六 上末村

 それから1年後の明治2年(1869年)8月、尾張藩家臣の青木平蔵は、旧尾張藩主徳川義宣のもとで藩の行政の仕事をし、旧尾張藩付け家老犬山藩成瀬家家臣石川喜兵衛は、明治政府が新しく作った犬山藩という藩の藩主である成瀬正肥のもとで藩の行政の仕事をしていた。

 明治2年(1869年)、明治政府の重鎮である木戸孝允や大久保利通は、地方政治を統一するため、藩制を廃止して、全国の地方の土地・人民と旧藩主との封建的関係を断ち、全国の地方の土地・人民を天皇制のもとに組み込んで、江戸時代の藩体制の解体を推進するよう目論んだ。これが、「版籍奉還」と言われるもので、これにより、明治政府は、全国の地方の旧藩主を知藩事に任命して、旧領地の行政の仕事を掌握させた。

 そして、明治政府は、全国の地方の旧藩主には、旧領地の年貢の10分の1を給料として与え、華族という地位を与えた。青木と石川の仕事内容は、以前と変わらなかったが、青木や石川の上司のその上の者が徳川幕府から明治天皇に変わったのである。

 そして、入鹿池杁堤が決壊した入鹿切れの被災者の救済や復旧工事に関する仕事の合間の休みがもらえることになり、青木平蔵と石川喜兵衛は、1年ぶりに顔を合わせた。青木と石川は、小牧山の麓で待ち合わせをし、小牧山の麓から東の方面に歩きだして、上末村を目指した。小牧山の麓から上末村までは、平坦な平野を歩く道程だ。上末村から東に向かう道は、丘陵地を登って行くような地形になっている。そして、上末村から東へ丘陵地を登って行った最高峰は、大山連山であり、大山連山を越えた北側に入鹿池が位置している。 青木と石川は、小牧山の麓から50分ほど歩いて、上末村にある陶昌院という寺にたどり着いた。上末村は、篠岡丘陵の末端部にある村で、低い丘陵地を縫うように狭い路地が何本も通っていて、小さな家が密集していた。そして、路地は、決して、碁盤の目のように規則的なものではなくて、ぼやっとして歩いていたら、迷い込んで出られなくなるように複雑に絡み合った路地であった。

 「それにしても、ここら辺にある家は、みんな、「落合」か「鈴木」だな。入鹿六人衆の落合新八郎と鈴木久兵衛の影響が大きいのかな。」

 上末村の中を歩きながら、石川がこう話しかけると、青木はこう答えた。

 「いや、入鹿六人衆の落合新八郎と鈴木久兵衛の時代よりもっと前から、ここら辺は、このような様子だったのだろう。

 ほら、陶昌院に着いたぞ。この寺にあるこの立派な墓は、落合将監勝正・安親父子の墓だ。

 そして、あそこに見えるこんもりとした古墳のような竹藪が廃城となった森下城だろう。森下城は、室町時代末の文明年間(1469年から1487年)に足利氏の末裔であった落合将監勝正が建てた城だ。その後、勝正の子供の安親や孫の庄九郎は、天正12年(1584年)に起こった小牧・長久手の戦いで秀吉側について、秀吉軍が岡崎に攻め込む際の先達の役割を果たした。そして、秀吉軍が小牧・長久手の戦いで、徳川・織田軍に大敗した時、あの森下城も廃城になったと言われているんだ。

 それと、前にも言った通り、入鹿六人衆の鈴木久兵衛の祖先も、戦国武将として織田信長に仕えた丹羽長秀の家臣であったしな。少なくとも、戦国時代には、上末村は、このような感じの村だったのじゃないかな。

 では、これから、この寺の入り口を下りて、森下城の前を通って、八幡神社に行ってみるか。八幡神社は、天文22年(1553年)に落合将監安親が社殿を寄進したと言い伝えられている神社だ。」

