五 復旧工事

 明治元年(1868年)5月13日の夜中2時頃に入鹿池の杁堤が切れてから、大政奉還後の尾張藩徳川家と尾張藩付け家老犬山城主成瀬家は、被災者の救援に当たった。尾張徳川家と成瀬家は、被災者に対する見舞金はもちろんのこと、けが人の救護に当たる医者や薬の手配、食料の炊き出し、ボランティアの依頼、遺体の処理や法要、被害の大きかった被災地に石地蔵を建てる等、精力的に仕事をこなしていった。明治元年(1868年)6月1日に、尾張藩付け家老である犬山城主成瀬家家臣の石川喜兵衛が、石川と同じ年齢で、名古屋に住む尾張徳川家家臣の青木平蔵と連れだって、大宮浅間神社の夏祭りに行く傍ら、入鹿池を見下ろす尾張富士に登り、入鹿池の底を歩いた時も、入鹿切れによる被災者の救援のために、2人は仕事で、現地に入り、会っていた側面もあったのだった。尾張藩主催の被災者追悼会が6月から7月に入って、4回ほど行われることが決まっていたため、2人は、その打ち合わせのために、6月1日に現地で待ち合わせたのであった。

 そして、明治元年(1868年)7月1日、犬山城主成瀬家家臣の石川喜兵衛は、名古屋城本丸御殿で、尾張徳川家家臣の青木平蔵と顔を合わせていた。名古屋城では、尾張藩家臣10人と犬山城主成瀬家家臣10人が集まって、入鹿池堤防の復旧工事の計画立案のための話し合いがもたれていた。石川も青木もまだ若いので、それぞれの組織の中では、最も下の身分に属し、お互い、最も下座に座って、顔を合わせていた。

 入鹿池堤防の復旧工事の話し合いの最中、青木と石川は、一言も言葉を発することなく、そこに座っていた。入鹿切れの被害にあった人たちが、入鹿池堤防の復旧工事を切に願い、陳情をしてきているという現状が、青木と石川には信じられなかった。あれほど痛い思いをしてもなお、入鹿池の地元の人々は、入鹿池をもう一度、元通りの巨大な溜池にすることを望んでいるのだ。

 「入鹿池の水を全て抜いて、入鹿村を戻して、そこで稲作をすることも十分可能なのに。」

 青木も石川も心の中で、こうつぶやいていた。

 上の者たちが、

 「入鹿池堤防復旧工事に使用する土は、良質な赤土のある刀塚付近から採取する。」

 などと、説明している声が、青木と石川の頭の上を通りすぎていく。

 そして、話合いが終わり、その日、犬山城で当直のない石川は、上の者に現地解散の許可を取って、名古屋城の中の二の丸で、青木と会った。

 石川は、名古屋城二の丸の中にある1つの部屋に入ると、さっそく、青木に問いかけた。

 「ところで、「入鹿六人衆」について、詳しいことがわかりましたか?」

 青木は、「入鹿六人衆」についての調査結果を書いた巻紙を石川に見せながら、説明を始めた。

 「寛永5年(1628年)に入鹿池築造を提案した村のまとめ役たちは、小牧村の江崎善左衛門、上末村の落合新八郎、同じく上末村の鈴木久兵衛、田楽村の鈴木作右衛門、村中村の丹羽又兵衛、外坪村の舟橋仁左衛門の六名である。後になって、この六名の村のまとめ役たちが、「入鹿六人衆」と呼ばれることになる。

 入鹿六人衆が入鹿池築造計画を提案してから、尾張藩に入鹿池築造の要望が提出されるまで2年かかり、尾張藩に入鹿池築造の要望が提出されてから4年後の寛永9年(1632年)に入鹿池築造の工事が始まった。そして、翌年の寛永10年(1633年)に入鹿池の杁堤の工事が完成した。入鹿池の管理は小牧代官所が司ることになった。そして、寛永11年(1634年)になると、入鹿六人衆は、入鹿池と入鹿用水が完成した無人の小牧台地を開墾してくれる農民を探す事に全力を傾ける。

 入鹿六人衆は、小牧台地を開墾してくれる農民を募集したが、農民は容易に集まらない。それで、尾張藩も、「小牧台地で新田を開発した者には、3年間、年貢と諸役を免除する。」「小牧台地の新田を開墾する者は、たとえ、他国の所領の者であっても構わないし、重罪人の者であっても、その罪を許す。」というお触れを出して、入鹿六人衆の仕事を助けた。入鹿六人衆は、領地の外に出向いて、小牧台地を開墾してくれる農民を探したり、時には、自費を投入して、入鹿六人衆自らが小牧台地を開発するなどした。そのような入鹿六人衆の努力によって、次第に、小牧台地を開墾する農民が小牧台地に集まり始めた。」

