五 雨を止める法

 彗星が日本の東の空に出現してから6年後、彗星は、いつのまにか空のかなたに去っていき、空を見上げれば、いつもの星空が広がるようになった。今は、久安6年の9月である。しかし、今日もまた雨が降っている。こんな激しい雨では、法勝寺に通うのは無理だ。しかし、祈願しなければならないことが、全国から、美福門院得子のもとに集められる。特に、待賢門院璋子様が亡くなってからは、待賢門院璋子様が受け持っていた祈願は、一挙に美福門院得子のもとに集められ、美福門院得子は、今までの倍以上の量の祈願をこなさなくてはならなくなった。雨が降っているからといって、祈願をしないでいると、やがて、どれだけ一生懸命にやっても、祈願が終わらなくなってしまうのだった。仕事がたまるので、早く雨がやんでほしい、ということが、今の美福門院得子の切なる願いであった。御所において、美福門院得子自らが、雨が止んで、法勝寺に行けるようにお祈りしたが、全く、効果がない。

 ところで、宮中では、日本に古くからある天皇による祈願よりも、新しく日本にやってきた仏教の一宗派である天台宗による祈願の方が、効力があるらしいというのが、みんなの噂だった。そこで、美福門院得子は、鳥羽上皇にお願いして、天台座主の行玄に御所に来てもらい、雨を止める法を修してもらうことを思いついた。

 天台座主の行玄は、激しい雨の中、鳥羽上皇の第七皇子であり、行玄の弟子でもある覚快法親王らをつれて、美福門院得子のもとを訪れた。覚快法親王の母親は、待賢門院璋子様でもなく、美福門院得子様でもない。しかし、覚快法親王は、13歳の時に比叡山に上り、行玄大僧正に師事して以来、行玄の弟子となっていた。そして、美福門院得子は、待賢門院璋子様が亡くなられてから自分の側近としている藤原信西や藤原頼長らとともに、行玄を待っていた。

 行玄は、美福門院得子のもとを訪れると、雨を止める法を修するようにという鳥羽上皇の院宣を示し、「五壇法」によって、雨を止めることを告げ、弟子たちに、「五壇法」の準備を行わせた。

 「五壇法」とは、「不動明王」「降三世明王」「大威徳明王」「軍荼利明王」「金剛夜叉明王」の五体の仏様を祭って、国家安穏を祈願する法のことである。行玄は、この雨の中、五体もの仏様を持ち歩くのは、とても大変なことなので、仏像ではなく、それぞれの仏様の仏画とその仏画を展示する用具を弟子たちに持たせていた。

 行玄の弟子たちは、雨を止める祈祷をする部屋に到着すると、まず、その部屋全体に暗幕を張った。そして、部屋の中央には、天井から、「不動明王」の仏画を吊った。この「不動明王」の仏画は、行玄自らが門主を務める青蓮院から持ってきた「青不動」と呼ばれる仏画で、不動明王の両脇にそれぞれ一人の子供(計二人の子供)がよりそっている、行玄自慢の仏画だ。そして、部屋の東側には、「降三世明王」の仏画を天井から吊った。部屋の西側には、「大威徳明王」の仏画を天井から吊った。部屋の南側には、「軍荼利明王」の仏画を天井から吊った。部屋の北側には、「金剛夜叉明王」の仏画を天井から吊った。そして、それぞれの仏画の前には、ろうそくが置かれ、ろうそくの明かりがゆらめいて、不動明王らの仏画は、神秘的な雰囲気をかもしだしているのであった。これらの仏画の配置が終わると、行玄は、中央に吊り下げられた「不動明王」の仏画の前に座り、弟子たちは、行玄の後ろに整列して座った。そして、美福門院や藤原信西や藤原頼長らは、弟子たちの後ろに座って、雨を止める祈祷の行方を見守った。

 行玄が経を唱え始め、弟子たちも経を唱和し始めた。すると、今まで聞こえていた、外の雨風の音は、皆が唱和する経の声に掻き消された。暗幕で、外の様子は見えず、部屋の中は、今までにも増して、外の世界から隔離された、おごそかな雰囲気が広まった。

 行玄とその弟子たちが経を唱え始めてから、どれほどの時間がたったのか、その場にいた者たちには、わからない。そして、行玄とその弟子たちが唱えていた経が終わった。弟子たちは、仏画を片づけ、ろうそくの灯を消し、暗幕を全てはがして、部屋の窓を開けた。すると、窓からは、まぶしいばかりの太陽の光が降り注いだ。美福門院や藤原信西や藤原頼長らが外に出て見ると、部屋の外は、晴れているばかりでなく、風も吹いていないし、空には雲ひとつ見当たらないほどの快晴となっていた。当時の言葉で、「雨を止める「五壇法」は、これをもって、院において結願した。」という。

 これを見て、最も、感動した様子だったのは、美福門院得子だった。そして、美福門院得子は、感動もさめないまま、自分の仕事をするために、法勝寺に急いだ。そして、藤原頼長も行玄の雨を止める法の効力には感動していた。これで、行玄とその弟子である覚快法親王は位が上がるだろう。他のどんな祈祷よりも、天台宗の祈祷は効力があると、藤原頼長は認めていた。

 しかし、藤原信西は、「こんなの偶然、1回やっただけで晴れただけじゃないか。」と心の中でつぶやいていた。信西は、出家したときに、弟子として、「五壇法」の祈祷を行ったことがある。雨を止める「五壇法」の祈祷は、1回で効力がなければ、雨がやんで晴れるまで、何回でも繰り返して行う。そして、雨がやんで晴れたときに、ようやく、「五壇法」は「結願した」というのだ。今回は、美福門院得子様が祈願をして雨が止まらず、鳥羽上皇にお願いして、鳥羽上皇が院宣を出し、その院宣が天台座主行玄のもとに届き、行玄が弟子たちを集めている間に、雨が終息の方向に向かっていたことくらい、信西には、わかっていた。

 そして、京都にて、美福門院たちを困らせた雨雲は、美福門院得子が「五壇法」の効力に感動しながら法勝寺に向かっている間も、愛知県の西部地方に雨を降らせていた。

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