五 調査

 昭和3年(1928年)2月のある小春日和の朝、愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事の小栗鉄次郎は、大きなスコップや、大きな斧を持った、若い屈強な男たちを10人ほど引き連れて、「あぶらしぼり」を登っていた。茶色やグレーなどのニッカボッカに色とりどりのシャツを着て、黒い地下足袋をはき、麦わら帽子をかぶり、大きなスコップや斧を持った姿の大山廃寺跡の地元の男たちの先頭を歩いているのは、茶色いスーツに白いシャツ、黒い細いネクタイを締めて、黒い革靴を履き、茶色いカンカン帽をかぶった小栗鉄次郎である。鉄次郎は、地元の人々にお金を持ってくる人間だった。

 「あぶらしぼり」は、1月に降った雪が若干残っていたが、滑って歩けないほどのことはなく、大部分の場所の土は乾いていた。うっそうとした木々の生い茂る静かな「あぶらしぼり」を上に向かって移動していく、にぎやかなひとまとまりの人間たちは、5分ほど上に移動すると、「あぶらしぼり」を登り終えて、平坦地に到着した。にぎやかなひとまとまりの人間たちが、「あぶらしぼり」を登りきった平坦地に着くと、そのうちの大きな斧を持った人間たちが、小栗鉄次郎の指示に従って、木を切り始めた。小栗は、前回、この場所を訪れたときに、何十箇所か小さいスコップで掘ることによって、どの場所の木を切るのかをあらかじめ決めていた。その場所は、平坦地の中でも、小栗の持っている小さいスコップで土を掘ると、古瓦のかけらが最もたくさんスコップの上に載ってくる、8m四方の場所だった。平坦地で木を切る音が静かな山の中に響いていた。

 平坦地にある邪魔な木を何本か切り終わると、木くずをよけて、別の男たちが、大きなスコップで土を掘り始めた。47歳になる鉄次郎は、そんな男たちを手伝うことなどできず、男たちが何かを知らせに来るまで、辛抱強く待った。

 「あっ、今、何かがスコップに当たった!」

 大きなスコップで平坦地を掘っていた男たちの何人かが、同じことを叫んだ。男たちは、いつの間にか、地表から2mほど掘り進んでいたのだった。鉄次郎は、そう叫んだ男たちの近くに行き、今度は、スコップが何かに当たった所から水平方向に掘り進める指示を出し、平坦地の一部を8m四方の正方形に掘って行った。瓦は、心礎とその周りに等間隔に配置された16個の礎石のある場所を中心として、付近の地表下70cmから1mの間に多数埋没していて、瓦は、鉄釘や灰などを混在していた。

 最初に男たちのスコップに当たった礎石の中から、心礎は容易に見つかった。心礎は、上面中央の形が、明らかに、他の礎石とは違っていた。その心礎は、石の上面中央に直径51cmの円が飛び出していて、その円の周囲に、幅16cm、深さ6cmの溝が彫られていた。そして、その溝から外側へは、放射状に2本の溝が彫り込まれていた。この2本の溝は、柱の湿気抜きの役割を果たす溝であった。心礎を掘りあてれば、あとは、心礎を中心として、16個の礎石が等間隔に配置されているはずだ。それが、日本に古くから伝わる五重塔の基礎の部分だということを、鉄次郎は、学習済みだった。鉄次郎が主事になって初めて調査した舞木廃寺跡の塔心礎の発掘調査の経験が今回は生きた形だった。

 愛知県史跡名勝天然記念物調査主事の小栗鉄次郎の調査の特色は、遺跡の存在している地元の言い伝えや歴史を調べることに加えて、数字を正確に把握することにあった。数字とは、例えば、その遺跡が存在する場所が山の中だとすると、その山は標高何メートルの大きさの山なのか、とか、遺物が出土した場所は地表下何センチだとか、出土した遺物の大きさや遺物の模様の大きさなど、あらゆるものの数字である。鉄次郎は、遺物を見ると、メジャーを取り出して、寸法を計り、スケッチをするというくせが身に付いていた。

 大山廃寺塔跡には、たくさんの瓦が眠っていた。小栗鉄次郎が書いた「大山寺跡」の調査報告を読むと、遺物の項には、まず、巴瓦や唐草瓦など様々な種類の出土瓦の実測データや模様の様子が細かく記されている。小栗の自宅には、小栗が収集・保管し、研究した瓦が多く残されているが、その中には、当然、大山廃寺塔跡で出土した軒丸瓦・軒平瓦も含まれている。大山廃寺塔跡で出土した軒丸瓦や軒平瓦は、日本の瓦とは思えない重厚さとエキゾチックさを持っている。この瓦を乗せた五重塔が建っていた姿を想像すると、大山寺の五重塔は、現在の日本にあるどの寺の五重塔とも違う。大山寺塔跡の出土瓦を見たとき、小栗鉄次郎も恐らく、そのような印象を持ったと考える。だからこそ、家に持ち帰って、研究の対象としたのだろう。

 小栗鉄次郎は、瓦の研究を通して、仏教は、日本に昔からある在来のものではなく、中国西域から伝来したものなのだ、ということを実感していた。そして、そのようなことを教えてくれる廃寺跡というのは、寺の一種であり、いくら潰れた寺であっても、後世に残しておかなければ、人類に禍根を残すと考えていた。昔から地元に伝わる大山廃寺の言い伝えを調査し、大山寺跡に立った時、鉄次郎は、大山廃寺が普通の寺ではないということを感じていた。

 そして、小栗鉄次郎は、大山廃寺の五重塔跡が存在する山の中全体を探査した。鉄次郎は、大山寺が、地元の言い伝え通り、山の中に三千の坊がある巨大な山岳寺院であることを実感した。鉄次郎は、大山寺の五重塔跡が存在する山の中一帯を国の史跡として保護すべきであるという強い考えを持った。

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