 「入鹿池を造らなかった方が楽だったんじゃないだろうか。尾張藩にとって、古くからある農村を潰して、新田を開発することがそれほど大事なことだったのかどうか。」

 石川は、ここまで青木が話をすると、ぽつりとこう言った。石川の言葉を聞いて、青木は、話を続けた。

 「しかし、寛永17年(1640年)、尾張藩主徳川義直は、新田頭となった入鹿六人衆を小牧御殿に招き、農民の代表であった入鹿六人衆に名字帯刀を許した。そして、小牧村の江崎善左衛門、上末村の落合新八郎、田楽村の鈴木作右衛門の3名には小牧原新田内に、上末村の鈴木久兵衛には村中原新田内に、村中村の丹羽又兵衛には又助新田内に、外坪村の舟橋仁左衛門には河内屋新田内に、それぞれ、十石の大きさの税を免除された土地が与えられた。そして、入鹿六人衆がもらった新田頭の役職は、入鹿六人衆の子孫が継承するという恩恵も受けた。」

 「うーん。」

 石川は、考え込んだような表情で、青木の話を聞いていた。青木は、更に続けた。

 「ところで、今回の私の調査で、入鹿六人衆のそれぞれの生い立ちがわかったぞ。

 まず、小牧村の江崎善左衛門について。江崎善左衛門の父は、知多郡大高に生まれ、後に織田信長の父である信秀に仕えたが、天文17年(1548年)に美濃の斉藤道三を攻めたときに手傷を負い、小牧村に住むようになった。そして、小牧・長久手の戦いでは、徳川家康に小幡城への道案内をして、家康より使用の軍扇を請け賜わった。また、元和9年(1623年)には、名古屋から中山道に通じる善師野街道を短期間で開通させるなどの業績があり、尾張藩主徳川義直から俸禄の米と鉄砲が与えられた。また、自宅の敷地内には、尾張徳川家が鷹狩などをするときの休息所である小牧御殿が建てられた。父親は、寛永4年(1627年)に没した。

 その息子で、入鹿六人衆となった江崎善左衛門は、入鹿池の築造後、小牧台地の開発が進んだため、入鹿池を水源とする入鹿用水に不足が生じたことにより、古木津用水の開削に着手し、三年後に開通させた。また、春日井原の開発も企て、十か村に良田を得た。江崎善左衛門は、延宝3年(1675年)、82歳で没した。」

 「農民の代表という割には、結構、立派な家柄に育っているな。」

石川がこうつぶやくと、青木は更に続けた。

 「次に、上末村の落合新八郎について。落合新八郎の祖父は、小牧・長久手の戦いで、豊臣秀吉の武将として上末砦を守った落合将監安親だ。その後、落合家は豊臣秀次に仕えたが、後に、上末村に帰農した。その後、落合新八郎は、入鹿六人衆の一人として、入鹿池築造と新田開発に全力を傾け、落合新八郎の長男も父と共に開発に尽力した。落合新八郎の長男は、入鹿池を水源とする入鹿用水に不足が生じたために開削した古木津用水の工事のとき、主となって藩の事業を推進した。落合新八郎は、入鹿池の築造と新田開発の功労によって、名字帯刀を許され、小牧原新田内に十石の税を免除された土地を与えられたが、尾張徳川家は、更に、落合父子の功労に対して、土地三畝(90坪、約300平方メートル)を与えた。落合新八郎は、承応元年(1652年)に77歳で没した。」

 「農民の割には、私たちより金持ちだな。」

 石川は、こうつぶやいた。そして、青木は、持ってきた水筒から水を飲むと、一呼吸おいて、話を続けた。

 「次は、田楽村の鈴木作右衛門だが、鈴木作右衛門の曽祖父は、駿河・遠江(現在の静岡県)国の戦国大名で、桶狭間の戦いで織田信長に敗れた武将今川義元に仕えていた武士だ。しかし、弘治2年(1556年)、浪人となり、春日井郡田楽村に帰農した。鈴木作右衛門は、入鹿六人衆として、活躍したが、古木津用水の開削工事の時には、病弱で、工事に関わることができなかった。没年は不詳だ。