 そして、青木と石川は、上末村のある低い丘陵を下りたり上ったりしながら、森下城の前を通り、八幡神社まで行き、また、陶昌院に戻って来た。陶昌院まで戻ってくると、青木は、石川にこう言った。

 「では、これから、貴船神社に行ってみるか。私は、上末村の中で一番行ってみたかったのが、貴船神社だ。地図によると、貴船神社は、陶昌院から見ると、森下城や八幡神社とは反対方向にあるみたいだから、今度は、こっちに行ってみよう。」

 そして、青木と石川は、陶昌院の裏手にある狭い路地を進んでいったが、路地は、ほどなく、行き止まりになっていた。青木と石川は、なんとなく、自分たちの勘に従って、行き止まりの路地を左に曲がり、進んでいったが、家が邪魔をして、神社らしい建物が2人の目には見えないのであった。

 しばらくして、村人とすれちがったので、青木は、その村人に貴船神社の場所を尋ねた。すると、村人は、何となく、教えるのが面倒くさいと言った雰囲気で、こう答えた。

 「貴船神社の境内の中に立っている大きなアベマキの木を見つけて、その木を目指して進んで行ったら、貴船神社がありますよ。」

 青木と石川は、きょろきょろ廻りを見渡した。そして、石川が、指をさして、こう言った。

 「あっ、あの木のことかな。ほら、あそこの家の屋根の向こうに、大きな木の頭の部分が見える。」

 そして、青木と石川は、その木を目指して、狭い路地をくねくねと曲がりながら進んで行った。大きな木を目指して、狭い路地を進んで行くと、しばらくして、神社の社殿のようなものが2人の目に飛び込んできた。

 「ああ、あれだ。あれだ。」

 青木は、こう言いながら、貴船神社の社殿の前に到着した。青木の後ろをついてきた石川は、貴船神社の社殿の横に生えている、幹の大きさが4m位、高さが20m位ある大きなアベマキの木を指差してこう言った。

 「あ、この木、幹にしめ縄が巻かれているから、この神社の御神木ですよ。樹齢100年以上はあるんじゃないかな。不思議な話だが、この木は、私が入鹿池の底で見た白い木のイメージにぴったりなんだよなあ。」

 石川がこう話すのを聞いて、青木は、少し不思議な気持ちになって、廻りを見渡した。そして、青木は、貴船神社の御神木から振り返った所に、古い井戸があるのを見つけた。青木は、古い井戸に近付いて行って、井戸の中を見下ろした。そして、御神木を見上げている石川に声をかけた。

 「おーい、石川さん。ちょっとこっちに来てみろよ。」

 青木の声に振り返った石川は、青木の隣に寄ってきて、青木と同じように古井戸の中を見下ろした。古井戸の下の方には、水面が見える。

 「石川さん、この井戸の端っこの方に何か見えないか?」

 青木が石川にこう尋ねると、石川は、井戸の中を覗き込んで、こう言った。

 「うーん、井戸の水を汲む桶じゃなくて?」

 すると、青木はこう答えた。

 「いや、桶じゃない。あれは、木でできているようには見えるが、何だろう。」

 そして、青木は、つるべを引っ張って、こう言った。

 「このつるべは、とても丈夫そうだな。石川さん、これから、この井戸の中に入ってみないか?」

 「えっ?」

 石川がこう言って驚いている間に、青木は、釣瓶を伝って、井戸の中に下りはじめた。そして、青木は、木でできている何かを足で手繰り寄せて、木でできている何かの上に降り立った。それから、青木は、上を見上げて、井戸を見下ろしている石川に向かって、こう叫んだ。

 「おーい、石川さん。これは、舟だよ、舟。さっき井戸の上から見えていたのは、舟の舳先だったんだ。このつるべはとても丈夫そうだから、石川さんも下りておいでよ。」

 石川は、青木の声に、一瞬、後ずさりしたが、すぐに、好奇心に掻きたてられて、釣瓶を伝って、青木のいる舟に乗りこんだ。水はどんよりとして、全く流れがないように感じられる。そして、井戸から差し込む光に照らし出されて、貴船神社の社殿方向に向かって、トンネルのようなものが掘られているのが見える。石川と青木は、舟に積んであった櫂を手に取り、貴船神社の社殿方向に向かって、舟を漕ぎ始めた。

