四 彗星東方に見ゆ

 その日の夜も藤原信西は、星空を見上げていた。信西は、毎晩、文運をつかさどる星座にその日の報告と祈りをささげていた。

 4月の初めに、東の方角に彗星を見てから、一体、何日が過ぎて行っただろう。最初は東の空に見えていた彗星が、見えなくなったと思ったら、今度は西の空に見え始めた。そして、今日、その彗星は、ついに、信西が祈りをささげていた文運をつかさどる星座を貫いていた。

 彗星が現れてからというもの、信西のまわりは、急に、騒がしくなった。東大寺や延暦寺や法勝寺では、彗星による災いを消すために、千人の僧による読経が行われた。お忙しい鳥羽上皇は、自ら、彗星による災いを消すために、10日間に限って、院にこもり、お祈りをささげるらしい。

 そして、7月22日の夜、信西が出家するときには涙を流し、宮中において信西のよきライバルである藤原頼長が、部下を連れて信西のもとを訪れた。彗星の出現によって、元号が変わることを信西に知らせに来たのだった。新しい元号は、天養二年を改めて、久安元年とするらしい。藤原頼長も信西と同じように、彗星の出現で、自分のまわりが騒々しくなったことを気にかけていた。藤原頼長も信西も、「このようなときこそ、民衆の為になるような政治をしなければならない。お祈りに時間とお金をかけるのは、いかがなものか。」という意見では、一致していた。

 しかし、信西と違い、藤原頼長には、彗星の他に、もうひとつ気がかりなことがあった。それは、鳥羽上皇との間に7人の子供をもうけ、崇徳上皇の母でもある待賢門院璋子様(後に上皇になる後白河天皇の母でもある)の病状が思わしくないために、様々な宴の席がとりやめになることだった。鳥羽上皇が、美福門院得子様を寵愛して、待賢門院璋子様の子供である崇徳天皇を上皇にし、代わりに、美福門院得子様の子供を天皇にして、近衛天皇の世にしたことも、待賢門院璋子様の病状を更に重いものにしているのかもしれないと、藤原頼長は心配するのであった。

 そして、藤原頼長の不安は的中し、彗星の出現によって久安元年(1145年)となった年の8月22日、待賢門院璋子様は44歳で亡くなられた。藤原頼長は、待賢門院璋子様の最期を看取り、仏具を打ち鳴らしながら大声で泣き叫ぶ鳥羽上皇の姿を複雑な思いで見ていた。これで、美福門院得子様は、鳥羽上皇とともに、宮中のトップとなるだろう。若いころより、秀才として宮中に上がり、待賢門院璋子様や崇徳上皇にお仕えしてきた藤原頼長は、自分の今までの宮中での仕事を思い起こし、自分の将来に一抹の不安と覚悟を感じていた。

 待賢門院璋子が亡くなった10年後の久寿2年7月23日(1155年8月22日)、美福門院得子の子供である近衛天皇が亡くなり、その1年後の1156年7月20日に鳥羽上皇が亡くなってから、保元の乱が勃発する。この保元の乱で、待賢門院璋子の二人の子供である崇徳上皇と後白河天皇が戦うことになることも、後白河上皇が中世の扉を開いた男として、日本の歴史の中で長く語り継がれていくことも、待賢門院璋子にとっては、知る術もないことであった。一方、藤原頼長は、保元の乱で、崇徳上皇側に着き、流れ矢が目にあたったことがもとで、傷死する。また、保元の乱の3年後の平治の乱で、藤原信西は殺害されてしまう。そんな将来のことがわかるはずもなく、美福門院得子、近衛天皇、鳥羽上皇、藤原信西、藤原頼長は、時代の中を進んでいくのである。

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