四 木の根っこ

 石川と青木は、石川の家に着くと、2人とも、まず、お風呂に入って、浴衣に着替えた。そして、石川の母親の作った手料理を貪り食うように食べ終えると、2人は、床に着くまでの夜の時間、酒を酌み交わした。明日は、石川は、犬山城に出勤しなければならない。青木は、明日は、午後の見張り番なので、明日の朝、石川の自宅のある犬山を出て、名古屋城まで帰らなければならないのであった。

 最初に話し始めたのは、石川だ。

 「ところで、入鹿池の底の真ん中にあった白い木のことだが、私があの木をゆすったり、抜こうとしたりしたときの感触では、木がぐらつくどころか、びくともしないという感覚だった。それで、入鹿池からの帰り道の街道沿いを歩いた時に、街道の周囲に生えていた松の木の15mほど上に糸取車などがひっかかっていたのを見たときに、ふと、思いついたのだが、私が触れた白い木は、木のてっぺんから80センチくらいの部分だったのではないだろうか?」

 すると、青木がこう答えた。

 「ということは、あの白い木は、本当は、20mほどある大木だということか?まじで?

 ところで、235年前に、地元の人々が、新田開発のために、周囲の山から入鹿村に流れ込む3つの川の出口をせき止めて、大きな溜池を造るという要望を尾張藩に提出したため、尾張藩の事業として入鹿池を造ったという話は、さっき述べた。つまり、入鹿池の底にあたる入鹿村にあった白雲寺には、80センチほどの高さの木が生えていた、ということではなくて、白雲寺の地下20mほどの所に丈夫な根を持つ木が、白雲寺が建つ土地の表面の土を押し破って、成長してきた、ということになる。」

 それを聞いて、石川は、こう答えた。
 「これは、すごいことだ。235年前以前の白雲寺にいた人々は、そのめずらしい事実に驚き、賞賛の意味で、土を押し破って成長してきた木のてっぺんのまわりに丸い石を敷き詰めて、名所としたのか。ということは、白雲寺の地下は、空洞だということか?」

 「いや、そういう話は聞いたことがない。」

 青木はこう言った。

 そして、しばらく、2人の間に沈黙が流れ、再び、青木が語り始めた。

 「ただ、入鹿池の底になった入鹿村は、太古の昔、日本にまだ古墳が存在していた頃の権力者の持ち物だった、という話がある。古墳時代の日本の権力者は、大和朝廷というのだが、入鹿村で稲作をして、入鹿村でできた米を、当時の日本の権力者の都であった奈良地方に運んでいた、ということを語っている文献がある。その文献によると、大和朝廷は、入鹿村の中に入鹿屯倉という役所を作って、毎年、入鹿村の稲の管理をしていたらしい。従って、入鹿村からは、原始・古代の遺跡や遺物が数多く発見されていた。

 江戸時代になり、今から235年前に入鹿池を築造することが決まり、入鹿村が池の底に沈んでしまうことになって、尾張藩は、入鹿池築造工事に先だって、入鹿村にある古墳の発掘調査を実施した。その時、百振り余りの古代の刀剣が出土した。そこで、当時の人々は、工事の無事と入鹿池の無事を願って、入鹿池の堤防に「刀塚」という塚を造って、出土した多数の古代刀を納めたのだ。それが、壊れた杁堤の端っこに建っている「刀塚」の石碑だ。」

 青木からこの話を聞いた石川は、首をかしげて、こう言った。

 「ということは、入鹿池の底にあった今から235年前までの入鹿村は、豊かな土壌を持つ農作地帯だった、ということか。地元の人は、なぜ、そんな農作地帯を溜池の底に沈めようと考えたのだろう?」

 すると、青木は、こう答えた。

 「私が聞いている話は次の通りだ。

 入鹿池の南西方面に位置する小牧台地などは、雨水をためた用水池のみが水源だったため、水をめぐる村々の対立があって、耕地を拡大するのは難しく、無人の野原が広がっていた。寛永3年(1626年)、全国的に降雨が少なく、旱魃の状態となり、尾張国では、農業をすることが禁止された。そして、小牧村や上末村などから、村のまとめ役が出てきて、協議した結果、次のような要望を尾張藩付け家老犬山城城主成瀬正虎公に陳情した。

 「入鹿村は、周囲を山に囲まれた盆地村落で、周囲の山からは、成沢川・荒田川・奥入鹿川が村に流れ込んでいる。そして、入鹿村に流れ込む3つの川は、村はずれで1つとなり、南の平野に流れ出ている。そのような姿は、まるで、銚子を傾けて、酒を盃に注ぐ姿に似ていることから、入鹿村の人々は、3つの川が1つになる村はずれの土地を「銚子の口」と呼んでいる。従って、「銚子の口」をせき止めて大きな溜池を造成し、その水を小牧台地などの無人の野原に引いて、新田開発を一気に進めようではないか。」