 その地下水路は、舟が一艘通ることができるほどの丸いトンネルとなっていて、トンネルの高さは、日本人が立って舟に乗っても頭がぶつからないほどの大きさがあった。そして、貴船神社の井戸から離れれば離れるほど、舟の周囲はどんどん暗くなっていく。2人は、ゆっくりとしたスピードで舟を漕いで行った。地下水路が流れるトンネルの中は、水が流れる音がしないほどの静けさで、青木と石川が櫂を漕ぐ音だけが2人を包み込んでいた。そんな中、舟を漕ぎながら、青木が石川に話しかけた声は、トンネルの中を響き渡った。

 「今度、ここへ来るときは、行燈を持ってこよう。

 ところで、京都にある貴船総本宮貴船神社の伝説によれば、初代神武天皇の母である玉依姫命が、国民の福運を願って、「この船が止まる所に祠を造るべし。」と言って、大阪湾から淀川・鴨川をさかのぼり、その上流である貴船川の源泉にたどりついて、そこに祠を建て、水神を奉って、貴船神社としたという。

 この船は、私たちをどこに連れて行くんだろう。もしかして、入鹿池の底にあった白い木の根っこの所に連れて行ってくれたりして。

 ところで、上末村にある貴船神社は、京都の貴船総本宮貴船神社と同じ水神を祭神として、永禄3年(1560年)11月に創建されたと言い伝えられているのだそうだ。ちょうど、織田信長が今川義元を桶狭間の戦いで破って、天下統一の第一歩を踏み出した時代だな。」

 そして、青木の話を聞きながら、石川は、ただただ無心に、櫂を漕いだ。

 そして、青木と石川が50分ほど櫂を漕ぐと、トンネルのあたりがだんだん明るくなってきた。それは、青木と石川の目が暗闇に慣れたのではなくて、舟が行き止まりにたどり着いたからだった。

 その行き止まりは、洞窟のように広い場所となっていて、船着き場の100mほど上に明るい丸い洞窟の出口が見え、そこから、太陽の光が洞窟の中に注ぎ込んでいた。そして、石でできた階段が、船着き場から丸い洞窟の出口まで、洞窟の壁を這うようにジグザグに造られていた。青木と石川は、舟から船着き場に下り、丸い洞窟の明るい出口に向かって、石でできた階段を這うように登り始めた。

 そして、青木と石川は、洞窟の明るい丸い出口に出ると、2人とも目の前に手をかざして、まぶしそうにして、動きを止めた。60分ほど暗闇の中で舟を漕いできたので、明るい外の光に、2人の目が慣れていないのだった。そして、2人は、外の光に目が慣れるまで、しばらく洞窟の入口にうずくまっていた。

 そして、2人の目が慣れて、外の景色が段々2人の目に届くようになって来た時、2人は、思わず足をすくめてしまった。どうやら2人は、断崖絶壁の途中にある洞窟の出口に出た様であった。そして、石川と青木は、しばらく体が固まった後に、きょろきょろとあたりの様子をうかがい始めた。

 そして、まず、青木がこう言った。

 「どうやらこの洞窟は、断崖絶壁の途中にあるらしい。でも、下の方に小さい山道が見えるぞ。あの道にたどり着くことができれば、私たちも助かるかもしれない。

 この断崖には、ちょうど、足を乗せることができるような大きな岩の出っ張りが下までいくつもあるので、あの岩の出っ張りに手と足を順番にかけて、慎重に下りていけば、下にある道に下りることができるぞ。

