鉄次郎が昭和2年(1927年)に書いた愛知県史跡名勝天然記念物調査報告「西加茂郡猿投村舞木廃寺跡」が、短いページで1個だけなのは、鉄次郎が、昭和2年(1927年)7月に主事になったばかりだったから、という説明が成り立つ。鉄次郎が昭和2年(1927年)に書いた愛知県史跡名勝天然記念物調査報告「西加茂郡猿投村舞木廃寺跡」が入った「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告第五 史跡其三 天然記念物 其五」は、昭和2年10月に発刊されたものであった。鉄次郎が主事になってから3ヶ月後のことである。そして、小栗鉄次郎が主事になってから2回目に書いた「大山寺跡」の調査報告が入った「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告第六 史跡其四 天然記念物 其六」は、昭和3年3月に発刊された。昭和2年10月に発刊された「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告第五 史跡其三 天然記念物 其五」から5ヶ月後の発刊である。
しかし、鉄次郎が主事になった翌年の昭和3年に書いた調査報告が、9ページの「大山寺跡」1つだけ、というのは、背後に何か理由があるはずだ。確かに、大山廃寺は、誰が見ても、塔跡だけではなく、一山まるごと遺跡なので、調査に時間がかかる。しかし、そうであれば、報告書のページ数は、もっと多くなってもよさそうなものだが、9ページと少ない。鉄次郎が書いた、この「大山寺跡」の調査報告のページ数が少ないことが、現在になって、研究者や県や市当局の間で、大山廃寺が国の史跡であるにもかかわらず、「謎の多い山岳寺院でよくわからない所。」ということになっている気がしてならない。つまり、小栗鉄次郎の調査報告は、読後感が、すっきりしないのだ。このことは、もし、鉄次郎の書いた「大山寺跡」の調査報告のページ数がもっと多かったら、現在の「大山廃寺跡」は、もっと違う雰囲気になっていた、ということにつながってくる。
また、小栗鉄次郎が大山寺跡にて17個の塔の礎石を発見したのは、昭和3年(1928年)2月のことである。鉄次郎が書いた「大山寺跡」の報告書が入った「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告第六 史跡其四 天然記念物 其六」の発刊が昭和3年(1928年)3月の日付なので、鉄次郎は、大山寺跡で塔の礎石を発見してから、1カ月を切るスピードで、報告書を仕上げなければならなかった。だから、調査報告のページ数も少ないのか?それでは、なぜ、後から追加報告を出さないのか?そもそも、「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告第六 史跡其四 天然記念物 其六」は、本当に昭和3年3月に発刊されたのか?「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告第六 史跡其四 天然記念物 其六」が本当に昭和3年3月に発刊されたのであれば、その中で、小栗鉄次郎がただ1件のみ書いた「大山寺跡」の調査報告が、浮いているような感覚に襲われるのはなぜか?ちなみに、その翌年の昭和4年3月に発刊された「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告第七 史跡其五 天然記念物 其七」に収録されている、小栗鉄次郎が書いた調査報告は、8個である。
「なぜ、鉄次郎の書いた「大山寺跡」の調査報告のページ数が少ないのか?」
「なぜ、鉄次郎の書いた「大山寺跡」の調査報告は、すっきりしないのか?」
「なぜ、鉄次郎が大山寺跡の中で塔の礎石を発見してから、調査報告の発刊までに、日にちがないのか?」
この謎を解明していくために、以後のストーリーが展開していく。