四十五 本堂が峰の二郎窯

 明治3年(1870年)12月初旬の月曜日の朝、上末村から篠岡丘陵を歩いて大山村に帰った稲垣たち一行が大山村の入り口に到着したときは、昼ごはんの時間に差し掛かっていた。稲垣たち一行は、大山村入り口にある茶屋で、サツマイモご飯とアジの干物と豆腐の味噌汁という軽い食事をとった。そして、稲垣は、青木と石川に向かって、このような話をした。

 「皆さんも先ほど、入鹿池の地下で、胸に十字架が彫ってある仏像などを確認していると思うのですが、寛永元年(1624年)に第3代徳川幕府将軍徳川家光公がスペイン人の来航を禁止して以来、リーダーがいなくなった日本人キリスト教徒たちは、自分たち独自のキリスト教文化を作り上げていくのです。そして、徳川幕府がキリスト教に対する締め付けを強めれば強めるほど、日本独自のキリスト教文化は、幕府の手から逃れようと更に進化を続け、浮世絵などとは違った形で、地下で花を開かせるのです。そして、日本独自のキリスト教文化は、現在まで脈々と受け継がれているほど、お金を儲けることができる。

 私が知っている大山村のその人は、仏像や石碑を作る石職人ですが、同時に、少し変わった茶碗や皿などをたくさん作って、お金を儲けています。私は、大山焼を作って商売をするために、その人の協力を求めています。来週の月曜日、その人に会いに行く手はずを整えていますので、青木さんと石川さんも私と一緒にその人に会いに行ってください。」

 1週間後の朝、稲垣と青木と石川は、大山村にある江岩寺に集まって、不動坂を10分ほど登り、大山不動堂の前に立った。不動堂の前の紅葉はすべて散り、不動堂の前は、赤じゅうたんを敷き詰めてあるかのようだ。

 「今、気付いた。不動堂は、他の仏教寺院の仏堂とは少し違う。」

 石川がこういうと、青木も続いてこういった。

 「隠れキリシタン、ですね。」

 「日本には、太古の昔からキリスト教が根付かなくてね。この大山には、太古の昔から、隠れキリシタンがいたのだ。平安時代末期に大山寺を一山丸ごと焼き払った比叡山延暦寺の僧兵たちも、大山寺を焼き払う理由をいろいろと並べ立てたが、その本心は、大山にいる隠れキリスト教徒たちが目障りだったからなのだ。

 不動堂の奥から入り、シャンバラの入り口に到達する前に右へ曲がり、児川を越えて、登っていくと、10分くらいで、二郎窯に着きますよ。」

 稲垣はそういうと、先頭に立って、不動堂の奥に消えていった。青木と石川も後をついていく。

 不動堂の奥から5分ほど登ると、稲垣は、山道を右に曲がり、川の中から突き出た2〜3個の石の上をトントンと渡って、児川を越えた。

 「ここら辺は児川の源流付近なので、児川は小さい。特に冬は川幅が狭い。児川は、色んな場所から出る源流が集まって、ふもとの大山村を流れるが、この場所の上にある児川源流は、1月の中旬くらいには、完全に水が湧かなくなります。そして、再び源流に水が湧きだすのは、3月中旬の春ころになります。だから、ここの源流の水を利用して陶磁器を作っている二郎窯は、冬は、仕事を休みます。12月の今は、今年最後の窯出しをしている最中ですよ。」

 稲垣がこういっている間に、稲垣たちは、青い色の陶器に「二郎窯」と黒字で彫られた看板を掲げた石塀の前に到着した。「二郎窯」の看板の下には、高さが1メートルくらいで、50p四方の長方形の石の上に柄付きのベルが置かれてある。稲垣がベルを振って鳴らすと、中から20代くらいの若い男が出てきて、稲垣たちを中に入れた。

 20代くらいの若い男は、稲垣たちを窯出しの現場に通した。そして、青木と石川は、窯出しされた陶磁器を見て、目を見張った。どの陶磁器も、真っ白で、模様はないが、光輝いて見える。

 「ここで作られる陶磁器は、上末村で産出されるカオリンという土を使用している。陶磁器の製作方法は、門外不出だ。この窯は、江戸時代中頃の明和元年(1764年)に、亡くなられた元尾張藩主の徳川宗春公の意思を継いで、山村二郎という者が始めたから、二郎窯という。シャンバラの者は、一部の尾張藩の者と協力して、江戸幕府に秘密で、中国や日本にいる隠れキリシタンから陶磁器製作の本を手に入れていた。二郎窯の者は、その本を見ながら陶磁器を作っていたから、この窯は違法組織だった。いや、シャンバラの者は、一部の尾張藩の者と結びついていたから、その尾張藩の一部の者も違反者だ。尾張藩の一部の者も、入鹿池を造って以来の尾張藩の財政難を克服するために我々に協力してきたが、見つかったら、刑場で拷問を受ける。だから、この窯は、こんな山奥にあるんだ。」

 窯の前に立っていた60代くらいの白いひげをはやした男が青木と石川にこう話しかけた。

 「しかし、江戸幕府が倒れて、明治政府が政権を掌握したから、もうすぐキリスト教は解禁になり、陶磁器の製作販売組織も自由化される。今まで、陶磁器は、江戸幕府が認めた者のみが、製作したり販売したりすることができた。だから、この窯で違法に作ったこれらの陶磁器は、今までは、闇の販売ルートによってのみ販売してきた。それでも、かなりのお金は儲かっていたのだがな。しかし、これからは、二郎窯で作った陶磁器は、市場で堂々と売ることができる。本当に大久保様には感謝しかない。東京にいる大久保様は、我々が作り、闇の販売ルートで販売していたこれらの白い陶磁器を見て感動し、我々の陶磁器を市場で売ることができるようにしてくださった。」

 そして、稲垣は、青木と石川にこういった。

 「青木さんと石川さんには、来年の1月に名古屋城前で開催される市場で、これらの陶磁器を売っていただきます。名古屋城前で開催される市場を取り仕切る役人は、林という者です。青木さんと石川さんには、大久保様の命令でその市場を開催する林様のいうことをしっかり聞いていただき、できるだけたくさんの陶磁器を売り、お金を儲けていただきたい。儲けたお金の5割が青木さんと石川さんの分け前です。」

 「林だって?まさか、あの林じゃあないだろうな。」

青木と石川は、心の中でこうつぶやいた。

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