 では、私は、右手にあるこちら側から下りて行くから、石川さんは、左手にあるあちら側から下りて行って、下の道で合流しよう。」

 そして、青木と石川は、洞窟の出口の両側に分かれて、洞窟の出口から下の道まで、3mほどある崖を這うように下りて行った。

 青木と石川が下の道に下りると、2人は、今度は右に行くか左に行くか、決断を迫られた。

 するとその時、洞窟の出口から下の道に下りて考え込んでいる2人の右横から一人の男の声が聞こえた。

 「おい、こんなところで、何をやっているんだ、お前ら。」

 青木と石川は、右側を振り向くと、そこには、洋装の男がピストルを持って立っているのが見えた。

 「おい、お前らは、1年ほど前に孝三さんと入鹿池の底にいたあのお侍さんたちではないのか?」

 そして、青木と石川は、右手で着物の左側の脇に差している刀の柄を握り、左手で刀の鞘を握りしめ、腰をおとして、重心を低く保った。ピストルを持った洋装の男は、ゆっくりと青木と石川に近づいてくる。洋装の男が近づいてくるたびに、青木と石川は、ずりずりと後ずさりしていった。

 「おい、お前ら、もしかして、舟に乗って、ここに来たのか?」

 洋装の男に聞かれて、青木と石川は、

 「そうだ。」

 と答えた。すると、洋装の男は、更に近付きながら、こう言った。

 「おい、そんな刀では、俺のピストルには敵わないぞ。今日は、お前たちがここに来た経緯を聞かせてもらうぞ。いいから、俺の言うとおりに、俺についてこい。」

 そして、洋装の男は、脅しの意味で、ピストルをぶっぱなした。そして、青木と石川は、ピストルの音がする前に、刀を抜いた。カン!という金属音が山の中を響き渡って、ピストルの弾は、青木と石川の前でころころと転がった。そして、青木がこう言った。

 「無駄だ。ピストルの弾くらいでは、この刀は欠けることはない。この刀は、正宗の名刀だ。私たちは、柳生新陰流だ。」

 洋装の男は、もう1発、ピストルの弾を打った。そして、またしても、ピストルの弾は、カン!という金属音と共に、青木と石川の前に転がって行くのであった。

 しかし、洋装の男は、青木と石川に向かって、こう言った。

 「しかし、お前らは、ピストルの弾から自分の体を守ることが精一杯で、刀で俺を攻撃することはできないだろう?敵を攻撃するのなら、刀ではなくて、拳銃なんだよ。」

 そして、洋装の男がピストルの弾をうつたびに、洋装の男はじりじりと青木と石川の方向に近づいていき、青木と石川は、ずるずると後ずさりしていった。そして、洋装の男が5発ほど、ピストルの弾を打った頃、青木と石川は、いつのまにか、石畳の坂道にたどり着いていた。

 「あっ、弾が無くなった。」

 そう言って、洋装の男がポケットから弾を取り出して、ピストルに弾を詰め出したその瞬間、青木は、石川にささやいた。

 「おい、逃げるぞ!」

 そして、青木と石川は、刀を鞘に納めて、全速力で、石畳の坂を走って下りて行った。

 「おい、ちょっと待て!うわあっ、何なんだ!」

 洋装の男の叫び声が聞こえて、青木と石川が振り返ると、洋装の男は、木の枝やら小石やらを投げられて、石畳の坂の途中でうずくまっていた。そして、いつの間にか、青木と石川の横を走っていた、みすぼらしい着物を着た若い女性が青木と石川にこう声をかけた。

 「この坂を下りた所に、江岩寺というお寺があります。江岩寺の住職に話せば、きっと、あなたがたを匿ってくれます。今は、早く、江岩寺に避難してください。」

 その女性は、こう言うと、坂の横にある山道の中に消えていった。石川が洋装の男がいる方面を振り返ると、洋装の男の仲間と思われる男たちが、ピストルを持った洋装の男を助け出している所だった。青木と石川は、必死に走って石畳の坂道を下りて行った。

