四十八 瑠璃色の腕輪

 その腕輪は、ちょうど、私たちが宇宙から地球を眺めたときに見ることができる色をしていた。1つの石から加工したように見える腕輪全体が青い色というのではなく、腕輪の所々が青色をしており、所々に白色が混ざり、所々に薄い茶色が混ざっているように見える。

 「これは、ヒスイじゃないかな。いや、俺も初めて見るから、よくわからないよ。そんなことより、あと1年で、1000個の皿と茶碗を名古屋城に納品しないと。明日から、大山で土取りをして、と。今から俺は茶わんや皿のデザインを考えるから。」

 明治4年(1871年)1月24日の朝に集まった大山村の江岩寺で、青木と石川の話を聞いた稲垣は、忙しそうに部屋を出ていった。高さ10cmくらいの白い円筒形の箱の中にその腕輪をしまい、蓋をしながら、石川はこうつぶやいた。

 「邪馬台国の卑弥呼って誰だよ。」

 すると、隣にいた青木がこのように答えた。

 「すっかり忘れていた。大昔に旧入鹿村の地下に軍事拠点、つまりシャンバラを築いたのが、狗奴国だったが、狗奴国と戦っていたのが、邪馬台国だった。明治政府は、刀塚を隠すために、決壊した入鹿池を元に戻したと僕は思い込んでいたのだけれど、明治政府の人間が、なぜ、狗奴国と敵対していた邪馬台国の女王卑弥呼の腕輪を持っていたのだろう?」

 「ああ、また、話が振出しに戻っていく。明日から大山で土取りに忙しくなるから、今日は、この話はもうやめにしないか。この腕輪が入った白い箱は、僕と青木さんが1日おきに部屋で保管するということで。今日は、とりあえず、この白い箱は、僕の部屋の押し入れの布団の下にしまっておくから。」

 石川は、腕輪が入った白い箱を抱えて、江岩寺を出て、山道を下り、大山村の中にある自分の部屋に入った。そして、再び、青木や稲垣と江岩寺に集まった時は、昼頃になった。稲垣は、3人で食事をした後は、また、茶わんや皿のデザインを決めるために、一人で部屋にこもるといった。そして、1000個の皿と茶碗を造るための土取りは、青木と石川に任せるといった。青木と石川は、大山のどこの土を採集するかを決めなければならなかった。食事の後、青木と石川は、江岩寺の中村住職に土取りの場所を相談すると、江岩寺の中村住職は、大山村の東の端にある苗田山の土がいいだろうと答えた。青木と石川は、江岩寺を出て、苗田山に行くことにした。江岩寺から苗田山までは、歩いて15分ほどかかる。

 「稲垣さんとは、1000個の皿や茶碗を作って焼く窯は、本堂が峰の二郎窯ではなく、大山村のはずれの苗田山の近くに新しく造った方がいいのではないかと話していたのですよ。」

 江岩寺の中村住職は、青木と石川にこのように言った。そして、青木と石川が大山村のはずれの苗田山に着いたときは、昼の2時頃だった。1月24日の昼2時頃は、そろそろ、日が傾きかけていく頃だった。青木と石川が苗田山南麓に到着すると、苗田山南麓には、一人の少年が、青木と石川に背を向けて、たたずんでいた。少年の隣には、60代くらいの老人がいて、少年を見守っていた。青木と石川がその少年に近づくと、少年は青木と石川にこう言った。

 「この山は、もうすぐ、なくなるそうだよ。小さいころ、ここでおこもりをしたのを思い出すよ。ここには、僕の先祖の墓があったんだ。」

 少年はそういうと、青木と石川を見ることなく、どこかに行ってしまった。少年の隣にいた60代くらいの老人も、少年の後をついて、どこかに行ってしまった。

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