四十四 「尾張は、将軍位を争うべからず」その4

 「ここを訪れる尾張藩主としては、初代尾張藩主徳川義直殿以来、二人目になりますね。私は、先祖代々、シャンバラ奥の院アガルタに住む弥太郎と申します。」

 享保16年(1731年)3月、入鹿池地下にあるシャンバラ奥の院アガルタで、机を挟んで、弥太郎と徳川宗春は、向かい合っていすに座っていた。机の上の中央には、書物が1冊置かれてある。弥太郎は、40歳になる男性であったが、行燈の光の下では、普通の日本人と変わりなく見えた。弥太郎の後ろには、35歳になる弥太郎の妻と10歳くらいの息子と娘が一人ずつ、いすに座っていた。徳川宗春の後ろには、尾張藩付家老犬山城主成瀬正幸と従者が二人座っている。

 「清の国では、いすと机が当たり前ですが、この日本では、まだまだ、なじみがないですかね。」

 弥太郎はこう言うと、机に置かれた一冊の本を手に取って、宗春に渡した。宗春が渡された本のページをめくり始めると、弥太郎は、話を続けた。

 「この本は、大砲や鉄砲、爆薬などの作り方が書かれた100ページほどの本です。中国明の時代に作られ、私の先祖が買い取ったものですが、表紙をめくって1ページ目には、「この本をイエス・キリストに捧ぐ」と書かれ、最後のページには、「イエス・キリストよ永遠なれ」の言葉と共に十字架の絵が描かれています。しかし、途中の武器の作り方を書かれた部分には、やばいものは何も書かれていない。ですから、私たちは、宗春殿のために、最初と最後のページをそれぞれ、表紙・裏表紙と共に市松模様のついた紙で貼り付けました。これで、江戸幕府の目をごまかすことはできるでしょうが、何がきっかけで、おとがめを受けることになるかわかりませんから、決して、江戸幕府の者たちの目には触れさせてはいけません。」

 これを聞いた宗春は、一言、「わかった。」といい、本を後ろにいる尾張藩付家老犬山城主成瀬正幸と従者に渡した。

 次に、弥太郎の後ろにいた弥太郎の家族の者たちが机の上に運び出したのは、長さ1m50cm、横幅30cmの細長い桐箱であった。宗春が桐箱の蓋を開けると、中に納められていたのは、1m以上ある大きなキセルであった。弥太郎は、こう言った。

 「宗春殿から言われた通りのものを作りましたよ。中には、紙が100枚ほど、こよりのように丸められて入っています。」

 弥太郎は、家族の者たちの助けを借りて、キセルを箱から机の上に出し、キセルの口をつける鉄製の部分を外し、中から紙を4枚取り出した。机の上に広げられた紙は、全て、縦20cm、横15cmくらいの紙で、紙の裏表に、漢字と共に、十字架の絵や植物の絵が描かれている。

 「この本も明の時代に作られたもので、私たちの先祖が大事にしていたものです。この本は、薬草辞典です。薬草の作り方や煎じ方、効用や注意事項が書かれている。しかし、本の全ページに渡って、十字架やマリア様などの絵が描かれていたものですから、私たちの祖先は、その本をバラバラにし、二重箱の底に詰めて、何とか、シャンバラまで、持ってきました。この紙の下の方に数字が書かれていますが、これが本のページですので、この数字の順番通りに紙を並べていけば、1冊の本が出来上がります。このキセルは長いので、飲み口とタバコの葉を載せる鉄製の部分と真ん中3か所くらいが外れるようになっています。ですから、キセルを分解して紙を取り出し、下に書かれた数字の順番通りに100枚ほどの紙を並べてください。根気のいる作業ですね。」

 そういうと、弥太郎は、4枚の紙をキセルの口をつける鉄製の部分に押し込み、キセルの口を本体にねじりつけた。そして、再び、家族の者たちと共にキセルを桐箱の中に入れ、蓋をした。宗春の後ろにいた尾張藩付家老犬山城主成瀬正幸と従者のものが机の前に出てきて、キセルの入った桐箱を大事そうにひざの上に置いて、いすに座った。

 次に弥太郎の家族の者たちが机の上に出してきたものは、風呂敷包みだった。弥太郎が風呂敷包みを開けると、中から、紙袋に包まれた色鮮やかな着物が顔を出した。赤い花や黄色い蝶々などが描かれた着物だ。そして、弥太郎は、着物を裏返し、首元を縫ってある糸を外し、着物の中から、たたまれた紙を1枚取り出した。