 青木と石川が全速力で石畳の坂を5分ほど下りると、坂の左右に大きな杉の木が生えているのが見え、杉の木の額縁の向こうに、茅葺の屋根を持った山寺が見えた。

 「あっ、あの寺だ。青木さん、早くあの寺に行きましょう。どうやら、ここら辺の人たちは、私たちの味方の様です。」

 そして、青木と石川は、杉の木をくぐって、小さな赤い橋を渡り、寺のお堂の横にある住職の住居と思われる建物にたどり着いた。住職の住居と思われる建物の前には、小さな石製の燭台のようなものが置かれていて、その上に鈴が置いてある。青木はその鈴を手にとって、振った。

 「はい。」

 そう言って、玄関に出てきたのは、先ほど、石畳の坂の途中で青木と石川に声をかけた、みすぼらしい着物を着た若い女性だった。その女性は、青木と石川を見ると、あわてて、青木と石川を家の中に入れ、扉をバタンと閉めて、家の奥に向かって、こう叫んだ。

 「おくりさん、先ほど話したお侍さんたちがお見えになりました。」

 そして、その女性は、青木と石川を家の中に案内した。

 青木と石川がその若い女性に案内されて、応接間のような所にたどり着くと、一人の僧侶が座っていて、僧侶の斜め後ろに僧侶の奥さんと思われる50代くらいの女性が座っていた。そして、青木と石川を案内した若い女性は、どこかにいなくなった。その僧侶は、青木と石川を見て、こう言った。

 「いや、久しぶりですね。1年ぶりくらいでしょうか。お互い御縁がありますね。」

 「あっ、あなたは、昨年の6月に私たちを入鹿池の底から壊れた杁堤まで案内した僧侶の方ではないですか。えーっと、確か、大山村にある江岩寺という寺で住職をしている、名前はなんだったっけな。」

 石川がどうしても思い出せないといった様子でいると、その僧侶は、笑いながらこう言った。

 「私は、入鹿池の南側にそびえる白山を越えた向こうにある大山村の江岩寺という寺で住職をしている中村緑庵という者です。今年56歳になります。こちらは、私の妻で、名前はふねといいます。」

 「あっ、思い出した。ということは、ここは、大山村ということですか?ええ、そうなの?」

 青木は、考えてもみなかったといった驚いた様子で、中村住職の言葉に答えた。

 すると、その時、玄関の方で鈴を鳴らす音が聞こえ、しばらくして、先ほどの若い女性が、中村住職の妻のもとへ来て、何か耳打ちした。中村住職の妻は、住職に向かって、こう言った。

 「明治政府内務省役人の林正三郎様がお見えになりましたが、どうされますか?」

 「わかった。外で応対しよう。ちょっと行ってくる。」

 中村住職はこう言うと、部屋を出て、玄関に向かった。残された青木と石川に向かって、中村住職の妻ふねはこう言った。

 「住職と林様は、知り合いですので、大丈夫です。恐らく、住職は、林様には、一旦、この場所から退いてもらうつもりでいると思います。

 ところで、ここにいる倉田トメさんは、この大山村に住んでいる村人の娘さんで、私がやっているこの寺の様々な雑用を助けてくれている女性です。この寺は、こんな山奥にあるのに、年間を通して、様々な人が行き交い、雑多な用事がたくさんあるものですから、私にとっては、トメさんのような人はどうしても必要なのです。

 ところで、今日の昼頃、トメさんは、「もうツバキの実がなっているのを見たので、収穫してきます。」と言って、江岩寺を出て、女坂を5分ほど登り、坂の左側の山の中にあるツバキの群落がある林に入って、ツバキの実を収穫していました。ツバキの実からとれる油は、この寺の明かりとなったり、食事を作るときの調味料になったり、とても便利なものなのです。

 ツバキの群落がある林からは、ツバキの木々越しに、船着き場のある洞窟の入り口が見えます。そして、トメさんは、ツバキの実を収穫しながら、2人のお侍さんが洞窟から下りてくるところを偶然目撃したのです。

