尾張藩主徳川継友は、第8代徳川幕府将軍には就任しなかった。

 享保元年(1716年)、第8代徳川幕府将軍に就任したのは、徳川御三家のうちの紀州藩主であった徳川吉宗であった。この時、徳川宗家においては、第2代徳川幕府将軍徳川家忠以来続いてきた血筋が途絶えた。しかし、大奥は、新井白石らとは違い、尾張藩主よりも紀州藩主の将軍擁立に動いた。大奥においては、たとえ、血筋が途絶えても、尾張藩主を徳川幕府将軍にはしないとする方針が脈々と伝えられ続けてきたことになる。そして、第8代徳川幕府将軍徳川吉宗は、新井白石らを江戸城から追い出し、政治を自分の手中に収めた。財政改革をして、農民から得る年貢を増やしたため、一揆や打ちこわしが増えた。しかし、公事方御定書を発布して、封建制度は強化した。そして、第8代徳川幕府将軍徳川吉宗は、漢訳洋書の輸入禁止策を緩めたが、キリスト教関係の洋書の輸入は決して認めなかった。

 尾張徳川家の者たちではなく、紀州藩の徳川吉宗が第8代徳川幕府将軍に就任した事実を見て、清国は徳川幕府を支持する方向に動いた。清の国で作られた書物の日本への輸出は、いい商売になった。70年以上前に明を滅ぼし、世界最大の帝国になった清は、尾張徳川家が明王朝とつながりを持っていた事実を知っていた。そして、享保8年(1723年)、清はキリスト教を禁止した。

 享保15年(1730年)、尾張徳川家第6代当主徳川継友が39歳で亡くなった。継友には、男子の跡取りがいなかったため、尾張徳川家第7代当主に就任したのは、34歳になる、継友の弟の宗春であった。

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