 「宗春殿の指示通り、この着物の中には、100枚ほどの紙が入っています。この紙を下に書かれた数字の順番通りに並べていくと、庭園の造り方の本になります。この本も薬草の本と同じですが、庭園の絵の片隅にマリア像が描かれていたり、絵の真ん中に十字架が配置されていたり、この造り方の庭園自体がやばいものです。しかし、庭園の土の作り方や池の作り方、植物や木の配置や育て方などは、キリスト教関係なく、参考になるものらしいです。」

 そういうと、弥太郎は、紙を着物の中に押し込み、後ろに座っていた妻に着物を渡した。弥太郎の妻は、着物の中に紙をたたんで入れ直し、首元を糸で縫い付けて、着物を机の上に置かれた紙袋に入れ、紙袋を風呂敷で包んで、宗春に渡した。宗春は、「ありがたく、頂戴いたす。」といって、弥太郎の妻に会釈をし、後ろに座っていた従者に風呂敷を渡した。そして、弥太郎にこう言った。

 「今回の本とキセルと着物の代金として、打ち合わせ通り、銀1万匁を持ってきたので、受け取ってくれ。この銀を元手に、これからも清との交易に励んでほしい。そして、今後、名古屋城周辺に、大きな薬草園を造るつもりであるので、その時は、シャンバラに人手の確保をお願いする。」

 享保16年(1731年)4月、第7代尾張藩主徳川宗春は、白い牛に乗り、赤い花や黄色い蝶々が描かれた色鮮やかな着物を着て、名古屋城下を練り歩いた。宗春の手には、1m以上ある大きなキセルがあり、キセルのたばこを載せる先の部分は、宗春の従者が持って、宗春と共に歩いた。そして、宗春は、名古屋城下に遊郭や芝居小屋を造り、武士たちをそこで遊ばせた。また、宗春は、「温故知要」と題する自著を出版した。宗春が書いた「温故知要」には、人命の重視・個性の尊重・地方の分権化・規制の緩和などの政治方針が掲げられていた。宗春が書いた「温故知要」には、質素倹約や規制強化を掲げた、第8代徳川幕府将軍徳川吉宗が行う享保の改革とは、明らかに違う政治方針が書かれてあった。

 「第8代徳川幕府将軍徳川吉宗殿に、名古屋城下に薬草園を造りたいとお願いしたところ、その参考までにと、高麗ニンジンを渡された。一方、シャンバラで手に入れた薬草の本によると、薬草園を造る前に、土を造るための庭を造り、植物を育てたほうがよいとある。名古屋城の東に第2代尾張藩主徳川光友公が造った64000坪の御下屋敷があるだろう?御下屋敷の庭の一角に薬草園を造り、吉宗殿からいただいた高麗ニンジンを始めとする薬草を育てたい。そのために、シャンバラに行って、人手を確保してきてほしい。」

 第7代尾張藩主徳川宗春が尾張藩付家老犬山城主成瀬正泰にそう指示し、名古屋城の東にある64000坪の御下屋敷の庭の一角にに大きな薬草園を造り始めたのは、享保20年(1735年)4月のことであった。

 享保21年(1736年)4月、第8代徳川幕府将軍徳川吉宗は、改元を行い、享保は元文となる。第8代徳川幕府将軍徳川吉宗の権力は、それまで天皇が行ってきた改元に口を挟むことができるほど、強くなっていた。そして、元文4年(1739年)1月、第8代徳川幕府将軍徳川吉宗は、第7代尾張藩主徳川宗春に蟄居を命じる。宗春が書いた「温故知要」は、禁書となり、廃棄処分となった。第8代尾張藩主には、新しく、徳川宗勝という者が就任した。第7代尾張藩主徳川宗春は、最初は名古屋城に幽閉されていたが、その後、宗春が造った薬草園のある御下屋敷に幽閉されていった。

 そして、明和元年(1764年)10月に亡くなるまでの25年間、第7代尾張藩主徳川宗春は、御下屋敷に幽閉された。しかし、第7代尾張藩主徳川宗春が幽閉されていた御下屋敷には、薬草園のメンテナンスを行うシャンバラの者がひっきりなしに訪れていた。

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