 まあ、こういうことは、ちょくちょくあることですが、トメさんの知らない顔が船着き場のある洞窟からでてくることは、滅多にないことなので、トメさんは、少し注意深く、観察していたそうです。そして、トメさんが顔を見たことがない2人のお侍さんが、明治政府内務省役人の林正三郎様と鉢合わせになり、何か二言三言、言葉を交わした後、突然、林様がピストルを取り出し、お侍さんたちが刀でピストルに応戦し始めたのだそうです。

 明治政府内務省役人の林様は、たまたま、今日、船着き場のある洞窟あたりを見回りに来ていたのです。なぜなら、あのあたりは、明治政府にとっても、重要な地点だからです。そして、私たちの知らない顔があの船着き場のある洞窟から現れたとき、その初対面の人々とどのように接し、どのように私たちの考え方を伝えていくかは、私たちの重要な課題なのです。

 船着き場のある洞窟のあたりは、ツバキの群落の他にも、鉄鉱石を採集する石切り場があったり、他の目的で使用している洞窟があったりで、結構、人通りが多いのです。そんな人通りの多い山の中で、ピストルの弾を打ったり、刀を抜いたり、なんて、危ないことをする人たちなのでしょう。あなた方にも反省してもらわなければなりません。」

 「だって、あの男たちの態度には、はらわたが煮えくりかえる。1年前に入鹿池の底であの男にあってから、あの男に対して、私は、あまりいい印象を持っていなかったし。」

 中村住職の妻ふねに言われて、反論した青木だったが、ふねは、

 「だってじゃありません。」

 と、青木と石川にピシッと言い放った。

 すると、そこへ、中村住職が外から帰ってきて、青木と石川の前に座った。そして、中村住職の妻ふねは、

 「それでは、私は、お菓子とお茶の準備をしてきます。トメさんも私を手伝ってください。」

 と言って、倉田トメと一緒に、部屋を出て行った。

 「入鹿切れのことがあってから、ここら辺の人たちは、明治政府のことをあまりよく思っていなくてね。被災者を救済したのが、大政奉還した後の明治政府ではなくて、尾張徳川家だったこともあってね。壊れた入鹿池杁堤の復旧工事に携わっている人夫たちは、「東京では、文明開化と浮かれているが、こちらの方は、まだまだ、貧しい。早くこの工事を終了して、私たちももっと裕福な生活を送れるようになりたい。」と言っている。

 しかし、あなた方が考えているほど、明治政府は弱くない。今後、明治政府は、きっと、力で尾張徳川家をねじ伏せていきますよ。今日は、明治政府の林様には、

 「林様が彼らに聞きたいことと同じことを私の方から彼らに聞いておきますから、今日は、どうかこのままお帰りください。彼らに聞いたことは、後ほど、必ず、林様に報告いたしますから。」

 と言って、帰ってもらいました。」

 江岩寺の中村住職は、こう言うと、青木と石川にこう聞いた。

 「ところで、船着き場のある洞窟へは、誰かに教えてもらって、来たのですか?」

 すると、青木がこう答えた。

 「いいえ。」

 そして、石川がこう言った。

 「私は、白いひげをはやし、みすぼらしい恰好をした老人に入鹿池の底に生える白い木の所に案内されて以来、あの白い木のことが頭を離れなくなってしまって。

 そして、入鹿池の底から住職に案内されて入鹿池の杁堤に到着し、そこから、入鹿切れの時に水底となった安楽寺付近を通って家に帰る途中に思いついたんです。あの白い木は、私が手で引き抜こうとして、前後左右に力任せに動かしても、びくともしなかった。もしかしたら、あの白い木は、実は、高さ6丈(約20m)ほどの大木のてっぺんだったのではないかと。

