「苗田山には、かつて、苗田神社や地蔵尊があった。しかし、アメリカ人のペリーが浦賀に来航して開国を迫った安政元年(1854年)頃、苗田山の神社や地蔵尊は、管理する人がいなくなって、廃墟となった。」
「前に話した通り、苗田山は、ここで僕たちが出会った見知らぬ少年の先祖の墓があった場所らしいのですが。そのような場所の山を崩して、土をとり、その土で焼き物を作って、名古屋城に納めることをしていいものなのかどうか。」
石川は、江岩寺の中村住職の話をさえぎって、こう言った。すると、江岩寺の中村住職は、少し怒ったような口調で次のように言った。
「しかし、苗田山を崩して、土をとり、その土で焼き物を作って、名古屋城にいる陸軍に納めることを要望したのは、苗田山の所有者なのですよ。苗田山の所有者は、苗田山という山はこれからの時代に必要のない山だから、というのです。もっとも、私にその話をしたのは、苗田山の所有者ではなく、明治政府の林様なのですが。」
「苗田山の所有者って誰なんですか?」
再び、石川が、江岩寺の中村住職の話をさえぎって、こう問いかけると、江岩寺の中村住職は、困ったような口調でこのように答えた。
「さあ、私は詳しいことは知らないのだが。明治政府の林様が私にそう言ったのであれば、苗田山は、明治政府の所有なんじゃないかと。」
「なるほど。では、それで、僕は納得しておきます。」
石川は、話をすることをやめて、黙々と、苗田山を登り始めた。江岩寺の中村住職は、話を続けた。
「明治政府の林様がいうことは、次の通りです。大山周辺は、今から約300万年前は、東海湖という湖の底にあったそうです。しかし、今から約100万年前、土地が隆起して、現在の大山周辺になった。今から約300万年前に東海湖の底にあったという土は、もろくて崩れやすく、農業をする土には向いていない。しかし、今から約300万年前に東海湖の底にあった土は、焼き物を作るには適した土らしい。例えば、瀬戸焼は、今から約300万年前に東海湖の底にあった土から作られていて、全国的に、瀬戸焼は、名品となっている。苗田山は、今から約300万年前に東海湖の底にあった土からできた山なので、苗田山の土で作った焼き物は、瀬戸焼に負けずとも劣らない焼き物になるだろう。
ああ、ここで、左に入りましょう。」
江岩寺の中村住職に続いて、苗田山の山頂直前の山道を左に入った場所にある小さい空き地に稲垣と青木と石川が集まった。その空き地の正面には、山が削られて、3m四方ほどの山の壁があって、山の壁の左端に、人一人が中に入ることができるような穴が開いている。
「今、この穴の中には何もない、と、明治政府の林様が言っていました。」
一息ついて、江岩寺の中村住職は、続けた。
「645年に大化の改新があり、国の方針で、人間が死んでも、古墳のような大きな墓は造らないようにしようということになった。これが、薄葬令で、火葬の普及もあって、古墳は徐々に造られなくなる。そして、大山古墳群の上に大山寺を造ったのは、天武天皇(7世紀後半の天皇)です。大化の改新の詔を忠実に守るという方針で政治を行った天武天皇は、まず、自分の足元から、古墳を整理していった。しかし、古墳の整理は、簡単にできるものではない。天武天皇1代で古墳を整理していくのは無理な話だ。そして、天武天皇の遺志を継いだのは、天武天皇の子供たちだった。」