 次は、上末村の鈴木久兵衛だが、鈴木久兵衛は、織田信長に仕えた戦国武将丹羽長秀に仕えた鈴木彦九郎の子孫で、上末村に生まれた。鈴木久兵衛は、入鹿六人衆として活躍したが、鈴木久兵衛の子供の久三郎は、鈴木久兵衛の名前を襲名して、古木津用水の開削に従事した。鈴木久兵衛は、父子二代に渡って、この地方の農業に貢献した。没年はわからない。」

 「私の家は、武士だが、名前を襲名するほど有名な武士ではない。入鹿六人衆というのは、本当にすごい経歴なのだな。」

 石川がため息をつくと、青木は更に続けた。

 「次に、村中村の丹羽又兵衛だが、丹羽又兵衛は、領地や官位は持っていないが、村中村の資産家の家に生まれた。そして、入鹿六人衆として、活躍するが、古木津用水の開削工事にも参画している。また、丹羽又兵衛は、信仰心が厚く、仏門に帰依して僧侶となり、村中村にある瑠璃光山玉林寺の開基となった。丹羽又兵衛は、寛文5年(1665年)に没している。」

 「金持ちかあ。」

 石川がこう言うと、青木は続けた。

 「最後に、外坪村の舟橋仁左衛門だが、舟橋仁左衛門の祖父は、小口城(現在の愛知県丹羽郡大口町小口にあった城)の織田家に仕えていた武士だが、永禄4年(1561年)に浪人となり、外坪村に帰農した。舟橋仁左衛門は、入鹿六人衆となり活躍したので、尾張藩主徳川義直により、名字帯刀を許され、河内屋新田内に十石の税を免除された土地を与えられたが、舟橋仁左衛門の祖父の出身地である小口村(現在の愛知県丹羽郡大口町小口)は、尾張藩付け家老竹腰家の領地であったため、尾張藩付け家老竹腰家からも更にお目見えを許されて、重ねて、その功績を賞されて某かのものを頂いたとのことだ。舟橋仁左衛門は、その後、古木津用水の開削にも参画し、春日井原の開墾に貢献したが、明暦3年(1657年)に没した。」

 「農民の代表であった入鹿六人衆の経歴は、普通の武士の経歴よりすごいな。ところで、入鹿六人衆のそれぞれの出身の村の地理と入鹿池周辺の地理については、調べてもらえましたか?」

 すると、青木は、今度は、入鹿池周辺の地理について、図が描かれたもう一つの巻紙を石川に見せながら、説明を始めた。

 「この図を見てもわかるように、標高24丈(74メートル)の入鹿村は、周囲を尾張富士・羽黒山・奥入鹿山・大山に囲まれた盆地の村落で、これらの山間から流れ出る今井川・小木川・奥入鹿川を村の西南部の外れにある銚子の口でせき止めて、入鹿池が造られた。ところで、これからする話は、少し興味深い話だぞ。

 入鹿村を底にして造った入鹿池の南側に、標高93丈(279.6m)の天川山を最高地点にして、児山・白山といった山並みが連なる大山連山がある。入鹿池から南側にある大山連山を越えると、大山連山の標高62丈(186m)程の所には、古代から中世にかけて、巨大な山岳寺院が存在していた。それが、大山廃寺跡である。

 そして、大山廃寺跡を南側に下りた麓の村が大山村という村だ。入鹿六人衆の出身の村は全て、入鹿池から大山を登り、向こうの南側に下りた大山村という里から西南方向の部分にある。しかも、入鹿六人衆の出身の村の標高は、大山村から西南部に離れれば離れるほど、村の標高が低くなっている。つまり、大山を頂点にして、西南部に向かえば向かうほど、丘陵地の高さは階段状に低くなっているのだ。

 具体的に言うと、標高24丈(74メートル)の入鹿池の底から、南側にそびえる標高90丈(270m前後)の大山連山を南側に越えると、標高62丈(186m)程の所に大山廃寺跡があり、大山廃寺跡を更に下ると、標高50丈(150m)ほどの所に大山村があり、大山村から西南部方面に移動していくと、入鹿六人衆のうちの落合新八郎と鈴木久兵衛の2人の出身地である上末村が標高13丈から20丈(40mから60m)の間にある。

 そして、上末村から更に西南部へ向かうと、入鹿六人衆の鈴木作右衛門の出身地である田楽村が標高11丈(35m)前後の所にある。田楽村から更に西に向かうと、入鹿六人衆の江崎善左衛門の出身地である小牧村が標高8丈(25m)前後の所にある。そこから更に西に向かうと、入鹿六人衆の丹羽又兵衛の出身地である村中村や舟橋仁左衛門の出身地である外坪村が標高2丈から6丈(7m〜20m)ほどの所にある。」