 そして、私は、「あの白い木の根っこのある場所に行ってみたい。青木さんも一緒に行きませんか。」と青木さんを誘ったのです。

 それで、藩の仕事をするかたわら、青木さんにも調べていただいて、入鹿池が造られる前にあった入鹿村の話や、入鹿池を造った入鹿六人衆の経歴や、入鹿六人衆の出身地の地理などを調べ上げました。

 その時、私たちが気づいたことは、入鹿六人衆は、全員、入鹿池の南側にある大山連峰を南側に越えて、途中、山の中腹にある大山廃寺跡を下り、到着した大山村から西の方面に1〜2里(約4〜8km)の所にある村の出身であるということ。

 そして、入鹿池の底、つまり、入鹿村の標高が24丈(74m)として、あの白い木の高さが6丈(約20m)とすると、白い木の根っこのある場所は、標高18丈(54m)位の所であり、標高18丈(54m)位の所に、6丈(約20m)ほどの空間が存在していて、あの白い木が生えており、白い木のてっぺんの部分が入鹿池の底を突き破って、伸びていたのではないかと。」

 石川がここまで話すと、中村住職の妻ふねが、倉田トメと共に、水ようかんと冷たい麦茶を5つずつ、お盆に載せて、部屋に入ってきた。そして、青木と石川と中村住職の前にお菓子とお茶を配ると、自分たちも中村住職の後ろに座って、水ようかんと冷たい麦茶をほおばり始めた。部屋にある時計が午後3時を指していた。

 そして、石川は、水ようかんを食べ、冷たい麦茶を一口飲むと、続きを話し始めた。

 「そして、青木さんは私にこう言ったのです。

 「入鹿六人衆の出身の村の中で、白い木の根っこがあると考えられる標高18丈(54m)位の場所と同じ標高の村は、標高13丈から20丈(40mから60m)ある上末村だけだ。つまり、上末村から、2里弱(約7km)のトンネルを北東の方向に掘り進めると、入鹿池底の中央にあったあの白い木の根っこのある場所に到達するのではないか。」と。

 私には、そんなトンネルを造る技術もお金もない。でも、よく考えると、上末村は、農民のエリートである入鹿六人衆のうち、最多の2人を輩出している村なのです。

 それで、青木さんと相談して、今度は、上末村の現地調査をしてみようということになって。それで、上末村の中をいろいろ散策して、貴船神社という名前の神社にたどり着いたのです。

 そして、貴船神社の社殿の横に立っている、樹齢100年以上はあると思われる大きな御神木を見て、私は、びっくりしました。なぜなら、貴船神社の大きな御神木は、私が描いていた、入鹿池の底にてっぺんが突き出ていた白い木のイメージにぴったりだったからです。

 そして、青木さんが、貴船神社の中に古井戸を発見し、古井戸の中に舟が繋がれているのを発見して、2人で、その船に乗ってみようということになったのです。

 私は、あの舟が到着した船着き場のある洞窟の出口は、入鹿池の底に生えている白い木の根っこのある場所ではないかと妄想を働かせていましたが、なぜか、今、私は、大山村にある江岩寺の中にいる。これは、どういうことなんでしょうか?」

 石川の話をここまで聞いた江岩寺の中村住職は、後ろに座っている住職の妻ふねや倉田トメの方を振り返って、

 「どうやら、自力で、船着き場までたどり着いたようだ。」

 と言った。住職の妻ふねや倉田トメは、

 「さすが、尾張徳川家の家臣ですね。すごい。こんな人には、今まで会ったことありません。」

 と口々につぶやいた。

 そして、水ようかんを食べ終えた江岩寺の中村住職は、麦茶を飲みながら、青木と石川に向かって、こう言った。

 「あなた方が上末村の貴船神社にある井戸から舟に乗って着いた所は、古代から中世までの間、巨大な山岳寺院のあった大山廃寺跡の中です。

 上末村を西の端として、野口村や大山村まで広がる東部丘陵地のことを篠岡丘陵と言いますが、篠岡丘陵は、奈良時代や平安時代には、窯業の一大生産地であり、篠岡丘陵で作られた須恵器や灰釉陶器は、奈良や京都にある当時の国家の中枢地に送られていました。奈良時代や平安時代には、平城京や平安京で行われる儀式の際には、篠岡丘陵で作られた緑釉陶器を使うように定められていたこともあったほどでした。そして、古代から巨大な山岳寺院であった大山寺で使う食器や仏器などの陶器も篠岡丘陵にある窯から取り寄せていました。