 そして、寛永5年(1628年)、尾張藩付け家老犬山城城主成瀬正虎公を通じて、入鹿池築造願いは、尾張藩に提出された。村のまとめ役が、なぜ、尾張藩付け家老犬山城城主成瀬正虎公にこの要望を陳情したのか。それは、3つの川の源流となっている入鹿村の周囲にある山は、尾張富士・羽黒山・奥入鹿山・大山だが、それらの山のふもとにある村のいくつかは、犬山城所属の山付村であったからということと、尾張藩付け家老犬山城城主成瀬正虎公が尾張藩主徳川義直から厚い信頼を寄せられていたことがあげられる。当時の尾張藩主徳川義直は、鷹狩をする傍ら、現地の入鹿村を検分し、

 「入鹿池築造は、水利と新田開発を方針とする藩の理にかなっている。」

 として、入鹿池築造を尾張藩の事業として実施することに決定した。

 そして、尾張藩は、入鹿村の住民に、家の長さ1間につき一両という立ち退き金を支払った。入鹿村の住民は、そのことを何の抵抗もなく受け入れ、それぞれの場所に移住していった。そして、入鹿村にあった白雲寺や福昌寺、虫鹿神社、天道宮なども入鹿村村民と共に移転していった。」

 青木のこの話を聞いても、石川は、相変わらず、首をかしげた。

 「それにしても、私には、まだ、納得がいかないなあ。旱魃が収まって、雨が例年通り降るようになれば、入鹿村は、土壌の豊かな農村地帯なんだろう?それに、水が必要で、入鹿池を築造する技術があるのなら、木曽川から直接水を引くこともできるのに。現に、尾張平野西部では、この頃、既に、木曽川から水を引き、沼地を干拓して、多くの新田を造成していた。そうすれば、土壌の豊かな入鹿村から尾張藩への年貢を潰す事もない訳だし。尾張藩は、入鹿村から取り立てる年貢を潰すだけじゃなくて、立ち退き料を住民に支払うことになってしまった。」

 そして、石川は、銚子から酒を盃に注ぐのを見ながら、青木にこう言った。

 「そうだ。入鹿池に沈んだ入鹿村の標高は、何mくらいなんだろう?」

 すると、青木は、こう答えた。

 「入鹿池の底の標高が24丈(74m)と言われているから、その位なんだろう。」

 「ふーん。」

 石川は、少し考え込んだ。そして、こう言った。

 「入鹿村の標高が24丈(74m)として、白雲寺の丸い石の集まった所まで生えている白い木の大きさが6丈(約20m)とすると、白雲寺の地下には、標高18丈(54m)くらいのところに、高さが6丈(約20m)ほどの空間が存在するということか。」

 「はっ、はっ、はー。」

 酒を飲んで気分のいい青木は、石川のこの話を聞いて、思わず、「そんなことはない。」と言わんばかりに、笑い飛ばした。しかし、石川は、自分の話を笑い飛ばす青木の態度にもめげず、青木にこう言った。

 「私には、今、とても大きな目標ができた。私は、あの白い木の根っこのある所に行ってみたい。どうしても行ってみたい。行くことができるような気がするのだ。青木様も私のこの夢に付き合ってみませんか?」

 「ぷーっ。」

 青木は、石川のこの言葉を聞いて、思わず、噴き出してしまった。しかし、「尾張藩は、やがてなくなってしまう。」と上の者から聞かされて、最近、おもしろくない気分を味わっていた青木は、何となく、石川のこの話に魅力を感じていた。それに、入鹿池の底の中央にあった白雲寺の石掛け跡で、白い木を見た後に現れた明治政府の役人と思われる人物について、青木は、あまりいい印象を持たなかった。

 「よし、ここは、石川のこの話に乗るか。まず、私たちは、何をすべきなのかな?」

 青木のこの問いかけに、石川は次のように答えた。

 「まずは、入鹿池築造の経緯について、もっと詳しいことが知りたい。入鹿村を底に沈めて、入鹿池を造ろうと提案した村のまとめ役の名前や出身の村の名前や具体的な経歴などはわかりますか?」

 石川のこの問いに青木はこう答えた。

 「ああ、「入鹿六人衆」のことか。結構有名な話だから、調べればわかると思う。では、私は、「入鹿六人衆」のくわしい経歴を藩で調べてこよう。私は、調べることは結構、得意だよ。」

 すると、石川はこう言った。

 「それと、もうひとつ、調べてほしいことがあります。「入鹿六人衆」の出身の村の標高や入鹿池との地理的な関係です。」

 「わかった。入鹿池と周辺の地理も合わせて、調べておこう。調べたら、その調査結果を報告するから、1ヶ月くらい後に、また、会おう。」

 青木は、石川とこのように約束をして、2人とも眠りについた。2人とも、明日は、朝早くから、それぞれの仕事をするために、青木は名古屋城に、石川は犬山城に行かなければならなかった。そして、2人の間に共通しているのは、もうすぐ、尾張藩は、なくなってしまうのだという事実だった。

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