四十六 名古屋城前市場にて

 大山にある二郎窯から名古屋城まで陶磁器を運び出す荷受け屋という人たちもいたが、青木と石川は、荷受け屋には仕事を頼まなかった。青木と石川は、昨年12月のうちに、二郎窯でできた200個以上ある陶磁器を一旦大山村に運び出した。そして、大山村にある青木と石川の仕事場に陶磁器を保管し、市場でそれらの陶磁器を売るための作業を行った。同じ形をした陶磁器5個を1つの木箱に詰め、大きな壺5個は、1つずつ木箱に詰めた。年が明けて、明治4年(1871年)1月19日の朝がまだ明けない頃、40箱の小さい木箱と5個の大きい木箱を1つの大八車に固定し、青木と石川は大山村を出発した。青木と石川は、大山村を南に下りた場所にある善光寺道を通って名古屋城へ向かう。一里(約4km)ごとに設けられた塚に着くたびに休憩し、大八車を押す側と引く側を交代して、名古屋城近くにある宿に着いたときは、夕方だった。

 明治4年(1871年)1月20日の朝、名古屋は、冬の晴天だった。青木と石川は、大八車とともに名古屋城正門前に立った。昨年9月に尾張藩士を辞職して以来、陶磁器を売る商売人として、青木と石川は再び名古屋城正門をくぐる。稲垣が言っていた市場は、名古屋城天守閣や本丸御殿の前にある名古屋城西の丸が会場らしい。ということは、市場に買い物に来る人々もそれなりに位の高い人々であるはずだ。明治維新が起こり、廃藩置県が行われて尾張藩がなくなって、愛知県になってからも、名古屋城正門をくぐることができる人は、特権階級に限られる。

 「お前ら、よくここに戻ってこられたな。尾張藩主徳川義宣と犬山藩主成瀬正肥は、今、東京に住んでいるぞ。」

 青木と石川がその声の方向を見ると、名古屋城正門前の向かって右横に、ネクタイとスーツ姿をした明治政府内務省役人の林正三郎が立っていた。

 「別に戻ってきたわけではないですけどね。たまたま、ここで仕事があったというだけですよ。ところで、私たちの店はどこで開けばいいのでしょうか、林様。」

 青木は、林に向かって、丁重にふるまった。そして、明治政府内務省役人の林正三郎は、名古屋城正門の向かって右横にあった小さな木戸を開き、青木と石川を名古屋城の中に招き入れた。小さな木戸は、大八車がぎりぎり入る幅の木戸だった。そして、明治政府内務省役人の林正三郎は、西の丸に生えている1本のカヤの木の下に青木と石川を連れていき、こう言った。

 「名古屋城は、来年になると陸軍のものとなる。そして、名古屋城天守閣や本丸御殿などは、陸軍が保護して、管理する。同時に、陸軍は、名古屋城内で軍事訓練を行う。つまり、来年からは、名古屋城の中へ入ることができるのは、陸軍のみとなる。

 お前らの売る陶磁器は、明治維新以前は、闇ルートでしか販売できなかったらしいな。しかし、これからは、皆の前で堂々と売ることができる。そして、来年から名古屋城に赴任する陸軍大佐の加藤様は、お前らの売る陶磁器に興味があり、ぜひ、見てみたいとのことだ。陸軍が名古屋城に拠点を設けるにあたって、軍人たちの食事を提供する場所も名古屋城内に設けられる。もしかしたら、お前らの売る陶磁器を陸軍の食堂で大量に使用する可能性もあるから、そのつもりで。それと、お前らの店の隣には、野菜を売る農家が来る。

 ここに陸軍関係者向けの市場を出すことができるのは、1月20日から23日の3日間だ。その3日間の9時から17時の間にここに店を構えて、名古屋城を訪れる陸軍関係者に陶磁器を売るのだ。17時になったら、売る品物を持って、名古屋城を出て、明日の朝の9時になったら、名古屋城正門前に立つ者に、この通行証を見せ、名古屋城西の丸に入ってくるように。この通行証は、1月23日の17時に俺が回収に来る。ああ、お前らの隣に店を出す農家の方々が来た、来た。」

 明治政府内務省役人の林正三郎は、農家の人々を連れてきた同僚の明治政府役人に挨拶に行った。一方、明治政府内務省役人の林正三郎から、それぞれ、木の札でできた、手のひらにすっぽり収まる大きさの通行証を受け取った青木と石川は、通行証をズボンのポケットにしまい込んだ。そして、さっそく、カヤの木の下で、持ってきた木の板を組み立てて陶磁器を置く棚を作り始めた。棚は、人間が立ったまま陶磁器を手に取って眺めることができる棚で、全部で3つ作った。そして、青木と石川は、陶磁器を棚に並べ始めた。

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