 「なるほど。つまり、地形は、大山連山から村中村・外坪村まで、東高西低になっているということか。」

 石川がこう答えると、青木は、また、持ってきた水筒の水を一口飲んで、さらに続けた。

 「ところで、入鹿池の底の中央部分にあった白い木のことなんだが、もし、あの白い木が、石川の言うとおり6丈(20m)の長さの木のてっぺんの部分だとすると、白い木の根っこの部分は、入鹿池の底より更に下の標高18丈(54m)位の場所にあることになるな。白い木の根っこの部分の標高が18丈(54m)くらいだとすると、その標高に近い村は、標高13丈から20丈(40mから60m)ある、入鹿六人衆のうちの落合新八郎と鈴木久兵衛の2人の出身地である上末村だ。

 また、入鹿六人衆の村から入鹿池杁堤までは、直線距離にして、上末村以外の村からは、およそ2里(約7〜8km)の距離だ。上末村は、少し近くて、上末村から入鹿池杁堤までの距離は、直線距離で1里ちょっと(約5km)だ。しかし、あの日、私たちが入鹿池の底を歩いた印象では、入鹿池杁堤から白い木の生えている入鹿池中央までは、半里(約2km)位だった。従って、上末村から、白い木の根っこの部分がある入鹿池中央までの直線距離は、2里弱(約7km)といったところかな。

 今、入鹿池は、切れた杁堤の復旧工事が決まって、あの白い木は、再び、入鹿池の水の中に沈んでしまう。従って、入鹿池の底に生えていた白い木の根っこの部分に行く方法は、ただ一つ。上末村から2里弱(約7km)のトンネルを北東の方向に掘り進めるしかない。」

 「そんなことできる訳ないだろう。」

 石川は叫んだ。

 「でも、だから石川は、私に、入鹿六人衆の出身の村の標高を調べるように言ったのではないのか?」

 青木は、少しいじわるな目つきで石川にこう言った。石川は、こう答えた。

 「いや、私は、入鹿池周辺の地理がどのような状態になっているのか知りたくて、青木様に調査をお願いしたのだ。しかし、たとえ、入鹿池に再び水が張っても、私たちは、もしかしたら、あの白い木の根っこのある場所にたどりつくことができるかもしれないという希望は持ったよ。青木様、いろいろ調べていただき、本当にありがとうございました。」

 石川が青木にお礼を言うと、青木は、左手に持っていた水筒の水を一口飲んでから、石川にこう言った。

 「いや、私は、次に調べる項目を既に決定した。これは、ぜひ、石川と一緒に調査に行きたい。入鹿池を造った農民のエリートである入鹿六人衆のうち、最多の2人を輩出した村が、上末村だ。上末村とは、どういう村なんだ?今度石川に会う時までに、上末村の地図を手に入れておくから、上末村の地図が手に入ったら、2人で上末村に調査に行こう。

 ところで、6月1日に入鹿池の底の中央にある白い木の生えている所まで案内してくれた、あの白いひげのみすぼらしい恰好をした老人や、帰りの道を案内してくれた住職は、どう考えても、あの白い木について何か知っているみたいだった。つまり、私たちが何も知らないだけで、もうすでに、あの白い木の根っこのある場所に行く道は、随分昔から確保されているのかもしれない。そう考えると、白い木の根っこの部分があると思われる場所と同じ位の標高の場所である上末村を調査してみると、何かわかるかもしれないと思わないか?」

 青木のこの言葉には、妙に説得力があった。石川は、青木の言うとおりにすることに決めて、こう言った。

 「では、次は、決壊した入鹿池杁堤の復旧工事の進捗状況を皆で見学しに行く8月1日に、また会って、話をしましょう。」

 明治元年(1868年)8月1日、尾張藩家臣10人と犬山城主成瀬家家臣10人が集まって、入鹿池堤防の復旧工事の見学が行われた。その20人の端っこの方には、石川と青木の姿もあった。そして、石川と青木は、この日、上の者から、小牧代官の須賀井重五郎が、入鹿池の堤防が決壊して、多数の死傷者を出した水害の責任をとらされて、辞職させられ、新しい小牧代官の馬を引く係になったという話を聞かされた。

 青木も石川も、入鹿池の底に自分たちを案内した白いひげの老人が、洋装の男に向かって、怒りをあらわにして、はきだすように言ったこの言葉を思い出していた。

 「入鹿池の杁堤が切れたのは、明らかな人災だ。4月から雨は降り続いていたのに、小牧奉行所が何もできなかったのは、小牧奉行所と尾張藩と明治政府の間に意思疎通がなかったからだ。林様たち明治政府は、何もかも急ぎ過ぎているんじゃないですか?明治政府は、江戸城の周辺以外の所には、目が行きとどいていないのではないですか?やはり、我々が頼りにできるのは、まだまだ、徳川幕府なのではないですか?」