 さて、上末村と下末村は、もともと、陶村(すえむら)という1つの村でした。奈良時代や平安時代の陶村(すえむら)の特産品は、もちろん、須恵器や灰釉陶器であり、陶村(すえむら)で作られた多くの陶器が大山寺にも運ばれていました。

 しかし、陶器は、束になるととても重いですよね。そのような重い物を持って、丘陵地を登り、大山連山を登って、70丈(約210m)ほどの距離を大山寺に運ぶとなると、大変な力仕事です。そこで、古代の陶村(すえむら)の人々は、地下水路を使って、大山寺に行くことを思いついたのです。

 地上を流れる大山川は、大山連山を源流にして陶村(すえむら)の近くを流れていますが、大山川をさかのぼるのは、結構、大変な上、雨が降ると、川は濁流となって、危険です。その点、大山連山の下から陶村(すえむら)まで流れる地下水路は、流れがほとんどなく、天気にも左右されません。従って、貴船神社ができるずっと前から、あそこの井戸から大山寺のある洞窟の船着き場まで、舟は何往復もして、陶村(すえむら)で作られた陶器を運んで来たのです。

 しかし、平安時代が終わると、篠岡丘陵にあった窯は、多治見や瀬戸や常滑に移っていきました。そして、陶村(すえむら)は、上末村と下末村に分かれ、今に至っています。そして、大山寺は、中世が終わって、安土桃山時代くらいになると、完全に廃寺となってしまうのですが・・・。」

 ここまで話すと、江岩寺の中村住職は、ちらっと時計を見た。時計はもう午後4時を指している。

 「お二人とも明日は仕事ですか?」

 中村住職が青木と石川にこう聞くと、青木と石川はうなずいた。そして、石川が中村住職にこう聞いた。

 「それでは、今ここに来る前まで私が思い描いていた、入鹿池の底に生えている白い木の根っこのある場所と貴船神社の古井戸とは、何の関係もないということですか?」

 「いや、そうでもないんだ。」

 中村住職は、含みを持たせるような言い方をした。

 「しかし、この話は、一日二日で語りつくせる話ではないんだ。お二人とも明日は仕事だというなら、今日は、一旦、家に帰った方がいいと思います。そして、また、時間のあるときに、私に会いに来ていただければ、時間が許す範囲で、少しずつ、お二人にこの話を伝えていこうと思うのですが。

 上末村に帰るのなら、お二人がここに来た地下水路を使って、上末村に帰るのが一番の近道でしょう。」

 すると、青木が中村住職にこう言った。

 「そうですね。帰りもあの地下水路を使うことにします。ところで、行燈を貸していただけませんか?あの地下水路の途中は、真っ暗で、明かりがないと、また、不安になる。今度住職にお会いしたときには、必ず、お返ししますから。」

 そして、中村住職から2つ行燈を借りた青木と中村は、中村住職に案内してもらって、大山廃寺跡の洞窟の船着き場に行き、舟に乗って、上末村を目指した。

 「帰りは、行きよりも若干早く上末村に着くことができると思いますよ。この地下水路は、水の流れがないように見えて、若干、低い方へ流れていますから。」

 中村住職は、別れ際に、青木と中村にこう言った。

 そして、青木と中村が上末村の貴船神社の古井戸から外に出たとき、あたりはもう薄暗かった。そして、青木と中村の目には、低い丘陵地をくねくねと這っている狭い路地を挟んで、たくさんの家の明かりが広がっている光景が映っていたのであった。

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