 入鹿池堤防の復旧工事には、毎日2000人ほどの人夫が駆り出されていた。それだけの人数の人が入鹿池堤防の工事に着手していたので、工事現場の周りには、工事に従事する人夫相手に、たくさんの物売りの店が立ち並んでいた。そして、工事が行われない夜には、たくさんの物売りの店で提灯が立てられた。工事現場は夜になると、その日の工事が終わった人夫たちが、大勢、店を行きかった。工事現場の周りは、夜もにぎやかだった。

 そして、これだけの人数の人夫が毎日工事をしているのに、決壊した入鹿池堤防の工事は、なかなか、終わりが見えそうにもなかった。入鹿池堤防の復旧工事には、恐らく、10年20年と時間がかかるだろう。石川と青木は、

 「ああ、尾張藩は、こういう経済効果も期待して、入鹿池堤防の復旧工事をやっているのだな。」

 と、納得した。

 そして、その日、尾張藩家臣の青木平蔵は、尾張藩付け家老犬山藩成瀬家家臣石川喜兵衛の家に泊まった。2人は、石川の母親の作った食事を食べ、寝所で、銚子を傾けながら、青木が持ってきた上末村の地図に見入っていた。

 上末村の地図を広げて、青木は、こう言った。

 「上末村は、入鹿池の南側にある大山連峰を越え、山の中腹にある古代から中世にあった巨大な山岳寺院跡である大山廃寺跡を下り、麓の大山村から西南西へ一里ちょっと(約4・5km)の所にある村だ。この村は、篠岡丘陵を下りてきた所、つまり、篠岡丘陵の末端部にあたっている。

 篠岡丘陵では、奈良・平安時代にこの地域の産業として、陶器が作られていて、篠岡古窯跡群という一大窯業地帯が存在し、ここで作られた陶器は、平城京や平安京などの都に届けられていた。奈良や京都の都では、宮中の儀式の折には、篠岡丘陵で作られた陶器を使うように定められていたこともあったくらいなんだ。そして、上末村の南に隣接して下末村という村もあるが、上末村と下末村は、昔は、「山田群主恵(陶)郷」という一つの村だった。

 ところで、上末村は、大山川とその支流の用水や入鹿用水から引かれた用水や新木津用水など、水利に恵まれている村だ。入鹿六人衆のうちの落合新八郎と鈴木久兵衛の2人の出身地である村だからな。落合新八郎と鈴木久兵衛は、村の水利には大いに貢献したといったところかな。」

 青木がここまで話すと、青木の話を聞いていた石川が青木にこう聞いた。

 「ところで、上末村に行くのなら、上末村の観光をしてみたいものだな。上末村の名所といえば、何があるのだろう?」

 すると、青木は、お猪口の酒をぐっと飲み干して、上末村の地図を指差しつつ、こう言った。

 「まず、入鹿六人衆のうちの落合新八郎の祖父であり、小牧・長久手の戦いで、豊臣秀吉の武将として上末砦を守った落合将監勝正とその子安親の名残りの名所をあげると、落合将監勝正の墓がある陶昌院という寺がここにある。

 それから、陶昌院の北一帯にある森下城という名前の廃城は、落合将監勝正が築いた城で、小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉軍が徳川・織田連合軍に大敗したときに廃城となった城だ。

 そして、森下城の北側にある八幡神社という神社は、落合将監勝正の子である安親が社殿を寄進したと言われている神社だ。

 ところで、落合将監勝正の墓がある陶昌院の南側には、貴船神社という名前の神社があるのだが。少し気にならないか?」

 青木がこう言うと、石川は眠い目をこすりつつ、こう答えた。

 「貴船神社といえば、水の神様だろう?水利に恵まれている上末村を守っている神社なのではないか?」

 だが、青木は、どうも引っかかると言った様子で、石川にこう答えた。

 「そうだ、貴船神社と言えば、水の神様だ。まあ、この神社は、実際に行って見てみないとよくわからないな。今日も、もう遅いし、石川も眠そうだから、そろそろ寝るか。明日も早いしな。最近、決壊した入鹿池堤防の工事の件や被災者の補償の件など仕事が山積みだな。石川と上末村に出かけることができる日はいつになるのかな。」

 そして、青木と石川は眠りについたのだった。

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